長いお話 (ひとつめの連載)
冬の青空が澄み渡る午前中。
隆一は退院した。
隆一はイノランの運転する車に乗って、まず訪れたのは隆一の事務所だ。
終幕した直後の入院だったから、ソロ活動の方はまだライブ等の予定は決まっていない状態で、ひっくり返るような大きな混乱は無かったが。
スタッフ達は、元気な隆一の姿を見ると涙を浮かべて喜んでくれた。
今日退院と聞いていたルナシーとイノランの事務所のスタッフ達も駆け付けて、隆一とイノランの無事を喜ぶ、ちょっとしたお祝いムードになった。
隆一は急な留守を詫びた後、その間、様々な調整で駆けずり回ってくれたスタッフ達に礼を言った。
「いや、でもね。とにかくイノランが橋渡しをしてくれて」
「そう、毎日ね。イノランも入院中は電話をくれてたし、退院してからは早朝か夜!各事務所に寄って隆一の術後の経過を教えてくれていたんだよ」
スタッフ達が語る話は、隆一が初めて聞く事実で目を丸くする。だってそんな事、イノランは微塵も感じさせなくて。
「イノラン、そんな…毎日?病院にも朝からずっと居てくれてたのに…?」
「…別にそんな大層な事じゃないよ」
「でもイノランだって退院したばっかりで、自分の事だってあるのに…」
「一番近くに居て、隆の事知ってるの俺でしょ。スタッフ達だって心配してたんだから」
そんなの全然、苦じゃないよ。
そう言って、にっ。と笑うイノランを見て。隆一もようやく顔を綻ばせて、ありがとう。と礼を言った。
隆一の事だけでなく、その周りの事まで気を配るイノランに。
尊敬と感謝の思いが湧き上がる。
隆一の怪我の事については、日々の経過を伝えていた。が、記憶を失くしてしまった事に関しては、今のところメンバーしか知らない。
全てを忘れてしまった訳ではないし、何よりメンバー達は、隆一と、それに寄り添うと決めたイノランの意思を尊重した。
心配もしたけれど、実際の手を取り合う2人の姿を見て。
大丈夫だろうと、メンバー達は思ったのだ。
隆一は、しばらく滞っていた最優先の仕事のスケジュール確認や打ち合わせをして、イノランと共に事務所を出た。
今日のうちにもう少し業務を進めようとする隆一に、首を縦に振らなかったのはマネージャーだった。
今日は元々、退院後の顔見せの予定だったし、調整したスケジュールでこなせば問題無いものだから。何より、終幕後すぐにあんな事態になってしまった隆一とイノランに。
数日だが、完全なオフをあげたい気持ちがあったのだ。
「さて。じゃあ行きますか」
「うんっ!」
再びイノランの車に乗り込むと。都心から高速に乗り、海沿いの方へと進んで行く。
ずっと病室に居た隆一が、少しでも羽が伸ばせるよう、好きな所に連れて行ってあげたいとイノランは思っていた。
どこ行きたい?と聞くと、速攻で返って来た答えは〝海!〟だった。
隆一らしい返答にイノランは目を細めて了解し、その頭の中では、どの辺りの海に行こうかと考えを巡らせていた。
「でも隆ちゃん、サーフィンはまだ駄目だからね?」
「わかってるよー!海の側に行けるだけで嬉しいもん」
そわそわと待ちきれない様子で目を輝かせる隆一。そんな様子を、イノランは愛おしげに横目で盗み見ると、口元に笑みを浮かべた。
そんな事で出向いた海沿い。
高速道路の前方に、だんだんと海の青色が見え出した頃だった。
ふと、隆一が空を見上げると。
なにやら海上の空に黒っぽい雲。
途端にイヤな予感が隆一の胸に過ぎる。
「ね、イノラン…。なんかあそこら辺の雲さ、黒くない?」
「んー?」
どれ?と前方の空を見据えたイノランは、隆一の言った黒い雲が視界に入ると、苦笑いを溢した。
「あー…。ホントだね」
車が進むにつれ、その黒雲の範囲は広がったようにも見え。少しだけ開けた窓から入る外気は、心無しか冷んやりしてきた気がする。
そして、そうこうしている内に。
「……降ってきたね…。」
フロントガラスには点々と雨粒が落ち始め、そこからしばらくすると、いよいよ本降りになってきた。
事務所を出た頃は、あんなに澄み渡った空だったのに…。
「…………」
イノランはちらりと隣を見る。
雨で遠足が中止になって、ガッカリしている子供のように。
すっかり意気消沈した様子の隆一に、さすがに可哀想になってしまって。
イノランは隆一に声を掛けようとしたら。
「…やっぱり俺、雨男なんだなぁ…」
ポツリと小さく呟く声。
それを聞いてイノランは肩を振るわせた。
「ごめんね隆ちゃん…。俺も雨男なんだ」
「え?」
「雨男が2人一緒にいたら、そりゃあ雨も降るよね。ライブの天候不良もいっつも俺らのせいにされてたし」
「……そっ…か…。」
「ーーー隆ちゃん?」
「そんな事すら、忘れてるんだね…俺。」
本当にイノランに関する事が抜け落ちているのだと、再認識させられる。
隆一の様子と声音から、気落ちしているのが伝わってきたから。
イノランはそっと、隣の隆一に手を伸ばす。
気にしなくて、いいんだよ。そんな思いを込めて、隆一の手をとった。
そうしたらやっと。
小さいけれど、確かな頷きをくれて。
イノランはホッとして、こんな提案を隆一にしてみた。
「行こうと思ってた海岸の側にね、水族館があるんだけど。今日はそっちに行かない?多分平日だから空いてると思うし」
「水族館…いいね!」
朝ほどの元気は無いが、隆一が笑ってくれた事にイノランは安堵した。
きっと隆一は、これからもほんの些細な事でも密かに傷付くのだろう。
失くしたのもを想って。
思い出せない自分を責めて。
(忘れたんじゃねーよ。どっかに閉じ込めてるだけなんじゃねえのか?)
いつかのスギゾーの言葉を思い出す。
そうかもしれないと、イノランは思う。
そうじゃなければ、あれほど涙を流して想ってくれたりするだろうか?
あんなに一生懸命、想いを受け止めてくれるだろうか?
(一体、あの事故の瞬間。何を思っていたんだ?…隆一)
……………………
雨の駐車場に着くと、やはり他の車はほとんど見当たらなかった。
休園か?と思う程だったが、微かに園内の音楽が聴こえるから休みでは無さそうだ。
車を降りた隆一がイノランに尋ねた。
「傘、ある?」
「うん、後ろにあるよ。確か2本あったはず…」
そう言いながらトランクを開けると……傘が1本。
「あれ??……あ!そうだ。こないだマネージャーに1本あげちゃった」
「………えっ…と…。」
残された選択肢に、イノランは若干の照れ臭さを感じつつ傘を開く。
「えっと…。隆ちゃん、一緒に入ろ?」
「うん」
隆一もはにかんで、横に並んだ。
ひとつ傘の下、2人並んで静かな園内を歩く。
緑の多い散歩コースは、雨に濡れて、しっとりととても美しかった。
一緒に歩いていると、触れ合う肩や手。近すぎて分かってしまう息遣いに。どうしようもなくドキドキしてしまう。
破裂しそうな心を静めようと、隆一は周りの景色に目を向けた。
雨で青く薄く色付く、緑。雨音…これは、何処かで。
「gravityみたい」
「え?」
突然の隆一の言葉に思わずイノランは歩みを止める。
「gravityのプロモみたいじゃない?この景色」
「ああ、そうだね。こんな感じだね」
「俺ねぇ、gravity大好き」
「ん?」
「キラキラしてしっとり、切なくて優しい。弱くて強い。そんなイメージ。……イノみたいだなって」
「嬉しいな」
「入院してる時、そんなことをスギちゃんに言ったら笑われちゃった。gravityはイノランが持ってきた曲なんだぜって」
「………」
「それからスギちゃんはね、イノランの曲のエピソードとか、色々聞かせてくれた」
「…………」
「スギちゃん言ってた。
〝隆はイノの事、忘れてなんかいない。隆の中にはちゃんとイノがいる。諦めるな、絶対思い出せるから〟って」
「隆ちゃん…」
「イノラン」
隆一は濡れるのも構わず、イノランに真剣な表情で向き合う。
細かな雨粒が隆一を包み、ガラスのように綺麗だと、イノランは思った。
「俺やっぱり、あなたの事。ちゃんと思い出したい」
「ーーーーー」
「あなたと俺の思い出を、他の誰かから聞かされたくない」
「ーーー隆…」
「絶対に思い出す。取り戻してみせる。…だから……待ってて…イノラン」
「ーーー…っ…」
イノランは、こみ上げる愛おしさに押しつぶされそうで、堪らず隆一を抱きしめた。
隆一の両手が、縋るようにイノランの背に回される。
「逢いたいよっ…もう一度…イノラン」
「待ってるよ。ずっと、いつまでだって…」
「うん」
互いの存在を確かめ合うように。
大切なものを、指の隙間から取り零さないように。
きつく、きつく抱き合って。
自然と見つめ合うと、隆一はゆっくりと瞼を閉じる。
雨に濡れる隆一が、とても綺麗で。
2人は雨音の中で、キスをした。
ひと気の無い園内を、雨の中、歩く。
隆一は恐らくずっと、心に燻っていたものが吹っ切れたのか。
一変。輝くような笑顔で話掛けてくる。
ーーー正直。直視できない程の笑顔を向けられて。面には出さないけれど、イノランは落ち着かない時間を過ごしていた。
隣を歩く隆一をちらりと見る。
歩く度にふわふわ揺れる黒髪から、仄かな花の香り。
隆一は香水をつけないから、シャンプーの香りかな、と思う。
(いい匂い…)
思わず触れたくなるのを、ぐっと我慢する。
止まらなくなりそうだから。
イノランは気付かれないように、小さく息をついた。
(俺、ホントに。隆に恋してるんだな。
それも、なんか…。もう戻れない感じの)
隆一の前で、余裕のあるフリは出来ているとは思う。
でも、それも自信が無くなってきた。余裕なんて本当は、はじめから全然無い。
隆一の心も身体も。全て。
本当は、いつだって欲しくて。
(ヤバイなぁ…俺)
自嘲気味に苦笑を洩らす。
「ねえイノラン?」
「っ!…なに?」
思考を急に中断されて、うっかりうわずった返事が出そうなのを寸前で堪えた。
「あのね、俺まだ退院した事、3人に伝えて無くて。メールでもいいから知らせたいんだけど…」
「ああ、そうだね。それがいいよ」
「で、俺。事故の時にスマホ壊しちゃって。代替えマネージャーから預かってたんだけど。一応仕事用にしてるから…。メンバーに送るものだから、今回だけイノランのスマホ借りてもいい?」
「もちろん!あ、じゃあさ。せっかくだから隆ちゃんの元気な姿の写真も送ろうよ」
俺撮ってあげる!と笑うイノランに、隆一は力いっぱい首を振る。
「いっ…いいよ!そんな、なんか改まって恥ずかしいよ」
「写真あるほうがアイツら喜ぶよ。すげー心配してたんだから」
「うっ。…じゃ…あ、イノランも一緒に入って!」
「え?」
「ね、いいでしょ?」
「…俺は別に、いらないでしょ」
「俺はいるの!イノランと一緒で元気で幸せだよ!っていう写真のがいいじゃん」
ね?、と。小首を傾げてとどめを刺した隆一に、イノランは盛大にため息をついて開き直った。
「よし!いいよ、隆ちゃんがそこまで言うなら。すっごいの撮って送ろ!」
そう言いながら、雨に濡れないコンクリート台の上にスマホを立て掛けた。
そして連写の自動設定をかける。
「連写にして、その中から選べば良いよね?」
「ねえイノ…すっごいのって?どんな…っっ…んっ」
言い終わらないうちに。イノランは隆一にキスをする。抱きしめて、指を絡ませて。
隆一から小さく吐息が溢れる。
花の香りがイノランをくすぐって。黒髪に唇を寄せた。
小さな連写終了の電子音が鳴る。
そっと身体を離すと、真っ赤になって立ち尽くす隆一の姿があって。
イノランは笑いを堪えるのに必死になった。
「隆ちゃん大丈夫?終わったよ?」
「イ…イノラ…っ…そんなの送れないでしょ‼?」
「まぁまぁいいじゃん。俺と一緒で幸せな隆ちゃんを送るんでしょ?」
ほら、一緒に選ぼうよ!と、ニッコリ笑顔で言われて。隆一は根負けしてしまった。
やはり客の人影の無いカフェに入った2人は。早速、先程の画像見てをチェックする。
「恥ずかしいよぉ…ねえ…やっぱやめようよ~」
自分がイノランに翻弄されている様子が直視できない隆一。
そんな隆一を余所に、ニコニコと楽しそうなイノラン。
「隆ちゃんかわいい~!…でも、流石にこの辺は…他のヤツには見せたくないな。んーー…やっぱ笑顔の隆ちゃんが良いよね」
「イノ~…」
「あ!これ。これいいんじゃない?」
「…………どれ」
とうに、いっぱいいっぱいだったが。
何とかその画像を見た隆一は、目を見開いた。
髪に唇を寄せるイノランと。それを幸せそうな微笑みで受ける隆一。
「これいいでしょ?隆ちゃん、俺に愛されて幸せ!って顔してない?」
「~~~してる。」
悔しいけど、認めるしかなかった。
好きで好きで、どうしようもないのは。隆一も一緒だったから。
「じゃあ、決定ね?」
隆ちゃん、ほら文字打って。とスマホを渡され、未だ慣れない機械に一文字づつ打っていく。
イノランがじっとこちらを見ているのが気配でわかったけれど。とてもじゃないが、正面から視線を合わせるなんて出来なかった。
恥ずかしくて。
でも、幸せで。
隆一は心配をかけた3人に、心を込めて文字を打つ。
「できたよ、ありがとう」
イノランが読んでも良い?と聞くと、隆一は頷いて促した。
長くはないけれど、隆一らしい優しいメッセージ。
「じゃ…写真添付して、3人一斉に送るよ?」
「うん」
「送信…。ーーーん、行ったよ」
「みんな…なんて思うかなぁ」
「隆、幸せそうだなーって思うよ、きっと」
「うん、だったらいいな」
そう思うと、3人がどんな反応をするのか。ちょっと楽しみになってきた。
「さて、じゃあ水族館に入ろっか!この分じゃ…貸し切りっぽいよね」
「ね!ある意味すごく贅沢」
「人いないし薄暗いし、いっぱいできるよ?」
「何が?」
訳がわからないと、頭を捻る隆一に。イノランは掠めるほどの口付けをする。
「‼‼⁉」
「キス」
「イノランっ‼‼」
「ははっ、隆ちゃん顔赤いよ」
「もうっ !なんか俺たちキスばっかりしてない?」
「いいじゃん。俺、隆ちゃんとするキス、最高に好きだよ?隆ちゃんだけだよ、こんなにドキドキするの」
なんて格好良いんだろう、この人は。と、隆一はつくづく思う。
昔からこんなだったんだろうか。
記憶の無い隆一には、それを確かめる術が、今は無いのだけれど…。
そう考えると。
何がなんでも記憶を取り戻したくて、仕方なかった。
(キスだけでこんなにドキドキするのに、この先なんて…。
心臓、止まるんじゃないかな…)
(…というか……。したこと、あるのかな…。俺たち)
人知れず顔を赤らめて考え込んでいた隆一。その思考を遮ったのはイノランの言葉だった。
「しっかし。全然止まないね…雨。つか、酷くなってない?」
言われて隆一も空を見上げる。
空は黒く低く垂れ込めて、雨は飛沫をあげて打ち付けている。
遠くの方では雷が鳴っているようで、時折空が紫色に光る。
水族館のチケット売り場で、係員に呼び止められる。
「お客様、本日はお車ですか?」
「はい、そうですけど…」
「天候不良で、間も無く都心方面への高速が、一部区間で閉鎖されるようです。一般道もかなり混雑しているようですので、この後ご用などあればお早めに出発された方が良いかと思いまして」
「そうですか。ありがとうございます、ご親切に」
そう言って去っていく係員を見守りながら、2人顔を見合わせた。
「雨男もここまでくると立派だよねぇ」
「ホントだよ。…さあ、でも実際どうしようか。下の道に何時間も…やだよね」
「うん…」
そんな2人に見兼ねたチケット売り場の男性スタッフが声を掛けた。
「もしごゆっくりご滞在が出来るようでしたら、園内にホテルがございます。本日は空室もございますので、ご案内できますが…」
「泊まれるんですか?ここ」
「はい。本日ですと、人気のテラスからイルカやセイウチの見えるお部屋も、ご用意できますよ」
「セイウチ!」
途端に目をキラリと光らせる隆一。
「あちら、ラグーンの中央にあるホテルですので、夜でもイルカやクジラの声が聴こえたりします」
「イルカ!クジラ!イノラン‼‼」
「……泊まる?」
「やったあっ‼」
時刻はすでに夕方6:00を過ぎていた。
水族館を見て、園内のレストランで夕食を摂り。ショップなどぐるりと一周する。
ついでに寄ったゲームセンターで、イノランが巨大なシャチのぬいぐるみを取ってくれた。
「隆ちゃんに似てるね。白と黒でさ」
そう言って手渡してくれたシャチを受け取ると、急に照れ臭くなってきた。
(もう…デートだなぁ…これ。なんか…元メンバー同士が…信じられないよ)
恥ずかしくて俯いた隆一の頬に、イノランの指先が触れる。
「どした?」
ん?と、口角を上げたイノランらしい笑顔に。
隆一はまた考え込む。
(でも、現実なんだよね。こうやって、手を伸ばせば…)
伸ばした手がイノランの手に触れて、そのまま手を繋がれた。
「どしたの?隆ちゃん」
「…ううん。手…繋ぎたくなっただけ」
「ふうん?」
なんとなく納得してなさそうなイノラン。
隆一でさえ混乱しそうになる時があるのだから仕方ない。
でも、これは現実。
隆一の隣にいるのは、世界で一番大好きな相手なのだ。
隆一はシャチを抱え直して、ありがとうと礼をいう。
そして繋いだ指先に力を込めた。
もう戻れないくらい、隆一もイノランを想っているから。
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