長いお話 (ひとつめの連載)
隆一の左手のリハビリが始まった。
始めこそ、痺れや痛みで手を動かす度に顔を顰めていた隆一だったが。
一週間も続けるうちに、動きも滑らかになり余裕が出てきたようだった。
「ーーーーー伸ばして、曲げて…」
病室で、専門のスタッフと共に患部のストレッチをする。
「痛みは?」
「無いです。ーーーちょっと指先が」
「少し震えがきますね」
はい、いいですよ。と、カルテに書き込みながら、スタッフがニコリと笑う。
「でも一週間で、ここまで回復するなんて。早いですよ?退院、早まるかも…」
「え?」
スタッフからの言葉に、パッと表情が明るくなる隆一。
側で見守っていたイノランも、顔を上げる。
「傷もすっかり治ってますしね。次の診察の時、先生に聞いてみよう!」
「はい!」
「良かったね、隆ちゃん」
「うんっ!」
嬉しそうに声を弾ませる隆一を見つつ、イノランはスタッフに問いかけた。
「今日もマッサージ続けて良いですか?」
「もちろん!どうしても患部を庇って、首から背中が凝っちゃうから。退院してもなるべく続けた方が、経過は良くなりますよ」
「了解です!」
「イノランね、上手なんですよ。やっぱ、ギタリストだからかなぁ~」
「いやいや。それは関係無いっしょ」
「あ、でも。ギター弾くのは指先の良い運動になりますよ」
「ホント?じゃあ退院したら、もっとギター弾こう!」
「そうだね!」
ではまた明日。と、病室を後にするスタッフを見送り。
2人は気分転換に、中庭に出た。
昼間とは言え、まだまだ寒いこの季節。病棟をぐるりと囲むように広がる中庭は、人影は見当たらず。表通りの外来受付の出入り口だけが、賑わっているようだった。
2人は、ここへ来るといつも立ち寄る、この時間帯に一番陽の当たるベンチに腰掛けた。
「ーーーー……」
しばらく無言のまま、景色を眺める。
都会の中の、病院の庭からの風景は。
忙しなく動く世の中が、とても遠いもののように思えて。
早くそこへ戻りたいような。
戻りたくないような…。
とても不思議な感覚に陥る。
イノランは隆一とここへ来ると。
決まって、ある以前の事が顔を覗かせた。
まだ、想いを伝える以前の事。
とあるスタジオの、屋上での事。
目を閉じれば、あの日の事が、鮮明に蘇ってくる。
「ねぇねぇイノちゃん、今の何の曲?」
ルナシーのレコーディングの合間。
ほんの少しの息抜きのつもりで、アコースティックギター片手に訪れた、スタジオの屋上。
この後、ギターの録りがあるのだが。
ちょっと難しいフレーズがあるのだ。
イノランは、しばらくそこを爪弾いて。何度目かで、ホッと息をつくと。
しばらくぼんやり空を眺める。
白い雲がぽっかりと浮かんだ、抜けるような青空。
心地よい風が通り抜けて、イノランは思わず、口元を綻ばせた。
そして再び、ギターを奏ではじめる。
でもそれは、さっきのフレーズでは無くて。
爽やかで。…でも、どこか切なさが混じった。まだ歌詞も出来ていないのか、鼻歌を織り交ぜながら歌う。
とても気持ち良さそうに歌うイノランの表情は、穏やかだ。
~♪♬
そしてそこで。突然、隆一の台詞が降ってくるのだった。
「ねぇねぇイノちゃん、今の何の曲?」
「隆ちゃん」
ちょっと驚いて、見上げた先には。
青空がとてもよく似合う。
イノランが大好きな、笑顔があった。
「隆ちゃん、休憩?」
隣に腰をおろす隆一を見ながら、イノランは問いかけた。
「うん。イノちゃん、いないなぁ…って思ったから。スギちゃん今、集中してるし。出てきちゃった」
「そっか」
探してくれていたのかな?と思うと、嬉しくて、くすぐったい。
自分の声が、嬉しがっているのがわかって。照れ隠しに、ギターを爪弾く。
するとまた、隆一がさっきの台詞を繰り返した。
「さっきの、何の曲?」
「あー…うん。…ソロのね。まだ途中だけど」
ふ、と。横を見ると、隆一の目が輝いている。
「ねえ、弾いて?聴いてみたい!」
「えぇっ?」
「ね?イノちゃんお願い‼ちょっとでいいから」
「まだこれ、完成してないよ?」
「いいの!だってさっき聴いた時、すっごく良かった」
「……そんな、まだ聴かせる程のもんじゃないよ」
「そんな事ないよ!俺、イノちゃんのギターの音好きだもん!イノちゃんの歌も大好きだよ?」
だからお願い‼と、キラキラした目で請われて、断われる筈もなく。
…完全に負けた……。
イノランは大きく息をつくと、諦めの呟きを洩らした。
「いいよ」
「イノっ‼」
ぱあっと、満面の笑みで。
こともあろうに。
隆一は心底嬉しそうに、イノランに抱きついた。
「っ…りゅ…う」
イノランは突然の事に。
体制を崩しそうになりながらも、何とか堪えて。
ギターを片手で抱えて。
もう片手で、隆一を受け止めた。
反動で鳴り響いたギターの音に、隆一はハッとして。自分が抱きかかえられている事に、気が付いて。
みるみるうちに顔を紅潮させて、イノランに回した両手を離した。
「……ごめんね…。いきなり…」
「や。…大丈夫」
自分のした行動に、気まずそうに。恥ずかしそうに。
ちらちらとイノランの方を窺う隆一。
イノランと目が合うと、しゅん…と、俯いてしまった。
イノランは。そんないちいち変わる、隆一の行動や表情から目が離せなくて。いつしか、どきどきと鼓動が速くなっている自分に気付いて。
突然の触れ合いが、嬉しくて。
嬉しくて、歪みそうな口元をグッと噛み締めて。
未だ俯いている隆一の髪に。そっと、触れた。
「ーーーっっ」
弾かれるように顔を上げた、隆一が。
満開を迎えた桜の花みたいに、頬が薄っすらと染まっていて。
思わず見惚れてしまったイノランは、瞬きも出来ずにいたら。
同じように、目を逸らさずにいた隆一が。ふわりと、微笑んだ。
今まで長い間、一緒に過ごしてきたけれど。
それはイノランが、今まで見たことが無い。
とても綺麗な、 笑顔で。
一瞬で、心奪われてしまって。
他の誰にも、こんなカオ見せたくなくて。
このまま、隆一を。
連れ去ってしまいたいと。ーーーそう、思ってしまった。
その後に弾いた、リクエストの曲は。
正直、さきほどの事で胸がいっぱいで。上手くできなかった気がする。
それでも。
ベンチの上で膝を抱えて、じっと聴いている隆一は。
始終イノランの横顔をみて。
音の波に浸っているようだった。
最後の音が、消えた時。
そっとイノランは、隆一を見た。
…息をのんだ。
「俺やっぱり、イノちゃんの音、好き」
甘やかな声が、風に乗る。
(…かわいい…隆 )
サラサラと穏やかな風が、隆一の髪を揺らす。
その度にほんのり染まった、頬や耳元がチラチラとのぞいて。
何というか。
イノランは堪らない気持ちになってしまった。
( どうしよう…。めちゃくちゃ、かわいい )
「イノちゃんの音色も、イノちゃんの声も。大好きだよ」
跳ね上がる心音。
熱くなる心。
この曲は、君を想って書いたんだよ。
…そう。言ってしまえたら。
言ってしまったら。
どうなるのだろう。
いつか伝えられる日が、来るのだろうか…。
ーーーーー……ラン…
ーーー…ってば…
「ねえっ!イノランってば‼」
「あ。」
ハッとして顔を上げると、間近に隆一の顔。
しかも、ちょっと怒ってる?
「もぅっ!何度も声掛けてんのに」
思考の奥に入り込んでいたイノランの態度に、頬を膨らませて睨んでくる隆一。
しかしそんなもの。イノランにはちっとも怖くない。むしろ…。
「っっ…!」
ちゅっ…と、イノランは不意打ちのキスをする。咄嗟に身体を引こうとする隆一を、逃がす訳もなく。
隆一の後頭部に手を回して、さらに深く唇を合わせた。
「ン…んぅ…っ…」
イノランが隆一の唇を舌先でなぞると、その身体が小さく震えた。
「…っん……ぁっ…」
名残惜しげに唇を離すと、隆一は頬を染めて睨み上げた。
いきなり何するの、と。イノランを見ると、すごく愉しげな瞳があって。それがまた、格好良くて。
隆一は、ぐぅっ…と言葉が詰まってしまう。
イノランは、照れで悔しそうに唇を戦慄かせる隆一の肩を抱くと、自分の方へと引き寄せる。
空いた手で、隆一の指先と絡ませると、力の入っていた身体が脱力して。
イノランの肩に、隆一の頭がコテン…と、のっかってきた。
「好きだよ」
つい。溢れた、想い。
以前の事を思い出していたから。
今ここに。
隆一が自分の隣に居てくれる事が、どうしようもなく、嬉しくて。
あんな辛い事もあったから。
一緒に居られる事が、奇跡にも思えて。
もう二度と、手を離したくなくて。
離さないと誓って。
想いを馳せる。
色んな空の下で、隆一を想ってきた。
叶わないであろう想いを、歌にした。
抑えきれない想いに、ため息をついた。
未来に想いを馳せた。
とても綺麗な、君の涙を見た。
想いを再確認した。
初めて君に触れた。
想いを伝えた。
君と…
君と、やっと…。
「好きだよ、隆」
冬の空気にとけそうな、柔らかな。
低くて優しい声が、隆一を包む。
幾度となく囁かれる、愛の言葉。
隆一は、心を乱されて。恥ずかしくて、ちっとも慣れない。
「誰よりも、隆が好きだよ」
「っ…」
「お前が…欲しいよ」
「イノっ…」
「隆…こっち見て?」
「やだっ…」
イノランは、恥ずかしさで身を捩る隆一の顎に手をかけると。強引に顔を向かせる。
耳まで真っ赤になった隆一が、そこにはいて。あまりにかわいくて、イノランは口角を上げた。
「隆ちゃんにも、言って欲しいな」
「ーーー…っ」
我ながら意地悪な、わがままなお願いだと思う。心の中で隆一に謝るものの、かわいい反応が見たくて、つい強引になってしまう。
唇をぎゅっと噛み締めて、見上げてくる隆一の表情は可哀想なくらい潤んで。
イノランは追い討ちとばかりに、微笑みながら言った。
「ね、言って?隆の口からも聴きたいよ」
「ーーーーー…知ってるくせにっ…」
ぐっ…と、上体を伸ばして。
隆一はそっと唇を重ねた。
触れ合うくらいの微かなキス。
閉じきらない薄く開いた瞳と、触れた唇が熱くて。
とてつもなく、扇情的で。
イノランは目の前の隆一から、目が離せなかった。
「好き」
小さな、微かな声が、風に乗って届く。
え?…と聞き返したら、消えてしまいそうで。呼吸まで堪えて、耳をすませる。
すると今度は。
イノランに、確かに届いたのは。
ミルク色の冬の陽だまりみたいな、あたたかな。
こぼれるような、隆一の笑顔と。
吐息を含んだ、愛の言葉だった。
「ずーっと、好きだよ。イノラン」
……その翌々日のこと。
「え、本当ですか!?」
昼前の明るい病室に、隆一の軽やかな声が響く。
「退院だよ、おめでとう。明日の診察を終えたら、帰っても大丈夫」
初老の主治医が、にこっと笑う。
「良かったね、隆ちゃん!」
「うんっ!ありがとうイノラン!ありがとうございます!先生」
「傷はすっかり治っているけれど、マッサージは続けるんだよ。お風呂に入っている時でも良いからね」
「はい!」
始終ニコニコと、本当に嬉しそうな隆一を見て、医師はポツリと口を開く。
「記憶の方は、私は全く何も出来なかったけれど。…安心したよ。君達を見ていて。自分達で乗り越えたんだね」
それを聞いて、隆一はチラッとイノランを見ると。小さく頷いて口を開いた。
「先生。先生には、いっぱい背中を押してもらったよ?俺たちの主治医が、先生でよかった」
「隆が記憶失くしたって判った時。先生、俺にすごく大事な事を話してくれた。あの言葉が無かったら、始めの数日で、俺おかしくなってたと思う。ーーー本当に、ありがとうございました」
2人の誠意のこもった言葉に、主治医は照れ臭そうに頭を掻いた。
「いやいや……なんだか。今日程、医者を続けていて良かったと思った日は無いよ。
ここへ来た時の君達を見ているから…。ひとの回復力、愛情の素晴らしさ……こんなに間近で見させてもらって。こちらこそ感謝だ。
こんなおじいちゃん先生と仲良くしてくれて、どうもありがとう。」
じんわりと広がる優しさと、すこし寂しい気持ち。
不安や絶望感に満ちた、ここへ来た時とは全く違う、今の気持ち。
悩んで、足掻いて。
皆んなに後押しされて、今がある。
辛さから始まった、この入院の日々。
でも。大好きなひとと、再び手を取り合えたのも、この場所で。
まるで、長い長い…夢を見ていたみたいだ。
でも。夢は醒める。
「ふむ。…音楽番組…観てみようかな。」
何気なく呟かれた、医師の茶目っ気ある言葉に。
ぐんっ…と一気に。
現実に戻って行くような。
病院の中庭から眺めた外の世界に。
飛び出していく、そんな感覚が。
急激に込み上げてきたのだ。
身体の底から鳴り響く。
これから生まれていく音楽と共に。
2人、手を繋いで。
.