長いお話 (ひとつめの連載)







イノランが隆一のいる病棟に着いた頃は、既に昼食時が終わっていた。
配膳スタッフと度々すれ違いながら、隆一の病室を目指す。

慣れた様子で病室のドアをノックすると、そっと中に入った。



「あれ?」


しかしそこには彼の姿は無く。
イノランは拍子抜けしたようにため息をついて、無人の病室の奥へと進んだ。


「診察かな?」


それならば待っていればいい、と。
持っていた鉢植えを窓際の棚に置き、ジャケットとストールを脱ぐと、ハンガーにかけた。

手持ち無沙汰になって、ぐるりと室内を見渡すと。ベッドサイドの棚に、見慣れない物を見つけて近づいた。



「……フィギュア…。」



イノランも、こういった類の物は好きな方だから。つい、物珍しくて眺めてしまう。そして、これを持って来た人物に心当たりがあって、思わず笑みが溢れた。



「スギちゃん…だな」


先程のメールのタイミングから見て、間違いなく彼だろうと。イノランはため息をつきながら椅子に腰掛けた。



『隆はもう、ちゃんとわかってるよ』


『あとはお互いが、一歩づつ踏み込むだけ』



スギゾーから届いた、メールの文面を思い出して。
イノランは天を仰ぐ。



(ありがとう、スギちゃん)

(…いいのかな…。もう。)



嫌われていないのは、分かる。
無関心じゃないっていうのも、伝わってくる。

隆一が向けてくれる笑顔が、前と変わらない、綺麗なもので。

時折見せる、照れたような、はにかむ表情や。
切なげに揺れる瞳や。

一日の終わりに抱きしめる、その身体が。
日に日に、甘えるように擦り寄って来るようになって。
身体を離すと、どこか寂しそうな顔をして。おやすみ…と、手を振って。

正直。そんな隆一を見る度、我慢が効かなくなりそうな自分もいて。
今は側に居られるだけでいい。そう言っていた自分に、苦笑を溢すしか無かった。


ただ、焦って隆一を傷つける事だけは、したくなかった。

記憶を失くすという、おおよそ想像もつかない事態に。
隆一はきっと、不安でいっぱいの筈なのだ。



(守りたいんだ)


隆一を。


でも、もし…


(隆一も、望んでいてくれるなら)



また以前の2人に戻れるよう、踏み込んでも、いいのだろうか。


ふと。先日スギゾーが呟いた言葉を、思い出す。



『もう隆のこと、見てらんねーよ。切なすぎて。イノのこと、あんな風に見て泣くなんて…。
忘れてねーよ。失くしてなんかねーよ。どっかに、閉じ込めてるだけなんじゃねぇのか?』



(だとしたら…。本当にそうなんだとしたら…)



信じて、進んでいいのだろうか。


隆一の事になると。びっくりするくらい考え過ぎてしまう自分に。
イノランは自嘲気味に、唇の端を上げる。


遠くから飛んできた大きな鳥の影が、窓辺に立つイノランの視界をサァ…と横切る。
それでハッとして、壁にかかった時計に目をやると。
いつもの診察より、時間がかかっている気がした。





「イノラン!?」




ぼんやりしていたイノランの耳に、聴き慣れた声が心地よく響く。



「隆ちゃん診察?おつかれ」



にっこり笑うイノランを余所に、隆一は眉を下げて、心配そうな目だ。



「ごめんね、結構待たせちゃった?」

「ううん、少し前だから大丈夫」



それを聞いて安心したのか、足早くイノランの元へ歩み寄る。そして窓辺に置かれた鉢植えを見つけて、目を輝かせた。



「綺麗だね!これ、イノランが持ってきてくれたの?」

「ああ、うん。仕事の帰りに見つけてね。…まぁ、プレゼントです。隆ちゃんに」

「ありがとうっ!嬉しい…えっと、これ…」

「クリスマス・ローズ」

「色がすごく綺麗だね」

「隆ちゃんに似合うと思ってね?…鉢植えでごめんね、でも退院しても楽しめるかなって」


「大事に育てるね」



照れ臭そうに笑って、色づいた葉に触る隆一を見て。そういえば!と。




「隆ちゃん包帯とれたよね?」

「うん!今ねえ、歩いていいよって許可が出たんだよ」

「じゃあ、やっと自由だ」

「うん‼動けるのが嬉しくて!明日からね、左手のリハビリもはじまるんだよ」

「そっかぁ!俺も手伝うからね」

「うんっ!ありがとう!」

「隆ちゃん…。すごいご機嫌だな」

「へへ…!自由ができたら、今度はすごく歌いたくなって!
さっきもね、ちーさく歌ってたんだぁ」



心底嬉しそうに話すから、つられてイノランまで心が浮き立ってくる。



「ここでギター弾ければなぁ、伴奏つけてあげられるんだけど…」

「……え?」

「退院したらギター弾くからさ、思いっきり歌ってよ」



隆ちゃんの歌いたいの、何でも弾くよ?
屈託なく、そう言って笑うイノラン。

それまで弾んだ声で話していた隆一なのに。急に鳴りを潜めたみたいに静かになった。



「………退院…したら…?」

「ん!約束」

「ーーーーー……退院…しても」




イノランは、側に居てくれるの?
ーーー…それとも、他のメンバーみたいに、遠くへ旅立つの…?





「隆ちゃん…?」











隆一の無言の問いに、何か感付いて。
急に黙ってしまった、隆一を見つめる。
さっきまでの元気が嘘のように、唇を噛んで俯いて。

そんな隆一を。イノランは少し身を屈めて、覗き込んだ。



「隆ちゃん…どした?」


目が合うと、隆一はハッとして。
今の自分の態度が恥ずかしかったのか、顔が赤く染まっていく。



「っ…イノラン…」

「ん?なに?隆ちゃん」

「ーーーーー…」

「…何でも言って?」

「………えっと…」

「うん」



イノランがゆっくりと待ってくれているのが分かる。どれだけ時間をかけても、イノランは待ってくれるだろう。そんな面持ちで、じっと隆一を見てる。


隆一は焦りつつも、今自分の中で騒めく感情に、目を向ける。



終幕とは、それでは何だったのか。
個々がそれぞれ大きく成長する為の。お互いを尊重し合う為の、別れではなかったのか。


それなのに、今イノランに言おうとしているのは、なんなのか。



〝これからも、ずっと側に居てほしい〟


そんなの、自由を奪う、自分勝手な願いではないのか。



ふるふると、隆一は小さく首を振る。



「なんでもない」

「ーーーーー 。」

「なんでもないから…」



そう微笑む隆一は、泣きそうな目で。
なんでもない、なんて。嘘に決まってる。
何かを誤魔化して、何かに遠慮しているのが、ばればれで。

イノランは眉を寄せる。
歯がゆさで、言葉を詰まらせてしまう。
言いたい事を言わせてあげられない。
これが2人の今の立ち位置なのだと、思い知る。

自分達は恋人同士だと知れば、何でも話してくれたのだろうか。



生きてここに居てくれるだけで、今は充分。確かに数日前まで、そう思っていた。
今だって勿論、その想いに嘘はない。

なのに。

正直もう、我慢の限界な自分も、確かに居て。
隆一を目の前にして。


もっと触れたい。
もっと心を通わせたい。
以前のように、愛し合いたい。

そう願う自分が、顔を出す。

イノラン自身も、信じられない程に、隆一が愛しくて。
想いの深さを測る事も、出来なくて。
これが生涯最後の恋なのだと言えるくらい、大切な…

だからより一層、慎重になってしまう。臆病にもなってしまう。




「ごめん」

「え…?」

「ごめんね、隆ちゃん」



イノランの手が伸びて、隆一を抱き寄せる。
震える声で、突然の謝罪に。
隆一は面食らって、慌ててしまう。



「何で?…どして、イノランが謝るの?イノラン…別に何も…」

「ううん。隆ちゃんに言いたい事、言わせてあげられない…俺が悪い」

「なに言って…っ…それは違うよ」

「違わないよ。そういう空気が、俺らの間にあるってこと。遠慮して、口を噤んで、我慢して…。結局、前に進めなくて…」

「ーーーイノ…」



「俺。隆ちゃんに、話したいことがある」


決意を含んだキッパリした口調で、イノランは語りかける。


「隆ちゃんは?」

「え?」

「隆ちゃんも、俺に言いたいこと、あるでしょ?」




隆一が戸惑っているのが、伝わってくる。そっと顔を覗くと、案の定揺れた瞳とぶつかった。
不安がって欲しくなくて、微笑んで見せた。



「俺、今夜。泊まってってもいいかな。ゆっくり、隆ちゃんに話してあげたい事があるんだ」


ん?、と窺うように見つめると、隆一の身体がフッと緩む。暫く視線を彷徨わせて、逡巡した様子を見せていたが。イノランの真っ直ぐな目とかち合うと、大きく頷いた。



「いいよ、俺もイノランに、話したいことあるよ」



隆一の晴れやかな声と表情に、イノランも安堵して。



「隆ちゃんこれから、お風呂と夕食だもんね。その間に、先生に宿泊許可貰ってくる」

「うん!」



隆一の嬉しそうな姿を見て。
イノランは背中を押された気がして。
その笑顔を、心からのものにしてあげたいと。そう、切に願った。









隆一が入浴を済ませている間に、宿泊許可を取り付けて来たイノランは、毛布片手に病室に戻って来た。



「大丈夫だったでしょ?」

「うん。先生、自由に過ごして~って。ベッド使っていいよって言ってくれたんだけど、さすがに申し訳無いから、俺は病室のソファーで」

「空いてる時シャワーもどうぞって、看護師さん言ってたよ」

「なんか…至れり尽くせりで…」

「良かったね!」



そう笑いながら、棚に並んだケースから塗り薬を取り出す隆一。
左手の袖を捲ると、未だ目を引く傷痕が現れる。



「…傷薬?」

「うん。今日の診察の時貰ったの。他の傷はもうほっといても平気だけど、ここだけは塗っといてって」



イノランはじっと、その左腕を見つめる。
自分についたかもしれない、傷。

唯一、ここだけリハビリが必要だという左腕。痺れるのか、うまく薬を持つ事が出来ないのか。
するり…と。手から落ちる。
床に落ちた薬を拾おうと手を伸ばすも、上手く拾えず。
隆一はため息をついて、右手で拾おうとする。



「あ。」



イノランが、すっと。薬を拾う。



「かして?左腕」

「え…」

「塗ってあげる」



少し躊躇った隆一は。しかしそっと、イノランの前に左腕を差し出す。
イノランの指先に出された軟膏が、隆一の傷痕の上を滑る。
ほんのりと、指先の体温が伝わってきて、隆一の胸が小さく高鳴った。



(感覚鈍ってるはずなのに、どうしてだろう…。あったかい)











「痛い?」

「ううん、平気だよ」

「ん。良かった」



はい、できたよ。と言いながら、薬をケースに戻すイノランと、一連の所作を眺めていた隆一の、目が合った。



「ありがとう」


隆一は微笑んで礼を言うと、袖口を直そうと手を引こうとした瞬間。



「ーーーっ…」


イノランは隆一の手をとらえて、引き寄せる。空いた手で、そっと隆一の頬に触れた。

間近で重なる視線。
イノランの瞳は真剣で。でも限りなく優しい。
隆一の顔が熱をもつ。



「……イノ…?」


心臓がドキドキとうるさい。
触れてくる指先が、とても気持ちが良くて。
隆一はうっとりと目を細めて、その手に自らの指先を重ねた。

安心感と懐かしさが、蘇る。



(懐かしいって…思うのは、知ってるからなのかなぁ?
この指先の感覚も…俺は)


「知ってる、この手」


ビクリ、と。
頬に触れるイノランの手が揺れた。

つい口をついて出てしまったつぶやきに、イノランの目が見開かれる。



「イノラン?」

「……隆…っ…」



見開かれたイノランの瞳には。
驚きと、歓喜と、期待と、不安が混ざり合って。
切なげに歪んだ瞳で見つめて。

繋いだ手を強く引いて、隆一を抱きしめた。


はぁ…、と。隆一の口から、熱を含んだ吐息が漏れて。隆一の両手が、イノランのシャツをぎゅうっと掴む。



(いい匂い…)

(やっぱり、知っている。…ずっと前から…)



「ね、イノラン?」

「ん?」

「…今日は、」

「うん」

「今夜は、何でも話しても…いいんだよね?」

「ん、いいよ。隆ちゃんの話、聞かせて?ーーー俺も話したい」

「うん」



胸に顔を埋めたまま、コクリと隆一が頷くのがわかって、イノランはこっそりと笑みを浮かべる。
目線で壁時計を確認すると、夕食まであと少し。
イノランは隆一の耳元で、そっと言った。



「ね、隆ちゃん。夕食まで、このままでいてもいい良い?」

「え…っ」

「…嫌?」



嫌な訳ないのに、そんなことを言われて。隆一は慌てて首を振る。



「や、じゃないよ」

「…ん。」

「こうしててほしいよ」

「…ありがと。隆ちゃん」



ぎゅっと隙間が無い程、抱きしめられて。
隆…っ …。と掻き消えそうな声で言われて。
その声には、愛おしさしかなくて。

こみ上げる、この感情に。
もう見て見ぬ振りも、やり過ごすことも、もうできなくて。



(好きだよ、イノラン)


心の中で、告白してみる。


(大好きっ)


閉じた瞳に涙が滲む。
それは、事故の後。目覚めてイノランを見た瞬間に溢れたものと、同じ想いの涙で。

イノランの姿が、目に映った時から。



(ばかだ、わかってたのにっ…)



記憶を失くしても。
心と感触は覚えてた。


誰よりも、あなたを愛してるって。













ちゃんと伝えたい。
この想いを、あなたに。

教えてもらいたい。
抱きしめてくれる、あなたの気持ちを。











夕食時の院内チャイムが流れると、2人は気恥ずかしくて、ぎこちなく身体を離した。
隆一の主治医から事情を聞いた配膳スタッフが、イノランの分の食事も用意してくれて、有り難く2人分の夕食トレーを受け取る。
馴染み易い味付けと、充分な量のある病院食を。美味しいね、と言い合いながら食べて。2人揃って、手を合わせて『ご馳走さま』を言う。
食休みをしながら、スギゾーの持って来たロボットのフィギュアで盛り上がって。そうこうしている内に、夜の回診。その間に、イノランはお風呂。タオルや替えのシャツは、Jが大量に置いて行ったツアーグッズだ。微妙な表情でそれらを受け取ったイノランを、隆一はニコニコと送り出した。






シャワーを済ませて、自販機でミネラルウォーターと冷たい緑茶を買って病室に戻ると。
隆一は窓際のソファーに腰を下ろして、窓の外を眺めていた。
相変わらず風が強い、暗い夜空を。

気配がしたのか、隆一は振り向いて。イノランの姿を見つけると、にこりと笑いかけた。



「おかえりなさい」

「ただいま。外、なんか見える?」

「ううん。風、強そうだなって思って。今日、外寒かった?」

「寒いよ、風冷たかったし」



イノランは、手に持っていたペットボトルの緑茶を、隆一に「飲む?」と見せる。
今はいいや、ありがとう。という隆一に相槌を打ちながら、冷蔵庫にしまう。
そしてそのまま、隆一の隣に座る。
時計を見ると間も無く22時。消灯で。
イノランはくくっ…と笑う。



「22時消灯ってさ、早くない?」

「いいんだけどね。あんまり運動が無いから、すぐには眠れないんだよね」

「眠くないのに暗くなるって、辛いよね」

「まぁね。ーーーーーでも、今日はいいよね!イノランと一緒だもん」

「ーーーん。」



ちらりと見た隆一は嬉しげで。
イノランは急に照れてしまって、うまい返事が出来なかった。



そんな事をしている内に22時。
病室や廊下の照明が、控えめにおとされる。
途端に、病院全体の雰囲気が、ひっそりとしたものに変わる。

でも2人は、窓向きのソファーに座ったまま。薄暗い部屋で、どこか落ち着いて。
話をしたいから、このくらいの静けさが丁度いいかもしれない。


しばらく2人とも、何も言わず。ただ黙って、窓の外を凝視する。
何から話すべきか、考えがうまく纏まらなくて、もどかしい。

だんだんと焦れてきた頃、イノランの手が隆一の手をとらえる。


「 ‼ 」


咄嗟に横を見ると、優し気な目とぶつかって。隆一もつられて穏やかな表情に変わる。
変に力の入っていた身体が、ゆったりと弛緩して。隆一はポツリポツリと話し始めた。




「イノラン」

「ん?」

「……俺ね…」

「…ん」

「……ずっと…。思ってたことが…あって…」

「うん…」


重なったイノランの手が、きゅっと。隆一の指を絡めとる。
じん…とした熱が伝わってきて。
隆一は、喉の辺りで躊躇っている、自分自身の想いに、意を決して。
身体ごと、イノランの方に向き合って。震える唇と声で、言葉を紡いだ。






「イノランのこと、好きだよ」



「ーーーーーーーー…っっ」




見つめ合う、イノランの瞳が見開かれて。しばらくののちに、切なそうな微笑みが広がった。

恥ずかしさで、真っ赤な頬で目を潤ませる隆一は。それでも懸命に言葉を続ける。



「目覚めた時から、本当はきっと、わかってた。
イノランが好きだって…大好きだって。…記憶は無くても、わかってたんだ」


重なった手を、引き寄せて。
隆一を抱きしめる。

強く…強く。
離れないように。




「ーー…隆ちゃん…っ」




振り絞る声で名前を呼ばれて。
身体が震える。
身体の芯が、熱くなる。




「何で…」

「え?」

「イノランは、どうしていつも、俺を抱きしめてくれるの?」

「ーーー隆っ…そんなの…」

「ーーー…」

「好きだからに、決まってるだろっ…」



イノランは抱きしめる腕を緩めると、隆一の顔を覗き込む。
あどけない顔をして、瞬きも忘れたみたいに、イノランと視線を合わせてくる。

そんな隆一を見ていたら、あの日のことが、鮮明によみがえる。



「ーーーあの時も、やっぱり夜だった」

「え、?」

「レコーディングが終わった後。夜のスタジオの…屋上でさ。隆…泣いてて。すげえ綺麗で。
ずっと…ずっと、心の奥に押し込めてた、隆への想い。ーーーーーもう、しまっておく事なんか、出来なくて。
その時、隆に伝えたんだ。……好きだよって…」

「ーーーーー…ぇ……」

「…初めて、隆に触れて。抱きしめて…キスして。隆も想いに、応えてくれて。…嬉しくて…信じられないくらい、スゲ…嬉しくて…。
俺、こんなに誰かを好きになれるんだって。…感動した」

「ーー……っ…」



「その時俺たちね、恋人同士に…なったんだよ」



大切に、慈しむように語る。
イノランの声は優しくて。
それが、隆一の心を鷲掴みにする。



「ーーーーっ…っ…」

「隆…?」


はらはらと、隆一の瞳から涙が溢れ落ちる。いつしかそれに嗚咽が混じって、イノランは目を見張った。



「……っごめ…なさい…っ…」

「…え?」

「ごめ…ね、イノラ…っ…ごめん、」

「隆ちゃん、どうして…謝るの?」

「だって…俺っ…大事なこと、全部…覚えて無い…っ!イノランとの、想い出…なんにもっ…」

「ーーーりゅ…」

「でも俺、イノランが好きだよっ!
何にも覚えてないのに、こんなの自分勝手だけど…
でも、ちゃんと思い出すから!イノランのこと、全部っ…思い出してみせるから!…だからお願いっ…嫌いならないで!イノランと一緒にいたい、離れたくないっ」

「隆ちゃ…っ…」




隆一の、あまりに悲痛な心の叫びに。ひとりで抱え込んでいた、痛みに。
それなのに、哀しいくせに、ひどく綺麗な涙に。
狂おしい程の愛おしさが、イノランを襲って。
もう止まらなくて。
隆一の震える肩を、引き寄せて。
その唇を、そっと塞いだ。



「ーーー……っ……」



一瞬離した唇と、隆一の表情が。高熱を出した時みたいに、滲んで見える。
絡み合う前髪と、柔らかい唇に。イノランは堪らずに、隆一を抱いて、もう一度唇を重ね合わせた。



「…ん…っ…ン、」

「……っ…」

「はぁ…っ…ん…」



背筋が痺れたみたいに、身体がくだけそうで。気持ちよくて、夢中になる。
求めるままに唇を重ねていたら。
隆一から苦しそうな声が洩れて。
久し振りのキスに、イノランは止まらなくなりそうな自分を、やっと抑えて、唇を離す。


荒い息遣いのまま、うっとりと見上げてくる隆一。イノランはその目に見つめられては堪らないと、隆一をぎゅうっ…と抱きしめる。




「嫌うわけないだろ…っ!こんくらいで隆のこと、離せるわけないっ…離してなんてやらないっ…‼」

「イ…っ…ノ…」

「隆ちゃん、前と全然変わんない!笑顔も、優しいとこも、かわいいとこも、鈍感なとこも…俺の。恋人の隆ちゃんと、何も、」

「っ……」

「好きだよ隆っ…お前じゃなきゃダメだっ…!俺の気持ちは何も変わらない。こういう事があって、もっと気持ちが強くなった。ーーーーーまたここから始めればいい」



胸の中で隆一がコクコクと頷くのがわかって、イノランは目を細めて、隆一を真っ直ぐに見る。
そして「もう一度言うよ?」と前置きして。





「隆ちゃん。俺の恋人に、なってください」




優しい、愛しみの込められた言葉と声音に。止まらない涙はそのままに、隆一にも笑顔が広がる。



前は何と返事しただろう…?
…でも、きっとこう言ったに決まっている。
だって大好きな人からの、愛の告白だ。
隆一は、精一杯の想いを込めて頷いた。





「はい」







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