長いお話 (ひとつめの連載)
イノランの退院が決まった。
「え、明日?」
目を丸くする隆一に、イノランは目を細めて頷いた。
「今、診察の時抜糸してもらったんだ。明日の午前中に退院だって」
そう言うと隆一に傷痕を見せて、ベッドの傍まで寄って来る。
その歩みにはもう不自然な動きは無くなって、完全に回復したようだった。
「ーーーそっか…。」
無意識なのだろうけれど、落胆気味に眉を下げてポツリと呟く隆一を、イノランは見逃さなかった。
「隆ちゃん」
ベッドの端に肘を突いて、隆一の顔を覗き込んでくるイノランに。
隆一はハッとして、慌てて首を振った。
「うっ…ううん!イノラン良かったね、退院おめでとう‼」
取り繕うように早口で喋る隆一を、イノランは意地悪そうに口の端を上げて笑う。
「隆ちゃん。…寂しい?」
「ーーーえ?」
「俺が居なくなったら、寂しい?」
「 !! 」
心が読まれたのか、図星を突かれて隆一は言葉に詰まってしまう。
顔に出ているのだろうか…。
明日から隣にイノランが居ないと思うと、考えただけで寂しくて仕方がなかった。
かと言ってもここは病院なんだから、治った人間がいつまでも居られる筈もなく。
行かないで…なんて、言える筈もなく。
心から〝おめでとう!〟と言えない自分に嫌気が差す。
すっかり黙りこくって俯いてしまった隆一を見て。イノランはニコリと微笑んで、そっと隆一を抱き寄せた。
「ーーーイノラっ…」
「俺は寂しいよ?隆ちゃんと一日中、いっしょに居られなくなっちゃうから…」
「………っ」
「だからさ。俺、毎日来るから。朝から夜まで、隆ちゃんが退院するまで、ずっと」
イノランの思い掛けない提案に、隆一はポカン…。と口を開けて止まってしまう。そんな様子が可笑しくて、イノランはつい、くすくすと肩を震わせた。
「来て…いいよね?俺」
ふわり…と髪を撫でて微笑むイノランを目の前に。また、どきん…と身体が反応する。
そんな事を言われて、嬉しくて仕方ないけれど。
…でも…。
「…でも…イノランだって、仕事あるでしょ?俺にずっと付いててくれたら…何もできないじゃない…」
ほんのり頬を染めて、消えそうな声で。言葉とは裏腹な、そんな可愛らしい姿を見せられて。
イノランは苦笑を溢すしかなかった。
(そんな…さぁ、かわいい姿見せられちゃ…)
ちらり…とイノランの顔を伺っては、慌てて恥ずかしそうに視線を外す隆一。イノランは自然と顔が緩むのを、止められない。
(俺、期待しちゃうよ?…また、想い合える日は、近いって…)
すっかり俯いてしまった隆一の頭を、ポンポン…と軽く触れると。弾かれたように顔を上げた。
どこか気遣うように、心配そうな目で見て来るから。安心して欲しくて、イノランは隆一の手をそっととった。
「俺さ。今は曲の構想期間だもん。ここでだって色んな事考えられるし、全然大丈夫!問題無いよ?それに俺は、今は隆ちゃんに付いていたい。回復の手伝いもしたいし、何よりこんな時だからこそ、側にいたい」
だめ?って首を傾げつつ問うと。
少しの間の後、ふるふると首を振って、隆一が答えた。
「だめじゃない」
そう言った隆一の瞳はきらきら輝いて。はにかんだ笑顔を見せた。
「側にいてくれたら…嬉しい」
本当に嬉しそうに笑うから。イノランは上手い返事が見つからなくて、でも。想いは止めどなく、溢れてきて。
隆一の肩に手を触れて。そのまま身体を引き寄せて、抱きしめた。
(うわっ…)
ぎゅう…っと、あたたかい腕に閉じ込められて。隆一の鼓動が、また派手な音をたてて、騒めきだす。
イノランの匂いも、顔を掠める薄茶の髪も、布越しに感じる鼓動も。
そして隆一を抱きしめる、力強い腕と優しい指先が。
隆一の心を、翻弄していく。
恥ずかしくて落ち着かないのに、不思議と身体はぴたりと馴染む。
ずっと前から、この場所を知っていたみたいな、懐かしさもあって。
このままこうしていたいと、願う自分もいて。
(ワケ…わかんないよ)
自分がどうしたいのか。
イノランと、どうなりたいのか。
記憶を失くす前、自分達はどんなだったのか。
(…というか。メンバー同士や友達とかって、こんなに抱き合ったりとか、するのかな)
(例えば、他のメンバーだったら…?)
隆一は人知れず、うーん…。と唸る。
(ライブの時ならあったけど…。プライベートでは…無いよねぇ)
(スギちゃんは俺を犬とか動物みたいに思ってそうだし…。前に仔犬みたいとか言われたし。
真ちゃんと俺なんて親子だよねぇ。
Jはそんな事するタイプじゃないし…。っていうか、J君面白いもんな…)
(じゃあ、イノランは?)
(イノランに抱きしめられると、どきどきする。…それから、もっとくっ付いていたくなる。安心して、気持ちよくて、触れてるところが熱くなって、心がいっぱいになっていく…)
この気持ちは。
(……愛おしい…っていう…気持ち?)
ドクン…っ、と。
心臓が全身に響き渡るほど、大きく跳ねた。
(愛おしい…って。ずっと、思ってた気がする)
隆一は、目の前にあるイノランの胸に顔を押し付けて、思いっきり息を吸い込んだ。
途端、身体いっぱいに広がる、確信にも似た甘い痛み。
愛おしい、恋しい、大好き、愛されたい、愛したい、側にいたい、触れ合いたい、キスしたい…
「ーーーーーーーーーっっ」
急に猛烈に顔が熱くなって、がくがくと身体が震えてしまう。
イノランの事は確かに好きだ。でも『好き』にも色んな種類がある。
その中でも。
今抱え込んでいる、この感情がどんなものか…なんて事くらいわかる。子供だってわかるだろう。
それをイノランに対して抱いているのかもしれないと、そう考えが及んだ途端。
本格的にワケがわからなくなって、混乱して、恥ずかしくて。
隆一はぎゅっと目を瞑った。
(ねぇ、イノラン)
(俺たちって…どんなだったの?)
(どうしてこんなに、優しく抱きしめてくれるの?)
聞きたい。
けれど、聞けなくて。
行き場を探して彷徨う、この気持ちが大きく膨らんで。
もどかしくて、涙が滲む。
きっと他の3人のメンバー達が居たら、相変わらずの鈍感振りに、ため息をつくであろう、今の隆一。
でもそれは、この気持ちがとても大切なものだと気付いているから。
どうしても、慎重になってしまうのだ。
………………………
イノランは宣言通り。朝食が終わる頃になると現れ、一日を隆一の側で過ごす。
診察の移動なども難なくこなし、昼食と夕食も持ち込んで一緒に摂り、天気の良い日は隆一を車椅子で中庭に連れ出したり、一緒に音楽を聴いたり。
いつのまにか主治医と仲良くなっていて、隆一を驚かせたり。
そして消灯まで一緒に過ごすと、イノランは決まって、隆一を優しく抱きしめる。
そのあまりに心地良い腕の感触に、隆一はいつもドキドキしてしまって。
でも、そろそろとイノランの背に手を回す。するとより一層、強く抱きしめられる。
名残惜しげに身体を離すと、額と額をコツン…と合わせて。愛おしげに隆一を見つめて、切なそうに揺れる瞳で。
とびきり優しい声で『おやすみ』と言うと、帰っていくのだった。
その後隆一は、いつも胸がいっぱいになってしまって、すぐに寝付く事が出来ない。
気付くと、イノランの事ばかり考えている。
次の日会えるのを、心待ちにしている自分がいる。
日に日に大きくなっていくイノランの存在が、隆一の心を締め付けていった。
………………………
『明日は1コ仕事終えてから行くから、昼過ぎになっちゃうかも…。ごめんね、隆ちゃん』
朝食を食べながら、隆一は昨日の会話を思い出す。
済まなそうに言うから、『仕事は大事なんだから、気にせず行ってね』と、笑って見せた。
ゆったりと朝食を終え、いつもの朝の回診。すっかり打ち解けた主治医と談笑して、今日の午後の診察で経過が良好なら、歩く許可が出るという。
それが隆一には嬉しかった。
一つの自由を得たら、急に歌いたい欲求が溢れてくる。
個室と言えど、大声では歌えないから。隆一は控えめな声で歌を口ずさむ。歌う事が心地よくて、心が浮き立つようだ。
思いつくままに歌っていたら、ドアがノックされた。
「はーい」
返事の後、カラリと開いた先には。
長身のギタリストが立っていた。
「スギちゃん!」
「よお!おっはよー、隆!」
ニカッと歯を見せて笑って、スギゾーは両手に抱える程の荷物を持って入って来た。
「どう?体調は」
「うん、良いよ!今日の午後ねぇ、歩いても良いよって言われるかも」
「良かったじゃん!さっすが隆、回復早いね!」
「へへっ!」
「…歌いたいでしょ」
「うんっ、今もちょっと歌ってた。ちーさくね」
「そっか!あ、そうだ。これお土産」
そう言ってスギゾーが棚に並べたのは。おやつの箱、本、ロボットのフィギュア等々。
「わあっ!ありがとうスギちゃん!
このフィギュアも良いの?スギちゃんのお気に入りじゃないの?」
「ああ、それはね隆モデルだから!同じヤツの色変えて、新しく組み立てた!」
「‼ 世界にひとつだ!」
「そうだよ~」
「大事にする!ありがとう‼」
嬉しそうに笑う隆一を眺めて、スギゾーは満足そうに傍の椅子に腰掛けた。
そして少し寂しそうに声のトーンを落として言った。
「隆。俺さ、これからもう行くから。ーーーーーーしばらく会えなくなっちまうし…。こんくらいしか出来なくて、ごめんね」
「そんな事気にしないでよ。スギちゃんにも、すっごくお世話になっちゃった」
「真矢もJも、しばらく会えないしな。アイツらと会った?」
「うん、出発の前に寄ってくれたよ。Jはねぇ、入院生活で使えって。ツアーグッズのタオルとTシャツを大量に!でっかいロゴが付いてるヤツ。
真ちゃんはね、御守り持って来てくれたよ。彩さんとお参り行ってくれたんだって」
嬉しそうに話す隆一を見て、スギゾーの表情もやわらかいものに変わる。
「良かった、隆元気そうで。安心した。まずは早く治して、それからだな」
「うん!」
「俺ら居なくなるけど、イノがいるもんな?」
「ーーーーー…」
「……隆?」
突然。さっきまでの元気が嘘のように、口を閉ざす隆一に、スギゾーは訝しげに言った。
「どうか…した?イノと、なんかあった?」
すると首をぶんぶんと振って、スギゾーの方に向き直る。
…その向けられた表情に、スギゾーは息をのんだ。
スギゾーに言わせれば、それは完璧な、恋する者の瞳だったようで。
それを見た瞬間、すぐに察知したのだった。
「隆」
「ん…なに?」
「そんなさ、泣きそうな顔すんな」
「………」
「ーーー…好きになっちゃった?」
「え?」
「……イノのこと」
音が聞こえるんじゃないかという勢いで、隆一の顔が真っ赤に染まる。
そんな様子に、スギゾーは苦笑と溜息をつきながら、しょうがねーなあ…。と呟いた。
「スギちゃん…」
「ん?」
「…あのさ」
「うん…」
「………俺とイノランって…」
「………」
「…どうだったのかな…」
「……」
「スギちゃん…知ってる?」
縋るような、真っ直ぐな目で見てくるから。スギゾーも真剣に受け止める。
「知ってる」
「 ‼ 」
「教えてもいいけど、隆はそれで良いの?」
「……」
「教えられるより自分で気付く方が、感動も大きいんじゃない?」
「ーーーーー……」
「…隆だって、何となくもう……わかってるんでしょ?」
そうスギゾーに言われて。
隆一は、自分を確かめるように、ポツリポツリと想いを口にする。
「イノランの事ばっかり、考えてる」
「うん」
「胸が苦しくなって、眠れなくなって」
「うん」
「早く会いたくて。でも…会いたくなくて」
「うん」
「それなのに、顔を見たら、すごく嬉しくて、ドキドキして、触れ…たくて」
「…うん」
「………どうしたら……いいか…」
次第に小さくなって、消えそうな声は、微かに震えていて。顔は見えないけれど、隆一がどんな顔をしているか、スギゾーには容易に想像できる。
行き場に迷う、どこかいつもより小さく見える。この歳下のヴォーカリストが、どうしようもなく可愛らしく思えて。
スギゾーは諭すように言った。
「全部、わかってんじゃん」
「……ぇ…」
「その感情にさ、付ける名前なんて一つしか無いでしょ?ーーーー今、俺に話してくれた、そのまんま。イノに伝えればいいと思うよ?」
「ーーーっ‼」
「大丈夫だって!」
「スギちゃん…っ…」
「隆。頑張れ!」
しばらくの逡巡の末、隆一はコクリと頷いた。
それを微笑みで返したスギゾーは、チラリと時計に目をやった。
飛行機の時間が、迫っていた。
「隆、俺もう行かないといけないから」
「あ…そっか」
一瞬寂しそうな顔をした隆一は、それでも笑顔を見せる。
「スギちゃん、身体に気をつけてね。無茶ばっかしちゃ駄目だよ?」
「うん。隆も早く良くなってな。隆のさ、歌。いつだって聴いてるからな」
「うんっ!」
笑った隆一の、その花のような笑顔に。スギゾーは不覚にも泣きそうになって。思いっきり隆一を、抱きしめた。
「スギちゃん…?」
「ーーーーーっ…」
ずっとずっと。出逢った時から、可愛くて仕方のなかった隆一。どんな時だって、隣で歌を歌ってくれたヴォーカリスト。
もう当分、会うことは無いのだと。そう痛感して、たまらなくなった。
隆一の人騒がせな。でも可愛らしい程真っ直ぐな恋心を、見守れないのは残念だけれど。
「スギちゃん?」
「隆…」
「…スギ?」
「元気でね」
「ーーー」
「イノに、よろしく伝えて」
スギゾーは勢い良く身体を離すと。来た時と同じ様に、ニカッと笑って。
未練を断つように踵を返して、ドアの方へと行くのを見て。
その背中に言葉を投げ掛けた。
「スギちゃんっ!」
「ーーー…」
「ありがとう‼」
振り返ったスギゾーが見たのは、輝くような隆一の笑顔。いつだって惜しげもなく向けてくれた、大好きな笑顔。
スギゾーは目に焼き付けるように見つめて。軽く手を挙げると、病室を出て行った。
予想よりだいぶ仕事に時間がかかってしまった。イノランは病院までの道を急いでいた。
その手には鉢植えが抱えられている。
途中にある花屋の店先に飾られていた、クリスマス・ローズ。
薄いピンクとグリーンが、遠目からも目を引いて。気付くと店の前に立っていた。
見舞いの品に鉢植えはどうかと思ったが、退院してからも楽しめるなら…と思い。隆一へのプレゼントにした。
恋人さんへですか?と店員に聞かれて、すんなり頷いた自分に、後から少し照れて。それなら…と付けてくれた、ピンク色のリボン。
光の加減で、虹色の粒子が彩るクリスマス・ローズ。派手ではないけれど、控えめな美しさが、隆一に似合うと思った。
「今日も風冷たいな」
足早に歩きながら、舞い上がる落ち葉をチラリと見上げる。すると、ポケットから微かな電子音がして、イノランは歩みを止めると携帯を取り出す。
そこには。もう一人のギタリストからのメールが届いていた。
メッセージを開いて、読み進めるイノランの瞳が、次第に見開かれていく。
『隆はもう、ちゃんとわかってるよ。後はお互いが、一歩づつ踏み込むだけ。
最後、会えなくて悪いな。
ライブ、知らせろよ?
ライブ来いよ!?
じゃ。隆をよろしく‼ 』
イノランは勢いよく、一歩を踏み出す。口元は微笑みの形になって。
風に乗って、空高く飛べそうな気持ちで。
目指す病院は、もう目の前だ。
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