長いお話 (ひとつめの連載)







「……ん、…」




隆一は目を覚ました。


ずっと長いこと眠っていたせいか、気怠さが残る。
重い瞼を押し上げると、薄暗い室内にいることが分かる。
一瞬ここが何処なのかすぐに分からなかったが。ゆっくり思いを巡らせて、病室に居るのだと思い出した。


視線を巡らせて窓の外を見ると。
薄っすらと明るくなり始めた、冬空が広がっていた。



( 朝…早朝?…)



首を動かそうとして、痛みがはしる。
というか、どこを動かそうとしても、全身が痛む。

隆一は、はぁ…。とため息を溢して、今度は手を動かそうと力を入れる。



「ーーっ?」



自分の手に重なった、もうひとつの手に気付いて。咄嗟に息を詰めてしまう。
そして、重なる手の主を見て、隆一は目を見開いた。



「ーーーーーあ…」



昨日の事がフラッシュバックのように蘇る。

やっと目を覚ました時。
この人の顔を見て、何だか胸が苦しくなって。
涙が溢れて、止まらなかった。
知っている筈なのに、何一つ思い出せなくて。

ーーーでも、心の中には確かに、この人の事が大切で…
そんな感情が存在していて。


検査中に医師から教えてもらった。

この人の名前がイノランで、同じバンドのもう一人のギタリストだという事。

この人を守る為に、自分がガラスの中に突っ込んで行った事。

そして、この人の記憶だけ、失くしてしまっているという事。



昨日は隆一も、術後も目覚めという事もあってか。混乱してしまっていたのか。結局その後、検査と診察でたてこんで。
イノランとは、何も話す事が出来なかった。


涙を流す隆一を見つめるイノランの表情が、だんだんと色を無くしていくのを覚えている。



(きっと俺が、この人を傷付けてしまったんだ。)



昨日より幾分落ち着いて、隆一はイノランの顔をそっと覗き込む。
薄茶の前髪に少し隠れているけれど、その閉じた瞼を、頬を、唇を見て。隆一の胸が、どきんっ…と高鳴った。




( ……え…? )




隆一は自分の顔が熱くなっていくのを自覚して、平静さを乱していく。




( なんで ?)




頭の中が、よくわからない感情でいっぱいになっていく。
昨日も検査の間、ずっと思っていたのだ。
どうしてこの人の事を考えると、こんなにも胸がぎゅっと締め付けられる程、痛むのか。
涙を流す程、切なく軋むこれは、何なのか。

心臓が壊れそうな程、どきどきと音をたてているのが分かる。

とりあえず重なっている手を解こうと、そっと手を引き抜こうとしたら。無意識なのか、さらに力を込めて、手を握られてしまって、動くに動けなくなってしまう。



( ど…っどうしよう…)



隆一がひとりオロオロしていると、イノランが小さく身動ぎをした。



「……ン…」


( え。…ちょっ、起…きる…の?)



顔が熱いまま、ちっとも冷めない。
きっと耳まで真っ赤になっているに違いない。
開き直って、このまま目を開けていようか。それとも無理矢理、寝たふりをしようか。なんて考えているうちに。
目の前にあるイノランの瞳が、パチリと開いた。










平静な態度も、寝たふりも間に合わなくて。結局、寝起きのイノランと、たっぷり数秒間見つめ合うことになる。
訳の分からない恥ずかしさで、目が潤むのを自覚しながらも、その視線を逸らす事が出来なくて。
数秒間が、とても長い時間に感じられた時だった。


イノランの瞳と唇が、とても柔らかい笑みの形に変わって。沁み入るような優しい声が届いた。




「おはよ、隆ちゃん」

「ーーーーー……っ」



その声が耳に届いた途端。微笑みが網膜に映った瞬間。
昨日からずっと分からなかった事。
止められない涙と、この心にある感情の正体を。
隆一は本当に唐突に、理解した。




( ーーー俺、きっと。…この人の事………好きなんだ…)



そしてここで、なぜ危険を承知でイノランを助けたのかも理解する。




( 好きで、大切だったんだ。…だから俺は…)



記憶を失くす前の自分自身に、思いを巡らせる。
大切な人が目の前で危険に晒されて、手を伸ばせば届くところに居るならば。
躊躇いなく、手を伸ばすだろうと。自分自身に同意する。




( 本当に、好きなんだね )



自分自身の事なのに、記憶を失くす以前の自分が、とてもひたむきに思えた。



( じゃあ、この人は?…俺の事、どう思ってるんだろう。…俺はこの人と、どんな風だったんだろう )


( …でも。どんなだったとしても、俺はこの人に酷いことをしているんだ )




考え込んで、黙ってしまった隆一に、イノランはもう一度声をかける。




「りゅーう?」

「あっ、ごめ…!ぁ。…おはようっ…ござい…ます……。」

「隆ちゃん?何で敬語?普通でいいよ」



苦笑いで返すイノランに、隆一は慌てて身体を起こそうとしたら。



「っっ痛っ…」



急に動いたせいで、身体がバラバラになりそうな激痛がはしる。保てずに崩れる落ちる上体を、咄嗟にイノランが支えてくれた。




「ほら…急に動いちゃだめだよ」

「あ…ありがとう…」



上半身をイノランに預けるかたちになって、まるで抱き合うような格好で。
隆一は、またどきどきと胸が高鳴るのを感じて、身を固くする。

この鼓動がバレてしまうのが恥ずかしくて、身体を離そうとした時だった。
イノランの支える腕に力がこもって、耳元で囁かれる。



「隆ちゃん…もうちょっとだけ、このままでいても良い?」

「え?……あのっ…」

「おねがい、少しだけ…」

「う…うん、いいよ」

「ん。ありがと」



隆一の了解の言葉を聞くと、さらに腕に力が込められて、ぎゅうっ…と抱きしめられる。

隆っ…

愛おしさの塊みたいな、掻き消えそうな声で名前を呼ばれて、心が震える。

イノランの左手が隆一の髪をサラサラと撫でると。あまりの心地良さに、その胸に頬を擦り寄せて、目を閉じる。


不思議とその抱擁は、すぐに馴染んでしまうくらい、懐かしさに満ちていた。











この体温も、匂いも、感触も。
全部、知っていると思った。






愛おしげに回された腕も、髪に触れる手も、隆一に向けられる声も表情も。
切ない程に、優しくて。

隆一の心が、ギリギリと締め付けられる。
彼を覚えていない、罪悪感。

どんな理由であれ、自分を忘れられて喜ぶ人は、いないのではないか。

記憶を戻せるなら、なんだってしたい。こんなに優しく接してくれる彼の事、なんで忘れてしまったのだろう。
こんな酷い仕打ちをしてしまった。
どんな理由があるのだろう?
事故の瞬間、なにを思っていた…?



ぐっと唇を噛み締めて、潤む目を何とか堪える。
隆一は、何か言わなければと、おずおずと口を開いた。




「あ…の…。えっと…」

「ん?」

「…あの…俺…」

「ーーうん」

「……ごめんなさいっ」

「ーーーーー…」

「俺っ…あなたの事だけ…忘れるなんて…」

「………」

「本当に…ごめんなさい」

「隆」



そっと身体を離して、イノランは隆一を真っ直ぐに見つめる。
その目には堪え切れなくなった涙が滲んでいて、頬を赤く色付かせる。
それでも負けじと、言葉を続けた。



「あなたの事、傷付けてるって、わかってる……でも…」



一瞬伏せてしまった隆一の目を。イノランはただ揺るぎなく見つめ続ける。…逸らしてはいけないと思った。何かを言おうとしている隆一から。
そしてその心中は、熱を持ち始めていた。


本当は今すぐに、目の前の恋人を抱きしめて。唇を重ねて、愛の言葉を伝えたい。

…でも。それは今、できないことは分かっている。記憶を失くした隆一を、戸惑わせるだけだと。今は、その時ではないと。
必死に己を抑えて。
今はただ、この現状に足掻く隆一を、支えたい。
自責の念に駆られる隆一に、そんな悩みは無用だと、言ってあげたい。



伏せた瞳をもう一度、眼差しをイノランに向ける。
噛み締めていた唇を解いて、意を決して放った。その声は震えてしまったけれど。

伝わってほしかった。
イノランの事、覚えている事があると。
だって、この心が知っていた。



「でも…これだけは、信じてほしい!あなたの事、大切だったっていうのは、覚えてる。あなたを想うと、どきどきして、切なくなって、泣けてくるっ…苦しいよ」



イノランの腕が、再び隆一を抱きしめる。宝物を壊さないように、大切に。
その身体を胸に抱く。







「いいよ」

「え…?」

「いいよ。謝る必要なんて、何も無いよ。寧ろ俺が、お礼を言いたいんだから」

「な…んで?」

「俺を守ってくれた。隆ちゃんのお陰で、俺の両手無傷だった。これからもギターを弾いていける。
ーーーーーあと、もういっこ。
隆ちゃんが生きて、ここに居てくれる事。ーーー本当に、ありがとう」

「そ…んな事、それくらいの事…」

「隆ちゃんが生きててくれたから、俺は今、ここに居る意味があるんだよ?
ーーー隆ちゃんが言ってくれた事、信じる。信じて、側に居たい。今はそれだけで、充分だから」

「ーーーーー……っ」




隆一の瞳から、堪えきれずに涙が落ちる。
イノランは微笑みながら、その雫を指で拭った。



「慌てる必要なんてさ、全然ないよ。ちょっとづつ、また育てていこ?」


ね?と笑顔で言われて、隆一もようやく顔を綻ばせる。


「うんっ」


コクリと頷く隆一を見て、イノランは一つお願いをした。



「隆ちゃん。俺を、名前で呼んでくれる?」

「あ…」



そういえば、まだ名前を呼んでいなかった事を、言われて思い出して。
何となく照れくさくて。…でも。小さく、呼んでみた。





「イノラン」




ぎこちないけれど、恥ずかしそうに隆一の声で呼ばれる、自分の名前。




『イノちゃん』



以前の隆一とは、呼び方が違うけれど。
それでもいい。充分だ。


いつか前と同じように名前を呼んでくれた時。
その時は全てを取り戻した時なのだ。




「ありがとう、隆ちゃん」




今、君との間に、不安な事なんて何も無い。君となら、なんだって乗り越えられるって、信じられたから。
だって、俺の目の前にいる今の君は。
前と変わらない。
俺を虜にする、綺麗な笑顔の君だから。







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