長いお話 (ひとつめの連載)












「イヤな風だな…」





居酒屋を出て、Jがポツリと呟いた。


風は依然止むことなく、空を掻き乱す。街路樹が大きく揺れて、その音も影も、黒い空と同化して。まるで大きな魔物がいるようだ。
道行く人々も襟を掻き合せ、足早に進む。






……………

5人は、先程の店から数分のバーに行くことにして、風に逆らって歩を進めていた。


隆一は、空を見上げる。
星も月も隠れて、舞い上がる枯れ葉が夜空に吸い込まれて行く。
その真っ黒な空が、何となく恐ろしく思えて。
ビルや店舗の看板が、ガタガタと揺れる。ーーーその様子が隆一を落ち着かなくさせる。
視線の先に目的のバーの看板が見えると、ホッ…と息をつく。

すると、そんな隆一の様子を見て、一歩後ろを歩いていたイノランが声を掛けた。




「隆ちゃん、どうかした?」


急に話し掛けられて、驚いて上げた顔の先には。優しい笑みを浮かべたイノランの姿。
薄茶色の髪が風で煽られる度、嗅ぎ慣れた香水と、彼の香りが鼻先を掠めて。隆一の胸の中を、淡いときめきが通り抜けて行く。


でも。
イノランの背後に広がる、黒い空が目に入った途端。
心の中で、何かが騒ついて。皮膚が粟立つような、何か変な感覚に襲われた。
隆一は顔を強張らせつつも、首を傾げる。
こんな事は、今まであまり感じた事が無かったと思う。



これまで色んな天災に見舞われたバンドだったけれど、どこかで《受けてたってやる。》という気持ちがあった。天災バンドと呼ばれた、試練のように思っていたのかもしれない。


しかし今のこの感覚は。
不覚にも、足が竦みそうになる。
知らないうちに、泣きそうな顔をしていたのかも知れない。



「隆ちゃん?ホントに、どうかした?」


心配そうに、顔を覗き込んでくるイノランに。大丈夫だよ。…って笑い返したいのに。ーーーうまくいかない…。
本当にいきなりどうしたんだろう?
自分でも、訳が解らない。…けど。
イノランと離れたくないという気持ちが、膨れ上がってくる。

彼はちゃんと、側にいるのに。
いつの間にか震え出した身体を、必死で抑えようとしていると。




「隆…。」

「っ…」


一瞬、唇が触れ合って。
惜しむ間も無く、離れた。
隆一は、震えも心の騒つきも忘れて、ポカン…とイノランを見返した。


「大丈夫?」

「ーーーーーーうん…。」


呆けて小さく頷いた後、隆一はハッと我に返る。
今されたのは、なんだったか。しかもここは公道で、人の往来もあるのに。
隆一の頬がぼぉ…と熱くなる。




「イっ、イノちゃん…今っ」

「ん~?いやあ、隆ちゃん。どっかいっちゃってたから」


戻って来たでしょ?とニッコリ微笑まれる。


「うゔ…」

「大丈夫だって!皆歩くのに必死で、周りなんて見てないって」


しかしチラリと前方を見ると、なかなか来ない2人を気にして、ニヤニヤと見ている3人の姿。


「あーー…ハハ…まあいいんじゃない?アイツらなら」

「……はあ…。」


小さくため息をついて、でもイノランの顔を見ていたら、まあいいかと気が抜けた。
その時、イノランのジャケットのポケットから電子音が鳴り響いた。
携帯を取り出すと仕事の電話だったようで、口早に隆一に言った。



「ごめん!仕事の電話。隆ちゃん先行ってて?」


数メートル先のバーの入り口に視線を向けて指差した。3人が手招きしている。
いつもならすぐに了解して、そうする筈なのに。
先程の変な感覚が、再び隆一を襲う。
首筋がキン…と張り詰める。

本当は、今は離れたくなかったけれど。
これ以上、イノランを心配させたくなかったから。




「わかった、イノちゃんもすぐおいでね?」

「うん!」


歩みを進めて、すぐ振り返る。

街路樹のすぐ横に立つ街灯の下に、イノランは佇んで。すでに会話を始めているようだった。

イノランの側の木々が、大きく揺れる。…ザワリ…。



「りゅうーーっ!先に入ってようぜ」


スギゾーが隆一を呼んでいる。
相変わらず3人が手招きしているから、隆一は再び足を踏み出した。






…時だった。












聴いたこと事が無いような音が、隆一の耳に突き刺さった。

大きな、まるで帆船の帆がはためくような。

でも硬質な音。
そして次の瞬間。砕け散る、ガラスの音。

突風があり得ない力で、3階建てのショールームの大きなガラス窓を剥ぎ取って。
風で煽られ、そのままビルの壁に、叩きつけられた、音だった。

まるで洋画のワンシーンのようで、隆一は呆然とその光景を眺める。



でも、目に入った。
それを認識した途端、壊れた建物なんてどうでも良くなった。


ガラスが大量に降り注ぐであろう場所。そこに、イノランがいる。

ちょうど風上で、風の音も大きくて。加えて通話中という事もあって、聞こえていないのか。
気付いていないのか。
イノランは、そこから動かない。


このまま、あそこにいたら。
まともにガラスの破片を浴びて。
どうなるか…なんて。そんなの、血の気の引くような事しか、頭に浮かばない。
仮に、生命は助かったとしても。
彼は、ギタリスト。
もしも、その両手両腕に、傷なんて負ったら。




隆一の頭の中が、真っ白になって。
考えるより先に、身体が動いていた。



遠くで、メンバー達の絶叫が聴こえる。でも。そんなの、構っていられない。







イノランは、ここでようやく、只ならぬ気配を察知して。
そこで、自分の置かれた状況に、驚愕する。

こういう時って、身体が動かなくなるの、ホントなんだ。と、よく回らない頭で思う。

脳と身体がバラバラなんじゃないかって位、言うことをきかない。

数秒後の、自分の未来を予想して。
意識を手放しそうな絶望感を抱いた。その時だった。






「イノちゃんっっっ!!!!!」






耳に響いたのは、聴き慣れた、愛しい恋人の声。ーーー…隆一の、声。
でもいつもの、甘い声じゃない。
初めて聴く、極限まで張り詰めた。
血を吐くような。イノランを呼ぶ、絶叫。


今にも泣きそうな顔で。
いっぱいに伸ばした隆一の手が、イノランの身体を引き寄せて、包み込むように、抱きしめる。
そのまま自らの身体を、盾にして、覆い被さって。
地面に、身を伏せた。


容赦なく、破片が降り注いで。
恐いとか、痛いとか。そんな事も考えられないくらい、何も出来ない。

ただ、その時が過ぎるのを、待つだけで。薄れゆく意識の中、隆一は、願い続けた。















失いたくない。

大事なんだ。

イノちゃんを、守りたい。


















………………



目を覚ますと、見慣れない天井が、ぼやけた視界に飛び込んできた。




(…………。)




辺りを見回そうと首に力を入れるも、身体が痺れて、上手くいかない。
仕方なく目だけを動かすと、ここが病室なんだと、何となくわかる。




身体が重い。
何があったのか、すぐに思い出せなくて。はぁ…。とため息が溢れた。








「イノっ!目、覚めたか!」




傍らから知っている声がして、もう一度ゆっくり首を動かしてみる。

動かせた事にホッとしつつ、声の主の名を呼んだ。




「……J…」












イノランが声を発した事に、珍しい程に、安堵の表情を浮かべるJ。




「大丈夫か?身体どうだ?」

「……なんか、だるい。特に脚、うまく動かせねーし…」

「お前、手術受けたんだ。脚。けど、軽傷だってよ。安心しろ」


麻酔まだ効いてるから動かせねえんだ。と、Jが早口で言う。
そんな様子を、イノランはぼんやり見つめながら尋ねた。



「俺…どうしたんだっけ」



その問いを聞いた途端、Jの表情が強張って。僅かな困惑の色が浮かんだのを、イノランは見逃さなかった。



「……J?」

「ーー…」

「………なに?」

「……………大風で、ショールームの窓ガラスが…割れてよ…。ちょうど、お前が立ってた所に…降ってきた」

「ーーー……あぁ…。」



そういえば、そうだった。と、小さく呟く。
恐らく大ごとだった筈なのに、いまいち実感が湧いてこない。それとも、極限状態に身を置かれると、こういうものなのだろうか。
恐怖とか。絶望とか。そんなものに再び晒されないよう。
自己防衛本能なんかが働いて、深く考える事を、自ら拒絶しているのだろうか。

麻酔でぼやけた頭で、出来事を振り返ろうと試みても。やはり、ぼやけた記憶しか出てこなくて、イノランはもう一度尋ねた。



「それで、どうなったんだっけ」



続きを促すイノランの問いに、Jは暫く黙って。
でも、数十秒の沈黙の後、意を決したように、Jは告げた。



「破片がお前に降りかかる前に、アイツが、飛び出してった。お前を抱え込んで……盾になったみてーに…」

「え…」

「…アイツは、お前の…両腕を…」

「ねえ。」



Jの言葉を、イノランの声がかき消した。
その声は、明らかに震えているのがわかって。Jは息をのむ。




「〝アイツ〟って……さ」

「ーーーーーーーー………隆だよ。」



誤魔化す事など出来ないと、Jはわかっていた。
勘の良い、この幼馴染に、どう伝えたらいいか。3人で話していた時、Jは自分が言うと手をあげた。
幼い頃からの腐れ縁の、自分の役割のような気がして。
Jは隠さず、ありのまま、伝えた。




「隆はまだ、手術中だ。お前を庇って、特に背中側に破片を浴びた。頭から足先まで、刺し傷の数が多くて、全部取り除くのに時間がかかるそうだ。深く刺さった所は、筋肉や腱も傷付いてる可能性があるから、リハビリも必要かもしれねえって。」



イノランの瞳が、これ以上ない程、険しく見開かれる。
Jの言っている言葉が、ぼやけた思考でも理解したようで、頭の中が一気に冴え渡る。自己防衛本能も、自ら抑え込むくらい。全身の細胞や血管の先々まで、ドクドクと鼓動が響き渡る。
後頭部を殴られたみたいな衝撃と、首から背中まで冷たい針金を刺し込まれたような緊張がはしる。
目がチカチカして、どうやら呼吸をし忘れていたようで。
Jが慌てて、イノランの肩を揺すった。



「イノっ!息っ、止めんな ‼」


Jの声にハッとして、むせるように息をして。一瞬俯いて、ゆっくり顔を上げた。
イノランの目には、涙が揺らめいて。
苦しそうに、眉をキツく寄せて。
血が滲む程、唇を噛み締める。

そんな姿、長年ずっと一緒にいるJですら、見た事無くて。
見ていて、苦しくなる。


何でイノが。
何で隆が。
何でこの2人が。
何で、こんな目に。

幸せそうに笑う2人の姿と重なって、やり場の無い憤りに。
ただ拳を握るしか、出来なかった。

Jは自分も目が潤むのを自覚して、必死に堪えると、振り絞る声で言った。



「お前の両手両腕、無事だからっ!隆はきっと、それ望んでたんだ ‼」



血まみれで倒れる隆一は。まるでイノランの手を守るように、自分の胸にその身体を抱えていた。

イノランの手と腕は、無傷だった。



イノランの脳裏に、夕べの隆一の言葉が、よみがえる。




ーーーイノちゃんの手。この指で綺麗なギターの音が出るんだね。

ーーーすごく好き。すごーく大事。俺イノちゃんの手、守るからね。

ーーーこうやって、手を繋いでいれば、守れるでしょ?

ーーー俺は、イノちゃんのだよ?








「っっ隆…っ…」



傷ひとつ無い両腕を、自ら抱きしめる。本来、この腕に。この身体に突き刺さる筈だったものが、最も愛する人の身体を傷付けたのだと。
その事が、イノランを苦しめる。


突然突きつけられた、その事実に。完全に思考が追いつかない。
ただただ今は、絶望と後悔と、沈み込む悲愴と。狂おしい程の切なさと、一刻も早く逢いたいという想いに、押し潰されそうだった。







「隆は…」

「え?」

「隆ちゃんの喉は?平気…なんだよね?」



涙で濡れる瞳で、射据えるような声で、問いかける。


ギタリストの命である、両手両腕を、守ってくれた。
では、ヴォーカリストの命である、喉元は、どうなのか。





「まだ、わかんねえ…」

「 ーーーーーーーー…… 」

「ここに運ばれた時、どこに傷があんのかも解んねぇ位……血まみれで…。アイツの首元にどんなダメージがあるか、手術しないと、わかんねえってさ…」



Jの言葉に、闇に堕ちるような、目眩を感じて。イノランは目を瞑る。

はぁ…と、ため息をついたイノランは、それきり何も言わず。
閉じた瞳から、一筋二筋と流れていく涙を。
Jは、悲痛な面持ちで見つめた。







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