第159代アリス

 墓から目覚めた女性は、欠伸と大きな伸びをしてからチェシャ猫に向き直った。

「私を目覚めさせたのは……イモ=ムシじゃな。ちょいと見ぬ間に、随分変わったのう」

 この人が、初代アリス。

 彼女は大きな青い目に小さな唇、金の巻き毛を持った人だった。

 少女と呼ぶには幼くないが、女性と呼ぶまでの雰囲気は無い。何とも不思議な人だ。

 チェシャ猫はその場に跪いて彼女の手をとると、可愛らしいその手に軽く口付けした。

「ああ、アリス……。俺のアリス……! 目覚めた心地はどうだい?」

「ふむ、なかなか良い。つい先刻まで悪夢ばかりじゃった」

 チェシャ猫はその言葉を愛おしんで聞くと、立ち上がって彼女の額にキスした。

 きゃっ、破廉恥!

 見ちゃいけない光景の様な気がして、俺は両目をふさいだ。

 俺の隣りに立っているアリスが、腕を組んで訊いてきた。

「おい、何してんだお前」

 アリスは何をそんなに、冷静に二人を見つめちゃってんだよ!

「こ、こらっ! アリス! そんなにジロジロ見るんじゃない! こ、恋人達のひと時は見せ物じゃないぞ!」

 途端に赤くなる純情な俺。

 アリスはそんな俺に衝撃的な一言を言い放った。

「恋人? 伝えられてる話では、初代アリスは男だ」

 …………へ?

 お……男?

 おいおい、冗談よせよ。

 俺の脳はアリスの告白を笑い飛ばした。

 が、次の瞬間女王に言われた事が頭をよぎる。

『貴方の常識で物事を言うのではありません』

 そして、こんなに訳が分からない世界でも一つだけ、いつでも確かなのは、この世界の人は嘘をつかないという事だ。

 あのチェシャ猫だって、俺とアリスに鍵を取りに行かせるのに、嘘なんて吐いていない。

 という事は、そういう事だ。

 ……え、嘘。

 ……あんなに可愛いのに?

 あんなにキスしちゃってるのにぃ~!?

 目まいがする。

 チェシャ猫は、初代アリスの顔中にキスしまくっている。

 その場にへたりこむと、アリスのちょっと安心する一言が。

「動物ってああやって戯れるモンだろ」

 あ、なるほどね。

 決して怪しい関係なんかではなくて、動物が戯れてるだけだと。

 しかし気になるのは、あいつは猫なのに完全に犬の戯れ方だということだ。

 キスされ放題のあっちのアリスが、口を開いた。

「止めぬか、イモ=ムシよ。私にはその気など毛程も無い」

 動物性…………なのか……?

「それにしても、お主は随分変わったな」

 キスの嵐から開放されたアリスに、チェシャ猫がうっとりと言った。

「俺は猫になったんだ。君の為に……君を深い夢の中に誘える様に……」

 初代アリスは、すぐ側にあるチェシャ猫の顔を押し退けた。

「それは結構な事じゃ」

 初代アリスがこちらへ――159代目のアリスに向き直る。

「お主が今の『アリス』か。どうやら……」

 初代アリスがチラリと俺を見た。目が合う。

「王国のシロウサギなぞを連れおって。……随分『アリス』の名を汚してくれている様じゃな」

「え……お、俺?」

「左様。何故お主の様なあの愚かな女のモノが、私の後継者の隣りに居るのかは知らぬが……」

 ヒュッ、と風を切る音で、初代アリスは墓の前から俺の前に瞬間移動した。

 何だ、これ。


 恐い―—。


「お主は……消しても良さそうじゃな……!」

彼は腰から何かを抜き取る動作で、俺に斬りかかる。

やられる……! 俺は目の前の恐怖に脚が竦んで動けなかった。

 その刹那。

――ゴゥン……っ!


 爆発音がして、火球が俺の前の彼を襲った。

 彼はそれを横目で認識すると、俺を斬りつける予定だった刃物でそれを受け流した。

 火球が彼の後ろへ逸れる。

 炎の煙を斬り分けて目の前に現われたのは、チェーンソー。

 日本刀程に長いそれは、彼の細い腕で軽々振り回せるのが不思議な程の重量が視認できる。

「…………ほう……?」

 彼は火球を放った本人――159代目のアリスを見る。

 その目が語っていた。面白い。

「アリス……!」

 心から心配を声に出して、チェシャ猫が初代アリスに駆け寄った。

 彼の細い肩を支えようと手を伸ばしたが、その彼に後ろ手で制される。

 初代アリスが159代目のアリスに向き直る。

――ギュイィィン…!

 細い腕で支えられたチェーンソーが、主人の胸の高揚を体現する様に唸り声を上げる。

 それに応えて、159代アリスが言い放つ。

「アリスの相手はアリスってーのが、筋ではないかい?」

 今までに幾度となく見た、あの野性的な笑い方で。

「つけようじゃないか。落とし前」

 あ。俺、安心してる。

 頼もしいアリスに、目眩がした。

 目眩がしすぎて、涙が溢れた。

 何でアリスは、あんなに頼れて……こんなに、俺を守ってくれるんだ。

 答えは俺の中で出ていた。

 俺がシロウサギだからだ。


 何度も守ってくれたのに……何度も助けて貰ったのに。


 俺はアリスに、ろくなお礼一つしていない。

 
 俺は何でシロウサギなんだ。

 

 何で、シロウサギは俺なんだよ。

 

 俺がアリスの強さに打ちのめされていると、俺の背後から手が伸びてきた。

 両手に鋭く伸ばされた十本の爪は、俺の首をかっ切ろうとしているかの様だった。

「君もつけようか、落とし前」

 気付くと、残虐に鋭く光るチェシャ猫の爪が俺の首を挟む様に回されていた。

「ひっ……!?」

 ぷつ、と皮膚が裂けて、チェシャ猫の爪を追いかけて細く赤い線が俺の首に走った。

――下手に動いたら……俺、確実に死ぬな…。

 頭の何処かの冷静な部分が、そんな答えを弾き出す。

 動かない様にしようと思う一方でしかし、別の何かが「違うだろ!」と叫んだ。

――ここでまたアリスの足手纏いになるつもりか!? しっかりしろ、俺!

 違うだろ。

――アリスはアリスと落とし前をつけるって言ってるなら……。

 チェシャ猫は俺の首から手を放そうとはせず、背後で笑った。

 生温い吐息が首筋にかかる。

 気持ち悪い。

「アハハ、君はどうしようか? アリスが消していいって言ってたからね。どうしよう」

 生温い吐息と、鋭い殺気。

 しっかりしろ、俺。奮い立て。

 二人のアリスを見て、俺は決意を固めた。

 首に纏わりつく、チェシャ猫の両手首をガシッと掴んだ俺は、後ろのそいつを睨み上げた。

 アリスの相手がアリスなら、俺の相手は……。

「どうするつもりだよ、お前は」

 こいつだ。

 
「……へぇ」

 チェシャ猫は俺を見下して、残虐に笑った。

 どうすんだよ……。

 俺、こんな事してどうすんだよ!!

 ついさっき固めたばかりの決意とは裏腹に、俺の両足はガクガクだった。

 しかし、ここまで言ったらやるしかない。

 昔から駆けっこと陸上一直線だった俺には、人と喧嘩なんてする暇はなかった。

 口喧嘩ならまだしも、殴り合いなんて言語道断だ。

 だけど、今。

 俺は今、久しく喧嘩をしようとしている。

 しかも殴り合いなんて生易しいものじゃなくて、もしかすると命懸けだ。

 でも。

 命が惜しくない訳じゃない。

 それでも。

 この猫が、何の為にアリスを蘇らせたのかなんて、今さら詳しく知りたくもない。

 でも、コイツがコイツとアリスの為に戦うのなら、

 俺が闘う理由は、俺とアリスの為だ。
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