不死鳥の騎士団と、英語ができない魔法使い

 季節は夏になろうとしていた。からりと晴れた青空が突然陰りはじめ、先ほどの陽気からは打って変わった冷気が忍び寄って来ている。

 最初は雨でも来るのかと思ったが、どうやら違う気配だ。もっと禍々しい気配がする。空を見上げて、最初の一人が叫んだ。
「吸魂鬼だ!」

 山の方から、黒いフードを被った一団が空を飛んでくる。ぽっかりと開いた口で、人々の英気を貪ろうとしていた。彼らが来るのと逆の方向に人々は逃げ出し、誰かが「イタコはまだか!? 霊媒師を呼べ!」と叫んだ。

 魔法使い達が逃げる中を吸魂鬼は悠々と滑る様に動き、その口で次々と幸福感を奪っていた。
「ああ、もうこの世の終わりだ!」「貝になりたい……美味しく刺身でいただかれたい…」
 逃げていた魔法企業戦士が、幸福感を奪われて次々と叫び出した。彼らは日本の企業体質に年がら年中幸福感を貪られているので、魂を抜き取られるのは時間の問題だ。

「行くのだ、海!」

「任せて、父様!」

 父に任ぜられて、海は杖を抜きつつ吸魂鬼の前に出た。
「今年の私をなめるんじゃないわよ! エクスペクト・パトローナム!」

 海の杖先から、銀色の狼が雄々しく走り出て、吸魂鬼達を軽々と追い払う。人々は逃げおおせ、青空が戻り、頽れていた企業戦士は、遮二無二立ち上がってフラフラと歩き出した。彼らは次の取引先との商談を控えているので、決死の覚悟で時間通りに目的地に行かなくてはならないのだ。吸魂鬼に襲われても自分の仕事を全うしようとするとは、ある意味最強の生命体なのかもしれない。

「あの数の吸魂鬼を軽々追い払うとは……」

 父も娘の活躍ぶりに舌を巻いている。『イタコ』や『霊媒師』ではない魔法使い達は、守護霊をその身に降ろす代わりに自分の寿命を削る『降霊術』を使わない限り、吸魂鬼を追い払う事は出来ない。海が英国の名門・ホグワーツ魔法魔術学校で学んだ、『守護霊の呪文』の様な、自分達の身を守る術を持ってはいなかった。

「これは、どういう原理の術なのだ?」
 一般魔法使いが『降霊術』を使わずに吸魂鬼を追い払う事がにわかに信じられず、父は娘に説明を求めた。

「あちらの『守護霊呪文』は、術者自身の幸福なエネルギーを具現化させる術なの。高い集中力と強い思いが必要になるわ。幸福な思い出とかね」

「ほう、幸福な思い出……」

 そう呟くと父は、遠い目をして何処かを見ていた。大方、娘たちが小さい頃に一生懸命に折った鶴とか、上手く書けなくて泣きながら渡してきた拙い父の似顔絵とかを思い浮かべているのであろう。

 実際海がこんなにも張り切っている理由は、この夏に届いた手紙にある。
 ある日修行から帰ると、海宛の国際ふくろう便が届いていた。ホグワーツのものではないがかっちりした封筒に入っていて、武骨な男性っぽい字で宛名が書かれていた。

 一瞬英国で飼っているあの『犬』からかとも思ったが、手紙を裏返し、差出人の名前を読んだ所で、その日は一日何も考えられなくなった。『R.J.ルーピン』。

 一日開封できなかった手紙は大事に神棚に置かれ、翌日父が仕事に行っている間に母と妹に協力してもらって読んだ。闇の陣営が日ごとに勢力を増している。日本にもその手が伸びる前に、使者をやって迎えに来るというのだ。

 使者として来るのがダンブルドア校長でも、マクゴナガル先生でも、はたまた『ペット』のシリウス・ブラックでもそんなことはどうでもよかった。先生から手紙が来た! 私を迎えに来ると、先生の手で、書いてある! 海の心は富士の霊峰より高く舞い上がり、今ならヴォルデモートすらも消し去る程のエネルギーを創り出せると思った。

 そんな娘の心を露とも知らない父は、娘が自分との幸福な思い出で吸魂鬼を追い払ったと思っている。幸せな男だ、と、海は我が父ながらに思っていた。

「父様、そろそろ帰りましょう。お腹が空いちゃったわ」
「そうじゃな。母さんのおにぎりとみそ汁を食べて、午後もやるぞ、海」

 丁度午前中の修練を終えたところだったのだ。父と共に昼食を摂りに自宅に戻ろうと踵を返したその時、目の前に、外套を纏ったその人が現れた。

「元気だったかい、ウミ?」

「ルーピン先せっ ---」

 久方ぶりに見た想い人の顔は変わらず、彼はホグワーツで教えていたあの頃と変わらない笑顔で、そこにいた。

 彼がいた日々が、海の脳裏を駆け巡る。最初の授業の時の、優しい笑顔。ドアノブにひっそりとかけた花籠。狼になった彼を守りたかった、夜の校庭。古タンスの匂いのするハンカチ。最後の握手。

 彼が何を言っているのか、もう聞き取れなかった。そればかりか、涙に遮られて視界も濁る。

「う、海……!? どうしたのだ、突然……--!?」
 突然泣き出した娘の涙を隠す様に、目の前の見知らぬ外国人はそっと彼女の肩を抱き寄せた。

 ややしばらくの間、海はルーピン先生の胸を借りて泣いていた。ようやく落ち着いて顔を上げる。

「落ち着いたかい、ウミ?」
 懐かしい優しい声で問われて、海はほとんど飛び退くようにして先生の体から離れた。父がいる前で、はしたない。

「あ -- ええと、ごめんなさい。失礼しました --……て、え? 父様は?」
 キョロキョロと周りを見回すが、さっきまでいたはずの父の姿が見当たらない。先生がその答えを教えてくれた。

「君のお父さんは、先にお家に帰られたよ。落ち着いた所で話そう。案内してくれるかい、ウミ?」

 そういえば、自分がしゃくりあげている間に父が拙い英語力で先生と何事か話をしている気配があった。それはいいとして。

「うっ -- うちへ……!? いいけど……うちへ、なんて……」

 迎えに来ると事前に聞いていたではないか。それなのに図らずも、もじもじとしてしまう。ルーピン先生がうちに来るなんて…好いた殿方を家に上げるなんて……それって、まるで……。

「……君を本部へ連れて行くために、ご両親にはご挨拶しておきたかったんだが…仕方がない。都合が悪いなら、私はここで待っているから、用意をしてきてくれるね?」

 顎をしごいて先生が思案気に言うと、海の思考回路はもうショート寸前だった。

「ごごごっ、ご両親にご挨拶って --!! ……待って、待つのよ、私! 落ち着いて!」

 らしくもない独り言を言うと、海は先生に背中を向けて、緊張しないまじないを自分にかけた。人という字を掌に三回書いて、飲み込む真似をする。本来の用途とは若干違うが、自分を落ち着ける、という意味では有効だろう。

『人』の字を飲み込んで、さらに心の中で三つ数えて、海は先生を振り向いた。「……ご案内するわ、先生。からすで行くけど、いいかしら?」

 スンと澄ました顔の海を見て、先生は柔らかく笑った。
「ふふ、やっといつもの顔に戻ったね。……からす?」

 先生に笑われて顔が崩れそうになったところをなんとか堪えて、海は空に向けて音高く口笛を吹いた。ややしばらくして、ぎゃあぎゃあ、と鳴きながらからすが群れでやってくる。

 ほとんど塊になって降り立ったからすの群れの中心に、いつもの木の板を設える。いつも一人で使っているものだが、何とか二人座れるだろう。これしか持っていないのだから、仕方がない。

「上がって。-- 先生、どうぞ」

 からす達に適当な高さで止まってもらい、先生に席を示した。先生は面白そうなものを見る目で腰掛ける。
 何とか二人座れそうだが、密着度のすごい事。-- 大丈夫かしら。私、汗臭くないかしら?

「家までお願い」と言うと、一気にからす達は海と先生の二人を乗せて上空に舞い上がった。夏を待ちわびた山々が視界に広がり、眼下には英国ではお目にかからない瓦の屋根が並ぶ。先生は海が聞いた事の無い、解放感に溢れた声を出した。
「あはは! 君はいつも、こうやって空を散歩しているのかい?」

「雨の日以外は大体。ロンドンでもやった事あるのよ」

「へえ。ロンドンのからすとは話せるんだね?」

「からすって頭がいいからね。先生はこれ、お嫌いかしら?」

 海が聞くと、先生は青々とした山に目を向けて言った。
「いいね! すごくいいよ!」
 海の胸の中に、言い表せない、温かいものが広がっていった。

 

 玄関前にからすを降ろすと、家族総出で海と客人の帰りを待っていた。挨拶もそこそこに茶の間に通される。自分の家なのになんだか違う所に来た気がして、海は気が気では無かった。ルーピン先生が靴を脱いで家に上がった時、初めて、先生の足がこんなにも大きい事に気づいた。並んで脱いだ自分の靴が、ひどく小さく感じた。

 ちゃぶ台をこんな形で囲む日が自分に訪れようとは、思ってもみなかった。母が昼餉の支度をしている間、妹の空がお茶を出す。先生が湯のみでお茶を飲む姿にでさえも、いちいちときめいてしまう。これでは海の身がもたない。

「そうだ、ウミ。君の守護霊は素晴らしかった。勇ましい狼だったね」

「やだ、見ていたの? ……あら、そういえば、私の守護霊って、鶴じゃなかったかしら」
 二年前に使った時は、自分の守護霊は祖母の名前でもある『鶴』だった覚えがあるが、しかし確かに、さっきの守護霊は狼の姿をしていた。海が首を傾げていると、先生が答えた。

「術者の心の状態によって、守護霊の形が変わるのはよくある話だ。ウミの『守りたい』気持ちに応えて、守護霊も形を変えたんだろう」
 先生は誇らしそうに言ったが、その守護霊の形が『狼』だという事が、海にとっては大問題だ。

 その時、からくり人形の菊が、大きな盆にたくさんのおにぎりが乗った大皿と、人数分の汁物と漬物を持って来た。盆から受け取った皿をちゃぶ台に並べていると、ルーピン先生が菊を指して父に聞いた。「これは何です?」

「ぢぃーず、からくりにんぎょう」
 海も顔負けの片言英語で父が答えた。海が補完する。

「あちらでいう、『屋敷しもべ妖精』です。日本では『屋敷しもべ妖精』の仕事は『からくり人形』に任せているの」

「へえ……初めて見た。可愛いね、何だかウミに似ている」

「なっ -- えっ……!」
-- 今のって、菊を『可愛い』って言ったのよね……!? でも、それに似てるって事は、私の事も……かわっ --!?

 海の内心の葛藤なぞ露知らず、自分の家族と先生は和気あいあいと食事を始めている。父と母がお互いを補い合いながら、「菊は海が生まれた時に買ったのだ。どこか海に似ていると感じたのでな」と、先生に話していた。

 みそ汁を一口飲んだ妹が、先生に流ちょうな英語を話した。
「学校での姉は、どんな感じなんですか?」

「うーん……」と先生が中空を見て頭を悩ませている内に、海が空に耳打ちする。
「貴女、いつの間にそんなに流ちょうな英語を話す様になったの?」

「海ねえがあっちの学校に通い出してからよ。最初はカタカナ英語だったけど、段々と、ね」

 妹が、海ねえも能力に頼っていないで勉強した方が楽しいわよ、と大人びた顔で言うのが何だか面白くない。拗ねた顔で言い返す。「だからって、親みたいな事聞かなくたっていいじゃない……」

「私が海に教えていたのは、二年前だし --」先生が言った。
「今の海の様子は分からないな。ただ、私が教えていた時は、心優しい良い生徒だったと記憶しているよ。君から貰った花籠、今も大事にしているよ」

 最後の言葉は海に向けて言われた。彼女は耳まで赤くなり、母と妹は彼女のそんな様子ににやにやと笑った。
「あらあら」「海ねえが花籠を? へーえ……」

「-- そ、そんな事より!」海が突然出した声は、不自然に大きく裏返っていた。
「先生、お役目があってこちらに来て下さったのでしょう!? まずは、その話を聞きたいわ!」

「え? ああ、そうだね……」
 先生は海の必死な様子に呆気にとられ、母と妹は相変わらずにやにやとしている。父は娘の言葉に真面目に聞き入っていた。「ほう。日本でのお役目が」

 先生は居住まいを正し、父と母に向き直った。
「お二人共、『名前を言ってはいけないあの人』が復活したのは、ご存知でしょう」

 問われた事の意味を理解するのに父が少々の時間を要したので、海が通訳した。すると父は「ああ、ヴォルデモートの事か。聞いておる」と、事も無げに答える。

 自分が伏せたヴォルデモートの名前を事も無げに口にする海の父を見て、先生は笑った。
「なるほど。さすがは海のお父上だ」

「して、その事と此度のお役目に何の関係が」

「ヴォルデモートはホグワーツで何度もハリー・ポッターの命を狙い、様々な工作を仕掛けてきました。そして、ハリーに協力するという形でその企みを阻んできたのが、ここにいるウミです」

 なんだか随分美化した言い方をしているが、海はただ、守りたかったものを守ってきただけだ。海は所在無げにもじもじし、父や母の視線を避けるために『隠れ蓑術』を使った。
 隣にいる海の姿が見えなくなった事は気にかけず、先生の話は続く。

「今、ヴォルデモートの勢力は再び威力を増してきています。彼がハリーを殺す為に邪魔なウミを狙う可能性は、十分にある。先ほど出現したディメンターが、その証拠だ。お二人ともどうか、ウミを私たちに預けてくれないでしょうか?」

「先生方が、海を闇の力から守ってくださる、と?」

「はい。命に変えましても」

 父の問いかけににこりとして答えた先生を見て、海の精神はパニック寸前だった。隠れ蓑術を使っていなかったら、また母と妹にこの顔を笑われていただろう。なんだかまた、涙腺が崩壊しそうだった。 

-- 待って、待って! そんな言い方……命をかけて守るなんて、先生の口から!

 父はしばらく腕を組んで黙っていたが、やがて、静かに口を開いた。「……先生、今夜は泊まっていきなさい。一緒に風呂でも入りませんか」

 突然の提案に、先生と海が目を白黒させる。思わず海は隠れ蓑術を解いてしまったほどだ。「は?」

 
 *
 

「父様ったら、突然どうしたのかしら」

 父に誘われて先生が風呂に入っている間、ちゃぶ台でおせんべいをかじりながら海が首を傾げて呟いた。恥ずかしさで自室にこもっていた所を、母と妹に連れ出されたのだ。母が娘たちにお茶を入れながら、微笑ましそうに答えた。

「お父様も心配なのよ。海の先生とはいえ、今日会ったばかりの全然知らない人ですもの。大切な娘を預けるに足る人物か、見極めたいんだと思うわ」

「『預ける』って言ったって、いつも通り英国に行くだけよ。それに長年父様自身に鍛えられているんだから、心配する事なんて何も無いわ」
 むっつりとして言った海に、母はニコニコとして返した。
「あら、本当にそれだけ?」

 妹がお茶を啜り、追い打ちをかける。
「どこの馬の骨とも分からない人ですもの。大切な娘をおいそれと預けられないでしょ」

 妹の言葉に海がむせ返る。「-- む……ぐほっ、げほっ…! 何よ、その意味深な言い方……!」

「意味深にもなるわよ。海ねえ、あの人の事が好きなんでしょう? ま、あっちは全然気づいてないみたいだけど」
「なっ --!」

 落ち着き払った様子で妹は再び茶を啜る。顔を真っ赤に染めた海が母の方を見ると、彼女も全てを見通した笑顔を浮かべていた。女の大先輩は、侮れない。
 空は湯飲みを置いて、おせんべいを手に取った。ばりっといい音を出して、むしゃむしゃ食べ始める。

「まあ、年もだいぶ上みたいだし? 先生というからには生活は安定してるんでしょうけど、父親としてはやっぱり心配なのよ」

 自分ではこの気持ちを認めたつもりだったが、こうして他人の口から聞くと恥ずかしくて耐えられない。たとえそれが、家族でも。

「べっ、別に、全然そんなんじゃないわよ! ただ、先生は、元いち生徒を心配してくれているだけであって……私だって --」「こら、海」

 続けようとした否定の言葉は、母によって遮られた。
「恥ずかしくても、自分の気持ちは、自分だけは認めてあげなくちゃだめ。貴女の心を自由にできるのは、貴女だけなのだから」

「母様……」

 その時ふすまが開き、風呂上がりの父が随分と陽気に出てきた。
「はっはっは……。普段の倍、いい湯であったわ! これ、お前や、一杯おくれ」

 上機嫌に出てくるや否や、妻に声をかけて晩酌を寄越せと要求する。風呂場でどんな良い事があったのか知らないが、いいご身分なものだ。その妻もその妻で、「はいはい」と、ニコニコして立ち上がり台所へと姿を消す。夫婦の仲の良さに呆れた海が湯呑に残っていたお茶を呷った時、父の後ろからルーピン先生が出て来た。

「ヒノキの風呂なんて初めて入った! とても気持ち良かったです、宗二朗さん」

 言いながら入ってきた先生の顔にいつもの白さは無く、風呂上りでほのかに上気してすっかり健康的な顔色になっていた。寝巻に父が貸した浴衣は、やはりというべきか寸足らずで、先生の脛までしか隠してくれていない。「--ぶはっ!?」

「ちょっ、もう、やだ! 海ねえってば!」
「ウミ、大丈夫かい!?」

「……ごめんなさい、失礼 -- 大丈夫よ、心配しないで……」
 お茶は盛大に溢してしまったが、海は何とか意識を取り留めた。少し鼻水が出た気がするが、出たのが鼻血では無くて良かったと心底思ったのは、人生で初めてだ。

 先生が懐から杖を取り出し、海がお茶を溢した畳みに向けて「スコージファイ」と唱えると、一瞬で畳の上が綺麗になった。

--ああ、粗相の後片付けを殿方にしてもらうなんて…。

 人知れず海が傷心した事に、誰も気づくものはいなかった。
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