アズカバンの囚人と、英語ができない魔法使い

「日本の魔法界のシンガーに会った事があってね。彼女の名前を読みたくて、日本語を勉強した時期があった。美しい声の人でね、美空と言ったかな」

「あら、それ、私の母様よ。人気の歌姫だったの」

「……美空が結婚していたなんて……! あの時、割りと本気でプロポーズを考えていた私の立場はどうなるんだ!?」

「知らないわよ……。母様のファンって、何でか熱狂的な人が多いのよ。罪な人よねぇ。え、何? 母様と知り合いだったの?」

「いや。しかし歌っている姿を見て、こう……体中に電撃が……」

「主に心の臓辺りにだったら、私も電撃打てるわよ?」

「そう、あれは歌という魔法……彼女の周りだけ別世界の様に見えた……」

「あら、結構重症ね」

 世間を騒がせているシリウス・ブラックと何故か恋バナに花を咲かせていたオーシャンだったが、そろそろ城に帰らなくてはならない頃合いである事に気づいた。あまり留守にしていると、怪しまれる。挨拶もそこそこに、オーシャンは『叫びの屋敷』を後にした。

 城に戻り寮へ向かおうと階段を上がっていると、スネイプ先生が足音も高く玄関ホールを横切っていくのに気づいた。後ろに、しょぼくれたハリーを引き連れている。

「待ってください、スネイプ先生。ハリー、どうしたの?」

 踵を返して先生とハリーに近づくと、ハリーが一層みじめな表情でこちらを見た。

 スネイプ先生はチラリとオーシャンを一瞥した。

「ウエノ、君には関係の無い事だ。寮へ戻りたまえ」

「でも……」

「寮へ戻れと言ったんだ、ウエノ。過度なお節介は身を滅ぼすぞ」

 そう言うと、先生はハリーを連れて地下牢教室の方へ向かって行った。スネイプ先生の研究室に連れていかれるなんて、余程の事をハリーはしたのだろうか? 例えば、また城を抜け出してホグズミードへ行っていたとか。

 オーシャンは二人の後を追って、地下牢教室へ降りて行ったが、かと言って自分ではハリーに何もしてやれない事は分かっていた。しかし、ハリーを心配する気持ちが、彼女の足をそちらに誘うのだった。

 スネイプ先生は、地下牢教室の奥の研究室に、ハリーを連れて入って行った。無情にもオーシャンの鼻先で扉は閉まる。扉に耳を当てて室内の様子を音で窺おうとしたオーシャンだったが、これまた無情にも防音魔法がかけられていた。

 まんじりともせず、その場を去る訳にもいかず、オーシャンは扉の前でハリーが出てくるのを待った。

 三十分も経った頃、突然地下牢教室の扉を開けて、ロンが現れた。大分走ってきたのだろう。息を切らして、喘ぎ喘ぎ彼は言った。「オーシャン? 何で? -- ああ、いいや。どいて!」

 オーシャンが脇にどけると、ロンは研究室のドアにかぶりついて、パッと開いた。そして前置きもなく、中にいるスネイプ先生にこう進言したのだった。

「それ、僕がハリーにあげました。だいぶ前にゾンコの店で、それを買いました」

「ほら、言った通りだ、セブルス」

 ロンの後ろから室内を覗き込んだオーシャンは、面食らった。そこには何故か、ルーピン先生がいたのだ。



 ルーピン先生に連れられて、ハリーはスネイプ先生の研究室を出た。その二人にロンとオーシャンの二人もついていく。忍びの地図が先生の手に握られているのを、オーシャンは見た。

 四人以外は誰もいない玄関ホールで、ルーピン先生はハリーを諫めた。

「事情を聞こうとは思わない。でも、ハリー、君がこの地図を提出しなかった事に、私は大いに驚いている。そう、私はこれが地図だと知っているよ、ハリー。そして、これを君に返す訳にはいかない。以前、誰が城に侵入したのか、忘れたわけでは無いだろう?」

 地図を返してもらえないという事は、ハリーも予想していたのだろう。反論はしなかった。

 そしてルーピン先生は、何よりもハリーの心に刺さる言葉で彼を諫め、寮に帰るよう促した。後輩二人が階段を上っていく後ろ姿を見ながら、オーシャンは言った。

「ハリーのした事は、確かに向こう見ずで愚かな行為だわ。でも今、貴方も随分愚かな行為をしていたように見える」

 今、不思議に恋心は冷めていた。封じられていた、と言ってもいい。今は、愚かで可愛い後輩の事しかオーシャンは考えていなかった。隣のルーピン先生に視線を移すと、彼も訝し気にこちらを見ていた。オーシャンはニッコリと笑って言った。

「だって今、八つ当たりしていた様に見えたわ。ハリーが危険な道を渡って校外に抜け出した責任の一端が、まるで自分にあるかのように。自分にぶつけるはずの気持ちを、ハリーにぶつけている様に見えた。違う?」

「……開心術は、使っていないだろう?」

 ルーピン先生は、これまでオーシャンが知らなかった冷ややかな表情をして彼女を見た。今はそれも、彼女の心には響かない。

「日本人って割と、大事な事は口で言わないから、空気読むの得意な方だと思うのよね。貴方、意外に秘密主義なのね」

「 -- 君も、人の事は言えないだろう?」先生は気を取り直して、いつもの表情をオーシャンに見せた。そして、ポケットからハンカチを取り出して、それに包まれていた物を彼女に見せた。黒い星の様な形をしたまきびし。全部回収したと思っていた。

「こんな事をしなくても、君たち生徒は先生達が守る。逆を言うと、あんまり危険な事に首を突っ込まれては、守り切れなくなるんだ」

「守る権利は、こちらにもあるわ」

 オーシャンの答えを聞いた先生は、それを包んだハンカチごと、まきびしをオーシャンに返した。そして後ろ姿を向けると、そのまま去って行った。

 オーシャンは、今までの出来事を頭の中で反芻しながら一人で寮への帰り道を辿った。どんな馬鹿な事をしでかしたか知らないが、ハリーは十分に反省している事だろう。寮に帰ったら、少し甘やかしてあげようか。

 そして突然、ルーピン先生にあんな口をきいた事に対して、猛烈な自己嫌悪が襲ってきた。あんな生意気な口をきいて、先生は果たしてどう思っただろう。

 しかし、言った事に関しては間違っていなかったとは思っている。なら尚更、あんな言い方ではなくもうちょっとお得意のオブラートに包めばよかったのではないか。何にせよ、もう少し『言い方』というものがあったはずだ。初めての感情が、オーシャンの口を突いて出た。「死にたい……」

 満身創痍になりながら何とか手すりにしがみ付いて、オーシャンは階段を上り切った。壁伝いに廊下をフラフラと渡り、かすれた声で『太った婦人』に合言葉を言う。

「ちょっとあなた、大丈夫なの?」扉を開く『婦人』にでさえ、心配された。

 談話室の中に入ると、いつもの三人組が固まって何やら話し合っていた。

「どうしたの?」とオーシャンが聞く。振り向いたハリーは目を剥いた。

「オーシャンこそ、どうしたの? 酷い顔してるけど」「ああ、気にしないで」間髪入れずにオーシャンが答えると、彼女の質問の答えはハーマイオニーが見せてくれた。それは、涙に濡れたハグリッドの手紙だった。

「バックビークが敗訴した」「こんな事って無いわ……」
 ロンとハーマイオニーが口々に言った。

 オーシャンは言葉を無くした。可愛い後輩の為にできる事は、できる限り力を尽くしたい。しかし、魔法省の決定事項はさすがにオーシャンではどうしようもできない。

 すっかり目を赤く腫らしたハーマイオニーは、ハリーに言った。

「ハリー、クィディッチの決勝戦に絶対勝って! 卑怯者のスリザリンが勝ったら、私、耐えられないわ……!」

 クィディッチ決勝戦は、因縁のグリフィンドールとスリザリンの対決だった。その出来事から数日の間に、城内での互いの寮の生徒の小競り合いが頻発した。その火の粉はオーシャンにも少なからず降りかかっていた。イースター休暇の頃には、廊下で闇討ちに遭った回数が、記念すべき十回目に達したのだった。

 

「全く、クィディッチ如きで何で皆こんなに熱くなるのかしら。今日なんて、危うく耳から葱が生える所だったわよ」

 休暇が明けた日、授業の合間にブラックに餌付けに来たオーシャンは、頬杖をついて呟いた。ブラックはパンを頬張りながらもぐもぐと言った。「クィディッチはいつでもみんなの心を熱くさせる」

「意味がわからないわ」ボロボロのテーブルを挟んでブラックの向こう側に座り、足を組みながら冷たく言い放ったオーシャンに、ブラックが手を伸ばした。「……ミルク」

 牛乳が入った大瓶はオーシャンの側にあった。「私は貴方の妻でも小間遣いでもないんだけど。だから、そんなにがつがつ食べたら喉に詰まるって言ったのに。言わんこっちゃない」

 駄目な大人なんだから、とでも言いたげに、栓を開けていない牛乳の大瓶をブラックの方に指先で押しやってやると、ブラックは魔法で栓を開けて中身をぐいっと呷った。

「 -- 酷いな、同じ食卓に座っている者が苦しんでいるというのに、栓も開けてくれないのか」

「別に同じ釜の飯を食べた訳じゃないわ。私が運んできてあげた食事を食べているのは、いつも貴方だけじゃない」

「なんて冷たい。しかも可愛げのない。これが美空の娘だとは、信じられん。嫁の貰い手が無くなるぞ」

 何の他意も無い、軽い口調で言ったブラックだったが、オーシャンは押し黙ってしまった。

「ん、どうした。腹の調子でも悪いか」

「……うるさいわね。どうせ私は可愛げのない生徒よ」ツンとして呟いたオーシャンの横顔に、ブラックがにやにやする。良からぬ事を企んでいる時の赤毛双子にそっくりだ。

「そうかぁ。若いって事はいい事だなぁ」

 顔を赤くしたオーシャンに、ブラックが畳みかける。「しかも相手は、先生と見た」

「しかし、私の通っていた時とそんなに顔ぶれは変わっていまい? あのおじさん先生達の中で、そんなに魅力的な人物がいた記憶は無いが……」

 髭をしごきながら、首を傾げるブラック。オーシャンはその言葉で、突発的に立ち上がって叫んだ。
「ルーピン先生と貴方を一緒にしないで頂戴!」

 一瞬の、間。ブラックはオーシャンの反応に驚いて、目を白黒させている。

「ルーピンって、リーマス・ルーピン……!? リーマスが君の先生!?」

 オーシャンはオーシャンで、ブラックの言葉を聞いていなかった。自分の反論が、恥ずかしさとなって返ってくる。一気に耳まで赤くなった。

「……って、ん!? じゃあ、君のその相手って……!」ブラックの頭の中の整理が追いつくと共に、彼は笑い出した。次第に腰を折って苦しそうに笑い出し、その目に涙さえ浮かべている。

 パニックになりかけたオーシャンだったが、ブラックのその様子を見て落ち着きを取り戻した。リーマス……リーマスの事を……!? とか言いながら彼はまだ笑い転げている。

「……私も、動物もどきになる勉強をしておけば良かったわ。そうすれば、馬に変化して貴方の側頭部を後ろ足で思い切り蹴ってやれるのに」

 オーシャンの呟きは、彼の笑い声の中に消えた。
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