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妊娠、嘔吐、暴力表現あり閲覧注意
匋依です





「ぅ、え゛ッ」
 胃の底が裏返るようだ。何度吐いても治らない嘔気に便器を抱きかかえるようにして吐き続ける。

 ふと、足元で何かが蠢く気配がして視線を落とすと、親指ほどの芋虫が一匹、のたうっていた。何故こんなところにと思った瞬間、なんとそれは一匹だけではなくズボンからシャツの裾にかけて無数に張り付いていることに気づく。
腹を見せ、尾を振り、一つの生物のように波打っている。

「ひ、!」
 一見して全身の毛が逆立って、悲鳴をあげながら弾かれるようにトイレから飛び出す。物音に気づいた匋平がリビングから顔を出してただならぬ様子に目を丸くした。

「依織、大丈夫か?」
「ぁ、あ、むし、虫、が!」
 じたばたと暴れる体を抱きしめられて、匋平の腕の中で固く目をつぶった。鼓動が、息が、馬鹿みたいに速い。けれども「虫なんか居ない」と言われ恐る恐る目を開らくと、シャツに染みが一滴落ちていただけだった。額にびっちりとかいた冷や汗を拭って、乱れた呼吸を落ち着かせながら「薬を盛られた」のだと悟った。
吐き気だけなら食中毒で済ませられたが幻覚までは説明がいかない。
 先程の会合に顔を揃えていたメンバーの顔をひとりひとり思い返してみるが、心当たりがありすぎて特定に至らなかった。オヤジが「次期頭には俺を考えとる」などと他の兄貴たちを差し置いた発言をするものだから、反感を買ったのだろうが、やることに容赦がない。
「旦那、水…」
「まってろ」
 結局、一晩で幻覚は治ったものの数日間吐き気に悩ませることになった。薬を盛られたことは旦那には言い出せずにいた。俺が隣にいながらと、きっと自分を責めるだろうから。

「今日も休むってオヤジに連絡しといた。そろそろ病院へ行こう」
「大丈夫」
 医者に診てもらった方がいいと心配そうに覗き込んでくる匋平に、頑なに首を横に振り続けるのは心が痛んだ。けれども、盛られた薬は間違いなく非合法だから、尿検査で疑われたらアウトだ。
 自分以上に俺の体を心配しすぎるあまり、食欲を無くした匋平がげっそり痩けていく。逆に匋平のほうが倒れてしまいそうで、少しでも元気なふりを見せるため「つわりだったりして」と、へらりと笑って下腹部をさすって見せた。何馬鹿なこと言ってんだよ、冗談言う余裕があるなら元気だな、とツッコミを待っていたのに、何故か匋平はいつまで経っても真剣な顔をしたままだった。



 その翌日の晩、帰宅した匋平が薬局の紙袋から取り出したのはまさかの妊娠検査薬だった。買ってくるの恥ずかしかったけどこれは男の責任だからと顔を火照らせながらピンク色の長細い箱を開封していく様子に、病院行ったほうがいいのは旦那の方かもしれないと思った。

「おしっこかけてきて」
「……は?」
 どこまでネタをひっぱるつもりだ。
けれどもふざけてるとは思えない気迫に、コイツまさか真面目に言ってるのかと不安になる。中卒とはいえ、生命誕生の仕組みを知らないわけではあるまい。
 とにかく、陰性を叩き出せばどんな馬鹿でも大人しくなるだろうと、検査薬をもってトイレに向かった。狭苦しい便所でスティック状の検査紙目掛けて放尿していると、俺は一体なにをやってるんだと無性に虚しくなった。
滑稽だ。陽性になるわけないだろ。いくら俺とお前がずぶずぶな関係だったとしても、だ。

「ほら、陰性」
 当然、何の反応もみせない検査用紙に笑いが込み上げる。けれども匋平はそれを白熱灯の下で透かしてみたり、振ってみたりなどの抵抗を繰り返して、納得がいかないように首を傾げた。何だその反応。
心底残念そうな顔するんじゃねえよ。

「でも99.99%の診断率って書いてあるから、0.001%の可能性もあるってことだよな」

「………なぁ旦那、そんな算数する前に、ちょっと待てよ、お前どうやって子供が出来るか知ってるか」

「馬鹿にしてんのか?まぁとにかく今後は俺が体調管理してやる。依織は俺の手料理意外、一才、何も、口にするんじゃねぇ」

 以降、匋平は俺のために毎日机に並べ切れないほどの料理を作った。自分としても、毒を盛られたトラウマから食に対して臆病になっていたので匋平の手料理であれば安心して口にすることができた。うまいと言ってぺろりと平げると、その度に匋平はくしゃりと高い鼻に皺を寄せて嬉しそうに笑った。

「ヨーサン?葉酸?ってのが不足すると良くないらしい」
「何に?」
「お腹の、子」
「………」

 枝豆と鰻とレバーには葉酸が含まれていて、などひとつひとつ料理を指差しながら、どれにどれだけ妊婦に必要な栄養素が入っているかを真剣な口調で語り始める。ふんふん、と上の空で相槌を打ちを打ちながら、内心、激しく焦っていた。おい聞いてんのかと怒られたが全く話が頭に入ってこない。こいつもしかして、本当に、本当に、まじで、俺が妊娠したと思っているのだろうか。ここは一つ無理難題を言って匋平の本気を確かめてみることにする。

「旦那、そろそろコンビニのプリン食べたい」
「プリンなんて俺が作ってやるよ」
「ぽてち」
「ジャガイモあるからスライスして揚げてやる」
「じゃあ、羊羹」
「あー?作れる、作れる」
「………じゃあ、じゃあ、アップフェルシュトゥルーデル」
「は?アップ…なに?ちょっと作り方調べるから待ってろ」

 早速スマホで作り方を調べはじめた匋平が、これならいけるかもと食材をメモし始める。
 まじかよ、世界で一番作るのが難しいと言われるスイーツなんですけど。
空いた口が塞がらない。俺の手料理食うんじゃねぇの下りは冗談ではなかったようだ。

「依織が食べたいものはなんでも俺が作ってやるから、絶対外食なんてするな」

 翌日の食後にはアップフェルシュトゥルーデルが並んだ。添えられたコーヒーはカフェインレスだから心配すんなと、ご丁寧にも。
 旦那の栄養たっぷりな料理をたいらげ続けて数キロ肥えてしまった。そんな俺の柔らかく育った下腹部を撫でなでてつけながら穏やかな笑みを浮かべる男に困惑しつつも、悪くないなんて思わされてしまう。
たぶん、こいつは、奥さん想いのいい旦那になるんだろう。旦那が育児に協力してくれないやら、目の前でタバコを吸って体を気遣ってくれないやら、そんな不平不満は漏らさせないのだろうし。現に、ヘビースモーカーだった匋平があの日から一本も吸ってない。挙げ句の果てには、スマホからごりごりのラップを流し始めて胎教だなんていうから、そこはモーツァルトとかだろ、と思わず笑ってしまった。
 女の子だったら依織みたいに可愛いぜなどと言うので、それはないわ、顔はお前に似てほしいなどと返しているうちに、名前や、新居や、休暇には三人でどこに行くか、例え芝居でも、側からみれば愛を育む夫婦の会話そのものだった。
 匋平の大きな掌でぽんぽんと一定のリズムで腹を叩かれながら、モーツァルトの音色に耳を傾けているうちに睡魔が襲ってきて、うつらうつら、まどろむ。
 もう、誰かを殴ったり、騙したり、傷ついたり、傷つけられたりしなくても済む、どこか知らない、遠い国の、城に住んでいる夢だ。寝室から泣き声が聞こえて、はやく、あやさねばと、ぐらぐらゆれる揺り籠を覗く。白い木綿のお包みをそっと剥がして、顔を見ようと覗き込む。そこで、目眩で目が覚める。







 数日が経ってすっかり体調も回復した頃。久々に事務所に顔を出した。
もう大丈夫なのかと多方面から気遣われたが、この中の誰かが毒を盛ったのかと思うと気を許せたものではない。どいつもこいつも怪しく見えてしまうが怯えた様子を見せるのは癪であるので「ぴんぴんしてます。休んでた分のお勤め頑張ります」と、笑顔を携えながら仕事の予定を確認するためカレンダーを捲った。

「あ、あれ?」
 すると、入っていたはずの仕事の予定が軒並みキャンセルになっていた。自分の名前が二重線で消され、その上からミミズのような汚い字で「神林」と、上書きされている。



「おやじ!おやじ、居る!?」
「依織、どしたん」
「俺の予定が勝手に全部キャンセルされてる」
「神林のやつが、代わりにやる言うて持ってきよったで」
「やっぱり。最近、旦那のやつ変なんだよ」
「あいつが変なんは今に始まったことやないやん」
「それはそうなんだけど。それが……」
 言いかけてはっと口をつぐんだ。旦那に妊娠を疑われてると相談したところで、変になったんはお前の方やったんか、と精神科に強制入院させられそうだし、一から十まで説明しようとすると、旦那とセックスしてることを親父に打ち明けるハメになる。どちらにしても地獄だ。

「いや、なんでもない。とにかく俺はこの通り元気だから、仕事振ってくれよ」

 翠石組は俺の全てだ。14で組に入ってから全てを捧げてきたかけがえのない居場所である。俺の予定まで勝手にいじるようになるなんていくらなんでもやりすぎだ。ずかずかと大股で廊下を歩きながら、スマホの画面を叩くようにして匋平に電話をかける。

「旦那、なんで俺の予定を勝手に全部キャンセルしたんだよ…、もう体調大丈夫だって。お前ひとりで商談なんてできないだろ」

『お前に無理させらんねぇだろ、俺が代わりに全部やってやるから安静にしてろ。
いま送迎中だから電話切るわ。…そうだ、今日ちょっと遅くなるかも』

 一方的に電話が切られツーツーと話中音が虚しく響く。思わず頭を抱えてその場にへたり込んだ。
もうだめだ。言おう、今日こそ。
俺は妊娠なんてしてないって。お前の幸せそうな顔を見てたら、こんな当然のことが言いづらくなってしまってたんだって。
俺だって、0.001パーセントがあるならお前の子供とか、欲しかったよ。
でも。わかるだろ。
わかってくれるだろ?

 がっくりと項垂れていると、中学時代の友人から一通のメールが届いた。それはなんの影も屈託もない「遊ぼうぜ」という誘いのメールだった。
 仕事が無くなったせいで一日暇ができてしまったから断る理由はないが、一瞬、匋平の顔がよぎって、フリックする指が文字盤の上で迷う。規制されているのは外食だけとは言え、なんとなく友人と遊ぶことすらはばかられてしまう。けれども、久方ぶりに同年代の友達と年相応の話をすれば良い気分転換になるだろう。匋平は先の電話で遅くなる、と言っていたし。少しくらいなら問題ないだろうと了承のメールを送った。



 一時間程度のはずが楽しくなってつい数時間が経過してしまっていた。大急ぎで同棲しているアパートに戻るが、既に灯りが灯っていた。門限を破ってしまった少年のような気分で玄関をくぐる。

「ただいま」
匋平はテーブルに頬杖をついてうたた寝をしていた。俺を待っているうちに寝てしまったのだろうか。卓上には、何故かいつもよりも豪勢な料理が手付かずのままサランラップに覆われている。
軽く体をゆすると匋平は目を覚まし、俺の姿を見るなり「おかえり」といつもと変わらぬ甘ったるい声色で微笑んだ。

「腹減ったろ?」
「……うん」
 実は先程、友人に誘われるがままファーストフード店で食事をしてしまっていた。最近は完璧に栄養管理された手料理しか食べていなかったから、ついジャンクフードに魅了されてしまった。あまり空腹ではなかったが、せっかくの手料理を前に「腹ペコ」などと嘘をついて着席した。匋平は微笑みを携えたまま料理を電子レンジで温め直し、再度テーブルに並べなおしていく。

「いただきます」
 一皿目をなんとか平らげて見せると、匋平はにこりと笑って、二皿、三皿と並べてゆく。なんとかバレないように食べるペースを落とさず口に入れるが、次第に喉が詰まる。いくら匋平の料理が美味いとはいえ胃のキャパシティまではどうしようもない。徐々に手が止まり、飲み込めなくなってゆく。胃が膨張して横隔膜を圧迫するから息苦しくて、大きく深呼吸を繰り返した。けれども、匋平はそんな様子もお構いなしに、次から次へと料理を並べてゆく。

「ちょ、ちょっと。もうお腹いっぱいだって、それよりもお前に話が…」
「まさか、また体調が悪いのか?」
「や、ちがくて、その。
じつは、友達と…めし、食べてきた……から」

 詰まりそうになりながらなんとか語尾を言い切ると、匋平を取り巻く空気ががらりと変わり、部屋の温度が数度下がった。

 何も言わぬまま、皿を握った状態で固まる匋平の顔を見ることができない。

見なくても、冷たい視線が容赦なく突き刺さっているのがわかる。いつもの匋平ではなく、喧嘩している時の翠石組 神林匋平の目だ。せめて罵声を浴びせてくれる方がマシだった。喉元になにかが引っかかったようで息苦しい。なにか言わなきゃいけないのに、言葉は喉元で戸愚呂を巻く。
震える唇がはくりと宙を瞬いた。


 突然、匋平が椅子を横転させながら大きな音をたてて立ち上がる。一瞬何が起ったかわからなかったが、視界に飛び込んでくる天井と、床に打ちつけた膝の痛みに、椅子から引き摺り下ろされたのだと数拍遅れて理解した。

「ーーー、痛っ」
 受け身を取る間もなく、そのまま強い力でトイレまで引きずられると放り投げるように押し込まれた。

「や、なに!や、やめ……っ!」

 便器の前に立たされ、後ろから覆い被さるように体重を乗せられると、体がくの字に曲がる。頭が胃よりも低い位置まで下がる。まるで嘔吐前の怒責のような体勢に、嫌な予感が走ったのも寸秒だった。
匋平の指が口の中に割って入ってくる。

「ーーーーんん゛、!!」

 中指と薬指を根元まで強引にねじ込まれると喉奥の敏感な粘膜に指先が突き当たり、嘔吐反射でえづく。強制的な吐き気にパニックに陥ったが、吐きたくない一心で指に犬歯を突き立てて抵抗した。
けれどもカギ状に曲げられた指の腹が舌根を容赦なく抉って、その拍子に嚥下したばかりの食物が噴射状に逆流した。
びしゃりと下水が跳ね返って頬を汚す。
ほとんど丸呑みした料理たちは原形を留めたまま最後に食べたものから順に排出されてゆく。吐瀉物の酸の匂いに嘔気が誘発されて次々と嘔吐し続けた。

「ゔぅゔ…ぇ………っあ゛、はぁっ、はぁっ」

 何度か発作を迎えて胃の内容物を全て吐き出してしまうと、えずいても胆汁しか出てこなくなった。へとへとに疲れ切って力無くその場に座り込み、便座を抱きしめるように背を丸めて呼吸を整える。

 すっと視界に影が落ち、匋平が後ろに立つ気配がしたがもう振り返る気力もない。背後からぬっと手を伸びて、便器の中の吐物を品定めをするようにぐちゃぐちゃ掻き混ぜはじめた。

「ぅ、うう……なに、やって、……やめろ、や、だ、ひぐっ、うぅ」

「全部吐けたな、えらいぞ」

 右手を汚物で汚した匋平が囁く。ごめんな、痛かったろと優しく膝をさする。その常軌を逸した行動に心底恐怖を感じ、逃げ出そうと這いずったが、匋平が立ちはだかって、いつのまにか財布から抜き取ったであろうレシートの『2名さま』と書かれた項目をパンと指で弾いた。



「こいつ、誰?俺、外食するなって、言ったよな。また毒盛られてたかもしれないだろ。俺がお前を守るから、今後、ここから一歩も外に出るんじゃねえ」










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