✳︎ダブルトラップ

ダブルトラップ


深夜、胸騒ぎで目が覚めた。額には玉のような汗が浮かび、ベッドのシーツまでもしっとりと濡らしている。外は大荒れの天気で、強い雨が窓を叩いて火花のような音を鳴らしていた。

依織は重怠い体に鞭を打って、なんとかベッドから這い出ると上着を羽織った。家紋があしらわれた黒と辛子色の羽織ではなく、シンプルな黒のダウンジャケットを選ぶ。普段身につけている過剰なゴールドの装飾も置き去りにした。誰も起こさぬように抜き足差し足で玄関口へ向かい、スニーカーをつま先に引っ掛ける。玄関に置かれた姿見には、「翠石」ではない何者かが映り込んでいた。疲れた顔。だが、今は無理に笑顔を浮かべる必要はない。

「若」

 突然、パッと電気がついて室内が明るみ、まぶしさに目を細める。いつの間にか心配そうな表情の善が立っていた。物音ひとつ立てずに玄関までたどり着いたと言うのによく気づいたものだ。依織は優秀な番犬に舌を巻いた。もし善が敵だったら手強かっただろうと思う。

「まだ起きとったんかいな」
「こんな夜遅くに、どこに行かれるのですか?」

 いつもと違う服装で、こんな深夜に出て行こうとしているのだから不審に思われて当然である。内心どう彼を丸め込もうか思考を巡らせながら、なるべく普段の柔和な姿勢を崩さないよう笑って見せた。
「タバコ、切らしてもうて」
 もっとマシな言い訳を付きたかったが、あからさまな嘘しか出てこず、善は納得いかないと眉を顰めた。
「そう言ってまたお一人で。私は若のためにならなんだってする所存です。どうかお供させてください」
「あかん」
「どうして」
「善は俺のためなら、なんでもするん?」
「命を捧げる覚悟はできています」
「さよか。なら、なにもするな」

 家を出て向かった先は、隠れ家として秘密に借りているアパートである。実は10年ほど前、そこに住んでいたことがある。ある男と、二人で。
 築六十年、六畳一間のアパートは一日を通して日当たりが悪く、最寄り駅から徒歩で30分以上かかる上、近くにコンビニも病院も無い。おまけにスラムに近い。ヤクザが治安がどうのこうの言えたクチじゃないが、お世辞にも好物件とは言えないアパートだ。けれど依織が重要視していたのは、人目につきにくく、壁が厚いという点だった。アパートの壁は、叩いた時に間抜けな空洞音がせず、コンコンという音が冷たいコンクリートに吸い込まれてゆく。人一人の絶叫くらいならば外に漏れることはない。この部屋はきっと拷問にも適しているだろうと、職業病といえば聞こえがいい物騒な発想を巡らせてしまう。
 拷問。それに近いかもしれない。これから自分の身に起こることは。

 自分のためなら命も捨てられる。あなたが心配でたまらない、と真剣な眼差しでこちらを見据えた己の右腕に、なにもするなと吐き捨てた時の悲しい表情が脳裏に蘇える。善。悪いことをした、許してくれ。
 罪悪感に苛まれるが、玄関先で押し問答している時間は依織になかった。深夜感じた、胸騒ぎの正体。それは、トラップ反応の前兆だった。最近、前兆が起こってから発作までの時間が不安定になっている。なんとなく胸騒ぎがしたかと思うとすぐに発作を起こす時もあれば、翌日まで起こらないこともしばしばで、発作のタイミングを依織がコントロールできるものでもない。だから、家族の前でトラップ反応を起こしてしまう前に、弱い自分を晒す前に、こうしてアパートにひっそりと身を寄せるようにしていた。なるべく人目につかないところで、嗚咽が漏れない壁の厚い物件がよかった。

『結局、お前は誰も信用してねぇんだな』
 突然誰かに耳元で囁かれたような気がして、ばっと振り返ったが背後には誰も居なかった。夜の闇に、自身を照らす蛍光灯と、影だけが長く伸びている。
「は、」
ばくばくと鼓動が早まり呼吸が早まる。指先がみるみるうちに冷たくなる。尾骶骨から脳天まで駆け上がる悪寒に身震う。トラップ反応による幻聴だと一拍置いて気づいたがやけにリアルな声に、本当に耳元で囁かれたように感じた。その息の温度すら感じられるくらいに。

『滑稽な、家族ごっこ』
 再び響く声に、咄嗟に耳を塞いだが脳内に直接語りかけてくるその口を塞ぐことはできない。これから訪れるだろう、地獄の予感に依織は両手で頭を抱えた。急いでアパートに向かい、身を隠さねばと足を早める。しかし、脳内の声はどんどんと大きくなり、精神を蝕んでいく。トラップ反応が始まったのだ。
『胡散臭い西訛りなんか使って、下手くそなんだよ』
「やめろ」
『本物になんかなれるわけない』
「やめろ」
 声はだんだん大きく、囁いている人数も増え、最終的には何重にも重なりひとつの雑音と化す。自分を罵倒し、卑下し、否定し、蔑めている。なんとか違うことを考えたいのに、響く声に反論することでまた地獄へ引き戻される。羽織が重たい、金の装飾品が重くて仕方ない。羽織を脱ぎ捨てようと肩に手をかけたが、そういえば羽織は家に置いてきたのだと思い出し、体感幻覚の忌々しさに舌打った。
『人殺し』
「殺してない」
『殺したくせに』
「殺してない!」
 割れそうな頭痛が吐き気を伴って襲い、胃の内容物が競り上がってくる感覚に咄嗟に手で口を押さえた。まずい、吐く。息が上がり、体が酸素を欲するが、吸って吐いてが空回りする。脂汗がふつふつと浮かび、珠のように額、頬、首筋へと落ちてコンクリートの埃を湿らせた。とにかく、ぶっ倒れる前に早くアパートに辿り着かなくてはと早歩きになるが、ひたり、ひたり、と、つけ回す足音が聞こえ、やめろ、追いかけてくるなと駆け足になれば、足音もまた駆け足で追いかけてくる。消えてくれ。頼むから。たまらず、全力疾走で走り出すと、目の前ぎりぎりのところで車とすれ違い甲高いプレーキ音が響く。『あぶねぇだろ、死にてえのか』と、運転手の怒声。見上げれば横断歩道の信号は赤色に光っていた。
(あかん。後一歩のところで轢かれてしまうところやったわ)
 トラップ反応の恐ろしいところは精神を蝕むことで、二次的な被害に遭うことすらあるという事だ。幻覚、幻聴から逃げようとして、屋上から身を投げてしまう人もいるくらいなのだから。依織はなんとか表通りから裏路地に逃げ込むと、膝に手をついて、はぁはぁと肩で呼吸を繰り返した。呼吸を整えたいのに、リズムが取れずに空回る。ずきずきと頭痛が高まって、痛みに耐えきれず地面に片膝をついた。

『俺を殺したくせに』
「殺してなんか、あらへん、お前は一体誰や」
『忘れた?』
見上げると、血まみれの自分が立ちすくんでいた。
「ひ、」
幻影だ。最悪の幻影を見せられている。確かに、過去の自分を捨て、オヤジに成りきる演技を続けてはいるが、それは強くあるために仕方がない事だった。俺は、俺を殺したつもりなんてない。過去の自分を、殺してなんかいない。
『依織のままじゃ、誰もついて来ないと思った?』
だとしても。精一杯、この二の足で立っているつもりだ。だから頼む。俺が、俺を、そんな哀れな目で見るな。
『可哀想な、■■依織』
その言葉を聞いたのを最後に、依織はとうとう意識を手放した。








 目を覚ますと布団の上だった。薄く開けた瞼の間に見慣れぬ天井が目に飛び込んでくる。まどろんだ意識の中で、ここが向かおうとしていたアパートの部屋だということを理解した。トラップ反応が辛くて倒れたかと思っていたが、夢遊病のように辿り着いたというのだろうか。すっかり記憶がない。

「う、」
 先ほどではないが、頭痛は相変わらずじくじくと依織を蝕んでいる。倒れてから何時間経ったかわからないが、うっすらと明けられたカーテンの向こうはまだ夜で、そう時間は経っていないのだろう。
 喉がカラカラに乾いていた。キッチンで水を飲もうと重たい体を起こす。よたよたと壁伝いに歩いていると、リビング中央に置かれたローテーブルに、見覚えのあるシガーストラップを見つけ、一瞬、心臓が止まった。
いや。まさか。このアパートに、相棒だった神林匋平と住んでいたからといって、このような幻影を見るとは終わっている。あるいは夢の中なのだろうか。頬を抓るといった原始的な方法で覚醒を試みるが、ひりひりとした痛みを感じただけで目の前の光景は何一つ変わらない。では、まさか、これが現実とでもいうのだろうか。だとしたら、なぜこんなところに、匋平のアクセサリーが?

 その時、ガチャリと開錠の音が響いた。誰かが入ってくる足音に咄嗟に身構える。足音は迷いなくこちらに近づいてきて、リビングのドアが開け放たれ、現れたのは、やはり、匋平、だった。
「お。気が付いたか」
「……旦那、どうして」
「お前、路地裏でぶっ倒れてたんだよ。たまたま俺が通りかかったから良かったものの、いつもの派手なハッピじゃなくて黒い上着だったから一瞬分からなかったぜ」
 そうか、自分はあのまま気を失ってしまっていたのか。依織は、羽織もアクセサリーも置いてきてよかったと思った。行き倒れになった場合、翠石の看板を背負ったまま倒れたくない。翠石の若頭が道端で倒れているなんて無様な格好を家族に見せられない。倒れる時は、ただ何者でもない男でなくてはならない。しかし、どうして旦那にこの場所がわかったのか混乱していると、匋平が革ズボンのポケットから、じゃらりと鍵を取り出して見せた。
「お前のポケットから出てきた」
 それにしても懐かしいな、と匋平がくるりと部屋を見渡すのに合わせて、依織も室内へと視線を移す。まだ二人とも組に入りたての若い衆だった頃、大した金もなく、狭い六畳間を二人で金を出し合って住んでいた。右奥には古いブラウン管のテレビ、左奥にはがたがたとうるさい音を立てる扇風機を置いていた。どちらも粗大ゴミ置き場から二人が拾ってきたものだ。
スーパーからぱくってきた買い物カゴにはいつも二人分の洋服がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、どちらが洗濯をするかで喧嘩をしていた。大抵、洗濯機のボタンを押すのが依織の役目で、干して畳むのが匋平の仕事だった。仕事量に差があると文句を言っていたが、匋平はいつもシワ一つなく綺麗に干して畳んだ。別れて以来、もう二度とこの部屋に匋平と二人きりになることはないと思っていたのに。
「喉乾いてないか?ほら、水買ってきてやったから飲め」
 とぷりと音を立てて、ペットボトルの中の水面が揺れる。匋平はいつだって、依織が望むものを然るべきタイミングで与える天才だった。甘え切っていた、当時は。そして、またしても助けられてしまった。
「痩せたんじゃないか」
「そんなことあらへん。深夜にどら焼きとか食っとるし」
匋平もペットボトルのキャップを開け、水を口に含みながらストンと依織の布団の横に腰掛ける。こくり。静かな部屋に喉の音が響いた。
「隣の部屋に綺麗なねーちゃんが引っ越してきたことがあったよな。男を連れ込む度に俺たちは布団を壁際につけてよお」
「はは、せやったなぁ、確かあの時は――」
 依織はそう言いかけてはっと口をつぐんだ。
その時のことはよく覚えている。狭い布団に男二人で寝転んで、隣から聞こえてくるかもしれない甘い喘ぎ声に期待をして、馬鹿みたいに興奮していた。しかし、期待していた女の喘ぎ声は壁が厚いせいで全然聞こえず仕舞いだった。若い男が二人、性欲を持て余してしまったのが悪かった。あれは事故というか、事件というか、兎に角、二人はそのまま間違いを犯した。
初めて暴かれた体。快感とは程遠い、体が真二つに裂かれるかのような苦痛に泣き喚いたというのに、何故かその後も何度も同じ行為を繰り返した。血に濡れた日常の中で、「好き」と言えば、「俺も好き」と返ってくる安心感の中毒だったのだろうか。一度踏み越えてしまった一線の先にある快楽の泥沼に身を沈めていた。ただ、なにも考えずに。
 生々しい記憶がぶわりと蘇り、耳の先まで真っ赤に羞恥に焼かれる。ふと、匋平を見ると、彼も同じタイミングで同様のことを思い出しているのか、やけに熱に浮かされた瞳と目が、合って、そのまま、暫く二人は見つめ合った。次の言葉を探り合う永遠のように長い数秒間。何を言うべきか、何を言えば正解なのか。探しあぐねるもどかしさに耐えきれず、依織の方からぱっと視線を外した。あかん。これは、あかん。
「俺、もう帰るわ」
「もう身体大丈夫なのか」
「旦那が看病してくれたおかげで、すっかりご機嫌さんや」
よっこいしょういち、と。そういって勢いよく立ち上がったもののカクンと膝の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。匋平のため息が聞こえる。
「あーもう、全然だめじゃないか」
「あかん、腰が抜けてしもうた……。でも、そろそろ帰らんと家族が心配、うぐ、っ」
 突然、また割れそうな頭痛に襲われ頭の中で声が響き始める。
『滑稽な、家族ごっこ』
 乾いていた額から再び冷や汗が吹き出して、目の前が暗くなりそうな感覚に、気を失わぬよう唇を噛み締めた。
「もしかしてトラップ反応か」
「ちゃう。雨やし、偏頭痛なだけや」
「強がるな、顔真っ青だぞ。お前、トラップの時のためにこの部屋を借りてんのか?」
 浅はかな強がりと、部屋を借りた理由。どちらも図星を突かれてしまい、適当な言い訳を吐こうと見切り発車で開いた唇は、はく、と空気を吐き出しただけで言葉にはならなかった。沈黙はこれ以上ない肯定の証である。匋平は呆れた顔でふぅと二回目のため息をついた。
「家で籠ってりゃいいじゃねぇか。過保護な舎弟も付いてることだし」
「そんなこと言うたって、昔とは違うんやから、泣き言なんか言えるわけあらへん」
自分が不甲斐なかったせいで守れなかった組の仲間たちのためにも、ズタボロに傷ついても自分を信じ、血だまりの中から再び立ち上がってくれた子供たちのためにも、弱った背中など見せられるわけがない。大船に乗ったつもりで付いてきいやと、大袈裟すぎる演技に、騙され続けていて、欲しい。
『そんなの見た目だけの泥舟だ』
「う、ぁ」
 また頭の中の声が一層強くなる。うるさくて脳が割れそうだ。焼きゴテでかき混ぜられているように痛む。少しでも気を抜けば、「うるさい、黙れ」と叫んでしまいそうな衝動に、唇を強く噛み締めて耐えた。幻聴を黙らせることに必死になっている間に、匋平がぐっと距離を詰めていることにも気づかないくらい余裕を失っていた。
「おい、大丈夫か」
 いつの間にか、目と鼻の前まで詰め寄っていた匋平に、頬をそっと包まれ優しく上を向かせられる。自分を見下ろす懐かしい瞳に、射抜かれてしまう。男らしく角ばった、けれども繊細な指先が、依織の噛み締められた唇をなぞった。
「唇、血が出てるじゃねぇか。口あけろ」
与えられる苦痛以外の感覚に、依織の緊張が少しだけ解け、薄く唇を開いた。と、同時に、匋平の唇が触れる。
「ん、ぅ!?」
 騙されたと思った。戯れのようなキスを二、三度繰り返した後、驚きと戸惑いで半開きのままの口に、熱い舌が差し込まれ、じゅる、と音を立てて吸われる。唇から滲んだ血液も唾液と一緒に絡め取られて、かき混ぜられて。鉄の味もすらも興奮に変わる。あつい、熱い、あつくてかなわん。頭の中がぐつぐつと茹だる感覚に、自然と腰が浮く。これは、本当に、あかんことになった―――。逃げ回る舌も丁寧に絡みとられて啜られる。かつて何度もキスを交わした時の記憶が蘇り、次は上顎を舐めるだろうと考えていると案の定ざらりとした舌先が依織の上顎をノックした。男の手順をすっかり覚えている事に羞恥を感じ、逆に少しだけ脳の熱が、冷える。トラップ反応から逃れるために家を出て、こんなことになって、俺なにやっとんねやろ。ぐっと匋平の胸を押し返して腕の中から逃げ出した。
「…っ、やめろって」
「真青だったけど、血色よくなったな」
「ふざけんな、俺は帰るって言ってるだろ」
「はは、やっと胡散臭い関西弁やめたな。そっちの方がいい」
 指摘されて初めて、自分が標準語を話したことに気づき、思わず両手で口を覆った。トラップ反応と、この男の対応で余裕が無くなっていたのだ。恥ずかしい。標準語なんて、久しぶりだった。一体、誰のせいだと恨めしそうに睨みつけると、「よくできました」と言わんばかりに頭をぽんぽんと撫でられた。
「なんや、ちょっと口滑らせただけやんか……相変わらず意地悪な男やなぁ、勘弁したってやぁ」
 負けじとこてこての関西弁で返してやると、苦笑いを讃えていた匋平の顔が、一変、獰猛な顔へと豹変する。そういえば、匋平も相当な負けず嫌いだったことを思い出し、煽り文句を言ったことを後悔した。
「お前こそ。相変わらず落としがいのある男だな」
 ぐっと胸を押され、既に体力が尽きかけている非力な体は容易に押し倒され、布団に縫いとめられてしまった。
「旦那。俺な、トラップ反応で体が思うように動かへんの。お前のことぶん殴りたいけど力がでえへんのや。どいてくれる?」
 匋平が自分の上に乗り上げる重みで、お世辞にも柔らかいとは言えない布団の海へと体が沈む。
「やめてほしいか」
「当たり前やろ、だって俺たちはもう」
「辛い。助けて。って言えたらやめてやるよ」
「絶対に言うたらんわ」
「じゃあ、覚悟するんだな」





二人の男の荒い呼吸が静かな六畳一間に響く。
「あっ、あ……、あかん、そこ、いやや」
 胸の突起を触れるか触れないかのタッチで指の腹で転がされると、むず痒いような、でもそれだけではないような複雑な感覚に身を捩る。
「嫌?こんなに尖らせておいて?」 
「ひっ」
 硬く尖った先端をカリ、と爪先でひっかくように刺激されて、悲鳴のような高い声が漏れた。弄られたところから弱い電流が走り、ちりちりと脳を生焼けにするようなもどかしさに、思わず浮いてしまう太腿。それをも、匋平に片手で撫で上げ、押さえつけられて、行き場を失う。
「っ、あ、ッ」
 乳首をじゅる、と音を立てて根本から舐め上げられると、これ以上悲鳴はあげまいと噛み締めた唇が再び緩み声が漏れた。舌先で押しつぶしたり、転がしたり、好き勝手に翻弄されるうちにもどかしさはすっかり快感に塗り替えられてゆく。
「あっ……、ぁ、やめっ……ぁっ……ぁ、んあッ」
 きつく吸い上げられて、ぷくりと腫れ上がった乳首が桃色に色づき唾液で濡れて妖しく光る。柔らかくもない男の胸なんて吸って一体何が楽しのだろうか、とぼんやりと匋平を見下ろす。そうは言っておきながら、男の胸にもかかわらず刺激されることで女のような声をあげてしまう体に呆れる。自分のものとは思えない甘ったるい嬌声が恥ずかしくて、依織は右の人差し指をカギ状に曲げ、第二関節あたりを噛み締めて耐えた。
「う、ぐ、ふ、……う、う」
「ばか。噛むなよ、傷がつくだろ」
 唇から歯形が浮かんだ指を絡め取ると、そのまま恋人のようにシーツに縫い付けられる。栓を失った唇からは不覚にも再び甘ったるい声が漏れ出て依織の羞恥心を煽った。
「だめ…や。声…がまん、できへん」
「そうやって我慢してたらしんどいだろ。辛い、助けてって言っちまえよ」
「う、……ぁ、ふ、…それ、は、絶対、言わへんよぉ」
「強情だなぁ、それとも」
それは、やめて欲しくないってことか。
 砂糖を煮詰めたような甘い低音で囁かれ、ぐらりと目眩がした。びくびくと腰が勝手に痙攣する。声だけでこんな、恥ずかしい。やめて欲しくないわけ、じゃ、ない………たぶん。
まだ頭痛も鳴り止まないし、幻聴だって響いている中で、苦痛と快感を交互に感じて脳がおかしくなりそうだ。こんなの苦痛にだけ耐えているだけの方がまだマシなように感じる。でも、もう泣き言なんか絶対に吐かないと腹を括った手前、弱音なんか吐けない。一度弱音なんて吐いてしまったら、どこまでも自分は弱くさせられて、この男に縋ってしまいそうだ。別れた男と、今更そんなこと、絶対にあっちゃいけない。きっと、際限なく甘えてしまうだろうから。昔の自分じゃいられないのだ。旦那に助けられて甘やかされていたあの頃には戻っちゃいけないのに。
ぐるぐると思考を巡らせていると、胸を弄っていた匋平の手のひらが腰骨へと移動し、仰向けに縫いとめられていた体をぐるりと反転させられ四つん這いの姿勢を取らされた。
「ちょ、なん?旦那、ね、……やだ、……この姿勢、あァッ」
 匋平が背後から腕を回して来たかと思うと、スウェットの端から手を差し込み、すでに立ち上がっている陰茎を探り当てられ握られる。透明な液体を流しながら、いまかいまかと待ち侘びていた正直な体。背中に匋平の体が密着してどうしようもなく熱い。どうか、この暴れる心臓の音を悟られなければいい。
「ふは、どろどろ」
「っあ、あ、あかん。や、触らん、といて、やっ」
 制止も虚しく、先走りで滑りのいい陰茎を根本から先端まで上下に擦り上げられると、ぬちり、といやらしい水温が響く。粘度の高い快楽の水の中に、沈んで、溺れてしまいそうで、息が続かない。
「あっ…あぁあ゙っ……う、あっ、あっ」
 気持ちいい。蕩けてしまう。て、あかん、流されとるやん、自分。なんとか逃げようと前へ這いずり出るが、目の前はコンクリートの、壁。前にも後ろにも逃げられない行き止まりの状況に、せめて少しでも快感を逃がそうと壁に手をついて、爪を立て引っ掻いた。
「う、ゔ、ぁっ、あ゙っ」
「昔もよくやってたな、それ」
 匋平が喉の奥で笑うが、まったく、笑い事じゃない。昔もこうして後ろから与えられる快感から逃げるために壁に爪をたててがりがりと引っかいていた。だから、猫でも飼ってるかのようや傷が壁に残っていた。結局今も昔と同じことを性懲りも無く繰り返して、阿保みたいだ。なんも成長しとらんやんけ、何やっとんのや、ほんま。こんな無様な姿を家族が見たらどう思うだろうか、呆れかえるだろうか。
また、割れそうな、頭痛。
「昔のお前はもっと素直だったじゃないか。もっとああして、こうしてって」
「や、んっ、……あっ、言わんといて」
 匋平の指先が、蕾の上をトンと突く。
「――ひ、」
 これから与えられるだろう快感の予感に、依織は身を強張らせた。無いはずの胎がずくりと疼く。
「力抜けよ」
「や、やめ、あかん、て、慣らして、ない、の、に、や、ぅ、ぁあ゙ぁっ」
 つぷり。硬い爪先と指先が強張りを切り裂くように暗い胎へと潜る。圧迫感に押しつぶされないよう、長く深く腹の底から息を吐いて耐える。
「は、ぅ……、はーっ、はーっ」
 もともと排泄器官でしかないそこは、多少唾液や先走りで濡らしたところで、大した緩衝材にならない。匋平と別れてからというもの、誰のものも受け入れてこなかったソコはすっかり固く閉ざされていて、異物の侵入を拒むようにきゅうと匋平の指を締め付けた。
「せま」
「だ、って、……旦那、と、別れてからこんな、こと、誰とも………っ、――してこなかったから」
消えそうな声で呟くと、背後からごくりと生唾を飲み込む音。
「煽るなよ」
 声色に余裕がなくなったのを感じたと共に、指が第二関節あたりまでずぷりと進められる。その指の先端が前立腺付近を掠める位置だということに気付いて身震う。
「はっ、ア、ッう、いやや、あかん。怖い」
「すぐ慣れる」 
 そんな、無責任な。抗議したかったが、そんな余裕はなかった。現に何年ぶりかに無理に押し広げられたにもかかわらず、待ち侘びていたとでもいいように急速に解こされてゆく。
「あ、っ、あっ、ひっ」
 ぐち、と聞くに耐え難い水温を立てながら抽挿を繰り返されて、頭痛も、幻聴も、快楽と喘ぎ声に上書きされて。与えられる過ぎた刺激に黒髪をぱたぱたと振り乱してイヤイヤと主張しても開拓する乱暴な指は止まらない。
「旦那、い、イキそ、だめ、イキそ、だから、」
 頭がホワイトアウトする直前で、もう気持ちがいい以外何も考えられない。早く、出したい。いきたい。解放されたい。のに、匋平の指は明らかに依織の一番良い部分をあえて避けるように動いている。
「あ、あっ、あ、だめ、だめ、それじゃ、いけない、ばか、やろ、ふざけ、」
「つらいか」
「ん、んん!……あっ…あっ、あ!つ、つらいっ」
「もうだめか」
「だ、だめっ、……むりっ…………やめっ……あっぁ、もう……イきた…」
「助けてほしいか」
「ッ、そんな、意地悪、すんな、ばか」
「依織、かわいい」
 名前で呼ぶなんて、ずるい。武装した西訛りも、立場も全部奪われて。身ぐるみを剥がされ裸の自分を晒されて。頭も呂律も回らなくて、ただどうしようもなく、無様に女のような鳴き声をあげて、恥ずかしくて。濁流に飲まれて前後不覚の快楽の渦の中、こんなの違う、いけない、辛くて、苦しくて、怖くて、たまらないのに。どうしようもなく、気持ちがいい。相反する感情に頭が混乱して、狂った様に助けてくれと泣き叫んだ。前も後ろも右も左も、なにもかもわからない、半狂乱になって。
「たすけて、たすけて、匋平、もう、づらぃ゙ッ、いかせて、おかしくなる、からっ、もう、だめ、助けて、おね、がい、たすけて、おれを」
「よくできました」
 その言葉に、目尻に溜めていた涙が堰を切ったように頬を伝う。ああ、ついに言ってしまった。
陥落。匋平はそれを見届けると、先程まで指先で掠めるようにして避けていた前立腺への一撃をこのタイミングで叩き込む。依織の体がビクビク跳ねる。目の前にバチバチと火花が飛んで、脳が焼き切れる。もう、気持ちいいなんて、可愛らしい感覚じゃない。過ぎた快楽刺激に狂ってしまいそう。
「あぁ、あ゙、よ、へい、ようへい゙、も、もぉイ゙くっ………おれ、も、だめ、みた、いっ……たすけて、たすけ、て」
 死ぬ。死んでしまう。ガクンと引き攣る身体。白い喉をのけぞらせて、枕を握りしめて、シーツを蹴り上げて。脳が、脳細胞がぷちぷちと焼ききれてしまって、壊れる。全てが快楽に塗り替えられて、目の前が、真っ白に。頭痛はとうに快感に塗り替えられた、陥れる頭の中の声も自分の喘ぎ声でかき消された。泥濘に足を取られてどこまでも沈んでいってしまいそう。二度と落ちまいと決意した底無し沼に、落ちて、しまう。こんなの、俺じゃない。助けて、欲しい。二度と浮上できないかもしれない。のに、自分の欲望に身も心も任せて沈んでいくことが、こんなにも、心地いいだなんて。

「ぁ、―――ッ、よ、う、へぃ」
「依織。俺が、助けてやる。ぶっとんじまえ」
「―――あ゙ぁッあ゙ッッ!」
 落ちていく最中、自分が、自分を、見下ろしている。さぞかし、嘲笑っていることだろう。なのに、なぜか、先程、裏路地で見たような、憐れんだ表情ではなかった。俺は俺を、許してくれるんやろか。
『許すも、何も』
 そう言われた気がした。





ドカンという爆発音にも似た轟音で意識を取り戻した。真っ白な世界から、まだ浮上し切らない意識でもう一度、ドカンという音を聞いた。
「ん?誰かにドア叩れてる?」
「無視しときゃいいだろ」
 布団にくるまって寝タバコを蒸している匋平が面倒くさそうに答えた。裏家業に長らく身を置いていた二人はこの程度の事で恐怖を覚えはしない。しかし、扉を叩く音は収まるばかりか、一層と大きく早くなっていく。さすが近所から通報されそうなほどの大きな音で、これ以上居留守を決め込むのは無理がありそうだった。深夜に扉をぶち破られるなんて真似、かつて自分たちが行ってきた荒業だったが、いざされる側になると煩わしくて仕方がない。仕方ねぇ出るか、と匋平が怪訝な顔を浮かべる。依織は、扉を叩いているだろう人物を想像して、くふ、と小さく笑った。
「あ?何笑ってんだよ」
「たぶん…翠石組の襲来だぜ」
「はぁ?」
 
匋平は散らばった衣服をかき集めると速やかに身を整え、玄関に向かった。翠石組の襲来だと笑った依織の言葉を思い出すと気が重い。騒がしいことになりそうだ。一呼吸置いて、ゆっくりと鍵を回した。その瞬間、勢いよく扉が開いて、ガチャンと引きちぎられんばかりにロックチェーンが伸展する。鎖の長さ分開かれたドアの隙間から、琥珀色の瞳が匋平を捉えた。
「…神林さん、こんばんは」
「…俄然じゃねぇか、どうした」
柔らかな物言いだったが、声は地鳴りのように低い。これが、カタギの人間であれば、体を震わせて命乞いの準備を始めるかもしれない。匋平とて少しばかり、怯む。
「若は、ここに居るんですよね?」
翠石組が依織を迎えに来たというなら、素直に差し出してやるつもりだった。この面倒臭くて、手のかかる、儚い生き物を、標本にしてでも大切に保護しておけ、と。素直に、易々と、手放すつもりだった。しかし、どういうわけか匋平はこの男の要望に素直に従うことができなかった。依織なら、奥にいるぞ、そう喉まで出かかった言葉を生唾と共にゴクリ、と飲み込んでしまった。
「ここにはいねぇけど」
 自分だけのものだったのだ。かつて。匋平は腹の底から湧き上がる独占欲と激しい怒りの炎に飲み込まれようとしている自分に気づく。ちゃんと依織を見張っとけと忠告したにもかかわらず、さめざめと見逃して路地裏で倒れさせるような男に右腕を名乗る資格はない。お前に、依織を守れるのか。依織は俺だけのものだ。たった今、自分のところまで落ちかけている依織を、返してやりたくなんかない。
チェーンロックの合間から自分を睨みつける瞳を睨み返す。と、次の瞬間ブチンと派手な金属音を立ててチェーンロックが千切れた。俄然が力任せにドアを蹴破ったと理解するのに数秒。腕っ節なら俺も負けてないとバーで大口切ったあれは、ハッタリじゃなかった。
「お、お前! 嘘だろ!」
「一発殴っても?」
 返答など待たずに、俄然の拳が握られる。咄嗟に受け身を取ったが、顔の前にクロスした腕ごと吹き飛ばされそうな気迫だった。

「善。俺はここや。堪忍したって」

 すっかりと衣類を整えた依織が、呑気に顔を出すことで張り詰められた緊迫が解かれた。依織の無事を確認するなり、俄然の目から怒りの色がすう、と消えていく。
「若」
「ちょっとな、雨宿りさせてもろてん」
「あ、そう、だったんですね。すみません」
 男子、俺のために争わんといてやぁ〜。とへらへら笑っているが正直冗談じゃないと匋平は思った。俄然の拳には手加減など一才込められておらず、まともに食らえば無事では済まなかっただろう。
「ほなな、旦那。ありがとう」
 依織の表情はすっかりと『翠石』に変わっていて、口調も胡散臭い関西弁に戻っていたが、晴れやかであった。結局、依織は最後は振り返らなかったし、匋平も引き留めることはしなかった。
『家で待ってろ言うたやろ』
『しかし。若の目は追ってこいと言っていた気がしましたので』
 二人の会話が聞こえ、遠ざかる。右腕を名乗る資格など、自分にこそ、もう、とっくにない、と自嘲気味に笑う。いま彼の隣に並ぶのは、匋平ではない。けれども、降り注ぐ雨の傘にくらいなら、まだ、なれるだろうか。

『ちょっとな、雨宿りさせてもろてん』

依織の言葉を胸の奥に飲み込んで、匋平はアパートを後にした。




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