短編

水晶の下で会いましょう



 ——あのエミリエンヌ公爵令嬢がお茶会を主催するのだそう。
 そんなありふれた日常の些細な断片が社交界を騒がせたことには、相応の理由があった。
 それは公爵令嬢という大層な肩書きを持つエルミーヌ・エミリエンヌがこの十六年間、一度も表舞台に姿を見せたことがないためであった。
 「娘の病状が快方に向かっており、社交界に送り出す日も遠くない」と、父である公爵は一年ほど前から吹聴していたが、その言葉を額面通りに受け取るような心の美しい者がいたのであれば、この社交界ではとっくに食い潰されているに違いない。ありふれた祝福の言葉は権力へと捧げられ、その笑顔の下で胸中では誰もが、噂の公爵令嬢の襤褸が暴かれる様子を観劇のように期待していたのであった。



 
「エルミーヌ嬢はほんとうにお可愛らしいお方ですね」

 うっとりとした声色で語る令嬢の方へと顔を向けて、エルミーヌは少し困ったような顔をして、頬を愛らしく桃色に染めた。

「そう……かしら。皆さんこそ、眩いばかりに明るくいらして。わたしなんかとお話して、つまらなくはないかしら。ドレスだって、流行遅れではないかしらって、どきどきしてしまって」

 いじらしくカップの縁を指先で撫でるエルミーヌの姿に、令嬢は小さな動物を愛でる時のように、ひとつ高くした声を弾ませて手を打った。
 
「あら、益々可愛くなられて! 皆様ご覧になって? 舞踏会なんかに出席にした暁には、貴方に目を奪われない殿方なんていらっしゃらなくてよ」
「そんな、良い縁談が舞い込んだらお父様にも恩返しができるのだけれど……それよりも、今は優しい皆さんとこうして出会えたことに感謝がしたいですわ」

 社交界の抱く期待とは裏腹に、エミリエンヌ公爵令嬢の主催するお茶会は和やかな空気の中行われた。
 公爵邸の一室、淡く可愛らしい少女好みのティーセットや繊細なお茶菓子を前に、いくつもの蕾が花開くようにして年相応の笑い声が響き渡る。
 彼女の家柄に取り入ろうと、空虚な賛辞を述べるようなことは誰も思い浮かびさえしなかった。
 出会いの喜びに胸を熱くし、ほろほろと紅茶に蕩けてしまいそうな儚く慎ましい彼女のことを、誰もが心より好ましく思ったからだ。

「エルミーヌ嬢と古くから知り合えていたらと、夢想してしまいますわ」
「きっとあなたにとってはつまらないわ……お父様がお外に出ることを許しませんから」
「それでもお友達になりたいわ! あたしったらこの間、小さな子供のようにお父様に叱られたの。なんて言われたと思います? 『お前はバネの飛び出たがらくたみたいだから誰かにそのネジをしっかりしめてもらえ』と! エルミーヌ嬢と知り合えていたのなら、それは淑やかに育って、お父様は泣いて喜んだことでしょう!」

 活発な令嬢が演劇さながらに大きな身振りで語ると、場はたちまち賑やかな笑いに満たされた。

「ですが……ほんとう、その通りですわね」

 同調を示したはずのその言葉で背筋に緊張が走る感覚を、令嬢達はよく知っていた。鳥籠で大切に育てられたエルミーヌを守るべく、周囲の視線は一斉に鋭さを帯びる。向けられた刃を気にも止めず、伯爵令嬢である彼女は形の良い笑みに相応しく、形の良い言葉を並べた。
 
「以前、公爵邸にはお父様に連れられて足を運びましたけれど、とてもご令嬢がいらっしゃるようなご様子とは思えませんでしたの。……ですけれど、エルミーヌ嬢のように嫋やかで素敵なお方ならそのはずですわね。ほら、こんなふうにお喋りをしているだけで、子鳥の囀りに耳を傾けているかのようでしょう……」

 ——エルミーヌ・エミリエンヌは公爵家の私生児ではないか?
 誰かが密やかに零した呟きは、いつしか公然の事実として知れ渡ることとなった。
 いくらエルミーヌが病弱であったとしても、愛娘の誕生を父である公爵は勿論、祖父にあたる先代公爵さえ誰にも告げなかったこと、口を閉ざす気の弱い公爵夫人の様子は証拠の裏付けには十分であった。
 純然たる貴族の誇りを持ち、伯爵令嬢は目の前のエルミーヌを嘘にまみれた裁かれるべき罪人として、断罪の場に連れ出す。目を丸くしたエルミーヌの姿が滑稽に思えた。

「まあ」

 だけれど、伯爵令嬢の期待とは裏腹に、次に返ってきた反応は随分と気の抜けた、緊張感のないものだった。

「あなたってまるで詩人のよう。なんだかお恥ずかしいわ」

 紅茶を口に運ぶ所作は優雅そのもので、粗や微かな揺らぎさえ見られない。
 エルミーヌは投げかけれた意味の通りに、ただ受け取った。それ以上を探ることも、それ以下も知らないかのように、無垢にお返事をした。

「お父様が、それは大切にしてくださるの。わたしの身体のこともありますでしょう。そのことを今も気にかけてくださって……割れ物の人形に触れるかのように優しくされると、気恥しいのですけれど」
「そうよ、エルミーヌ嬢、今度は私の主催するお茶会にいらして! こんなにもか細くあってはまた倒れられてしまいますわ」

 エルミーヌの言葉一つで、お茶会は伯爵令嬢を置き去りに元の賑わいを取り戻し、大成功と呼ぶに相応しい形で幕を下ろした。
 しかし伯爵令嬢が彼女の純真さに答えた結果だと素直に飲み込めないのは、間違いなくあの場を掌握していたのがエルミーヌ本人だという事実であった。

「ご令嬢」
 
 馬車へと向かう伯爵令嬢の背を、溶けきらない砂糖のような声でエルミーヌが呼び止めた。

「わたし、今日のことはきっとお父様にお話いたします」

 心臓を掴まれるかのような、どきりと冷えるような心地を覚えた。振り向けば変わらず、甘ったるい笑みを飽きずに浮かべる馬鹿なエルミーヌがいて、胸を撫で下ろす。
 公爵夫妻のどちらにも似つかない顔立ちで堂々と笑う姿が、どうしようもなく浅ましく映った。
 
「……光栄に存じます。ですけれど、一介の貴族令嬢のお話だなんて……公爵様を退屈させてしまわないかしら」
「あら、お父様はわたしのお話ならどれほど小さな出来事だって素敵に笑って聞いてくださいますのよ。それに、謙遜はよしてくださいませ。……あんなふうにお優しい言葉で、わたしを褒めてくださったのに」

 安心させようと、エルミーヌは伯爵令嬢の手を取った。彼女の一挙一動はどこまでも好意的で、儚く、弱々しい。献身的に愛を与え世話をしないと死んでしまいそうな小さな鳥のような姿は、まるでここ公爵家で生まれた由緒正しい世間知らずのご令嬢に相応しいもののようだった。
 だからこそ思わずにはいられない。封蝋に閉ざされた真実のことを。この言葉の裏に丁寧に重ねられた真意のことを。

「……とても退屈で……寂しいのです。またわたしと、こうしてお話ししてくださる?」
「公爵令嬢ともあれば周囲には人々が絶えないことでしょう。わたくしにも運が巡ってくるのでしたら、いずれはまた」
「わたしたちが貴族令嬢である限りは、そう遠くないうちに叶えられる願いですわ……まあ、引き止めてしまったかしら。……それでは、両家の栄達を願って」

 エルミーヌが手を離してからのことを、令嬢はあまり覚えていない。汗をかいた手が心地悪く感じて、馬車に乗り込んでからは真っ先に手袋を外して。それから……。
 
「さようなら、伯爵令嬢。ああ……わたし、公爵家に産まれることができてよかった……」

 夢見心地に呟くエルミーヌの言葉が延々と、悪夢のように脳に絡みついていた。

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