短編

春について



 春は美しい。花々の舞踏、香気の誘い、そして溢れんばかりに降り注ぐ陽光の祝福を受け、誰もが春を恋しく想い、愛することになる。恋した者達は告白の代わりに、鮮やかな花の種をそっと大地に落として、キスをする。そうして新たな色が芽吹き、全ての者に愛された春は季節が巡り彼らの元へ訪れる度に、その彩りを増していった。
 幼い頃両親に買って貰った、三十六色セットの色鉛筆。宝石箱のようだった。幼少に知る世界の全てだった。それらが物足りなく思えてしまうほどの、色のメヌエット。女神のような美しさと、妖精のような無邪気さ、母のような嫋やかは、混色しようと到底表せはしない。
 であれば、産声をあげた当時のまっさらな春は、何色をまとっていたのだろう……。

「熱い視線だね」
「自覚してるさ」

 群星のような声でいて、やはり一人の少年の物だった。噴水の縁に腰を掛けたリエヴルの横に、スターリィロードが座る。少年の歩いた道を、いつだって星はきゃらきゃらと笑って追いかけた。
 視線の先ではマザー・オールドガーデンがバレエを踊っている。
 
「きみの恋敵が踊りだなんて……不思議な恋もあるものだね」
「そうだろう。普段はどれ程遠くにいてもいたずらな風が追いつくよりも早く飛び込んでくるのに、一度踊り始めたら一瞥もしないんだ」
 
 オールドガーデンの高く優雅な跳躍に呼応して、ロマンティック・チュチュがふわりと開花する。裾に神経と心が宿り、まるで彼女と共に踊っているかのように。
 鮮やかな着地と共にトウシューズが地面と拍手をした。ターンをすれば花吹雪が彼女に合わせて円を描き、舞う。リエヴルが庭園の背景に視線を滑らせると、いくつかの花は既に全ての花弁を失い、散っていた。自らを華やかに飾る装飾の、その全てを喪失したとしても誰もが彼女との共演を望んでいる。全ての愛の中で、オールドガーデンは誰より幸せそうに踊っていた。

「あの作品の名前は?」
「バレエ・ブランのレ・シルフィード、かな。俺もバレエは詳しくないけど……あの子が昔見せてくれてね。……本当、なんで覚えてるんだか」

 珍しく外界について言及する彼の面差しを、スターリィは遠慮を知らず覗き込んだ。その表情は何とも言い難い。悲哀か、怒りか、はたまた、切なさか。
 ――つまらない。もっと胸を晴らすような、面白いものが見れると思っていたのに。
 期待はずれの反応に興が冷め、自分を見つめ返すこともしないリエヴルへの関心を失い、スターリィは大好きな母親へと視線を戻した。
 
「あ……花が」

 幕が降りるのと同時に、オールドガーデンの髪と手を繋いでいたはずの小さな花のひとつが、迷い子となりはらりと儚く地に落ちる。
 気が付いてしまえば、たちまちその愛らしい顔は悲しみに染まるだろう。慈悲深い手を船の形に差し伸べて、声も出せないのにいつまでもほろほろと泣いてしまう。自分の涙で小さな花が溺れてしまわないように、いつまでも抱きしめてしまう優しい人。
 スターリィは、ほぼ反射的に立ち上がった。しかし、それよりも早くリエヴルがオールドガーデンの傍へと向かっていた。手には、何処からか摘んできた、小さく白い花を持って。その後を、流れ星の軌道に沿ってスターリィが追いかける。

「それはなんてお花?」
「知ってるくせに」
「知らないよ。パパ、教えておくれ」

 わざとらしく呼ばれる名前に苦い顔をすれば、やっとスターリィはやっと満足気に歩を早めた。意地の悪い息子を持ったものだ。博愛的で機械的なスターリィロードは、いつもリエヴルに対してのみ、こうして何かを試すように不敵に振る舞った。その理由を知っていて、リエヴルは少し面倒そうに、観念したかのような溜息をつく。
 一時の間、彼まで迷子になってしまったような。覚束無い口から、大切そうにその名を呼んだ。

「……エーデルワイス」
「ああ、それを取り上げることはしないんだね」
「こればかりは仕方がない。出会った時から変わらず、彼女は嫌という程高貴な白が似合うんだ」

 エーデルワイス、高貴な白。雪の結晶のようで、眩い星の煌めきのような。可憐で儚い容姿に反して、力強い母の花。
 
「僕にはそれが、鍵の形をしているように見えるけれど」
「奪えないなら、埋め尽くせばいいだろう」

 ――この庭園の鍵は君でなければならない。
 スターリィは、もうその言葉に何の反応を返すこともしなかった。気が付けば、彼女の足元にあった哀れな花は何処にも無くなっている。
 従順な足取りは、諦観ではなく受容だった。柔らかい髪に花を編まれ、幸福な花嫁のように微笑むオールドガーデンの姿が、母親を想う息子にそうさせている。リエヴルはしたり顔で、スターリィの耳に口を寄せた。

「俺をパパと呼ぶのなら、もっといい子にできるだろう?」
 
 ここに、春の精が宿る永遠の庭園を作ろう。
 春は美しい。花々の舞踏、香気の誘い、そして溢れんばかりに降り注ぐ陽光の祝福を受け、誰もが春を恋しく想い、愛することになる。恋した者達は告白の代わりに、鮮やかな花の種をそっと大地に落として、キスをする。そうして新たな色が芽吹き、全ての者に愛された春は季節が巡り彼らの元へ訪れる度に、その彩りを増していった。
 幼い頃両親に買って貰った、三十六色セットの色鉛筆。宝石箱のようだった。幼少に知る世界の全てだった。それらが物足りなく思えてしまうほどの、色のメヌエット。女神のような美しさと、妖精のような無邪気さ、母のような嫋やかは、混色しようと到底表せはしない。
 そんな美しい春であれば、誰も、君でさえ、元の色など分からなくなるだろう。
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