短編

無垢なる、愛の鳴る
 


 朝も、昼も、夜もない。白光に満ちるまばゆい世界に生まれ落ちた。祝福の鐘の音にも似た、そんな歌に出迎えられて。
 ちかちか、きらきら。無数に浮遊する光たちがあれほどまでに燦爛として煌めくのは、愛されているからだ。ゆえに、愛しているからだ。愛を知る者は、熱を抱いて、愛しいものが迷わぬように、ひときわ強く、美しく輝くことができるからだ。
 
 今はそれを、運命と呼ぶことにした。それでも足らないほどの、奇跡だった。
 戦争のない、飢餓のない、孤独のない——等しさを帯び、個を失くした世界で、きみを見つけ出せたあの日にこの身に駆け巡った、よろこびと、さいわい。知らないはずの夜明けのような、知っているはずの愛を学び直していくような出会い。より相応しい言葉は、何処に身を休めているのだろう。きみも世界のどこか深いところで、待ち人を想い、心地よい午睡に身を委ねているのだろうか。あの日の私のように、運命を待ちわびて。
 泣きそうな顔をして、きみは私を見つめていた。同じ目をして、私も、きみを見つめていた。


 
 

「お母様、どうしましょう。このままじゃ、アリアの目がとけて無くなっちゃうかもしれないわ」

 建て付けの悪いこの家は、風が吹けば窓はかたかたと音のなる楽器へと変貌し、それぞれの家具へと合奏を誘う。
 一家が特別貧しいわけではない。花は萎れて、実は付かず、そうして季節が巡る度に、ひとつ、またひとつと、この大地へと寄せる期待を誰もが手放した。寂寥の棚引くこの小国では、隣の家も、そのまた隣の家も。誰もが同じような暮らしを営んでいるはずだ。
 そんな生活の中でも惜しみ無く窓から降り注ぐ昼光は、この古びた家と、その家族を照らし十分に満たしている。とくべつを塗るのはこんなにも小さく簡単だということを、彼女たちはごく自然に知っていた。
 だからだろうか、服の裾を軽く引っ張られた母親は、「あらまあ」なんて、まるで緊迫感のない、のんびりとした声色で台所仕事を中断した。子供の涙ほど優先するべきものは、この世の母親には無い。小さくて、一粒の涙で溺れてしまうかもしれないから。
 使い古して硬くなったタオルで水気をまとう手を拭って、そうしてからやっと、涙に濡れた顔へと膝を折って向き合った。
 
「アリア……アリアドネ。今度はどうして泣いているの?」

 アリアドネと呼ばれた幼い女の子は、大きな瞳いっぱいに涙を浮かべながらも、それを拭おうとはしなかった。癇癪を起こしているのでも、機嫌が斜めになっているのでもない。どこか毅然として、柔く白い頬に沿って、絶え間なくほろほろと涙を零し、ただ静かに泣いていた。

「マリアと、手を繋げたから。マリアの手、凄く柔らかいの。暖かいの」

 息をつめながら、アリアドネが言う。
 繋いだままの手に力を込めて、体温を、感触を確かめる。小さなてのひらが結ばれる。光を閉じ込める。幸福が平等に広がっている。

「血が巡ってる。熱を生み出して、生きようとしてる。気付いたの、温かいものに触れると心臓を包むように熱が伝わるのはどうして? ママ、まだ、わたくしでさえ知らないことがあるの。たくさん。感情は波打って、膨らんで、簡単に形を固定できないの。でもそれが美しいの」

 透明にも似て、飴玉を舌で転がした時の、広がる甘味にも似た声が心臓に膨らんだ想いを吐露する。まだ幼さの残る角のない音で、自身の感情を正確にすくい上げて、相応しい言葉に指を滑らせる。
 アリアドネの聡明さは、同年代の子供や、双子であるマリアンヌとはまるで比べ物にならなかった。
 目を輝かせて絵本の読み聞かせをせがんだその口から世界の裏側を覗き見たように才知が咲く。青い草を踏みしめた擽ったい足裏は未だ無垢であるのに、最前へと駆ける一歩を惑うことはしない。知識を助長させる書物だなんてとても高価で手に入らなかったのに、そんなものが無くても、なんだって知っていた。大人だって知らない、世界の縁を撫ぜるような彼女にませているという言葉はあまりに的外れだった。
 それは、両親にとっては誇らしさと同時に、ささやかな懸念でもあった。才知に富むが故に、大切な子供時代の足枷になってしまわないか。あるいは、狡猾で強欲な大人に都合よく振り回されてしまわないか。
 たとえ、いつかアリアドネが歴史に名を刻む偉人になろうと、地球の外から来た生命体であろうと、両親にとって何ものにも変え難い、愛しい我が子に変わりはないのだから。
 金色の髪、白く揺蕩うワンピース。ひかりの衣はまっしろなこどもの正装。いつかは誰もが持っていたもの。その糸がほつれないように、繊細に腕の中に閉じ込めた。

「ママもそう思うわ、アリアドネ。愛が教えてくれる熱は、太陽よりも、暖炉の火よりも、喉を通るホットミルクよりもはやく駆け巡って伝わること。何故かしらね、愛するって、不思議なことね」
「うん、不思議。愛してるって言葉じゃまだ足りない気がするのに、愛してるって言葉だけで満ち足りている気もする。だから、あんまり幸せだから、涙がでちゃうよ……」

 母親は慈しみを持って、アリアドネの光に透けた髪をささくれの立つ指先で丁寧に梳いた。丸く小さな、愛を知る賢い頭にも慈しみと祈りを込めてそっとキスをする。
 その様子に胸を満たされたマリアンヌも続いて、アリアドネの涙に濡れた頬にキスを贈る。もちろん、大好きな母親の頬にも。仕事に出ている父親が帰宅したら、同じ分だけ愛を記そう。そんなことを考えて。
 もう随分と遠い昔のこと、フェルテノ帝国が小さな国であり、魔法が眠る、捨て置かれた地だと囁かれた頃。そんな幸福が、こじんまりと佇むこの家には遍満していた。


 
 
「だからね、お母様も言っていたのだけれど、アリアって泣き虫なのよ。わたくしがいてあげないとね、だめなの。可愛いでしょう?」

 広いベッドの上、輪を作るように集まった四人は思い出話に花を咲かせていた。肘をついて寝転がっていたマリアンヌが、ぱたぱたと泳ぐように足を揺らめかせる。
 
「それ本当にアリアドネの話……?」

 腑に落ちないと言いたげに、ルカが首を傾げる。
 今はもうマリアンヌだけが知る少女時代のアリアドネの話は、友人にも近しいルカとマーガレットが知る今の姿とはとても結びつかないほどにかけ離れていた。
 広大な土地を統治するフェルテノ帝国。強い信仰心が根付くこの国で教皇という上座に収まったアリアドネは、その地位に見合い高慢だった。人々の幸福に慈悲を差し伸べ、次の瞬間には値踏みをする。長い年月を生きた割にはあどけなくて、相反する印象が人ならざるもののような錯覚と恐怖心を引き起こし、無防備にはなれない。
 今でこそ、マーガレットとルカは彼女を我儘で、厄介。なんて単純に形容できるけれど、アリアドネを一目見た国民が得た印象は大方そのようなものだった。

「え、脚色していない? 本当の話? アリアって泣くの?」
「ちょっと、人を血を涙もないみたいに言わないでよねー?」

 疑いを向けるマーガレットに、アリアドネはぷくっと頬を膨らませる。千年以上の時を生きた存在に似つかわしくない幼い仕草は、彼女が与える少女らしい印象を際立たせた。

「人間は子供の時の記憶なんてあやふやだもんね」

 自分が人間じゃないみたいに……と言いかけて、マーガレットは言葉をつぐんだ。本当にそうなのかもしれない、そう思って。例え人間だったとしても、神に愛されたアリアドネなら言葉も知らない赤子頃から全ての記憶が明瞭であると言われても、嘘では無い気がした。

「愛しているもの。苦しいくらいに愛しくて、身に余るような喜びが涙になることもあるでしょ」

 頬を撫でられたマリアンヌが、心地よさそうにその手に擦り寄る。
 マーガレットは、相変わらずアリアドネに対する僅かな苦手意識を捨てられずにいた。だけれど、アリアドネが愛を語る姿は素直に好ましく思えた。
 普段よりも一段落ち着いた声で、ずっと静かに、胸の内に生まれ続ける感情を、大切に、真摯に、噛み締めるように。発言が無遠慮で自己中心的で、理解に戸惑うこともあるけれど……この瞬間だけは理解者でいられる、理解者でいてくれる。そんな気がしていた。

「もう寝ようよ。マリアはたくさん寝ないと日中うとうとして会話にならないんだから」
「でもね、でもねアリア。まだ少しも眠くないんだもの」

 気がつけば、時刻は夜の11時を指していた。
 腕に抱きついてまだ寝たくないと駄々を捏ねるマリアンヌを、半ば強引に寝かせる体勢に導く。ご機嫌を取るように、アリアドネはその瞼に唇を近付ける。反射的に、マリアンヌは目を瞑った。
 
「子守唄を歌ってあげる」

 音が空間に混ざり余韻まで溶けきる頃には、マリアンヌとルカはすっかり夢の世界へと身を委ねていた。短い一節であっという間に二人が眠りについたのは、アリアドネの妖精のように澄み切った、自然の音色に似た人々を癒す不思議な声のおかげなのだろう。
 規則正しい寝息が、きょうだいのように重なっていた。

「……歌っていたの、帝国の童謡……じゃないよね」

 マーガレットが、瞼を半分ほど閉じながらもアリアドネに問いかける。木琴のようにコロンとした可愛らしい声が、微睡みにふやけていた。
 
「気になる?」
「うーん……うん。変に聞こえるかも知れないんだけど……」

 何を思ったのか、マーガレットがふわりと笑う。

「不思議、聞いたことのないはずの歌なのに。懐かしくて、心が暖かくなったの」

 ふわぁ、と大きく欠伸をして、そのまま静かな寝息がまたひとつと並んだ。
 ようやく眠ったこどもたちを起こさないように、アリアドネはそっと上体を起こす。マーガレットの顔にかかった髪に手を伸ばすと、柔らかい天使の羽で撫でつけるように、微笑みを浮かべて指先を滑らせた。

「マリアもそう言ったよ」


 
 
 愛してる、そう神様は私に囁いた。
 天国には音こそあれど言語を必要としないから、あいしてるだなんて言葉は、存在しなかったのだけれど。そう……だから、あれは歌に似ていた。幸福を胸へと直接注ぎ込まれるような、そんなあたたかい歌だった。
 ――運命を知った日のことを覚えている。
 初めて視線を交わした日のこと。私たちだけの愛を知った日のこと。交わした約束と、起こした革命のこと。それから産声をあげた日のことを、覚えている。例えきみが、そのどれもを思い出せなくなってしまっても。
 この世界で互いの鼓動に触れ、名前を呼んで、姿に触れた日のことも、きっときみは成長と共に忘れてしまう。だけれど、私だけは覚えている。こぼれ落ちてしまわないように、あなたの分までたいせつに両の手に抱きしめている。
 あの日の調べを、きみが愛した人々へ。愛を忘れそうになってしまった、硝子の上のきみたちへ。いつでも私が歌ってあげる。
 
 私がちゃんと覚えているから、大丈夫だよ。
 
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