短編
従順ナイトにご用心
その側仕えは普段通りに皇帝の命令に従い、いくつかの書物を手に取り忠犬よろしく主の元への帰路を辿っていた。
一周するだけで足に強い負担をかけそうな皇宮の図書館でも、皇帝の優秀な側近に渡されたメモにより、迷うことなく順調に目当ての本を見つけ出すことが出来た。達筆な文字に向けて思わずありがとうございます、とお礼を零したほどだ。
だからこそ、耳を疑った。ご機嫌に執務室の扉を開いた時、その側近が口にした言葉に。
「僕、退職します」
「えっ」
日々多くの人で賑わう宮殿の廊下。その中でも頭一つ分抜けた彼自身が目印となり、見失うことは早々ない……という点では幸いと言うべきだろうか。それでも長い脚に置いていかれないようにと、男は人々のざわめきに負けないよう、恥をかくこともやむを得ず目印に届くよう大きく声をはりあげた。
「いっ、イアン様。お待ちください、イアン様!」
イアンは雪のように幻想的な長い髪を揺らして、声の元を捉える。自分から彼の元へ向かうことはなく、息を切らした彼を見下ろし、誰もが見惚れるような微笑を褒美のように浮かべた。
「おや……随分汗をかいていらっしゃいますね。僕に何か?」
「何かではなく、困りますよ! イアン様に退職されたら陛下のしわ寄せが僕に……いえ、僕なんかでは偉大な陛下の補佐は務まりません!」
「あら、では僕がすり減っていく様を鑑賞するおつもりなのですね」
「あなた、そんなに繊細では無いでしょう……」
男の必死の訴えも虚しく、冗談を返すイアンの様子からは何一つ響いていないことが伺える。
彼らが住まうフェルテノ帝国の皇帝、レオンティウスは政治手腕に長けた人物ではあるものの、民を想う心を知らず……端的に言えば、人使いが荒い。そのくせ周りに人を置くことを厭い、一部の優秀な人材を少人数揃えるといった、激務を強いる鬼であった。
イアンはそんな皇帝に認められ、彼自身喜びながら、補佐に護衛、その他諸々……与えられた仕事の全てを限界を知らないかのように器用にこなしている。それほどまでに万能で超優秀な側近を逃したら最後、使用人のバランスが崩壊……最悪過労で死人すら出てしまう! だからこそ、彼はこんなにも必死に息を切らしてイアンを追いかけていた。
目を潤める男を見たイアンは彼の心情を気にかけるように眉を下げる。
「うーん……でも、すみません。晴れて自由の身になったと浮かれて、散歩の約束もしてしまいましたし、転職活動もしなければいけませんから」
「散歩!? 犬とか飼ってたんですか。いや、ペットと散歩の約束とかしますかね。しかも、退職が受理されたのたった数分前でしょう」
希望を打ち砕かれた男はがっくりと肩を落とすが、イアンがはいと頷くまで諦めるつもりはないようだった。
これはこれで面白い……しかし、後のスケジュールに支障が出るのはよろしくない。
名残惜しい気持ちを隠して釣れないマドンナのように、イアンはフッと意地悪に目を細める。
「野暮な人」
「まぁ、ここがメトロシェット!どこもかしこも華やかで素敵。あたくしこんな国に産まれたかったわぁ」
退職から約二週間が経過した今日、以前であれば皇帝の傍に仕えていたはずのイアンはとある縁により他国の公女、ペネロペを守る剣となっていた。
あらゆる物が魔力を動力にして作動し、魔法の飛び交うメトロの中心部は毎日が鮮やかに彩られた祝祭パレードのようで、観光客を持て成すには打って付けという訳である。国力を象徴する場でもあるため一部では悪趣味だと囁かれるものの――まだ幼いペネロペは瑞々しい葡萄の瞳を素直に輝かせて、辺りをうっとりと見渡している。
「公女様の国は芸術に富んでいらっしゃいますから、景観では帝国に劣らないでしょう?」
「そうね、悪くはないけれど……いいえ、そんなことはいいの、はやくこのあたくしに見合う店にエスコートしてちょうだいな。見た目だけ華やかに飾った街だなんて言わないでしょう?」
騎士と無駄口を叩く気は無いと言わんばかりに、ペネロペは小さな口をつんと尖らせ、自慢の艷めく金色の髪をかきあげた。しかし簡素に返事をしたところで今度は帝国の騎士は話がつまらないと、権力を笠に着た幼い貴族らしく嫌味をぶつけるつもりなのだろう。
「仰せのままに。愛らしく可憐なお嬢様に、きっとご満足いただけるかと」
――今日はきっと退屈しないでしょう。
まるで一生の忠誠を誓う騎士のように。ずっと小さく手入れの行き届いた手を取って、イアンはキスを贈る。その唇に浮かんだ真意を決して悟られないように。
「あぁ楽しかった! 絵本で描かれるような魔法の町に来たみたいだったわ」
「我が国が公女様のお気に召したようで何よりです」
購入したばかりのラベンダーカラーのドレスをふわりと風にはためかせてはしゃぐペネロペに軽く礼を送り、イアンは受け取った品物を魔法で彼女が泊まる皇城に転送する。正しく座標を登録しなければいけない高難易度の魔法だったが、ペネロペの視線は空を飛び交うユニコーンの馬車に向けられている。童話から飛び出したような魔法にしか興味が無いようだった。
ライトアップされる街を見届けて、ペネロペは声色に好意を滲ませて彼に呼びかけた。
「……ねぇイアン。あたくしあなたが気に入ったわ。なかなか満足のいくエスコートをするじゃない? ですから、騎士として国に連れ帰ってあげることもやぶさかではなくてよ」
帝国を観光する間、彼女は様々な嫌がらせをイアンに仕向けた。
「見上げるばかりで首が痛い」「犬のように跪いてもらうのも悪くない」と侮辱すれば「それも悪くないでしょう」と涼しい顔で膝を付き、「ヒールで連れ回すから疲れた」と言えば「予想より遥かに、姫君のように愛されて育ったようですね。僕の不徳の致すところです」と眉を下げて踵の低い靴を魔法で何処からか調達してくれた。
そして、見目麗しく従順な騎士を従えることが叶えば、それは買い与えられた質の良い宝石と同じように自身のステータスとなり、社交界での地位を確立してくれるだろう。帝国旅行の自慢話より、彼女はなによりもイアンを手中に収めたくなっていた。
イアンは僅かに目を見開き、そして白馬のたてがみのようなまつ毛を静かに伏せる。国を繋ぐ誘いに真摯に答えを述べるべく、丁寧に、そして上品にお辞儀をしてみせた。
「興味深いお誘いではありますが、遠慮いたします」
「……え?」
期待外れの答えに、ペネロペは裏切られたような顔をして、怒りを隠しきれずに身体を震わせる。
「なっ……なんですって? あなた、あたくしのこと誰だとお思いなの。あなたは一介の騎士、そしてあたくしは貴族よ。国王陛下の姪よ、王家に継ぐ権力を持った公爵家の娘よ! あたくしに仕えるということはね、それほど誉れ高きことなのよ!」
「ええ。それを踏まえたうえで、僕はあなたのわがままを聞いて差し上げる義務はないと申し上げています」
帝国民は強い愛国心を持っているため初めに戸惑いを見せることは想定内であったし、いざとなれば、圧力をかけることも手段の内だった。しかし、目の前の男は貴族に仕える栄誉は愚か、そんな迷いすら一つだって感じられていないように思えた。
開いた口が塞がらないペネロペを見て、イアンは言葉を続ける。
「先程、身分について触れていらっしゃいましたね」
「……それが何?」
「外交の場において、如何なる立場にあっても互いに敬意を示すことが最も理想的ではありますが……あえて身分を持ち出すのであれば、その点に関しても僕が上回っていると言えるでしょう」
イアンが一歩距離を詰めたことで、ペネロペに大きな影が差す。不信感を露わにして影の原因を見上げる。彼はもう、彼女のために姿勢を曲げてはくれなかった。
「改めてご挨拶いたしましょう。僕はグレイ家の長子であり、一級魔道士のイアン・グレイと申します」
「……え?」
純粋な少女は耳を疑う。背中が水をかけられたように冷えていく。
だって、彼が言ったことに嘘がないのなら。
「一級魔道士です。貴族と魔道士は同等の権力を持つと言われていますが……ね、貴方も無知ではないのなら、わかるでしょう?」
フェルテノ帝国に所属する魔道士と外国の貴族は対等に扱われている。しかし、それはあくまでも外面的に。
帝国の機嫌を損ねて魔道士の派遣を絶たれてしまえば、それは死に直結する。魔物討伐において帝国に依存している国はみるみるうちに血に染まり、帝国の領土として喰われてしまうだろう。戦争を起こしたところで、優秀な魔法使いを抱える国に武力で叶うはずもないのだから。
それでもフェルテノ帝国が外国に手を差し伸べる理由は、あくまでも対外的な印象の為にほかならない、というわけであった。
「て、帝国では腕の良い騎士を付けていただけるよう頼んだって……お、お父様は言っていたわ」
「はい、騎士の称号を持っているのは事実です。以前は皇帝陛下の側近という立場で仕えていましたが、事実上護衛騎士でもありましたから」
生まれてこの方、ペネロペは何かに恐れることを知らなかった。公爵家、それも国王に可愛がられる姪という地位に誰もが彼女に媚びへつらい、自分は死ぬまで苦労などせず、甘いケーキと豪奢なドレスに包まれて花の如く高貴に死にゆくのだと思っていた。
――だというのに、どうして。
ペネロペは今、人生最大の危機を自らの手によって引き起こしたことを、政治についてなんてちっとも考えようとしなかったその頭で、必死に理解していた。
顔を合わせた朝と変わらず、イアンは端正な笑みを優しくペネロペに向けている……はずなのに。不思議とその瞳が、刃物のように冷たい鋭さに感じられて、思わず視線を下げる。新調したドレスが、力の入らない体にはやけに重たく感じられた。
「ああ、下を向かないで。愛らしいお顔をよく見せてください」
イアンはそう言って、ペネロペの顎にそっと手を添えた。今にも倒れてしまいそうな彼女の顔色に慈しむような表情を返したが、そこにはどこか好奇心の色が滲んでいる。
「悪い大人たちはいつでもあなたを取って食う瞬間を狙っています。それが煌びやかな輝きを放つ舞台であるほど、光の影に息を潜めて」
ここは魔法の国で、だけれど決して御伽の世界などではないと、騎士は忠告を促す。しかし目の前の騎士もまた、悪い大人の一人なのだと、優しい響く声は無知を惑わす毒なのだと、世間知らずの姫は知ってしまった。
「もっ、もう帰る……じゃなくて、皇城へ戻りますわ。あたくしどうにか、馬車を呼んでまいりますから、イアン様はお待ちになっていて……」
「釣れないことを言わないで。僕が今日をどれほど楽しみにしていたのか、お嬢様は知らないでしょう?」
背中を向けようとしたペネロペの手を、イアンはワルツをリードするように軽やかに引いてみせる。
魔法の光がいっそう美しく輝く特別な夜に、このまま飲まれることしかできないのだと、逃げることを諦めて、姫君は身を委ねた。
「復職しました」
「お待ちしておりましたイアン様〜〜〜!!」
たった数週間城を離れただけだというのに、側仕えの男には濃い隈が滲んでいる。頬ずりでもするような勢いの男を軽く静止して、彼が戻ってくることを平然と受け入れていたレオンティウスは頬杖を付きイアンに問いかけた。
「それで、小さなお姫様は高いヒールを履けるようにはなったかい?」
「ええ、とびきりの靴をプレゼントさせていただきましたから。きっと、お似合いになるでしょう」
「え? 待ってください、僕の知らない何かを感じているんですけど」
事の経緯は、親交を重ねていた国から甘やかされ傲慢に育った令嬢に少々痛い目を見せてやってほしいとの個人的な頼み事に、イアンは王族に継ぐ地位を得るために魔道士に転職したとのことだった。最もイアンは魔道士として働いていた時代に、皇帝から側近にと引き抜かれたため、実力が保証されている以上大した苦ではないのだろう。
「わ、悪い大人だ……」
「これを悪だと感じるのなら、君は廷臣をやめた方がいいだろうね」
「そんな事言わないでくださいよ。お給金良いんですもん」
二人のやり取りを見守っていたイアンに、レオンティウスは手招きをする。
「というわけで、君に褒美をあげよう」
「おや、出勤して早々そんなお言葉をいただけるとは。僕の献身が陛下のお心に触れることもあるのですね? 寛大なお心遣い痛み入ります」
レオンティウスの耳打ちに、イアンは満たされていくように目を細める。
長い髪を垂らして、忠誠を表すように膝をつく。
「陛下の仰せのままに」
その側仕えは普段通りに皇帝の命令に従い、いくつかの書物を手に取り忠犬よろしく主の元への帰路を辿っていた。
一周するだけで足に強い負担をかけそうな皇宮の図書館でも、皇帝の優秀な側近に渡されたメモにより、迷うことなく順調に目当ての本を見つけ出すことが出来た。達筆な文字に向けて思わずありがとうございます、とお礼を零したほどだ。
だからこそ、耳を疑った。ご機嫌に執務室の扉を開いた時、その側近が口にした言葉に。
「僕、退職します」
「えっ」
日々多くの人で賑わう宮殿の廊下。その中でも頭一つ分抜けた彼自身が目印となり、見失うことは早々ない……という点では幸いと言うべきだろうか。それでも長い脚に置いていかれないようにと、男は人々のざわめきに負けないよう、恥をかくこともやむを得ず目印に届くよう大きく声をはりあげた。
「いっ、イアン様。お待ちください、イアン様!」
イアンは雪のように幻想的な長い髪を揺らして、声の元を捉える。自分から彼の元へ向かうことはなく、息を切らした彼を見下ろし、誰もが見惚れるような微笑を褒美のように浮かべた。
「おや……随分汗をかいていらっしゃいますね。僕に何か?」
「何かではなく、困りますよ! イアン様に退職されたら陛下のしわ寄せが僕に……いえ、僕なんかでは偉大な陛下の補佐は務まりません!」
「あら、では僕がすり減っていく様を鑑賞するおつもりなのですね」
「あなた、そんなに繊細では無いでしょう……」
男の必死の訴えも虚しく、冗談を返すイアンの様子からは何一つ響いていないことが伺える。
彼らが住まうフェルテノ帝国の皇帝、レオンティウスは政治手腕に長けた人物ではあるものの、民を想う心を知らず……端的に言えば、人使いが荒い。そのくせ周りに人を置くことを厭い、一部の優秀な人材を少人数揃えるといった、激務を強いる鬼であった。
イアンはそんな皇帝に認められ、彼自身喜びながら、補佐に護衛、その他諸々……与えられた仕事の全てを限界を知らないかのように器用にこなしている。それほどまでに万能で超優秀な側近を逃したら最後、使用人のバランスが崩壊……最悪過労で死人すら出てしまう! だからこそ、彼はこんなにも必死に息を切らしてイアンを追いかけていた。
目を潤める男を見たイアンは彼の心情を気にかけるように眉を下げる。
「うーん……でも、すみません。晴れて自由の身になったと浮かれて、散歩の約束もしてしまいましたし、転職活動もしなければいけませんから」
「散歩!? 犬とか飼ってたんですか。いや、ペットと散歩の約束とかしますかね。しかも、退職が受理されたのたった数分前でしょう」
希望を打ち砕かれた男はがっくりと肩を落とすが、イアンがはいと頷くまで諦めるつもりはないようだった。
これはこれで面白い……しかし、後のスケジュールに支障が出るのはよろしくない。
名残惜しい気持ちを隠して釣れないマドンナのように、イアンはフッと意地悪に目を細める。
「野暮な人」
「まぁ、ここがメトロシェット!どこもかしこも華やかで素敵。あたくしこんな国に産まれたかったわぁ」
退職から約二週間が経過した今日、以前であれば皇帝の傍に仕えていたはずのイアンはとある縁により他国の公女、ペネロペを守る剣となっていた。
あらゆる物が魔力を動力にして作動し、魔法の飛び交うメトロの中心部は毎日が鮮やかに彩られた祝祭パレードのようで、観光客を持て成すには打って付けという訳である。国力を象徴する場でもあるため一部では悪趣味だと囁かれるものの――まだ幼いペネロペは瑞々しい葡萄の瞳を素直に輝かせて、辺りをうっとりと見渡している。
「公女様の国は芸術に富んでいらっしゃいますから、景観では帝国に劣らないでしょう?」
「そうね、悪くはないけれど……いいえ、そんなことはいいの、はやくこのあたくしに見合う店にエスコートしてちょうだいな。見た目だけ華やかに飾った街だなんて言わないでしょう?」
騎士と無駄口を叩く気は無いと言わんばかりに、ペネロペは小さな口をつんと尖らせ、自慢の艷めく金色の髪をかきあげた。しかし簡素に返事をしたところで今度は帝国の騎士は話がつまらないと、権力を笠に着た幼い貴族らしく嫌味をぶつけるつもりなのだろう。
「仰せのままに。愛らしく可憐なお嬢様に、きっとご満足いただけるかと」
――今日はきっと退屈しないでしょう。
まるで一生の忠誠を誓う騎士のように。ずっと小さく手入れの行き届いた手を取って、イアンはキスを贈る。その唇に浮かんだ真意を決して悟られないように。
「あぁ楽しかった! 絵本で描かれるような魔法の町に来たみたいだったわ」
「我が国が公女様のお気に召したようで何よりです」
購入したばかりのラベンダーカラーのドレスをふわりと風にはためかせてはしゃぐペネロペに軽く礼を送り、イアンは受け取った品物を魔法で彼女が泊まる皇城に転送する。正しく座標を登録しなければいけない高難易度の魔法だったが、ペネロペの視線は空を飛び交うユニコーンの馬車に向けられている。童話から飛び出したような魔法にしか興味が無いようだった。
ライトアップされる街を見届けて、ペネロペは声色に好意を滲ませて彼に呼びかけた。
「……ねぇイアン。あたくしあなたが気に入ったわ。なかなか満足のいくエスコートをするじゃない? ですから、騎士として国に連れ帰ってあげることもやぶさかではなくてよ」
帝国を観光する間、彼女は様々な嫌がらせをイアンに仕向けた。
「見上げるばかりで首が痛い」「犬のように跪いてもらうのも悪くない」と侮辱すれば「それも悪くないでしょう」と涼しい顔で膝を付き、「ヒールで連れ回すから疲れた」と言えば「予想より遥かに、姫君のように愛されて育ったようですね。僕の不徳の致すところです」と眉を下げて踵の低い靴を魔法で何処からか調達してくれた。
そして、見目麗しく従順な騎士を従えることが叶えば、それは買い与えられた質の良い宝石と同じように自身のステータスとなり、社交界での地位を確立してくれるだろう。帝国旅行の自慢話より、彼女はなによりもイアンを手中に収めたくなっていた。
イアンは僅かに目を見開き、そして白馬のたてがみのようなまつ毛を静かに伏せる。国を繋ぐ誘いに真摯に答えを述べるべく、丁寧に、そして上品にお辞儀をしてみせた。
「興味深いお誘いではありますが、遠慮いたします」
「……え?」
期待外れの答えに、ペネロペは裏切られたような顔をして、怒りを隠しきれずに身体を震わせる。
「なっ……なんですって? あなた、あたくしのこと誰だとお思いなの。あなたは一介の騎士、そしてあたくしは貴族よ。国王陛下の姪よ、王家に継ぐ権力を持った公爵家の娘よ! あたくしに仕えるということはね、それほど誉れ高きことなのよ!」
「ええ。それを踏まえたうえで、僕はあなたのわがままを聞いて差し上げる義務はないと申し上げています」
帝国民は強い愛国心を持っているため初めに戸惑いを見せることは想定内であったし、いざとなれば、圧力をかけることも手段の内だった。しかし、目の前の男は貴族に仕える栄誉は愚か、そんな迷いすら一つだって感じられていないように思えた。
開いた口が塞がらないペネロペを見て、イアンは言葉を続ける。
「先程、身分について触れていらっしゃいましたね」
「……それが何?」
「外交の場において、如何なる立場にあっても互いに敬意を示すことが最も理想的ではありますが……あえて身分を持ち出すのであれば、その点に関しても僕が上回っていると言えるでしょう」
イアンが一歩距離を詰めたことで、ペネロペに大きな影が差す。不信感を露わにして影の原因を見上げる。彼はもう、彼女のために姿勢を曲げてはくれなかった。
「改めてご挨拶いたしましょう。僕はグレイ家の長子であり、一級魔道士のイアン・グレイと申します」
「……え?」
純粋な少女は耳を疑う。背中が水をかけられたように冷えていく。
だって、彼が言ったことに嘘がないのなら。
「一級魔道士です。貴族と魔道士は同等の権力を持つと言われていますが……ね、貴方も無知ではないのなら、わかるでしょう?」
フェルテノ帝国に所属する魔道士と外国の貴族は対等に扱われている。しかし、それはあくまでも外面的に。
帝国の機嫌を損ねて魔道士の派遣を絶たれてしまえば、それは死に直結する。魔物討伐において帝国に依存している国はみるみるうちに血に染まり、帝国の領土として喰われてしまうだろう。戦争を起こしたところで、優秀な魔法使いを抱える国に武力で叶うはずもないのだから。
それでもフェルテノ帝国が外国に手を差し伸べる理由は、あくまでも対外的な印象の為にほかならない、というわけであった。
「て、帝国では腕の良い騎士を付けていただけるよう頼んだって……お、お父様は言っていたわ」
「はい、騎士の称号を持っているのは事実です。以前は皇帝陛下の側近という立場で仕えていましたが、事実上護衛騎士でもありましたから」
生まれてこの方、ペネロペは何かに恐れることを知らなかった。公爵家、それも国王に可愛がられる姪という地位に誰もが彼女に媚びへつらい、自分は死ぬまで苦労などせず、甘いケーキと豪奢なドレスに包まれて花の如く高貴に死にゆくのだと思っていた。
――だというのに、どうして。
ペネロペは今、人生最大の危機を自らの手によって引き起こしたことを、政治についてなんてちっとも考えようとしなかったその頭で、必死に理解していた。
顔を合わせた朝と変わらず、イアンは端正な笑みを優しくペネロペに向けている……はずなのに。不思議とその瞳が、刃物のように冷たい鋭さに感じられて、思わず視線を下げる。新調したドレスが、力の入らない体にはやけに重たく感じられた。
「ああ、下を向かないで。愛らしいお顔をよく見せてください」
イアンはそう言って、ペネロペの顎にそっと手を添えた。今にも倒れてしまいそうな彼女の顔色に慈しむような表情を返したが、そこにはどこか好奇心の色が滲んでいる。
「悪い大人たちはいつでもあなたを取って食う瞬間を狙っています。それが煌びやかな輝きを放つ舞台であるほど、光の影に息を潜めて」
ここは魔法の国で、だけれど決して御伽の世界などではないと、騎士は忠告を促す。しかし目の前の騎士もまた、悪い大人の一人なのだと、優しい響く声は無知を惑わす毒なのだと、世間知らずの姫は知ってしまった。
「もっ、もう帰る……じゃなくて、皇城へ戻りますわ。あたくしどうにか、馬車を呼んでまいりますから、イアン様はお待ちになっていて……」
「釣れないことを言わないで。僕が今日をどれほど楽しみにしていたのか、お嬢様は知らないでしょう?」
背中を向けようとしたペネロペの手を、イアンはワルツをリードするように軽やかに引いてみせる。
魔法の光がいっそう美しく輝く特別な夜に、このまま飲まれることしかできないのだと、逃げることを諦めて、姫君は身を委ねた。
「復職しました」
「お待ちしておりましたイアン様〜〜〜!!」
たった数週間城を離れただけだというのに、側仕えの男には濃い隈が滲んでいる。頬ずりでもするような勢いの男を軽く静止して、彼が戻ってくることを平然と受け入れていたレオンティウスは頬杖を付きイアンに問いかけた。
「それで、小さなお姫様は高いヒールを履けるようにはなったかい?」
「ええ、とびきりの靴をプレゼントさせていただきましたから。きっと、お似合いになるでしょう」
「え? 待ってください、僕の知らない何かを感じているんですけど」
事の経緯は、親交を重ねていた国から甘やかされ傲慢に育った令嬢に少々痛い目を見せてやってほしいとの個人的な頼み事に、イアンは王族に継ぐ地位を得るために魔道士に転職したとのことだった。最もイアンは魔道士として働いていた時代に、皇帝から側近にと引き抜かれたため、実力が保証されている以上大した苦ではないのだろう。
「わ、悪い大人だ……」
「これを悪だと感じるのなら、君は廷臣をやめた方がいいだろうね」
「そんな事言わないでくださいよ。お給金良いんですもん」
二人のやり取りを見守っていたイアンに、レオンティウスは手招きをする。
「というわけで、君に褒美をあげよう」
「おや、出勤して早々そんなお言葉をいただけるとは。僕の献身が陛下のお心に触れることもあるのですね? 寛大なお心遣い痛み入ります」
レオンティウスの耳打ちに、イアンは満たされていくように目を細める。
長い髪を垂らして、忠誠を表すように膝をつく。
「陛下の仰せのままに」
5/5ページ