短編

信心、愛を込めて



 ――人はなぜ愛を知っているのだろうと。ただ子孫を残していくことが生物の使命であるのなら、愛は必要だったのだろうかと、ふと考える瞬間がある。刻み込まれた生存本能を超えて、時に自らを犠牲にしてしまうほどの衝動に身を預け、突き動かされ……それでも幸福だと言い切ってしまえるような、そんな感情を。

「神様が教えてくださったからよ」
「……と、教皇聖下と聖女様は仰ると耳にしました」

 近年、突如として姿を現した神の力を授かった聖女――マリアンヌ様はそう言って、確信めいた表情を浮かべた。
 足を悪くした祖母の付き添いで初めてベルーメ神殿に足を踏み入れ、見物がてらふらふらと歩を進めていた所、偶然出くわした聖女様が今も何故かぴったりと着いて来ている。早々お目にかかれるような身分のお方ではないと認識していたため驚いたものの、話を聞いている限り大神殿でそうは珍しいことではないようだ。
 日向で踊るように輝くのは金色の髪や瞳だけではなく、こちらを愛しているのだと伝えるように、慈愛に溢れたその表情がきらきらと光のように目に焼き付いた。大袈裟に感じていた噂が過小評価に感じるほど、信仰される理由のある人であった。

「正直なところ、私は神様と会話を交わした訳ではありませんし、当然見たこともありませんから。何故聖下がそう教えを説くのか到底理解できないのです」
「まぁ、わたくしと同じね。お祈りの時間にたくさんお喋りするけれど、お返事していただいたことはないのよ」
「ではどうして聖下と同じように仰るのですか?」

 そう尋ねると、聖女様は空を一瞥した後、迷いのない真っ直ぐな瞳を私に向けた。

「愛する人がそう言ったから」

 太陽の光を背負い、彼女はそう言った。さして大きな声では無いものの、母親の歌う子守唄のように、心に直接届くような、幸福を定義するような色を乗せて。

「わたくしは人の……ええと、本能? 欲求とか。物事を難しく考えるのって苦手。でもアリアが、愛する人が言ってるとそうなんじゃないかなって、ただ信じてみたくなるの」

 脳内に愛する人とたくさんの思い出を浮かべているのか、聖女様は今にもスキップをしだすかのような楽しげな靴音を鳴らして言葉を続ける。
 
「それにね、ママが言っていたの。あなたは産まれたその瞬間からずっと、アリアのことが大好きで仕方がなかったのよって! 考えるよりも前に知っていたのなら、思考の行き届かない場所に……わたくしの心臓に。呼吸よりも前に、神様が刻んでくださったのよ、きっとね」

 その時ふと、大神殿はこんなに温もりを覚える場所だっただろうか……と思考が過ぎり、はっとする。
 白大理石で建てられた神殿は隙がないほどに美しく、壮観で、異世界に来てしまったかのように何処か冷たい印象を与えた。しかし、彼女が言葉を紡ぐ度に、日差しが眩しさを増して、世界が一層美しく彩られていく……勘違いかもしれない。だけれどこうして、神殿は彼女によって信仰の対象に、国民の寄る辺になっていくのだろう。

「あなた、愛する人はいる?」

 その問いに、ある人物を思い浮かべて頷くと、聖女様は「幸福なのね」と微笑んだ。微かな緊張も弛み、随分と穏やかな気持ちになっていることに気が付いて、幸福と名付けられたその気持ちを密かに噛み締めた。
 
「なら信じましょう。わたくしたちは幸福を願われて……愛されたから、愛を知って産まれてきたんだって」

 信じて、祈って、初めて無から何かが産まれるのだと、彼女はそう言って、愛する人の元へ駆け足で向かった。
 聖女様のお話を聞いたところで、神様は見えないし、天声は私に囁かない。だけれど、だからこそ。そう信じることからまたひとつ幸福は芽吹いていくのかもしれないと。
 私たちは神様に幸福を願われ、愛されたから愛を知っている。なるほど、悪くない。幸せを象徴するような笑みをたたえる彼女の言葉を、私も信じてみることにした。
 
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