短編

おはようはまだ告げないで



 おはよう、ぼんやりとした意識の中、大好きな人の声を追いかけるように目覚めはやってくる。夢の終わりに震える私に朝を告げる、生クリームみたいに優しい甘さを含んだ貴方の声の、なんて甘美なこと。泣きたいほどに甘いのに、泣いちゃうくらい苦いのは卑しく浅ましい私のせいだ。永遠があったなら。運命が、確かなものがあったのなら。ううん、身勝手な自分を丸ごと土の下に埋めて、花の栄養にでもなれたなら、それはきっと救いであったはずなのに。

 

「最近、疲れているように見えるけど」
 
 ぎくり、分かりやすく顔を強ばらせる少女――ベロニカはどうにも隠し事が苦手なようで、丁寧にアイロンをかけたせっかくのエプロンドレスをきゅっと握りしめ、新たに皺を作っている。
 一頻りうろうろと宝石の瞳を泳がせ、下手な笑顔を作る姿に彼女の主人であるエレノアが苦笑すれば、少女は嘘を見透かされた恥ずかしさで薔薇の頬を更に色濃く染め、ぽつりぽつりと、まごつきながらやっと事情を話してみせた。

「ご心配をおかけして申し訳ございません……疲れがあるわけではないのです。ただ、少し寝不足で」
「ふぅん?じゃあ今日は早めに寝なきゃだね。あなたを解放してあげられるように」
「わ、私の事情で主人の手を煩わせるなんて、あってはいけないことでございます!」
 
 主人に気を使わせたことを悟った彼女は大きな瞳を震わせて、眉をぐんと下げる。そんな侍女の姿を見たエレノアがお嬢様らしからぬ勢いで吹き出せば、少女はぷぅ、と柔い頬を膨らませる。
 人形のような顔をした少女がころころと表情を変える姿は愛らしく、エレノアはそんな彼女が好きだった。
  
「わかったわかった。それより、せっかくの紅茶が冷めちゃうよ。あなたが選んだダージリンのセカンドフラッシュこそ、今のベロニカにぴったりなんじゃない?さぁ、落ち着くために、一口どうぞ」

 言われるがままに一口含めば、芳醇な香りと渋みが火照った脳に落ち着きを与えてくれる。茶葉が高級であればそれに見合った見事な水色は陽の光を取り込んで黄金に煌めき、正しくベロニカの努力の色を浮かべていた。

「とにかく、エレノア様の手を煩わせるほどのことは何も無いのです。本当に、何も」
「そう?一先ず、分かりました。でもねベロニカ。主人じゃなく、親友として聞くね。私に出来ることは、一つもないの?」
「……はい。今回のことは、エレノア様の手を借りずに成し遂げたいのです」

 今度こそ心からの笑みを浮かべる少女に、エレノアは僅かに顔を歪ませる。
 
「……苦いわ」

 そんな呟きは、少女の耳には届かない。




 大好きなアフタヌーンティーの予定を取りやめたエレノアは、あてもなくふらふらと庭をさ迷っていた。ベロニカには自由時間を与えている。彼女の顔を見ていたらなんだかあのまま、泣いてしまいそうな気がして。
 自慢の薔薇の庭園には見向きもせず、がむしゃらに歩を進めれば、ヒールが与える痛みにもう!と声を張り、ドレスが汚れるのも厭わずその場に座り込む。大好きなおしゃれも、甘いケーキも、華やかな花の香りすら、今のエレノアには煩わしかった。

「知ってるよ。運命も、永遠も、私にはないんだって」

 そう、知っている。ベロニカという夢見がちな少女が、いつかは己の手から離れて行くことを。自由な少女の真っ白な羽が頬を撫でた時、舌の上で留まってくれないチョコレートみたいに、夢は呆気なく覚めてしまうことを。そしてそんな自由な少女を愛した自分は、消してその手に縋れないことも。
 才色兼備なお嬢様。魔力も、家柄も、美貌も、才能も手にして、まるで皇后になるためだけに生まれてきたような少女。散々そう言われてきた。自身に課せられた運命の先にあるのは、望まない高貴な身分なのだと。けれど紫水晶の少女の前で、お嬢様は乙女であった。好きな子の前で一喜一憂し、好きな子との運命を願う、ただの恋する女の子なのだ。そして、夢を見るには乙女は少し、現実を知りすぎていた。
 顏を上げた先には魔法の温室がある。ここでは季節に囚われることなく、様々な花が枯れることを知らず、まるで図鑑のように咲き誇っている。エレノアは温室が好きでもあって、嫌いでもあった。自然の法則を無視して咲き続ける花達が可哀想で、その美しさに甘える自分が愚かしくて。
 魔法とは、あの子にとって夢だった。夢から夢へと橋をかける、きらきらと輝く魔法。なのに自分が使う魔法はどれも、呪いのようだった。そしてそんな呪いを込めた指輪を、彼女に差し出したのだ。今にも泣き出しそうな顔をして、縋るように温室の扉に手をかける。扉が開かれた瞬間、不思議と花ともお菓子とも違う、甘くて大好きな香りに迎えられた気がした。

「エレノア様?」
「ベロニカ……」

 ああ、今だけは会いたくなかったのに。そんなに眩しい笑顔を、見せないで欲しいのに。よりにもよってこの場所で、呪いのかけられた部屋で、あなたが咲くところを見たくはなかったのに。そんなエレノアの気持ちも知らず、ベロニカは駆け足でエレノアの元までやって来る。会いたくて堪らなかったと言うような笑顔で、ご機嫌にヒールの音を鳴らして。

「丁度良かった、渡したい物があるんです。はい、どうか受け取ってください。エレノア様」
「……え?」

 大したものじゃないけれど、気に入るかは分からないけれど、もじもじと言葉を付け加えた後、少女は呆然とする主人に向けて、とびきり可愛く笑って見せた。エレノアは彼女から丁寧に包装された袋に静かに目を移し、微かに震える声で問いかける。

「開けても、いいの?」
「はい、勿論」

 少女の返答を聞いてからエレノアは、彼女が包装した時よりも丁寧に時間をかけて、袋を開封する。中に入っていたのは上質な手触りのハンカチーフ。人差し指に伝わる糸の感触に刺繍が施されてることに気がつき、折り目を開いて、目を見張った。

「……えっ。えっ!?嘘、やだ、泣いているのですか!?
「泣くよぉ…………」

 少女にされるがまま涙を拭かれたエレノアは、もう一度ハンカチに目をやった。それには既製品でないことは明らかな、少し歪な黄色の薔薇の刺繍が施されている。他でもない自分のために、寝る間も惜しんで作ってくれていたのだ。針を刺した数だけ愛が伝わってくるような、なんて素敵なプレゼント。
 不思議な力も持たずとも、ベロニカには彼女だけの素敵な魔法が使えた。魔法使いになってあげたかったのは自分のほうで、けれどいつだってエレノアにとって、ベロニカは幸福を運ぶ魔法使いだった。

「このお屋敷に来てから、私はエレノア様から数え切れないほどの物を貰ったでしょう。だから何かお返しできないかとずっと考えていたんです。そのせいで心配かけちゃったのは、うう、自分でも情けなくて……ごめんなさい」
「お返しだなんて、いいのに。私はあなたが傍に居てくれるだけで……ううん、ありがとう。薔薇、好きだもんね。あなたらしくて、なんて素敵な刺繍なの……」
「はい。薔薇、エレノア様みたいで、好きなんです。だから刺繍をするなら絶対薔薇だって、真っ先に浮かんで」
 
 エレノアは、刺繍を目にした時よりも大きく、若葉の瞳を見開いた。だって彼女は、薔薇に嫉妬していたのだ。濃厚に蕩けるフォンダンショコラのようにうっとりとした少女の瞳を独り占めする黄色い薔薇に。それがまさか、自分と重ね合わせていただなんて!

「ねぇベロニカ。前に薔薇を育ててみたいと言っていたよね?」
「ええ、ひとりごとでしたのに。覚えていらしたのですね」
「一から育てる時間は取ってあげられないけれど、心変わりしていないのなら手入れを手伝えるように、庭師に伝えておくよ」
「……!ありがとうございます、エレノア様!」

 そう言ってベロニカは、どんな花よりも、とびきり可憐に笑みを咲かせる。その笑顔を見てエレノアは少し、救われた心地でいた。

「本当はね、次の予定の前にさっと、渡そうとしたのですよ?なのに、ここで会えちゃったんです。まるで、運命みたいに!」
「……本当にそうなら、ロマンチックだね」

 決して私が口に出来ないことを平然と言って退ける女の子。穢れなく、純白で、触れることすら躊躇うほど。そんな夢のような少女によって、夢の終わりは今日も引き伸ばされていく。だから私は、願うことを止められない。

 
 ――目覚めの準備は、またいつか。
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