第一章 calling you
page.3 美しい人へ
Ⅰ
白く飾られた冬木立には、春のみずみずしい葉の色のような黄緑色のリボンが等間隔に結ばれている。迷子防止のそれらを追い、在りし日を懐かしむように、木道の軋む感覚を靴裏に感じながら歩を進めた。白くペンキ塗りされた看板を越せば、遠くから天使が戯れるように、無邪気な子供たちの声がエルヴィンの赤く染った耳に届いた。
遠くのエルヴィンに気付いた目ざとい子供たちはみるみる瞳を大きくして、やがて顔をくしゃくしゃにして喜びを露にすると彼をゴールにして追いかけっこを始める。
――この先、オリエンス孤児院。
「子供たちと遊んでいただいてありがとうございました。ですが、雪も降るこの寒さですもの。一言声をかけてくだされば、私も室内へ入るよう促しましたのに」
「いいんです、オルガ院長。子供たちのおかげで身体は随分暖まりましたから」
悴んだエルヴィンの指先や真っ赤な顔を見て、孤児院の院長であるオルガが対照的に真っ青になったのはつい先程の事であった。そんな院長の心中を知る由もなく、子供たちはそれぞれ影に隠れたり堂々横に座ったりして、珍しいものを見るようにエルヴィンに視線を送っている。
視線の中心であるエルヴィンが懐かしむように応接間を一周見渡すと、見慣れた光景の他、クレヨン、絵の具などで描かれた絵や粘土細工や木彫りの人形であったりと、棚の上や壁にこじんまりと陳列した作品達が目に入った。それは小さな美術館のようで、エルヴィンは子供たちが一生懸命に取り組んだ時のことを想像して微笑ましい気持ちになり、展示品を一つ一つ目に焼き付けた。
大人の話し合いは子供たちを部屋の外へ送り出した後、ティーカップとソーサーから奏でられる茶器の音色と、子供にはまだ苦い、黄金の揺蕩う水色がカップを満たしたことを開始の合図とされた。
古くから交流のある相手とはいえ、平民が親しむような茶葉を貴族に振る舞うことには少々緊張を催したが、悟ったようにエルヴィンの方からアップルティーのリクエストがあった。
オルガは"それ"を選んだことに驚きはしたものの、「思えばずっと、誰かとその味を共有したかった」のだと気付き、それはエルヴィンも同じであったのかも知れないと。一つの仮定に、湯を沸かす時から既に紅茶を喉に通す時のような、胸の辺りに小さく温もりが灯されるのを感じていた。
「子供達も院長も、お元気そうで安心しました」
「それはもう、おかげさまで」
「近況を聞きに来たのです。最近は如何でしょう? 不自由を感じることがあれば、僕の義務でもありますから、どうぞ遠慮なさらず仰ってください」
「今も過分にご配慮してくださっているではありませんか。老眼が進んだせいでしょうか。たまにこの孤児院が、貴族の屋敷のように思えるのですよ」
オルガは鋭く釣り上がった目尻や眉を困ったように下げて笑う。
それは、エルヴィンの功績を立てるための誇張でも、世辞でも、洒落でもない本心。
人の立ち寄らない森を開拓して築かれた暖かな赤い屋根のオリエンス孤児院は、何十人もの孤児達がいるにも関わらず、その誰もが空腹に苛まれることも、寒さで厳しい夜も経験したことがない。それは創立者であるエルヴィンがオリエンス孤児院のみならず、各地の孤児院への支援を惜しまないからであった。
オルガがコール伯爵家にメイドとして雇われたばかりの頃――十年以上も前に、二人は伯爵家本邸の屋敷で出会った。一介の下働きである自身を信頼し、うら若き貴族のお坊ちゃまであったエルヴィンが託してくれたこの孤児院には、心地よい幸せが降り注ぐ春の日差しが心までもを満たしていくように、彼の愛と真心に溢れている。
エルヴィンの夢が込められたこのオリエンス孤児院の院長で居られることは、オルガの人生で一番の誇りだった。あの日オルガが目を奪われた、まだ成人にも達していない少年の夜空の輝きを湛えた深い藍の瞳は、今はもう見ることが叶わなくても。
「ですから、そちらは問題ございませんの。それより、私からお聞きしたいことが一つ……」
「……アプリコットの話でしょうか?」
気を揉んで口篭るオルガを見て、おおよそを察したエルヴィンが口にした少女の名前に懐かしさと肺を刺すような痛みを覚えるのは、アプリコットが犠牲となったコーリングである以前に、かつては本当の娘であるかように、この孤児院で共に過ごした大切な子供だからだ。
不意に涙が溢れそうになり、それでも、他の誰より悲痛を味わい、悩み、今も耐え難い苦しみと向き合う人を前に泣くまいとして、感情を抑え込むように、白いエプロンドレスの上で両の手を固く握りしめた。
目の前のエルヴィンを、世界のために身を賭し、やがて自身の歳を追い越して生きて行く聖人でもなく、あの日出会ったただの青年として見つめた。不眠の影響か以前より濃くなった隈も、ほっそりとした頬の輪郭も全てが痛ましく映る。産まれながらに染み付いた貴族の性か、或いは己に心配させまいと気丈に振舞っているのか定かではないが、木漏れ日のようにささやかな微笑みこそが、オルガの胸を締め付けた。
「ええ……アプリコット、様の様子をお伺いしたいのです」
「敬称はおやめください。……あの子はこの孤児院で育った普通の女の子、アプリコットでしょう。……それに、そんな風に距離を置くような振る舞いはあの子も悲しむでしょうから」
元より、エルヴィンはアプリコットがまるで神様のように扱われることを快く思わなかった。自身が彼女に捧げたいと願ったごく平凡な幸せや、青空も雨雲も丸ごと愛して駆け回った貴族夫人らしからぬ彼女、柔いほっぺたを膨らませて怒りながらも夕飯のメニューを聞いたら思わず歌い出してしまうような、いつまでも無邪気で可愛らしい愛する妻の姿が、次第に遠のいていくような気がして。
思わず出てしまった慣れない大きな声に戸惑い、きまりが悪いような顔をしたエルヴィンは小さく謝罪の言葉を述べた。冷静を保つために一度大きく息を吐くと、窓越しに降りしきる雪を眺めながら、ぽつぽつと言葉を零すように会話を再開した。
「目覚める様子はありません。目に見える範囲では悪化もしていないように感じられますが、管理人によれば力が底をついたときは……」
眠るように亡くなるのでは、と。
「……この机も懐かしいですね」
喉を突き刺す様なしばらくの沈黙を破り、オルガはテーブルの木目をそっと撫でる。その手つきや思い出を語る視線、声には、孤児院の保護者として母親代わりを務めた彼女の慈しみの気持ちが深く込められていた。
「今では考えられないほどに、愛に対して臆病な子でしたね。エルヴィン様の優しさを恐れて、机の下や、運動神経は良いものですから。木の上なんかに隠れてしまって」
「……ええ。僕も一目で運命を確信したものですから、諦めるつもりは然う然うありませんでしたけれど。そんな子が心を許してくれて、結婚をして、広い家が二人の家になって。僕が努力を惜しまない限りこの幸せが永遠に続くのだと信じて、一瞬も疑おうとはしませんでした」
二人は目を合わせて、もっと遠く、同じ景色を見た。ミスタが幸せだった頃のこと、アプリコットがまだ、コーリングなんて大層なお役目を賜る前、平凡な少女であった頃のことを。
「いつの間にあれほど大きく、立派になってしまったのでしょう。彼女の選択がなければ私達は今ここで顔を合わせることも叶わなかったでしょう。ですが、どうして。どうしてアプリコットが……」
目を塞いだオルガに鮮やかに流れるのは、彼女と過ごした数年間の短い記憶。両親に捨てられ、幼くして空から最も遠く、冷たい深海に溺れて行くように深い悲しみを知った少女が、愛を知って、恋を知って。新しく生まれ変わったように美しく、瞳いっぱいに溢れるような輝きを宿して。
婚約が決まり、結婚式の招待状を差し出しながら初めてお母さん、と呼んでくれた冗談混じりの楽しげな声を、あの向けられた笑顔を。どうして忘れることが出来るだろう。あの日どれだけ嬉しかったか、どれだけ涙を流したのか、きっと彼女は永遠に知ることはないのだろう。知らないまま、一人満足そうに、幸福であるように眠りについてしまったのだから。
愛する人の声を、もう一度聞きたいのだと。それが世界の平和と引き換えであっても、運命を捻じ曲げる禁忌だったとしても、そう願うのは悪い事だろうか。この世界でオルガは何処までも恵まれた傍観者だった。そんな自分が愛する人の笑顔が見られない日々に価値を見いだせないことは、悪と呼ばれるのだろうか、ましてや、悲憤する権利など、あるのだろうか。
「僕は今、いえ、もうずっと悲しくて堪らないんです。ですからオルガ院長も、どうか我慢はなさらないで」
オルガは涙を零してただ一言、「ありがとう」と告げた。冷めかけた紅茶を流し込む。甘酸っぱく漂う香りはエルヴィンの記憶を一層鮮明にした。アプリコットが一番に好んで飲んでいた、林檎のフレーバードティー。眠る彼女の傍らで、大好きな香りが届きますようにと、今もメアリーと共に味わう思い出のお茶。しかしふと、オルガの隣には誰が居るのだろうと思えば、訪問の連絡を飛ばしたのは衝動であった。近況を直接聞きたいなどということは口実に過ぎず、ただこうして、星も滲む夜ならばその一夜を共に乗り越えたいのだと、そう伝えたかったのだ。
「お見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ございませんでした……」
「とんでもない。ここに悪い大人がいるとすれば、女性を泣かせた僕一人でしょう?」
冗談めいたエルヴィンの言葉に、「母を泣かせたとアプリコットが怒るかもしれませんよ」と返せば、「飛び起きてくれるのなら、それも悪くは無いですね」とエルヴィンは悪戯に頬を緩めた。
愛のために濡らしたオルガのレンズ越しの瞳は仁愛に満ち、それはジュエリーショップで滅多に出回らないのだと勧められたブラックダイヤモンドや黒翡翠なんかよりも、よっぽど美しく価値があるようにエルヴィンの目に映る。
彼女自身は厳粛な性格が影響してか恥じらいが拭えないようで、眼鏡のブリッジをぐっと抑えたり、耐えるように口元をきゅっと結び、葛藤していたのだけれど。
「さて、そろそろ子供たちの様子を見に行きましょうか? 私は茶器を片付けてから向かいますけれど……」
突然、ドン、と扉に何かをぶつけた様な鈍い音が部屋に響き渡る。立ち上がろうとテーブルに手をかけ半端な体制となったオルガが「お行儀が悪いのはどなたですか」とその先へ厳しく声をかけると、音の鳴った扉がゆっくりと開かれ、小さな少年少女二人が遠慮がちに顔を覗かせた。
「あ、あの……ごめんなさい。わざとじゃなくて、お話が終わったか聞きに来ただけで……エルヴィン様に、聞きたいことがあったから」
「ほら、あんたのせいだわ。空気読みなさいって、お二人は大切なお話をしていらっしゃるって、そう言ったわ!」
目線を床に落とした少年は、少しおませな印象の少女に先程の音の正体か、たんこぶの出来た部分をぽかりと軽く叩かれ、白茶の巻き毛を抑え瞳を潤ませる。
遠慮がちな性格のようで、少女に叱責されてからは話を続ける様子が見られなかったため、立ち上がったエルヴィンは上質な外套を床に付けると、少年と目線を合わせ、怖がらせないように優しげな表情を浮かべた。
「お話とはなんだろう。先程のことは気にしなくていいから、言ってごらん」
臆病な少年は恐る恐るエルヴィンと視線を合わせると、目を輝かせたり頬を紅潮させたりと忙しなく表情を変化させた。国民から正義のヒーローのような扱いを受けるコーリングであったが、少年も例外では無いのだと、エルヴィンの胸は小さくざわめいた。皆が理想に描くような立派なエルヴィン・コールの像から大きく逸れていることを自覚しているからである。
「……あ、あのね、ぼく、将来エルヴィンさまのお屋敷で働きたくて……」
「僕の屋敷で?」
小さな動作で頷く少年の予想外の申し出に驚いていると、扉の先から賑やかな声が聞こえたかと思えば、応接間はあっという間に子供たちで溢れかえった。扉が開きっぱなしだったため、エルヴィン達の姿を発見した子供や会話を聞いた子供が話し合いの終了を察知し、次から次へと押し掛けたのだ。
「いやなずるいひと! そんなのみんなだって同じよ。みんなコーリングの方々のお力になりたいのに」
「俺も! 雑用をしろと言われたらするし、医者になれと言われたら必死で勉強しますから。だからお屋敷で雇ってください!」
「僕は料理番になりたい。エルヴィンさま、どんどん細くなって、心配だから……」
次々に手を上げる立候補者や夢を語り出す子供たちに圧倒されたエルヴィンは、収集が付かなくなり困ったようにオルガに振り向いたが、次第になんだか可笑しな気持ちになり、二人は目を見合わせて大きく笑い合った。
夢に溢れた子供たちを前に、エルヴィンは国王やアプリコット、コーリングの仲間たちに今すぐ会いたいと思った。混乱に見舞われた世界の次世代を担う少年少女達はこんなにも逞しく育っていることを、喜びに溢れるようなこの気持ちを、この国を守る彼らに教えてあげたくて。代わりに目の前にいる小さな子供達を丸ごと腕の中に抱きしめた。
「光栄だね。皆が施設を出る年になっても気持ちが変わらないのであれば、是非受け入れよう」
「いいの?」
「うん、勿論。僕の屋敷はあまりに広くてね。人がいくら居ても静かで寂しいのさ」
きゃらきゃらと笑う子供たちの希望に溢れる声を、腕の中の確かな温度を、きっと忘れないように耳に焼き付けた。そうすれば、眠りについた愛する人のため、子供たちの夢を守るため、世界を守るために、明日も何とか、足を踏み出せる気がして。
Ⅱ
「あらおかえりなさい、遅かったのね。あと一時間で帰るところだったわ」
「今日はライブだもんね。えへへ、スピカちゃんのおうた、楽しみだなぁ」
「いいですねぇ。アイドルのライブだなんて、私も一度は行ってみたいものです」
先程まで会いたいと思っていたはずの面々が我が家に勢揃いしているのに、げんなりと憂鬱な気分にさせられるのは何故だろう。
応接間の長椅子には、エルヴィンの瞳の色とよく似た深い夜空色のケープを身にまとったスピカが座り、その向かいには手本のような姿勢でお茶を嗜む管理人、背もたれに軽く体を預けたチャーリーがリラックスした様子で座っている。
思わずエルヴィンが顔を押えると、アプリコットの傍に仕えているのご機嫌なメアリーの声が耳に届き、思わず彼は悪い夢を疑った。
「皆さ〜ん、お待たせいたしました。チョコレート、お口に合えば良いのですけれど」
「あら、これ有名なパティスリーのボンボンショコラじゃない。なかなか購入できないのに、いただいていいの?」
「まあぁ、そうなんですか? そういえば、確かに毎回ラスト一個に滑り込んでいましたねぇ」
「メアリーさん、すごい豪運なんだねぇ」
チョコレートと上質なアッサムの香りがその場で甘く調和する。抜かりのないおもてなしの手腕は流石と言わざるを得ないが、置いてけぼりにされているエルヴィンは困惑と我慢の限界が近付いていた。
「……楽しい時間に水を差してすまないが、この宮殿の主人たる僕にまず状況を説明してくれ。頭が割れそうだ」
痛む頭を抑えながら、それに、とエルヴィンが続ける。
「スピカ。君はこの間まで、アプリコットに会う気はないと言っていたじゃないか。そんな君が一体何故ここまで来たのかな」
「話を聞かない人ね。家族にはなれないと言ったの。彼女に会わないだなんて一言も言ってないわ」
「……つまり?」
眉を上げて、ぱちぱちと星が瞬くように、スピカは嬉しそうに声を上げた。
「会いに来たの。私の憧れの人に!」
淡い黄緑の壁紙に白い家具、一件簡素でありながら繊細な装飾が施された柔らかく暖かな光が射し込む部屋で、少女――アプリコットは、変わらない様子で眠っている。
アプリコットの傍に付いていたメイドはコーリングの揃った姿を目にして慌てたように会釈をし、興奮で頬を紅潮させながら早々と部屋を後にした。どうやら、平民を多く雇用するコール家のメイドでは滅多に表に出ることがないコーリング、それも集団の接待は不手際を起こすのではないかと不安が生じ、男爵家の教育を受けた立派な令嬢であり肝が据わったメアリーが代役を頼まれたようだった。
チャーリーは久方振りに友人に会えて嬉しくて堪らないといった笑顔で、コットちゃん、と優しく手を取った。管理人も「美味しい林檎を頂いてきましたよ。エルヴィンさんに愛情を込めて剥いてもらってください」と冗談なのか、それとも不器用なエルヴィンを煽り立てているのか判別し難い言葉を以前と変わらない調子でアプリコットに語りかけている。きっと彼女であればはじけるような笑みを浮かべて喜ぶであろう目の前の光景に、エルヴィンは目頭を熱くする。仲間達が集まった部屋は以前の和やかな会議室と何ら変わらないようで、足りない彼女の笑い声がより恋しく思えるようでもあった。
近況や最近話題になった喫茶店の話なんかを一頻り話し、最後にチャーリーが星の海のように散らばったアプリコットの髪を撫でると、彼らは背後で静かに見守っていたスピカに手招きをしてベット横に座らせた。
初めて彼女と対面するスピカのために退出し、二人きりになったとき、スピカは初めてアプリコットにそっと声をかけた。
「はじめまして」
この世界で第二の守護者と呼ばれるに相応しい、勇敢で憧れの人、そして血の繋がった貴方に会えたのなら、一体どんな気持ちになるのかしら?
ブライト家との初対面、初めてのライブ、定例会議、そのいずれとも異なるような、経験のない緊張を胸に発した一声は、スピカが予想していたよりもずっと、そよ風のように穏やかないたわりの心と愛情が込められていた。
アイドルは偶像――なんて称される仕事で、実際のところスピカもまた、彼らの夢が永遠であり、希望となるように。一つの隙もなく、眩しく、可愛く、そう振舞ってきたけれど。崇拝している側は偶像視していることに気が付かないようで。コーリングという偶像から、一人の優しい少女へ向ける緩やかな感情の変化を、アプリコットを前にして確かに感じ取っている。
……そう。私、好きなのね。この子のことが、とっても……。
知った気でいて、たった今新たに生まれたばかりの初々しい気持ちを大切に抱きしめて、アプリコットの手を掬った。その身に大きな愛を宿してミスタを抱きしめた女の子の手。年上とは思えないほどに小さくて、脱力しているせいか、ずっと頼りない。
「私はスピカ。スピカ・ブライト、アイドルよ。新しくコーリングに選ばれた、貴方の仲間。それから……」
一応、貴方の異父姉妹になるみたい。
「確かにあの人そっくりだわ。お互い母親似だもの、エルヴィンを驚かせたのもわかる気がする。でもね、アプリコット。こうして顔を合わせてみても、私はやっぱり……貴方を家族だとは思えないわ」
生みの親にあたる女性を思い浮かべる。そう、目の前の彼女のようにいつまでも少女のようなあどけなさをまとい、一際目を引く、光り輝く金色の髪を持った人。小さなスピカの手を引いて、離した人。明白な血の繋がりを前にしても、スピカの意思は揺るがない。
「別に、アプリコットの事が嫌いだとか、家族になりたくないだとか、そういうわけじゃないのよ。……でも、ね。私たちはもう、家を見つけたから。あなたにとって、家族ってなにかしら? ふふ、不思議ね、なんだか同じ言葉を返してくれる気がするわ」
アプリコットの手のひらを体温を分け合うように撫でる。家族の顔を思い浮かべて、とっておきの秘密の言葉を唱えるみたいに口を開いた。
「……運命の人」
目を合わせるつもりで、アプリコットを見つめた。きっと彼女も真っ直ぐな眼差しで、答えてくれるはずだから。
「私たちの家族は手を取り合った運命の人だけ、そうでしょ? 他でもない私たち自身が隣にいることを選択して、家族になったんだわ。その心に踏み入ることは誰にだってできやしないの」
スピカにとって家族とはその心ごと安らかにして帰るべき居場所であり、それはアプリコットもきっと同じ想いでを抱いていると確信している。
二人の迷い子が帰るべき家を見つけたなら、新たに孤独な迷い子を迎え入れてやるだけ。それぞれに家を持ち、孤独を共有しない二人が家族になることは、もうきっと有り得ない。
「だからこの歌は、血の繋がった姉に向けてではなく、アイドルとして、ミスタを救ってくれたアプリコットに敬愛と祈りを込めて贈るわ」
脱いだケープから現れたのは、ただの少女であった頃ならば柄でもないと遠ざけた、星のように白く大きなリボンの付いたアイドル衣装。
美しい人よ。長い夢の中で、幸福に満ち足りた日々を送れますように。
その日、たった一人へ捧げたスピカの歌声は、子守唄にもよく似た見事な愛の調べであった。
Ⅲ
「盗み聞き」
「なっ……君の声はよく通るから扉越しにも聞こえるんだ。仕方ないだろう」
スピカが部屋を出る頃には、管理人とチャーリーは先に宮殿を出ていた。
あからさまな挑発に踊らされかけたことに、エルヴィンは顔を顰め不愉快さを露わにする。しかし相手がはるかに年下の少女である事を思い出すと居心地が悪そうに軽く咳払いをした。
「……ありがとう。アイドルに関して見識が浅い僕でも、君の歌はきっとミスタ中に響くのだろうと、必要とされるものだろうと感じたよ」
エルヴィンはそっと、いつか約束を結んだ小指に視線を移す。いつだって陽だまりの中で光に包まれて笑っていて欲しいけれど、鈍い輝きの自分では役不足だから、寄る辺となる絶対的な血縁者を探してやりたかった。しかし、それが叶わなくても、こんなにも彼女はこんなにも愛されている。
スピカは後ろ手を組み、エルヴィンを覗き込むとねぇ、と一言を声をかける。
「もう一歩近づいてみて」
「……? はい」
歩を進めたエルヴィンの位置を視界の端で確認して、スピカは大きく肺に空気を取り入れた。
「踏み込みが浅い!」
「はぁ?」
「今の私達の関係性よ!」
足元を指し、眉を上げて訴えるスピカの意図が理解出来ず、エルヴィンは素っ頓狂な声を上げ後退する。
「私ね、初めてあった時貴方のこと嫌いだった。私のこと理解しようと努力もしないで、否定してきて、相容れない人だって……でも」
澄んだ瞳がエルヴィンを真っ直ぐに捉える。霧に包まれた彼の心に、自分の想いが少しでも伝わるようにと願って。
「理解できないなら、知らなきゃ。私が知ってるアプリコットは、愛を軸にした強い人だから不憫に思われるような子じゃないって、腹が立ったわ。だけど私が知る彼女なんて、ほんの一割にも満たないんだって、今日……分かったの」
噂も、英雄譚も、真実だって当てにならない。目の前に居るのならば、手を伸ばして知ろうとしなければ。文字通りなんかじゃなくて、その言葉を選びとった意味を、移り変わる感情の機微を。歴史の変遷に置いていかれぬよう、私達も共に変化をしなければいけないのだと。
「エルヴィンも私もきっと同じ。だからね、もっと話しましょう。互いに踏み込みましょう。同じ想いでなんていなくていい、ただ……貴方のことを知りたいの、知って欲しいの。だから……」
なんと言うべきか分からず押し黙ったままのエルヴィンの瞳に、微かに光る淡い星が宿っている。スピカはそれを捉えて、一枚のチケットを差し出した。再び前を向いて歩くための、一つのきっかけになることを信じて。
「これは?」
「次のライブのチケット。エルヴィンに来て欲しいの」
チケットには座席番号や会場などが記載されている。どうやら普段行っている路上のゲリラライブではなく、富裕層をターゲットにした、コンサートホールで行う規模の大きな公演のようだ。
「どうせエルヴィンは私のことも可哀想なやつだって、与えるばかりの愛なんて損するだけだって思っているんでしょうけど、このステージで一等星たる所以も、私たちの愛も、全部貴方に教えてあげる」
だから絶対に見に来てちょうだいね! そう言い残して、スピカは満足そうに長い廊下を駆けていった。その場に、表情も伺えぬ様子で、エルヴィンは茫然と立ち尽くしている。
――。
名前を呼ぶ。雪に埋まらぬように、大切な名を。窓越しには、一面の銀世界が広がっていた。
Ⅰ
白く飾られた冬木立には、春のみずみずしい葉の色のような黄緑色のリボンが等間隔に結ばれている。迷子防止のそれらを追い、在りし日を懐かしむように、木道の軋む感覚を靴裏に感じながら歩を進めた。白くペンキ塗りされた看板を越せば、遠くから天使が戯れるように、無邪気な子供たちの声がエルヴィンの赤く染った耳に届いた。
遠くのエルヴィンに気付いた目ざとい子供たちはみるみる瞳を大きくして、やがて顔をくしゃくしゃにして喜びを露にすると彼をゴールにして追いかけっこを始める。
――この先、オリエンス孤児院。
「子供たちと遊んでいただいてありがとうございました。ですが、雪も降るこの寒さですもの。一言声をかけてくだされば、私も室内へ入るよう促しましたのに」
「いいんです、オルガ院長。子供たちのおかげで身体は随分暖まりましたから」
悴んだエルヴィンの指先や真っ赤な顔を見て、孤児院の院長であるオルガが対照的に真っ青になったのはつい先程の事であった。そんな院長の心中を知る由もなく、子供たちはそれぞれ影に隠れたり堂々横に座ったりして、珍しいものを見るようにエルヴィンに視線を送っている。
視線の中心であるエルヴィンが懐かしむように応接間を一周見渡すと、見慣れた光景の他、クレヨン、絵の具などで描かれた絵や粘土細工や木彫りの人形であったりと、棚の上や壁にこじんまりと陳列した作品達が目に入った。それは小さな美術館のようで、エルヴィンは子供たちが一生懸命に取り組んだ時のことを想像して微笑ましい気持ちになり、展示品を一つ一つ目に焼き付けた。
大人の話し合いは子供たちを部屋の外へ送り出した後、ティーカップとソーサーから奏でられる茶器の音色と、子供にはまだ苦い、黄金の揺蕩う水色がカップを満たしたことを開始の合図とされた。
古くから交流のある相手とはいえ、平民が親しむような茶葉を貴族に振る舞うことには少々緊張を催したが、悟ったようにエルヴィンの方からアップルティーのリクエストがあった。
オルガは"それ"を選んだことに驚きはしたものの、「思えばずっと、誰かとその味を共有したかった」のだと気付き、それはエルヴィンも同じであったのかも知れないと。一つの仮定に、湯を沸かす時から既に紅茶を喉に通す時のような、胸の辺りに小さく温もりが灯されるのを感じていた。
「子供達も院長も、お元気そうで安心しました」
「それはもう、おかげさまで」
「近況を聞きに来たのです。最近は如何でしょう? 不自由を感じることがあれば、僕の義務でもありますから、どうぞ遠慮なさらず仰ってください」
「今も過分にご配慮してくださっているではありませんか。老眼が進んだせいでしょうか。たまにこの孤児院が、貴族の屋敷のように思えるのですよ」
オルガは鋭く釣り上がった目尻や眉を困ったように下げて笑う。
それは、エルヴィンの功績を立てるための誇張でも、世辞でも、洒落でもない本心。
人の立ち寄らない森を開拓して築かれた暖かな赤い屋根のオリエンス孤児院は、何十人もの孤児達がいるにも関わらず、その誰もが空腹に苛まれることも、寒さで厳しい夜も経験したことがない。それは創立者であるエルヴィンがオリエンス孤児院のみならず、各地の孤児院への支援を惜しまないからであった。
オルガがコール伯爵家にメイドとして雇われたばかりの頃――十年以上も前に、二人は伯爵家本邸の屋敷で出会った。一介の下働きである自身を信頼し、うら若き貴族のお坊ちゃまであったエルヴィンが託してくれたこの孤児院には、心地よい幸せが降り注ぐ春の日差しが心までもを満たしていくように、彼の愛と真心に溢れている。
エルヴィンの夢が込められたこのオリエンス孤児院の院長で居られることは、オルガの人生で一番の誇りだった。あの日オルガが目を奪われた、まだ成人にも達していない少年の夜空の輝きを湛えた深い藍の瞳は、今はもう見ることが叶わなくても。
「ですから、そちらは問題ございませんの。それより、私からお聞きしたいことが一つ……」
「……アプリコットの話でしょうか?」
気を揉んで口篭るオルガを見て、おおよそを察したエルヴィンが口にした少女の名前に懐かしさと肺を刺すような痛みを覚えるのは、アプリコットが犠牲となったコーリングである以前に、かつては本当の娘であるかように、この孤児院で共に過ごした大切な子供だからだ。
不意に涙が溢れそうになり、それでも、他の誰より悲痛を味わい、悩み、今も耐え難い苦しみと向き合う人を前に泣くまいとして、感情を抑え込むように、白いエプロンドレスの上で両の手を固く握りしめた。
目の前のエルヴィンを、世界のために身を賭し、やがて自身の歳を追い越して生きて行く聖人でもなく、あの日出会ったただの青年として見つめた。不眠の影響か以前より濃くなった隈も、ほっそりとした頬の輪郭も全てが痛ましく映る。産まれながらに染み付いた貴族の性か、或いは己に心配させまいと気丈に振舞っているのか定かではないが、木漏れ日のようにささやかな微笑みこそが、オルガの胸を締め付けた。
「ええ……アプリコット、様の様子をお伺いしたいのです」
「敬称はおやめください。……あの子はこの孤児院で育った普通の女の子、アプリコットでしょう。……それに、そんな風に距離を置くような振る舞いはあの子も悲しむでしょうから」
元より、エルヴィンはアプリコットがまるで神様のように扱われることを快く思わなかった。自身が彼女に捧げたいと願ったごく平凡な幸せや、青空も雨雲も丸ごと愛して駆け回った貴族夫人らしからぬ彼女、柔いほっぺたを膨らませて怒りながらも夕飯のメニューを聞いたら思わず歌い出してしまうような、いつまでも無邪気で可愛らしい愛する妻の姿が、次第に遠のいていくような気がして。
思わず出てしまった慣れない大きな声に戸惑い、きまりが悪いような顔をしたエルヴィンは小さく謝罪の言葉を述べた。冷静を保つために一度大きく息を吐くと、窓越しに降りしきる雪を眺めながら、ぽつぽつと言葉を零すように会話を再開した。
「目覚める様子はありません。目に見える範囲では悪化もしていないように感じられますが、管理人によれば力が底をついたときは……」
眠るように亡くなるのでは、と。
「……この机も懐かしいですね」
喉を突き刺す様なしばらくの沈黙を破り、オルガはテーブルの木目をそっと撫でる。その手つきや思い出を語る視線、声には、孤児院の保護者として母親代わりを務めた彼女の慈しみの気持ちが深く込められていた。
「今では考えられないほどに、愛に対して臆病な子でしたね。エルヴィン様の優しさを恐れて、机の下や、運動神経は良いものですから。木の上なんかに隠れてしまって」
「……ええ。僕も一目で運命を確信したものですから、諦めるつもりは然う然うありませんでしたけれど。そんな子が心を許してくれて、結婚をして、広い家が二人の家になって。僕が努力を惜しまない限りこの幸せが永遠に続くのだと信じて、一瞬も疑おうとはしませんでした」
二人は目を合わせて、もっと遠く、同じ景色を見た。ミスタが幸せだった頃のこと、アプリコットがまだ、コーリングなんて大層なお役目を賜る前、平凡な少女であった頃のことを。
「いつの間にあれほど大きく、立派になってしまったのでしょう。彼女の選択がなければ私達は今ここで顔を合わせることも叶わなかったでしょう。ですが、どうして。どうしてアプリコットが……」
目を塞いだオルガに鮮やかに流れるのは、彼女と過ごした数年間の短い記憶。両親に捨てられ、幼くして空から最も遠く、冷たい深海に溺れて行くように深い悲しみを知った少女が、愛を知って、恋を知って。新しく生まれ変わったように美しく、瞳いっぱいに溢れるような輝きを宿して。
婚約が決まり、結婚式の招待状を差し出しながら初めてお母さん、と呼んでくれた冗談混じりの楽しげな声を、あの向けられた笑顔を。どうして忘れることが出来るだろう。あの日どれだけ嬉しかったか、どれだけ涙を流したのか、きっと彼女は永遠に知ることはないのだろう。知らないまま、一人満足そうに、幸福であるように眠りについてしまったのだから。
愛する人の声を、もう一度聞きたいのだと。それが世界の平和と引き換えであっても、運命を捻じ曲げる禁忌だったとしても、そう願うのは悪い事だろうか。この世界でオルガは何処までも恵まれた傍観者だった。そんな自分が愛する人の笑顔が見られない日々に価値を見いだせないことは、悪と呼ばれるのだろうか、ましてや、悲憤する権利など、あるのだろうか。
「僕は今、いえ、もうずっと悲しくて堪らないんです。ですからオルガ院長も、どうか我慢はなさらないで」
オルガは涙を零してただ一言、「ありがとう」と告げた。冷めかけた紅茶を流し込む。甘酸っぱく漂う香りはエルヴィンの記憶を一層鮮明にした。アプリコットが一番に好んで飲んでいた、林檎のフレーバードティー。眠る彼女の傍らで、大好きな香りが届きますようにと、今もメアリーと共に味わう思い出のお茶。しかしふと、オルガの隣には誰が居るのだろうと思えば、訪問の連絡を飛ばしたのは衝動であった。近況を直接聞きたいなどということは口実に過ぎず、ただこうして、星も滲む夜ならばその一夜を共に乗り越えたいのだと、そう伝えたかったのだ。
「お見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ございませんでした……」
「とんでもない。ここに悪い大人がいるとすれば、女性を泣かせた僕一人でしょう?」
冗談めいたエルヴィンの言葉に、「母を泣かせたとアプリコットが怒るかもしれませんよ」と返せば、「飛び起きてくれるのなら、それも悪くは無いですね」とエルヴィンは悪戯に頬を緩めた。
愛のために濡らしたオルガのレンズ越しの瞳は仁愛に満ち、それはジュエリーショップで滅多に出回らないのだと勧められたブラックダイヤモンドや黒翡翠なんかよりも、よっぽど美しく価値があるようにエルヴィンの目に映る。
彼女自身は厳粛な性格が影響してか恥じらいが拭えないようで、眼鏡のブリッジをぐっと抑えたり、耐えるように口元をきゅっと結び、葛藤していたのだけれど。
「さて、そろそろ子供たちの様子を見に行きましょうか? 私は茶器を片付けてから向かいますけれど……」
突然、ドン、と扉に何かをぶつけた様な鈍い音が部屋に響き渡る。立ち上がろうとテーブルに手をかけ半端な体制となったオルガが「お行儀が悪いのはどなたですか」とその先へ厳しく声をかけると、音の鳴った扉がゆっくりと開かれ、小さな少年少女二人が遠慮がちに顔を覗かせた。
「あ、あの……ごめんなさい。わざとじゃなくて、お話が終わったか聞きに来ただけで……エルヴィン様に、聞きたいことがあったから」
「ほら、あんたのせいだわ。空気読みなさいって、お二人は大切なお話をしていらっしゃるって、そう言ったわ!」
目線を床に落とした少年は、少しおませな印象の少女に先程の音の正体か、たんこぶの出来た部分をぽかりと軽く叩かれ、白茶の巻き毛を抑え瞳を潤ませる。
遠慮がちな性格のようで、少女に叱責されてからは話を続ける様子が見られなかったため、立ち上がったエルヴィンは上質な外套を床に付けると、少年と目線を合わせ、怖がらせないように優しげな表情を浮かべた。
「お話とはなんだろう。先程のことは気にしなくていいから、言ってごらん」
臆病な少年は恐る恐るエルヴィンと視線を合わせると、目を輝かせたり頬を紅潮させたりと忙しなく表情を変化させた。国民から正義のヒーローのような扱いを受けるコーリングであったが、少年も例外では無いのだと、エルヴィンの胸は小さくざわめいた。皆が理想に描くような立派なエルヴィン・コールの像から大きく逸れていることを自覚しているからである。
「……あ、あのね、ぼく、将来エルヴィンさまのお屋敷で働きたくて……」
「僕の屋敷で?」
小さな動作で頷く少年の予想外の申し出に驚いていると、扉の先から賑やかな声が聞こえたかと思えば、応接間はあっという間に子供たちで溢れかえった。扉が開きっぱなしだったため、エルヴィン達の姿を発見した子供や会話を聞いた子供が話し合いの終了を察知し、次から次へと押し掛けたのだ。
「いやなずるいひと! そんなのみんなだって同じよ。みんなコーリングの方々のお力になりたいのに」
「俺も! 雑用をしろと言われたらするし、医者になれと言われたら必死で勉強しますから。だからお屋敷で雇ってください!」
「僕は料理番になりたい。エルヴィンさま、どんどん細くなって、心配だから……」
次々に手を上げる立候補者や夢を語り出す子供たちに圧倒されたエルヴィンは、収集が付かなくなり困ったようにオルガに振り向いたが、次第になんだか可笑しな気持ちになり、二人は目を見合わせて大きく笑い合った。
夢に溢れた子供たちを前に、エルヴィンは国王やアプリコット、コーリングの仲間たちに今すぐ会いたいと思った。混乱に見舞われた世界の次世代を担う少年少女達はこんなにも逞しく育っていることを、喜びに溢れるようなこの気持ちを、この国を守る彼らに教えてあげたくて。代わりに目の前にいる小さな子供達を丸ごと腕の中に抱きしめた。
「光栄だね。皆が施設を出る年になっても気持ちが変わらないのであれば、是非受け入れよう」
「いいの?」
「うん、勿論。僕の屋敷はあまりに広くてね。人がいくら居ても静かで寂しいのさ」
きゃらきゃらと笑う子供たちの希望に溢れる声を、腕の中の確かな温度を、きっと忘れないように耳に焼き付けた。そうすれば、眠りについた愛する人のため、子供たちの夢を守るため、世界を守るために、明日も何とか、足を踏み出せる気がして。
Ⅱ
「あらおかえりなさい、遅かったのね。あと一時間で帰るところだったわ」
「今日はライブだもんね。えへへ、スピカちゃんのおうた、楽しみだなぁ」
「いいですねぇ。アイドルのライブだなんて、私も一度は行ってみたいものです」
先程まで会いたいと思っていたはずの面々が我が家に勢揃いしているのに、げんなりと憂鬱な気分にさせられるのは何故だろう。
応接間の長椅子には、エルヴィンの瞳の色とよく似た深い夜空色のケープを身にまとったスピカが座り、その向かいには手本のような姿勢でお茶を嗜む管理人、背もたれに軽く体を預けたチャーリーがリラックスした様子で座っている。
思わずエルヴィンが顔を押えると、アプリコットの傍に仕えているのご機嫌なメアリーの声が耳に届き、思わず彼は悪い夢を疑った。
「皆さ〜ん、お待たせいたしました。チョコレート、お口に合えば良いのですけれど」
「あら、これ有名なパティスリーのボンボンショコラじゃない。なかなか購入できないのに、いただいていいの?」
「まあぁ、そうなんですか? そういえば、確かに毎回ラスト一個に滑り込んでいましたねぇ」
「メアリーさん、すごい豪運なんだねぇ」
チョコレートと上質なアッサムの香りがその場で甘く調和する。抜かりのないおもてなしの手腕は流石と言わざるを得ないが、置いてけぼりにされているエルヴィンは困惑と我慢の限界が近付いていた。
「……楽しい時間に水を差してすまないが、この宮殿の主人たる僕にまず状況を説明してくれ。頭が割れそうだ」
痛む頭を抑えながら、それに、とエルヴィンが続ける。
「スピカ。君はこの間まで、アプリコットに会う気はないと言っていたじゃないか。そんな君が一体何故ここまで来たのかな」
「話を聞かない人ね。家族にはなれないと言ったの。彼女に会わないだなんて一言も言ってないわ」
「……つまり?」
眉を上げて、ぱちぱちと星が瞬くように、スピカは嬉しそうに声を上げた。
「会いに来たの。私の憧れの人に!」
淡い黄緑の壁紙に白い家具、一件簡素でありながら繊細な装飾が施された柔らかく暖かな光が射し込む部屋で、少女――アプリコットは、変わらない様子で眠っている。
アプリコットの傍に付いていたメイドはコーリングの揃った姿を目にして慌てたように会釈をし、興奮で頬を紅潮させながら早々と部屋を後にした。どうやら、平民を多く雇用するコール家のメイドでは滅多に表に出ることがないコーリング、それも集団の接待は不手際を起こすのではないかと不安が生じ、男爵家の教育を受けた立派な令嬢であり肝が据わったメアリーが代役を頼まれたようだった。
チャーリーは久方振りに友人に会えて嬉しくて堪らないといった笑顔で、コットちゃん、と優しく手を取った。管理人も「美味しい林檎を頂いてきましたよ。エルヴィンさんに愛情を込めて剥いてもらってください」と冗談なのか、それとも不器用なエルヴィンを煽り立てているのか判別し難い言葉を以前と変わらない調子でアプリコットに語りかけている。きっと彼女であればはじけるような笑みを浮かべて喜ぶであろう目の前の光景に、エルヴィンは目頭を熱くする。仲間達が集まった部屋は以前の和やかな会議室と何ら変わらないようで、足りない彼女の笑い声がより恋しく思えるようでもあった。
近況や最近話題になった喫茶店の話なんかを一頻り話し、最後にチャーリーが星の海のように散らばったアプリコットの髪を撫でると、彼らは背後で静かに見守っていたスピカに手招きをしてベット横に座らせた。
初めて彼女と対面するスピカのために退出し、二人きりになったとき、スピカは初めてアプリコットにそっと声をかけた。
「はじめまして」
この世界で第二の守護者と呼ばれるに相応しい、勇敢で憧れの人、そして血の繋がった貴方に会えたのなら、一体どんな気持ちになるのかしら?
ブライト家との初対面、初めてのライブ、定例会議、そのいずれとも異なるような、経験のない緊張を胸に発した一声は、スピカが予想していたよりもずっと、そよ風のように穏やかないたわりの心と愛情が込められていた。
アイドルは偶像――なんて称される仕事で、実際のところスピカもまた、彼らの夢が永遠であり、希望となるように。一つの隙もなく、眩しく、可愛く、そう振舞ってきたけれど。崇拝している側は偶像視していることに気が付かないようで。コーリングという偶像から、一人の優しい少女へ向ける緩やかな感情の変化を、アプリコットを前にして確かに感じ取っている。
……そう。私、好きなのね。この子のことが、とっても……。
知った気でいて、たった今新たに生まれたばかりの初々しい気持ちを大切に抱きしめて、アプリコットの手を掬った。その身に大きな愛を宿してミスタを抱きしめた女の子の手。年上とは思えないほどに小さくて、脱力しているせいか、ずっと頼りない。
「私はスピカ。スピカ・ブライト、アイドルよ。新しくコーリングに選ばれた、貴方の仲間。それから……」
一応、貴方の異父姉妹になるみたい。
「確かにあの人そっくりだわ。お互い母親似だもの、エルヴィンを驚かせたのもわかる気がする。でもね、アプリコット。こうして顔を合わせてみても、私はやっぱり……貴方を家族だとは思えないわ」
生みの親にあたる女性を思い浮かべる。そう、目の前の彼女のようにいつまでも少女のようなあどけなさをまとい、一際目を引く、光り輝く金色の髪を持った人。小さなスピカの手を引いて、離した人。明白な血の繋がりを前にしても、スピカの意思は揺るがない。
「別に、アプリコットの事が嫌いだとか、家族になりたくないだとか、そういうわけじゃないのよ。……でも、ね。私たちはもう、家を見つけたから。あなたにとって、家族ってなにかしら? ふふ、不思議ね、なんだか同じ言葉を返してくれる気がするわ」
アプリコットの手のひらを体温を分け合うように撫でる。家族の顔を思い浮かべて、とっておきの秘密の言葉を唱えるみたいに口を開いた。
「……運命の人」
目を合わせるつもりで、アプリコットを見つめた。きっと彼女も真っ直ぐな眼差しで、答えてくれるはずだから。
「私たちの家族は手を取り合った運命の人だけ、そうでしょ? 他でもない私たち自身が隣にいることを選択して、家族になったんだわ。その心に踏み入ることは誰にだってできやしないの」
スピカにとって家族とはその心ごと安らかにして帰るべき居場所であり、それはアプリコットもきっと同じ想いでを抱いていると確信している。
二人の迷い子が帰るべき家を見つけたなら、新たに孤独な迷い子を迎え入れてやるだけ。それぞれに家を持ち、孤独を共有しない二人が家族になることは、もうきっと有り得ない。
「だからこの歌は、血の繋がった姉に向けてではなく、アイドルとして、ミスタを救ってくれたアプリコットに敬愛と祈りを込めて贈るわ」
脱いだケープから現れたのは、ただの少女であった頃ならば柄でもないと遠ざけた、星のように白く大きなリボンの付いたアイドル衣装。
美しい人よ。長い夢の中で、幸福に満ち足りた日々を送れますように。
その日、たった一人へ捧げたスピカの歌声は、子守唄にもよく似た見事な愛の調べであった。
Ⅲ
「盗み聞き」
「なっ……君の声はよく通るから扉越しにも聞こえるんだ。仕方ないだろう」
スピカが部屋を出る頃には、管理人とチャーリーは先に宮殿を出ていた。
あからさまな挑発に踊らされかけたことに、エルヴィンは顔を顰め不愉快さを露わにする。しかし相手がはるかに年下の少女である事を思い出すと居心地が悪そうに軽く咳払いをした。
「……ありがとう。アイドルに関して見識が浅い僕でも、君の歌はきっとミスタ中に響くのだろうと、必要とされるものだろうと感じたよ」
エルヴィンはそっと、いつか約束を結んだ小指に視線を移す。いつだって陽だまりの中で光に包まれて笑っていて欲しいけれど、鈍い輝きの自分では役不足だから、寄る辺となる絶対的な血縁者を探してやりたかった。しかし、それが叶わなくても、こんなにも彼女はこんなにも愛されている。
スピカは後ろ手を組み、エルヴィンを覗き込むとねぇ、と一言を声をかける。
「もう一歩近づいてみて」
「……? はい」
歩を進めたエルヴィンの位置を視界の端で確認して、スピカは大きく肺に空気を取り入れた。
「踏み込みが浅い!」
「はぁ?」
「今の私達の関係性よ!」
足元を指し、眉を上げて訴えるスピカの意図が理解出来ず、エルヴィンは素っ頓狂な声を上げ後退する。
「私ね、初めてあった時貴方のこと嫌いだった。私のこと理解しようと努力もしないで、否定してきて、相容れない人だって……でも」
澄んだ瞳がエルヴィンを真っ直ぐに捉える。霧に包まれた彼の心に、自分の想いが少しでも伝わるようにと願って。
「理解できないなら、知らなきゃ。私が知ってるアプリコットは、愛を軸にした強い人だから不憫に思われるような子じゃないって、腹が立ったわ。だけど私が知る彼女なんて、ほんの一割にも満たないんだって、今日……分かったの」
噂も、英雄譚も、真実だって当てにならない。目の前に居るのならば、手を伸ばして知ろうとしなければ。文字通りなんかじゃなくて、その言葉を選びとった意味を、移り変わる感情の機微を。歴史の変遷に置いていかれぬよう、私達も共に変化をしなければいけないのだと。
「エルヴィンも私もきっと同じ。だからね、もっと話しましょう。互いに踏み込みましょう。同じ想いでなんていなくていい、ただ……貴方のことを知りたいの、知って欲しいの。だから……」
なんと言うべきか分からず押し黙ったままのエルヴィンの瞳に、微かに光る淡い星が宿っている。スピカはそれを捉えて、一枚のチケットを差し出した。再び前を向いて歩くための、一つのきっかけになることを信じて。
「これは?」
「次のライブのチケット。エルヴィンに来て欲しいの」
チケットには座席番号や会場などが記載されている。どうやら普段行っている路上のゲリラライブではなく、富裕層をターゲットにした、コンサートホールで行う規模の大きな公演のようだ。
「どうせエルヴィンは私のことも可哀想なやつだって、与えるばかりの愛なんて損するだけだって思っているんでしょうけど、このステージで一等星たる所以も、私たちの愛も、全部貴方に教えてあげる」
だから絶対に見に来てちょうだいね! そう言い残して、スピカは満足そうに長い廊下を駆けていった。その場に、表情も伺えぬ様子で、エルヴィンは茫然と立ち尽くしている。
――。
名前を呼ぶ。雪に埋まらぬように、大切な名を。窓越しには、一面の銀世界が広がっていた。