第一章 calling you


 

 
 
 あなた方にとって、歌はどんな存在だろうか。例えばいじっぱりで涙をひた隠す、愛の言葉に耳を塞ぐような年頃のおんなのこだって、それが歌であったなら、よろこびも、かなしみも、まるで自分ごとのように共感したり、少し素直になってみて、あなたの言葉を宝物みたいに刻み込むような魔法使いみたいな存在だと、私は思う。



 
 その日のエルヴィンは定例会議へと向かい、いつもより早い時間に王宮へと到着した。国王の予定が長引いた事により王宮を散策する事になって、クリスマスローズが綺麗に咲いているからと、勧められるまま庭園へと足を運んで。
 アプリコットと出会ってから、エルヴィンは大好きで、大嫌いなものがたくさん増えていった。おやすみ、ただいま、それから、冬。あの子と出会って、別れた冬。恋しくて、手のひらからすり抜ける雪が切なくて、胸がきゅうと鳴る冬が嫌い。だからこの季節は一層憂鬱になる、はずなのに。不思議とやすらぎを感じ、心が穏やかになるような久しい感覚が優しく身体に染み渡っていた。庭園の花が見事に咲いていたからだろうか。それとも耳に微かに届く、春告鳥のさえずりのような、美しい歌声のせい?
 次の季節へと流れていくように辿り着いた庭園の中央、舞い踊る少女に届くよう祈りを込めて、やっとの思いで絞り出した声は、酷く震えていた。
 
「アプリコット?」

 

 
「新しくコーリングに任命されました、スピカです!役割、職業共にアイドルの十六歳。どうぞよろしくお願いします」

 定刻の二十分前。新たな風が吹く本日の定例会議は先月の暗鬱な雰囲気とは打って変わったように、晴れやかな空気が流れていた。大混乱を招いた時代の最中であることを忘れさせる、評判に恥じない一等星の眩しい笑顔。力強く真っ直ぐと伸びる可憐な声は、ステージの端まで届くことを容易に想像させ、それだけで彼女が天性のアイドルであることを知らしめている。会議に出席した要人たちは皆、幼い頃一番星を見つけた時のように自然な笑みが溢れていた。ただ、エルヴィンとチャーリーを除いて。

「そんなに顔を真っ赤にして、いったいチャーリーはどうしたんだ……体調が悪いのなら帰した方が良いのでは?」
「スピカさんのファンなのだそうですよ。どうやら緊張してしまったようですね」

そういえば、先月の会議ではライブに行けなかっただとか、そんなことを言っていた記憶がある。エルヴィンが一人納得していると、同じように記憶を巡らせていたスピカが合点がいったように手を打った。薔薇の花弁のようにパニエが重なるスカートをふわりと揺らし、ステップを踏むように白いニーハイブーツを鳴らしながらチャーリーの元へ駆け寄り顔を覗き込むと、嬉しそうに微笑んだ。
 
「やっぱり!いつも深くフードを被ってライブに来てくれているわよね?」
「えっ、覚えてくれているの?わあぁ……えっと俺、スピカちゃんのファンで、いつも応援しています」
「身長が高いから気遣って、決まって後ろの席で見てくれているの、気付いていたわ。いつもありがとう」

 がたりと大きな音をたて立ち上がるチャーリーは桃色の頬を真っ赤に染め、いつになく忙しなく、いつもより俊敏に動いている。
 スピカは着用していた汚れのない真っ白な手袋を丁寧に外し控えていたマネージャーに手渡すと、細くて長いおんなのこの手を、チャーリーへと差し出した。

「アイドルとファン。そしてこれからは仲間として、友達として。よろしくね!チャーリー」

 一挙一動から滲み出る彼女のスター性は、アイドルについて疎いエルヴィンが驚嘆するほどであった。同じ地位を授かったとはいえ国の権力者を前にして物怖じしない言動は、十六歳の少女だとはとても信じられない威厳さえ感じられる。
 若い娘だからと無意識下で侮っていた者たちは、頭が殴られたような感覚に陥った。少女は日々この会議室にはとても収まらないほどの人数を前にして、一人ステージに立っている。その事実を、アイドルという存在を、スピカを、全員が重く受け止めた時のことだった。
 
「私の役割は歌うことによって発動するみたい。より一層、アイドル活動頑張ります!」
「気力に溢れているのは喜ばしいことですが、あまり役割を多用してはいけませんよ」
「代償のこと?その話だけれど、役割の使用について、権限を貴方に渡すことはできないわ」

 その場にいる全員の血の気が引いた瞬間だった。クロックフィールドの伝説として語り継がれる守護者アテナと同じ時代を生き、国王と並びコーリングを取り纏めるあの管理人に真っ向から意見した人間が今まで何処にいただろうか。
周りの心配を他所に管理人は困ったような笑みを浮かべるだけで、「代償の話を決して忘れてはいけませんよ」と伝えた後は、積極的に彼女を止めようとはしなかった。

「だって私、偶像アイドルだもの。そこに求める人がいるのなら、いつだって歌います」

 ――気に食わない。それは随分と聞き覚えのある言葉で、エルヴィンは瞳に不快感と怒りを宿してスピカを見下ろすように立った。彼女は目を逸らさない。真っ直ぐにその目で、あの子とよく似たその瞳で、エルヴィンを見ている。二人の間には妙な緊迫感が流れ、暫くそうした後、静寂を破ったエルヴィンの掠れた声には叫ぶような悲哀が浮かんでいた。
 
「そのせいで、君が何を失おうと構わないと言うのか」
「もちろん。これが私の愛、ファンの幸福が私の幸福よ」

 
 
 Ⅱ

 

「待ちなさい」
「何かしら?申し訳ないけれど次の予定があるのよ。手短に済ませてもらえると助かるのだけど」

 会議が終わり帰ろうとするスピカを呼び止めたエルヴィンは、彼女の訝しげな顔を、何かを確かめるように無遠慮に見つめる。
 庭園で彼女を見た時は、自由に踊る少女の姿が重なっただけなのだと思っていた。手入れの行き届いたココア色の甘い髪に、夜空の下でも輝きを濁さない、希少なパライバトルマリンを宿したような惹き込まれる淡い青緑色の瞳、そのどれもが異なっている。しかし、顔の造形やきらきらと光溢れる、透き通るような特徴的なその瞳は、閉ざされたアプリコットの瞳と瓜二つであった。

「君にきょうだい……姉がいたりしない?」
「姉?いいえ、いないわ。兄なら三人いるけれど」

 意図が汲み取れないエルヴィンの質問に一つ文句を言ってやろうと顔を見上げたスピカは、思わず息を飲む。

「僕の妻が君にそっくりなんだ。どうか、一度、会ってはくれないだろうか」

 妻は、アプリコットは、家族に憧れていたから。
 場違いにも美しいと、そう思った。滅多に目にかかることの出来ないクロックフィールド、そして私達の救世主であるコーリング。どんな人達なんだろう。そんな思いを抱えてやって来た王宮で初めて目にしたエルヴィンは、酷くやつれていた。憂愁を纏い、レンズ越しの藍の瞳は曇がかかっている。その姿はスピカの元に救いを求めるファンの人達と何一つ変わらない。変わらなくて当たり前だった。ミスタという物語の中で、悲劇は平等に降り注いだのだから。
 けれど藍色は今、愛する人から受けた光を、捧げる希望を一つも漏らすことなく、忘れることのないように輝きを秘め、その色を遠い夜空のように深くしている。この人も、誰かのために生きている。その美しさを、彼の本来の色を濁すようなことは、したくはないのに。
 
「私は孤児で、今の家族とは血が繋がっていないわ。可能性はあるかもしれない。だけど……」

 乾いた喉につっかえた言葉を、叶うならば飲み込んでしまいたい。でも、それでも。

「もし血が繋がっていたとして、私はその子の家族にはなれないわ」

 故意に人を傷付けたことに、スピカの胸はちくりと痛む。けれどエルヴィンの懇願するような瞳を前に、嘘をつくことはとても出来なかった。それに、家族というものは彼女にとっても、大切なものだったから。綺麗な思い出を穢さぬように、埃一つ被らぬように、潔白でありたかった。

「私の家族は育ててくれたお父さん、お母さん、それから兄さん達。ブライト家の皆。私はスピカ・ブライトよ」

 空に雲がかかって、星が見えなくなっていく。優しい拒絶を受けたエルヴィンはその場に立ち尽くして動かない。俯いた彼の顔は伸びた前髪で隠され、表情を伺うことは出来なかった。
 
「じゃあ……」

 マネージャーから耳打ちを受けたスピカは、蟠りを心に抱えたまま馬車の踏み台足をかけようとして、何かを思い出したように、突如ぴたりと動きを止めた。
 
「アプリコット、心臓のコーリング?」
「……だったら何だ」
「さっき貴方、私の愛を否定しようとしたわね」

 肌を刺すような冬の夜風が二人の間に吹き荒れる。
 
「なら、エルヴィンはアプリコットの愛も否定するの?」

 誰もが彼女の愛の腕に包まれ生きるこの国で、アプリコットを知らないものは居ない。毎日を忙しく生きるスピカも、彼女への感謝や敬意を忘れたことはなかった。なにより、同じ人間だとは信じ難いその愛情の深さ、美しさに、スピカは誰より憧れていた。

「そうね、確かによく似てる。私は貴方より、あの子の愛が理解出来る」
「僕と君は、分かり合えないみたいだ」
「どうやらそのようね」

 降り始めた雪を決裂の合図にして、スカートを翻したスピカはエルヴィンに背を向け、馬車へと乗り込んだ。


 

 馬車の中、向かいに座るスピカの侍女兼マネージャーを務めるリズは、こくりと頭を揺らして気持ちよさそうに眠っている。誰より疲れた主人を前にして、と悪態をつきながらも、スピカは予備のジャケットを枕替わりに座席に敷いて、リズを寝かせてやる。
 星一つ見えない空を退屈に眺める。彼女の眠りを妨げないように零した小さなそのつぶやきは、降り始めた雪に紛れ、彼の元には届かない。

「家族ならいるじゃない。他でもない、貴方が」



 
「僕が間違ってた。あんなに意地悪な女の子は君に似ても似つかないよ」

 それに、アプリコットは春告鳥よりも、ヒバリに似てる。そのよく通る愛らしい声で絶えずお喋りをする所とか。
 椅子に凭れさせたアプリコットの髪に櫛を通すエルヴィンの様子を見て、メアリーは読み進めていた童話をやや雑に閉じ、持ち込んでいた鞄に放り込んだ。

「その辺にしておかないと、お嬢様の髪が抜けちゃいますよぉ。エルヴィン様、あまり梳かすの上手じゃないから」
「う、アプリコットも上手じゃない。お互い様なんだよ……」
「うふふ、不器用な夫婦だから目が離せないわぁ」
 
 さっきまで業務をほったらかして本を読んでいただろう。そう言いたげな視線を流すように櫛を片付けるメアリーに、エルヴィンは諦めたようにアプリコットを横抱きにし、少しの傷も付かないように、優しくベットに降ろしていく。

「もうあがっていいよ。今日もアプリコットの傍にいてくれてありがとう」
「はぁい。おやすみなさい、エルヴィン様、アプリコット様」

 いつからだろうか。メアリーはお疲れ様ですの代わりに、おやすみなさいと言うようになった。アプリコットの鈴を転がすような声が鳴らくなった家で、彼女の力の入らない体や顔色の変化一つに気が狂いそうになるエルヴィンを支えたのは、ほんの些細なかなしみも、すぐ傍で共有してくれる彼女の気遣いや愛情のおかげだった。雇用人と使用人以上に、エルヴィンは彼女へ家族愛に近いものを感じていた。
 すっかり嫌になっていたその言葉に、あの頃のように喜びと、愛と、祈りを込めて。

「おやすみ、メアリー。いい夢を」
 
 暗転。

 
 
 IV

 
 
 ――三ヶ月前。
 管理の宮の最上階。天に一番近いその場所は神殿を模したかのような造りをしており、フリーズにはかつてクロックフィールドを守るために戦い抜いたアテナを初めとする四人のミスティルの戦争の記録が彫刻により施されている。
 暫く歩を進め辿り着いたのは、花の香りが漂うアトリウム。太陽の光が降り注ぐこの場所にはたくさんの花壇が置かれ、花々がめいっぱいに背を伸ばし咲き誇っている。あたたかな中庭のような空間の中央に設置された異質な純白のベッドに腰をかけると、ベールを外した管理人は目を細め、蕾がほころぶように微笑んだ。

「久しぶりだね」

 役割によって出現させた一冊の本を開くと、ひと針に愛を込める刺繍のように、青いインクが子供のような拙い文字を紡いでいく。その様子を見逃さないようにじっと眺め、やがてその文字が動きを止めると、管理人は縋るように管理書を抱きしめた。よかった、私たちはまだ繋がれている。

「運命の糸の先で、必ず再会しよう」

 君が伸ばした糸を手繰り寄せて、きっと会いに行くから。その時までどうか泣かないでいて。諦めないで。
 おやすみ、どうか、良い夢を。
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