第一章 calling you
I
目覚めの瞬間は何時だって僕らに気怠い優しさを与えてくれる。部屋に差し込む陽の光は愛する人の名前を呼ぶ時のように物柔らかであったし、母に頭を撫でられる遠い記憶のようでもあった。
男はまだ明瞭ではない視界をゆっくりと、眩しそうに隣の少女へと傾ける。朝には始まりを告げるお日様みたいに、夜には星の光を一つ落としたように優しく光る金色の髪、小さくて可愛らしい桃色の唇。瞳には無垢な少女に相応しい穢れのない若芽色が広がっていることを、男は知っている。柔らかい頬に親指を滑らせてもその瞳が開かれることは無く、少女はまだ深い夢の中を旅しているようだった。
彼らの住まいには客室を含め、宮殿と呼ぶに相応しく数多くの空き部屋が存在する。宮の所有者である男は少女が屋敷にやって来ることが決まった十年前、部屋数すらも把握もしていない、だだっ広いだけの家を日が暮れるまで駆け回ったことをよく覚えていた。
からっぽの部屋を一つ一つ確認して何度も見比べては一番日当たりが良い部屋を選び抜き、家具は一級品で取り揃える。目に入る物からきっと知らないところまで、一番良いものだけを与えたい一心で用意した煌びやかで上質な部屋はあまり少女の嗜好にはそぐわなかったようで、その中から必要な物だけを残して、代わりに少女の好きなものが少しずつ増えていった。中でも展示会で一目惚れなのだと買い取った真っ赤な林檎の絵画を彼女は随分と気に入って、壁にかけてからは毎日うっとりと眺めていた。
ベットは天蓋付きでまっしろがいい。そうしたら、天使になった気分になるでしょ?そう言って揃えた純白のシーツにくったりと体を預ける姿は今はもう人形のように思えて、ぞっとした男は規則正しい呼吸の音を確認して安堵したように、はたまた、かすかに悲哀を浮かべ、白い肌へそっと唇を寄せる。
「おはよう、僕の眠り姫」
それは、祈るような目覚めの言葉だった。
臀部の辺りまで伸びた髪を高い位置でぞんざいにまとめあげ、黒色のリボンを固く結ぶ。男の少しくすんだ上品な金色の髪をじっと見つめるのが、少女は好きだった。お星様の色だね。綺麗だね。そう言ってきらきら笑う少女の笑顔と金の髪こそ燦然と輝く星々そのものだろうと、眩しい思い出に小さな笑みを贈る。
手早く身なりを整え、最後の仕上げをするようにマットサテンの青いリボンを手に取り、丁寧に首元に結んでいく。左右差や無駄なしわがない仕上がりはポニーテールに飾られたリボンが少し可哀想になるほどだった。
リボンを愛おしげに指の腹で撫でたあと、呼び鈴の中から一つレバーを引けば程なくして小さくノックの音が響く。許可が出るのを待ってゆっくりと扉が開き、まだ夢を見ているかのようにおっとりとした調子のメイドが顔を覗かせた。少女の侍女だ。
「おはよう、メアリー」
「はぁい。おはようございます、エルヴィン様。本日のご予定は、定例会議でしたねぇ」
「ああ、家を開けるから彼女を頼む。帰りは夜になるかな」
部屋に入るなりエルヴィンの言葉に耳を傾けながら換気を始める彼女の動作は緩やかでいて無駄がない。以前別の主人に仕えた経験があるからだろうか、そのぼんやりとマイペースな態度とは裏腹に敏腕な仕事ぶりを見せる優秀なメイドである。休日はどうも、雇い主のこちらが世話をしようかと思う程に緩慢で、食事すらも忘れてしまう人なのだが。
新鮮で清らかな空気が入れば、耳にかけた柔らかい黒髪をご機嫌に揺らして気持ちがいいですねぇ、夢みたいですねぇ、お嬢様。などと、まだ眠る少女に声をかけている。エルヴィンはその様子を横目に気付かれないよう、そっと扉のハンドルに手をかけた。
「エルヴィン様」
彼女らしくない、呼び止めるかのような真っ直ぐな声色だった。思わず体が硬直して、じとりと不快な汗が浮かび手先が滑って動けない。それは次に紡がれる言葉を察して、親に叱られる時のように、恐れているようにも見えた。
「……行ってらっしゃいませ。本日の夕食はお嬢様のお好きなシチューですから、はやく帰ってきてくださいねぇ」
彼女の案じるような笑みに、ああ、と頼りなく言葉を返す。歩みを進めようとハンドルを捻ろうとして、エルヴィンは堪らなくなったように少女に駆け寄り、唇にキスをした。あいしてる。密やかな愛の言葉を囁いて、愛しい少女を目に焼き付け、今度こそ部屋を後にする。エルヴィンはもう、振り返らなかった。
かえってくるよ。そこに愛する人がいるのだから。そこは幸福の象徴で、帰るべき僕らの大切なおうちなのだから。だけれどほんとうは、おはようも、おやすみも、いってきますも、ただいまも、僕は大好きで、大嫌いだ。
Ⅱ
会議室のある王宮へと向かう遮光された馬車の中、エルヴィンはただひたすらに揺られながら、時が過ぎるのを待っていた。太陽が恐ろしくてカーテンを閉め切れば、暗闇に包まれるような感覚に身が震えてしまう。考えることが怖くて思考を止めてしまえばそのまま呼吸すら止まってしまう気がして、前も後ろも分からなくなった時、世界を遍く照らす太陽を縋るように求めるのだ。いつだって矛盾していて、愚かでいることを止められずにいる。やがて沈みゆく光に焦がれ、悲嘆に暮れる夜は消して自分を逃してはくれないのだと分かっていても、刷り込まれた光の前で僕らは産まれたばかりの小鳥同然に追いかける他ないのだから。
深く深呼吸をして端から外を覗くように怖々とカーテンを捲ったエルヴィンは、その光景に虚ろな瞳をめいっぱい見開いた。何十回と通った見慣れた風景、ではない。馴染みのない景色がそこに広がっていた。
そもそも、エルヴィンの住まいから王宮はそう遠くない。外の景色を遮断していたため定かではないが、出発の時間から考えれば体感を頼りにしても、とっくに到着している頃だった。道を間違ったか、との考えが頭を過ったが御者は新人では無いから、その可能性は無いだろう。選択肢から除外し更に思考を巡らせてみても、御者の意図は読み取れそうになかった。
「君、王宮はこちらの道では無いけれど、一体どこに向かっているんだい」
迷った末に御者席に声をかけると、馬を引く男は何とも不思議そうな反応を見せる。
「え?はぁ、事前に申し付けられました通り、先に管理の宮へと向かっております。もうそろそろ、到着いたしますよ」
「なんだって?」
予想だにしない返事に自身の耳を疑うも、使用人は管理の宮と確かに言っていた。何故?恐怖心も忘れカーテンを全開にしたエルヴィンが外を覗くと、白い外壁に丸みを帯びた水色の屋根が特徴の、おとぎ話の王子様でも住んでいるかのような立派な建物がそびえ立っていた。あれは紛れもなく、管理の宮だ。
エルヴィンは母国、クロックフィールドを支える"コーリング"の一人に任命されている。コーリングとは神様から役割と永遠の命を賜った歴史的にも稀有で崇高な存在であり、その力を国のために捧げることから王族と同等の地位が与えられている。王室は国に忠誠を誓う彼らが不自由のないようにサポートを欠かさず、王宮の付近に住まいを一つ与える。つまり、管理の宮は"管理"の役割を担うコーリングの住まいとなる。それも、エルヴィンが苦手とする、人間の。
馬車が停車すると間もなくしてコン、コンとやけに規則正しいノック音が響いた。ぶっきらぼうに返事をしてやろうとすれば、そんなエルヴィンを待たずに馬車のドアが開かれる。遠慮のえの字も見えない"管理人"と呼ばれるその男は、やぁ、困りました。と、形の良い唇から少しも困った様子が見られない無駄に心地良い音色を陰鬱な馬車内に響かせ、長身を折ってエルヴィンの向かいへと座った。
エルヴィンは管理人を下から上にじろりと睨みつける。白い司祭のような服を身にまとい、目元を隠すようにベールを被っている。前に流したサックスブルーの艶やかな髪からは花のような馨しい香りが漂い、如何にも好青年、だけれどコーリングの年長者としての威厳が感じられるような……そんな、腹が立つほどに、いつもと変わらない風貌をしていた。
「本当に助かりました、どうもありがとう。まさか馬車が壊れてしまうなんて……長く生きると時間の感覚に鈍くなりますから、駆使してしまったようですね。修理から返ってきたら謝らないと」
「そんなことは今どうでもいいでしょう。管理人、家の者に命令を下すのなら、先に雇用人である僕に話を通すのが筋と考えますが。管理の宮に行くなど、僕は一切聞いておりません」
緊急、という事もあるだろう。謝罪の言葉があったなら、彼も許してやる気はあったのだ。不機嫌を隠そうともしないエルヴィンの言葉に、管理人の冬の花のように美しい笑みが瞬きを待たないほどの一瞬、歪んだように見えた。同時に、身が震えるような隙間風を感じて、知らずのうちにエルヴィンは腕を摩っていた。隠れた瞳に突き刺すように見られている気がして呼吸が詰まり、居心地の悪さに視線を逸らしたい衝動に駆られる。
「……あの、何か?」
「いえ、気になさらないで。確かに手紙を出したつもりでしたが、記憶違いでしたら申し訳ないので記憶を掘り起こしてみようかと」
今は話しかけるな、と迂遠に言われたようだった。管理人が手紙を出して、使用人は命令を受け取った。間違ったのがエルヴィンであることは明白だったが、彼は謝る機会を与えず、曖昧に流した意味すらも共有する素振りも見せない。そんな管理人の態度にエルヴィンは腹が立って、拗ねたようにふいと顔を背けた。
気に障ることをしたわけではないはずだ。少なくとも怒りを見せたようには感じられなかった。いつもの事だ。聖母のような笑みをたたえ、僕らに救いの手を伸ばしてもベールの奥を一切見せようとはせず、悟らせず。初めて会った日からずっと、何を考え何を思うのか、何一つ知らせないまま。だからエルヴィンは、彼が苦手だった。
「……うん、確かに手紙をお送りして、お返事もいただきましたよ。私と貴方の仲とはいえ、そこまで失礼なことはいたしません!」
そうして少しの間考え込む素振りを見せた後、何事も無かったかの如くおちゃらけて見せる管理人からは一瞬感じられた冷気のような鋭さはさっぱり抜け落ちていた。最近は忙しいから、忘れてしまうこともあるでしょう。そう言った管理人の言葉を最後に互いに口を閉ざして、馬車は王宮に着くまでの間、長い冬のような静寂を保っていた。
「管理人様、エルヴィン様。ようこそいらっしゃいました。王宮まで足を運んでいただき感謝いたします」
「こちらこそ貴重なお時間を頂戴すること、心より感謝いたします。国王陛下」
王宮に到着した二人を最初に出迎えたのは国王陛下であった。互いに敬意を持って挨拶を交わす国王と管理人の会話からは身分差などは感じられず、王族とコーリングの関係性がよく表れている。コーリングに任命されたエルヴィンが初めて会議に参加した日、お忙しい陛下がそんな事をする必要は無いのだと伝えると、自分に出来ることはそれくらいしかないからと、申し訳ないと言う風に笑って見せた国王の姿を、今もエルヴィンは鮮明に覚えていた。会議室の中央に置かれる円形のテーブルにおいても、国を支える二つの柱として対等であることを表すために上座を無くしたという話を以前管理人から聞いたことがあった。
「それでは、御二方が先にお入りになってください」
国王の配慮に軽くお礼を告げると、使用人により重厚な扉がゆっくりと開かれる。その先には煌びやかな王室の建築とは一風変わって、先程思い浮かべたテーブルを初めに白を基調とした清廉な雰囲気を持つ、普段通りの会議室が広がっていて……。
「エルくん!」
「うわ!」
室内へ足を踏み入れようとするエルヴィンを迎えたのは白い会議室ではなく、柔らかに色付く一面の桃色であった。予想だにしない景色に驚き瞬発的に桃色を避けると、ふわりと風に舞う長い髪とともに、甘い桃の香りが辺りに広がった。
エルヴィンに飛びついたその男は、容易に受け止めた管理人の腕の中でゆったりと姿勢を直し、これまたゆったりと振り向くと、熟した桃のように染められた柔いほっぺたを大きく膨らませる。両手拳をぐっと握り"怒っています"とでも言いたげなアプローチに、またか……。とげんなりとしたエルヴィンは気だるげな藍の瞳を煩わしげに曇らせ、目の下の隈を一層濃くするのだった。
「もう、エルくん!避けるなんてひどいよぉ〜。久々に会えるの、ずっとずっと待ってたんだから」
「知らない、そんな目で見るな。あとベストのボタンを全部開けるのは君の流行なのか?だらしがないから閉めなさい」
今気が付きました、と言わんばかりに大きく驚いた桃色の男――チャーリーがもたもたと着崩れを直し始めたことでエルヴィンはようやっとはぁあ、と大きく息を吐いた。間の抜けた彼も、"予知"の役割を持つ立派なコーリングだ。エルヴィンは彼のことも苦手だった。騒がしく、休日のメアリーに負けないほど動作が遅く、締りがなく、おまけに不器用で見ていられない。それに加え女性的な美しさと少女のようなあどけなさを持つせいで、責め立てられるとなんだか悪い事をした気分になるのだ。実際は長身の管理人の背を僅かに上回る大男なのだが。
「にしても君、今日は余裕を持って到着していたようだね。珍しいじゃないか」
「ふふん、それはねぇ。昨日はお泊まりしてたから、起こして送ってもらったんだぁ。......男爵夫人に」
嫌な予感を察知したエルヴィンが大慌てでチャーリーの口を塞ぐも、あと一歩間に合わない。国民の乱れた関係を国王の耳に入れたくはなかったのに!分かっている。単純にふしだらな男、では無いのだ。純粋すぎるが故に、善意で万人に手を差し伸べてしまうだけで。故障した機械のような動作で国王の方を振り向くと、彼はなにも知りません、聞いていませんというふうに首を傾げていた。知らんぷりだ。胸が痛かった。
「そもそもね、最初に入室したのが国王陛下だったなら君、どうしていたんだい。朗らかで寛大な方とはいえ、その優しさに甘えてはいけないよ。それから君は」
「あら、チャーリーさん。髪に葉っぱ、ついてますよ」
あれぇ、どこぉ?髪に付いた葉をもたつきながら探す間、やっと一つはめられたボタンが手付かずになっている。その様子に耐えられなくなったエルヴィンが不機嫌を醸し出しながら、代わりに生地が痛まないよう丁寧にはめてやる。やっと葉を見つけて嬉しそうに笑うチャーリーの頭を管理人がふわりと撫で、彼はもっと幸せそうに笑った。管理人が口を挟んだのは、エルヴィンの説教タイムを中断させるためだろう。一見不調和な三人が確かに調和する様子を見て、国王は小さな風が微かに肌を撫でるように、三人に届かないほど静かに、救われたような笑みを浮かべていた。
「初めに、現在のクロックフィールドの状況を確認します。管理人様、よろしいですか?」
「はい。チャーリーさん、エルヴィンさん、役割の使用を許可します」
定刻通りに始まった会議は、国王とノエの指示により進行される。国王、コーリングの他に速記を担当する側仕えが二人、神殿を取り纏める神官長に会議への参加が認められているが、実質的な発言権を持つのは二人の長のみである。ノエより承認を得たエルヴィン、チャーリーは深い眠りにつくように、揃って静かに目を閉ざした。神官長がほう、と称嘆の声を漏らす。ただ瞼を閉ざすだけのそれは平凡な彼らには神聖な儀式のように映っている。しかし国王にとっては、彼らの尊い犠牲の観測に過ぎなかった。
役割を使用したエルヴィンは、広い大図書館の中央に一人佇んでいた。円形に設計されたそこは見渡す限りに本が敷き詰められ、暖かなライトに照らされたアンティーク調の本棚からは持ち主に似て、彼自身が持つ様な上品さが感じられる。目が回るような景色の中膨大な本の数に気圧されることなく、迷いの見られない足取りで一つの本を手に取るエルヴィンの姿はまるで司書のようであった。
「植物の状態はどの地域も異常無し。役割が働いた証拠だ……いけない、西の森に親子が取り残されている」
「新たに陥没した道も、崩壊が起きた場所も見られないね。復興は順調」
ぱたん。本を読み終えれば、次の本へ、次の本へと、神の手に導かれるように歩を進める。
存在が稀有であるコーリングの能力において、解明されていることは数少ない。それは行動であったり、物であったり、二人のように他人に可視化されない空間であったりと、媒体すらも異なっている。エルヴィンはこの大図書館に世界を正確に記録し、保管している。それが神様によって与えられた、彼の役割だった。
「以上が、僕からの報告になります」
役割を使用した二人が報告を終えると、国王と管理人は揃って眉間に皺を寄せ、難しい表情を浮かべる。
「チャーリーさんの話からも、特段変わった様子は見られませんでしたし……完全な停滞、ですね。アプリコットさんのおかげでなんとか国の形を保っているものの、状況は芳しくありません」
――アプリコット。
この場にいない、四人目のコーリング。激しい戦争の最中クロックフィールドを守り抜いた守護者・アテナの死後、緩やかに綻びを広げていたミスタは数ヶ月前、突如闇に飲まれるように崩壊を早めた。唯一彼らが住むクロックフィールドが逃れることが出来たのは心臓の役割を賜った少女、アプリコットの存在があったからだ。ミスタ崩壊は、管理でも、予知でも、記録でも、抗えない大きな運命だった。
「ねえねえ、俺たち、コットちゃんのおかげで今ここに集まってるんだもん。今度みんなで一緒に会いに行こう。それで、あの子が大好きな美味しい林檎を山ほど持ってくの!」
そしたらきっと、目をきらきらさせて喜んでくれると思うんだぁ。沈鬱な空気が流れるその場に愛を含ませた優しいチャーリーの声が響き、エルヴィンはその日初めて、果実が熟されていくような、微かでも確かな笑みを浮かべてみせた。
「ああ、きっと……食べきれないかもって、幸せそうに笑うのだろうね」
「タルトタタンやアップルパイを皆で作ってはいかがですか?ああ、でもエルヴィンさん……チャーリーさんの手元はもっと見ていられません。私が一人で作りましょう」
「管理人さん、お料理できるの?すごいねぇ」
一人の少女の幸福を願い、不揃いな三人は顔を合わせてくすくすと無邪気に笑っている。神聖な会議中だと声を荒らげようとする人は、ここには誰もいない。少女を深く知らない人すらも、その様子を見れば彼女がよく愛される素敵な女の子であったと理解することに違いなかった。
場の雰囲気が落ち着いた頃を見計らい、国王がパンと小さく手を鳴らすと、会議は元の厳粛な空気を取り戻す。
「つまり、インベルも発見されなかった。ということでよろしいですね?」
「ええ、僕の役割を持って発見できる存在なのか……不明ではありますが、怪しげな人物は発見できませんでした」
ミスタには魔法のような摩訶不思議な力を扱える存在が三組に分けて存在する。制限の元神に与えられた役割に忠実に従い、管理人の所持する管理書に誕生が記載される"コーリング"。神の愛し子として力を分け与えられたとされ、誕生と共に神殿にお告げを下される善良な"ミスティル"。そしてそのどれにも当てはまらず、誕生が祝福されない"インベル"。存在が稀であり、それがどれほど善良な者であったとしても、制限に縛られないインベルが持つ力が懸念されることは当然のことであった。
突如動きを止めたシンボルの時計塔、一人の少女を養分にして不安定な積み木の上に存在する国、その積み木を崩しかねないインベル。全ての不安要因が取り除かれた以前のような活気溢れるクロックフィールドの未来は、誰一人想像も付かない、夢の向こうの遠い景色となってしまった。
「……では最後に、私からのご報告がございます」
会議も終盤の頃、管理人からのその言葉にその場がざわめきはじめる。コーリングの誕生を管理する管理人からの"報告"。それが意味することは一つに限られている。
「二ヶ月ほど前、新しいコーリングが誕生しました」
二ヶ月?その希少性故早々と情報が共有されるコーリングでの異例の状況に、周囲がそれぞれ戸惑いを見せる中、エルヴィンはぽっかりと開いた口が塞がらない。相手は相当な暴れん坊なのだろうか。いや、それこそ自己犠牲の精神を持つコーリングでは異例中の異例だろう。
「何故二ヶ月もの間、会議を欠席したのですか?」
「なんでも、スケジュールが先まで埋まっていたそうですよ。それはもう、ぎっしりと」
「ええ。俺だって、楽しみにしてた今日のライブ、会議で行けなかったのにぃ……」
それとこれとは話が違うだろう。エルヴィンはチャーリーの趣味全開の発言に静かに突っ込みを入れる。管理人が許可するほど、重要な予定であることは確かなのだから。
「……それで、肝心の役割は?」
Ⅲ
「チャーリーさん」
「ひゃあ」
ぎくり。夕暮れが深い影を作る頃、会議も終わり馬車に乗り込む直前、管理人に声をかけられたチャーリーは振り返ることなく、代わりに気の抜けた声を発してしまう。やましい事がある人間の態度だった。
「ああ!困りました。実は馬車が故障していて帰れないのです。お願いします、どうか哀れに思って同席させてくださいませんか?」
「ひゃいぃ……」
もうとっくに、全てを見透かされている。態とらしくも有無を言わせない管理人の態度に、チャーリーは覚悟を決めてか細い声を返す他、選択肢は無いのだ。彼の完全なる勝利であった。
「さて、私の言いたいことはもう分かっているはずですよ?自分の口から言ってご覧なさい」
「ううっ、俺は許可を得ずに役割を使いましたぁ……!」
「はい、よろしい。いつもの人助けの一環、と言うのでしょう?」
こくりとチャーリーが小さく頷くのを見て、向かいに座る管理人は彼に届かないよう、小さくため息をつく。時間も限られた馬車の中、これ以上萎縮されては会話にならないと思ったからだ。管理人とて、意地悪をしたい訳では無いのだから。
「チャーリーさん。顔を上げて」
温もりを乗せた声色に、チャーリーは言葉を理解する前に顔を上げていた。そこには普段と変わらない、温和な雰囲気の彼がいる。管理人は常日頃、誰に対しても子供に接するようにゆっくりと穏やかに語りかけているけれど、それよりも一つ優しい声だと、チャーリーは思った。そして、随分とその声色は自然であり、発声することに慣れているようにも思えた。
「心配しているのだということを、どうか理解して。代償については随分と昔にお話しましたから、忘れてしまったのならばもう一度説明いたしましょう」
「ううん、覚えてる。約束破ってごめんなさい。でも、困ってる人がいるとやらなきゃって、体が勝手に動いちゃって……」
「うん、貴方の優しさは、きっと私が一番よく理解しています。だけれど、占い程度の使用でも、代償は代償。積み重なれば、いつかは自分自身を失ってしまいます」
人間は神の力を賜っても不完全であることを、彼らは身をもって知っている。コーリングの能力に、代償が付くことも。能力を使うほど、それがどれだけ自分達が大切に抱きしめていた物だとしても、残酷に記憶や感情を失っていくのだと、昔管理人から聞いた話をチャーリーもよく覚えていた。覚えていても、体が衝動的に動いてしまうのだ。
「……でも、俺は随分と長く生きたけれど、何かを失ったような、そんな感覚は一度も感じたこと、ないです。コットちゃんもエルくんも、そんな様子は見られてないのに、どうしてそんなことを知っているの?」
彼の純粋な問いに管理人は曖昧な笑みを浮かべて、答えることは無かった。もしかしたら管理人こそ大切なものを失ったのかもしれない。チャーリーは自分の失言に気が付いて、いつも頭が回らない自分を恥じて、泣いてしまいたかった。揺らいだ藤色の瞳から涙が零れないように握りしめたシャツの裾は、くしゃくしゃに皺が寄ってしまった。そんな自分に気が付いて、ずっと昔に朧気な記憶の中で誰かにかけられた、じんわりと心を満たす愛情のように優しい声をくれるのはいつだって長い時を共にした目の前の彼だというのに。
「チャーリーさん、隣においで。今日も楽しいお話を、この引きこもりの老人にたくさん聞かせてくださいな」
彼の冗談に、チャーリーは大袈裟に声を大きくして、暖かな気遣いに答えるように笑った。管理人は自分を開示しようとはしないからチャーリーは彼に対して無知であったが、謎の多い管理人も無愛想なエルヴィンも、優しい人であることだけはよく知っていた。その優しさからコーリングに選ばれ、いつか全てを失う同じ運命の元で、彼らは確かに支え合って生きているのだから。
IV
「いけない、管理人を置いてきた」
帰路の途中、エルヴィンは目の前に家が見えるという所でやっと管理人を王宮に置いてきぼりにしたことを思い出していた。少し迷った後、まぁいいか。と思考を放棄する。そもそも、彼ら程であれば所有する馬車を使用せずとも手配することが可能なのだから、今回の管理人の意図はさっぱり読めないものであったのだ。
「……新しいコーリングか」
『____偶像 』
会議での管理人の言葉を思い起こす。歴史上エルヴィンを含め三人しか存在しなかったコーリングが、彼がその役割を賜ってから、既に二人目が誕生しようとしている。不穏の兆しのようで、一方でその存在に期待していた。もしかしたら……と。
「エルヴィン様、屋敷に到着いたしました。今扉をお開けします」
「構わないよ。その程度で手間を増やすことはない」
内鍵を開けたエルヴィンは普段の重苦しい雰囲気を微かに和らげ、馬車から我が家への一本道を細いヒールを軽やかに鳴らして歩いた。ぼんやりと開かれた藍のキャンバスに、満天の星々が希望を示唆するように反射する。
五人目の役割持ちで、アイドル。職業がそのまま役割になったのだろうか、それとも全く新しく任命された?前者ならばミスタの崩壊後は職業としての人気は著しく落ち、現在ではたった一人しか存在しないのだと風の噂で耳にしたことがあった。誰もが不安を抱えて生きる寂寞の世界すらもステージにして、その全てを照らすように、一等星の如く煌めく乙女がいるのだと……。
朝、最後に少女に会った部屋の前で、扉に向き合ったエルヴィンは深く深呼吸をする。スティックハンドルに手をかけて、震えを紛らわすよう、けれど大きな音は立たないように。いつも通りを、装うように。
「ただいま、アプリコット。夕食の時間には間に合っただろう?」
そこには朝と何一つ変わらない様子で、真っ白なベットの上、眠り続ける少女がいる。
アプリコット。世界の犠牲となって、キスひとつでは目覚めないほどに深い眠りに付いた、悲劇の素敵なお姫様。クロックフィールドの心臓、僕の心臓、最愛の妻。おかえりが鳴らなくなった現状に目を背けてしまいたいほどの苦しみが緩やかに首を絞めても、今にも崩れそうな幸福のおうちに今日もエルヴィンは帰ってきた。
小指に結んだふたりの約束が、決して解かれないように。
目覚めの瞬間は何時だって僕らに気怠い優しさを与えてくれる。部屋に差し込む陽の光は愛する人の名前を呼ぶ時のように物柔らかであったし、母に頭を撫でられる遠い記憶のようでもあった。
男はまだ明瞭ではない視界をゆっくりと、眩しそうに隣の少女へと傾ける。朝には始まりを告げるお日様みたいに、夜には星の光を一つ落としたように優しく光る金色の髪、小さくて可愛らしい桃色の唇。瞳には無垢な少女に相応しい穢れのない若芽色が広がっていることを、男は知っている。柔らかい頬に親指を滑らせてもその瞳が開かれることは無く、少女はまだ深い夢の中を旅しているようだった。
彼らの住まいには客室を含め、宮殿と呼ぶに相応しく数多くの空き部屋が存在する。宮の所有者である男は少女が屋敷にやって来ることが決まった十年前、部屋数すらも把握もしていない、だだっ広いだけの家を日が暮れるまで駆け回ったことをよく覚えていた。
からっぽの部屋を一つ一つ確認して何度も見比べては一番日当たりが良い部屋を選び抜き、家具は一級品で取り揃える。目に入る物からきっと知らないところまで、一番良いものだけを与えたい一心で用意した煌びやかで上質な部屋はあまり少女の嗜好にはそぐわなかったようで、その中から必要な物だけを残して、代わりに少女の好きなものが少しずつ増えていった。中でも展示会で一目惚れなのだと買い取った真っ赤な林檎の絵画を彼女は随分と気に入って、壁にかけてからは毎日うっとりと眺めていた。
ベットは天蓋付きでまっしろがいい。そうしたら、天使になった気分になるでしょ?そう言って揃えた純白のシーツにくったりと体を預ける姿は今はもう人形のように思えて、ぞっとした男は規則正しい呼吸の音を確認して安堵したように、はたまた、かすかに悲哀を浮かべ、白い肌へそっと唇を寄せる。
「おはよう、僕の眠り姫」
それは、祈るような目覚めの言葉だった。
臀部の辺りまで伸びた髪を高い位置でぞんざいにまとめあげ、黒色のリボンを固く結ぶ。男の少しくすんだ上品な金色の髪をじっと見つめるのが、少女は好きだった。お星様の色だね。綺麗だね。そう言ってきらきら笑う少女の笑顔と金の髪こそ燦然と輝く星々そのものだろうと、眩しい思い出に小さな笑みを贈る。
手早く身なりを整え、最後の仕上げをするようにマットサテンの青いリボンを手に取り、丁寧に首元に結んでいく。左右差や無駄なしわがない仕上がりはポニーテールに飾られたリボンが少し可哀想になるほどだった。
リボンを愛おしげに指の腹で撫でたあと、呼び鈴の中から一つレバーを引けば程なくして小さくノックの音が響く。許可が出るのを待ってゆっくりと扉が開き、まだ夢を見ているかのようにおっとりとした調子のメイドが顔を覗かせた。少女の侍女だ。
「おはよう、メアリー」
「はぁい。おはようございます、エルヴィン様。本日のご予定は、定例会議でしたねぇ」
「ああ、家を開けるから彼女を頼む。帰りは夜になるかな」
部屋に入るなりエルヴィンの言葉に耳を傾けながら換気を始める彼女の動作は緩やかでいて無駄がない。以前別の主人に仕えた経験があるからだろうか、そのぼんやりとマイペースな態度とは裏腹に敏腕な仕事ぶりを見せる優秀なメイドである。休日はどうも、雇い主のこちらが世話をしようかと思う程に緩慢で、食事すらも忘れてしまう人なのだが。
新鮮で清らかな空気が入れば、耳にかけた柔らかい黒髪をご機嫌に揺らして気持ちがいいですねぇ、夢みたいですねぇ、お嬢様。などと、まだ眠る少女に声をかけている。エルヴィンはその様子を横目に気付かれないよう、そっと扉のハンドルに手をかけた。
「エルヴィン様」
彼女らしくない、呼び止めるかのような真っ直ぐな声色だった。思わず体が硬直して、じとりと不快な汗が浮かび手先が滑って動けない。それは次に紡がれる言葉を察して、親に叱られる時のように、恐れているようにも見えた。
「……行ってらっしゃいませ。本日の夕食はお嬢様のお好きなシチューですから、はやく帰ってきてくださいねぇ」
彼女の案じるような笑みに、ああ、と頼りなく言葉を返す。歩みを進めようとハンドルを捻ろうとして、エルヴィンは堪らなくなったように少女に駆け寄り、唇にキスをした。あいしてる。密やかな愛の言葉を囁いて、愛しい少女を目に焼き付け、今度こそ部屋を後にする。エルヴィンはもう、振り返らなかった。
かえってくるよ。そこに愛する人がいるのだから。そこは幸福の象徴で、帰るべき僕らの大切なおうちなのだから。だけれどほんとうは、おはようも、おやすみも、いってきますも、ただいまも、僕は大好きで、大嫌いだ。
Ⅱ
会議室のある王宮へと向かう遮光された馬車の中、エルヴィンはただひたすらに揺られながら、時が過ぎるのを待っていた。太陽が恐ろしくてカーテンを閉め切れば、暗闇に包まれるような感覚に身が震えてしまう。考えることが怖くて思考を止めてしまえばそのまま呼吸すら止まってしまう気がして、前も後ろも分からなくなった時、世界を遍く照らす太陽を縋るように求めるのだ。いつだって矛盾していて、愚かでいることを止められずにいる。やがて沈みゆく光に焦がれ、悲嘆に暮れる夜は消して自分を逃してはくれないのだと分かっていても、刷り込まれた光の前で僕らは産まれたばかりの小鳥同然に追いかける他ないのだから。
深く深呼吸をして端から外を覗くように怖々とカーテンを捲ったエルヴィンは、その光景に虚ろな瞳をめいっぱい見開いた。何十回と通った見慣れた風景、ではない。馴染みのない景色がそこに広がっていた。
そもそも、エルヴィンの住まいから王宮はそう遠くない。外の景色を遮断していたため定かではないが、出発の時間から考えれば体感を頼りにしても、とっくに到着している頃だった。道を間違ったか、との考えが頭を過ったが御者は新人では無いから、その可能性は無いだろう。選択肢から除外し更に思考を巡らせてみても、御者の意図は読み取れそうになかった。
「君、王宮はこちらの道では無いけれど、一体どこに向かっているんだい」
迷った末に御者席に声をかけると、馬を引く男は何とも不思議そうな反応を見せる。
「え?はぁ、事前に申し付けられました通り、先に管理の宮へと向かっております。もうそろそろ、到着いたしますよ」
「なんだって?」
予想だにしない返事に自身の耳を疑うも、使用人は管理の宮と確かに言っていた。何故?恐怖心も忘れカーテンを全開にしたエルヴィンが外を覗くと、白い外壁に丸みを帯びた水色の屋根が特徴の、おとぎ話の王子様でも住んでいるかのような立派な建物がそびえ立っていた。あれは紛れもなく、管理の宮だ。
エルヴィンは母国、クロックフィールドを支える"コーリング"の一人に任命されている。コーリングとは神様から役割と永遠の命を賜った歴史的にも稀有で崇高な存在であり、その力を国のために捧げることから王族と同等の地位が与えられている。王室は国に忠誠を誓う彼らが不自由のないようにサポートを欠かさず、王宮の付近に住まいを一つ与える。つまり、管理の宮は"管理"の役割を担うコーリングの住まいとなる。それも、エルヴィンが苦手とする、人間の。
馬車が停車すると間もなくしてコン、コンとやけに規則正しいノック音が響いた。ぶっきらぼうに返事をしてやろうとすれば、そんなエルヴィンを待たずに馬車のドアが開かれる。遠慮のえの字も見えない"管理人"と呼ばれるその男は、やぁ、困りました。と、形の良い唇から少しも困った様子が見られない無駄に心地良い音色を陰鬱な馬車内に響かせ、長身を折ってエルヴィンの向かいへと座った。
エルヴィンは管理人を下から上にじろりと睨みつける。白い司祭のような服を身にまとい、目元を隠すようにベールを被っている。前に流したサックスブルーの艶やかな髪からは花のような馨しい香りが漂い、如何にも好青年、だけれどコーリングの年長者としての威厳が感じられるような……そんな、腹が立つほどに、いつもと変わらない風貌をしていた。
「本当に助かりました、どうもありがとう。まさか馬車が壊れてしまうなんて……長く生きると時間の感覚に鈍くなりますから、駆使してしまったようですね。修理から返ってきたら謝らないと」
「そんなことは今どうでもいいでしょう。管理人、家の者に命令を下すのなら、先に雇用人である僕に話を通すのが筋と考えますが。管理の宮に行くなど、僕は一切聞いておりません」
緊急、という事もあるだろう。謝罪の言葉があったなら、彼も許してやる気はあったのだ。不機嫌を隠そうともしないエルヴィンの言葉に、管理人の冬の花のように美しい笑みが瞬きを待たないほどの一瞬、歪んだように見えた。同時に、身が震えるような隙間風を感じて、知らずのうちにエルヴィンは腕を摩っていた。隠れた瞳に突き刺すように見られている気がして呼吸が詰まり、居心地の悪さに視線を逸らしたい衝動に駆られる。
「……あの、何か?」
「いえ、気になさらないで。確かに手紙を出したつもりでしたが、記憶違いでしたら申し訳ないので記憶を掘り起こしてみようかと」
今は話しかけるな、と迂遠に言われたようだった。管理人が手紙を出して、使用人は命令を受け取った。間違ったのがエルヴィンであることは明白だったが、彼は謝る機会を与えず、曖昧に流した意味すらも共有する素振りも見せない。そんな管理人の態度にエルヴィンは腹が立って、拗ねたようにふいと顔を背けた。
気に障ることをしたわけではないはずだ。少なくとも怒りを見せたようには感じられなかった。いつもの事だ。聖母のような笑みをたたえ、僕らに救いの手を伸ばしてもベールの奥を一切見せようとはせず、悟らせず。初めて会った日からずっと、何を考え何を思うのか、何一つ知らせないまま。だからエルヴィンは、彼が苦手だった。
「……うん、確かに手紙をお送りして、お返事もいただきましたよ。私と貴方の仲とはいえ、そこまで失礼なことはいたしません!」
そうして少しの間考え込む素振りを見せた後、何事も無かったかの如くおちゃらけて見せる管理人からは一瞬感じられた冷気のような鋭さはさっぱり抜け落ちていた。最近は忙しいから、忘れてしまうこともあるでしょう。そう言った管理人の言葉を最後に互いに口を閉ざして、馬車は王宮に着くまでの間、長い冬のような静寂を保っていた。
「管理人様、エルヴィン様。ようこそいらっしゃいました。王宮まで足を運んでいただき感謝いたします」
「こちらこそ貴重なお時間を頂戴すること、心より感謝いたします。国王陛下」
王宮に到着した二人を最初に出迎えたのは国王陛下であった。互いに敬意を持って挨拶を交わす国王と管理人の会話からは身分差などは感じられず、王族とコーリングの関係性がよく表れている。コーリングに任命されたエルヴィンが初めて会議に参加した日、お忙しい陛下がそんな事をする必要は無いのだと伝えると、自分に出来ることはそれくらいしかないからと、申し訳ないと言う風に笑って見せた国王の姿を、今もエルヴィンは鮮明に覚えていた。会議室の中央に置かれる円形のテーブルにおいても、国を支える二つの柱として対等であることを表すために上座を無くしたという話を以前管理人から聞いたことがあった。
「それでは、御二方が先にお入りになってください」
国王の配慮に軽くお礼を告げると、使用人により重厚な扉がゆっくりと開かれる。その先には煌びやかな王室の建築とは一風変わって、先程思い浮かべたテーブルを初めに白を基調とした清廉な雰囲気を持つ、普段通りの会議室が広がっていて……。
「エルくん!」
「うわ!」
室内へ足を踏み入れようとするエルヴィンを迎えたのは白い会議室ではなく、柔らかに色付く一面の桃色であった。予想だにしない景色に驚き瞬発的に桃色を避けると、ふわりと風に舞う長い髪とともに、甘い桃の香りが辺りに広がった。
エルヴィンに飛びついたその男は、容易に受け止めた管理人の腕の中でゆったりと姿勢を直し、これまたゆったりと振り向くと、熟した桃のように染められた柔いほっぺたを大きく膨らませる。両手拳をぐっと握り"怒っています"とでも言いたげなアプローチに、またか……。とげんなりとしたエルヴィンは気だるげな藍の瞳を煩わしげに曇らせ、目の下の隈を一層濃くするのだった。
「もう、エルくん!避けるなんてひどいよぉ〜。久々に会えるの、ずっとずっと待ってたんだから」
「知らない、そんな目で見るな。あとベストのボタンを全部開けるのは君の流行なのか?だらしがないから閉めなさい」
今気が付きました、と言わんばかりに大きく驚いた桃色の男――チャーリーがもたもたと着崩れを直し始めたことでエルヴィンはようやっとはぁあ、と大きく息を吐いた。間の抜けた彼も、"予知"の役割を持つ立派なコーリングだ。エルヴィンは彼のことも苦手だった。騒がしく、休日のメアリーに負けないほど動作が遅く、締りがなく、おまけに不器用で見ていられない。それに加え女性的な美しさと少女のようなあどけなさを持つせいで、責め立てられるとなんだか悪い事をした気分になるのだ。実際は長身の管理人の背を僅かに上回る大男なのだが。
「にしても君、今日は余裕を持って到着していたようだね。珍しいじゃないか」
「ふふん、それはねぇ。昨日はお泊まりしてたから、起こして送ってもらったんだぁ。......男爵夫人に」
嫌な予感を察知したエルヴィンが大慌てでチャーリーの口を塞ぐも、あと一歩間に合わない。国民の乱れた関係を国王の耳に入れたくはなかったのに!分かっている。単純にふしだらな男、では無いのだ。純粋すぎるが故に、善意で万人に手を差し伸べてしまうだけで。故障した機械のような動作で国王の方を振り向くと、彼はなにも知りません、聞いていませんというふうに首を傾げていた。知らんぷりだ。胸が痛かった。
「そもそもね、最初に入室したのが国王陛下だったなら君、どうしていたんだい。朗らかで寛大な方とはいえ、その優しさに甘えてはいけないよ。それから君は」
「あら、チャーリーさん。髪に葉っぱ、ついてますよ」
あれぇ、どこぉ?髪に付いた葉をもたつきながら探す間、やっと一つはめられたボタンが手付かずになっている。その様子に耐えられなくなったエルヴィンが不機嫌を醸し出しながら、代わりに生地が痛まないよう丁寧にはめてやる。やっと葉を見つけて嬉しそうに笑うチャーリーの頭を管理人がふわりと撫で、彼はもっと幸せそうに笑った。管理人が口を挟んだのは、エルヴィンの説教タイムを中断させるためだろう。一見不調和な三人が確かに調和する様子を見て、国王は小さな風が微かに肌を撫でるように、三人に届かないほど静かに、救われたような笑みを浮かべていた。
「初めに、現在のクロックフィールドの状況を確認します。管理人様、よろしいですか?」
「はい。チャーリーさん、エルヴィンさん、役割の使用を許可します」
定刻通りに始まった会議は、国王とノエの指示により進行される。国王、コーリングの他に速記を担当する側仕えが二人、神殿を取り纏める神官長に会議への参加が認められているが、実質的な発言権を持つのは二人の長のみである。ノエより承認を得たエルヴィン、チャーリーは深い眠りにつくように、揃って静かに目を閉ざした。神官長がほう、と称嘆の声を漏らす。ただ瞼を閉ざすだけのそれは平凡な彼らには神聖な儀式のように映っている。しかし国王にとっては、彼らの尊い犠牲の観測に過ぎなかった。
役割を使用したエルヴィンは、広い大図書館の中央に一人佇んでいた。円形に設計されたそこは見渡す限りに本が敷き詰められ、暖かなライトに照らされたアンティーク調の本棚からは持ち主に似て、彼自身が持つ様な上品さが感じられる。目が回るような景色の中膨大な本の数に気圧されることなく、迷いの見られない足取りで一つの本を手に取るエルヴィンの姿はまるで司書のようであった。
「植物の状態はどの地域も異常無し。役割が働いた証拠だ……いけない、西の森に親子が取り残されている」
「新たに陥没した道も、崩壊が起きた場所も見られないね。復興は順調」
ぱたん。本を読み終えれば、次の本へ、次の本へと、神の手に導かれるように歩を進める。
存在が稀有であるコーリングの能力において、解明されていることは数少ない。それは行動であったり、物であったり、二人のように他人に可視化されない空間であったりと、媒体すらも異なっている。エルヴィンはこの大図書館に世界を正確に記録し、保管している。それが神様によって与えられた、彼の役割だった。
「以上が、僕からの報告になります」
役割を使用した二人が報告を終えると、国王と管理人は揃って眉間に皺を寄せ、難しい表情を浮かべる。
「チャーリーさんの話からも、特段変わった様子は見られませんでしたし……完全な停滞、ですね。アプリコットさんのおかげでなんとか国の形を保っているものの、状況は芳しくありません」
――アプリコット。
この場にいない、四人目のコーリング。激しい戦争の最中クロックフィールドを守り抜いた守護者・アテナの死後、緩やかに綻びを広げていたミスタは数ヶ月前、突如闇に飲まれるように崩壊を早めた。唯一彼らが住むクロックフィールドが逃れることが出来たのは心臓の役割を賜った少女、アプリコットの存在があったからだ。ミスタ崩壊は、管理でも、予知でも、記録でも、抗えない大きな運命だった。
「ねえねえ、俺たち、コットちゃんのおかげで今ここに集まってるんだもん。今度みんなで一緒に会いに行こう。それで、あの子が大好きな美味しい林檎を山ほど持ってくの!」
そしたらきっと、目をきらきらさせて喜んでくれると思うんだぁ。沈鬱な空気が流れるその場に愛を含ませた優しいチャーリーの声が響き、エルヴィンはその日初めて、果実が熟されていくような、微かでも確かな笑みを浮かべてみせた。
「ああ、きっと……食べきれないかもって、幸せそうに笑うのだろうね」
「タルトタタンやアップルパイを皆で作ってはいかがですか?ああ、でもエルヴィンさん……チャーリーさんの手元はもっと見ていられません。私が一人で作りましょう」
「管理人さん、お料理できるの?すごいねぇ」
一人の少女の幸福を願い、不揃いな三人は顔を合わせてくすくすと無邪気に笑っている。神聖な会議中だと声を荒らげようとする人は、ここには誰もいない。少女を深く知らない人すらも、その様子を見れば彼女がよく愛される素敵な女の子であったと理解することに違いなかった。
場の雰囲気が落ち着いた頃を見計らい、国王がパンと小さく手を鳴らすと、会議は元の厳粛な空気を取り戻す。
「つまり、インベルも発見されなかった。ということでよろしいですね?」
「ええ、僕の役割を持って発見できる存在なのか……不明ではありますが、怪しげな人物は発見できませんでした」
ミスタには魔法のような摩訶不思議な力を扱える存在が三組に分けて存在する。制限の元神に与えられた役割に忠実に従い、管理人の所持する管理書に誕生が記載される"コーリング"。神の愛し子として力を分け与えられたとされ、誕生と共に神殿にお告げを下される善良な"ミスティル"。そしてそのどれにも当てはまらず、誕生が祝福されない"インベル"。存在が稀であり、それがどれほど善良な者であったとしても、制限に縛られないインベルが持つ力が懸念されることは当然のことであった。
突如動きを止めたシンボルの時計塔、一人の少女を養分にして不安定な積み木の上に存在する国、その積み木を崩しかねないインベル。全ての不安要因が取り除かれた以前のような活気溢れるクロックフィールドの未来は、誰一人想像も付かない、夢の向こうの遠い景色となってしまった。
「……では最後に、私からのご報告がございます」
会議も終盤の頃、管理人からのその言葉にその場がざわめきはじめる。コーリングの誕生を管理する管理人からの"報告"。それが意味することは一つに限られている。
「二ヶ月ほど前、新しいコーリングが誕生しました」
二ヶ月?その希少性故早々と情報が共有されるコーリングでの異例の状況に、周囲がそれぞれ戸惑いを見せる中、エルヴィンはぽっかりと開いた口が塞がらない。相手は相当な暴れん坊なのだろうか。いや、それこそ自己犠牲の精神を持つコーリングでは異例中の異例だろう。
「何故二ヶ月もの間、会議を欠席したのですか?」
「なんでも、スケジュールが先まで埋まっていたそうですよ。それはもう、ぎっしりと」
「ええ。俺だって、楽しみにしてた今日のライブ、会議で行けなかったのにぃ……」
それとこれとは話が違うだろう。エルヴィンはチャーリーの趣味全開の発言に静かに突っ込みを入れる。管理人が許可するほど、重要な予定であることは確かなのだから。
「……それで、肝心の役割は?」
Ⅲ
「チャーリーさん」
「ひゃあ」
ぎくり。夕暮れが深い影を作る頃、会議も終わり馬車に乗り込む直前、管理人に声をかけられたチャーリーは振り返ることなく、代わりに気の抜けた声を発してしまう。やましい事がある人間の態度だった。
「ああ!困りました。実は馬車が故障していて帰れないのです。お願いします、どうか哀れに思って同席させてくださいませんか?」
「ひゃいぃ……」
もうとっくに、全てを見透かされている。態とらしくも有無を言わせない管理人の態度に、チャーリーは覚悟を決めてか細い声を返す他、選択肢は無いのだ。彼の完全なる勝利であった。
「さて、私の言いたいことはもう分かっているはずですよ?自分の口から言ってご覧なさい」
「ううっ、俺は許可を得ずに役割を使いましたぁ……!」
「はい、よろしい。いつもの人助けの一環、と言うのでしょう?」
こくりとチャーリーが小さく頷くのを見て、向かいに座る管理人は彼に届かないよう、小さくため息をつく。時間も限られた馬車の中、これ以上萎縮されては会話にならないと思ったからだ。管理人とて、意地悪をしたい訳では無いのだから。
「チャーリーさん。顔を上げて」
温もりを乗せた声色に、チャーリーは言葉を理解する前に顔を上げていた。そこには普段と変わらない、温和な雰囲気の彼がいる。管理人は常日頃、誰に対しても子供に接するようにゆっくりと穏やかに語りかけているけれど、それよりも一つ優しい声だと、チャーリーは思った。そして、随分とその声色は自然であり、発声することに慣れているようにも思えた。
「心配しているのだということを、どうか理解して。代償については随分と昔にお話しましたから、忘れてしまったのならばもう一度説明いたしましょう」
「ううん、覚えてる。約束破ってごめんなさい。でも、困ってる人がいるとやらなきゃって、体が勝手に動いちゃって……」
「うん、貴方の優しさは、きっと私が一番よく理解しています。だけれど、占い程度の使用でも、代償は代償。積み重なれば、いつかは自分自身を失ってしまいます」
人間は神の力を賜っても不完全であることを、彼らは身をもって知っている。コーリングの能力に、代償が付くことも。能力を使うほど、それがどれだけ自分達が大切に抱きしめていた物だとしても、残酷に記憶や感情を失っていくのだと、昔管理人から聞いた話をチャーリーもよく覚えていた。覚えていても、体が衝動的に動いてしまうのだ。
「……でも、俺は随分と長く生きたけれど、何かを失ったような、そんな感覚は一度も感じたこと、ないです。コットちゃんもエルくんも、そんな様子は見られてないのに、どうしてそんなことを知っているの?」
彼の純粋な問いに管理人は曖昧な笑みを浮かべて、答えることは無かった。もしかしたら管理人こそ大切なものを失ったのかもしれない。チャーリーは自分の失言に気が付いて、いつも頭が回らない自分を恥じて、泣いてしまいたかった。揺らいだ藤色の瞳から涙が零れないように握りしめたシャツの裾は、くしゃくしゃに皺が寄ってしまった。そんな自分に気が付いて、ずっと昔に朧気な記憶の中で誰かにかけられた、じんわりと心を満たす愛情のように優しい声をくれるのはいつだって長い時を共にした目の前の彼だというのに。
「チャーリーさん、隣においで。今日も楽しいお話を、この引きこもりの老人にたくさん聞かせてくださいな」
彼の冗談に、チャーリーは大袈裟に声を大きくして、暖かな気遣いに答えるように笑った。管理人は自分を開示しようとはしないからチャーリーは彼に対して無知であったが、謎の多い管理人も無愛想なエルヴィンも、優しい人であることだけはよく知っていた。その優しさからコーリングに選ばれ、いつか全てを失う同じ運命の元で、彼らは確かに支え合って生きているのだから。
IV
「いけない、管理人を置いてきた」
帰路の途中、エルヴィンは目の前に家が見えるという所でやっと管理人を王宮に置いてきぼりにしたことを思い出していた。少し迷った後、まぁいいか。と思考を放棄する。そもそも、彼ら程であれば所有する馬車を使用せずとも手配することが可能なのだから、今回の管理人の意図はさっぱり読めないものであったのだ。
「……新しいコーリングか」
『____
会議での管理人の言葉を思い起こす。歴史上エルヴィンを含め三人しか存在しなかったコーリングが、彼がその役割を賜ってから、既に二人目が誕生しようとしている。不穏の兆しのようで、一方でその存在に期待していた。もしかしたら……と。
「エルヴィン様、屋敷に到着いたしました。今扉をお開けします」
「構わないよ。その程度で手間を増やすことはない」
内鍵を開けたエルヴィンは普段の重苦しい雰囲気を微かに和らげ、馬車から我が家への一本道を細いヒールを軽やかに鳴らして歩いた。ぼんやりと開かれた藍のキャンバスに、満天の星々が希望を示唆するように反射する。
五人目の役割持ちで、アイドル。職業がそのまま役割になったのだろうか、それとも全く新しく任命された?前者ならばミスタの崩壊後は職業としての人気は著しく落ち、現在ではたった一人しか存在しないのだと風の噂で耳にしたことがあった。誰もが不安を抱えて生きる寂寞の世界すらもステージにして、その全てを照らすように、一等星の如く煌めく乙女がいるのだと……。
朝、最後に少女に会った部屋の前で、扉に向き合ったエルヴィンは深く深呼吸をする。スティックハンドルに手をかけて、震えを紛らわすよう、けれど大きな音は立たないように。いつも通りを、装うように。
「ただいま、アプリコット。夕食の時間には間に合っただろう?」
そこには朝と何一つ変わらない様子で、真っ白なベットの上、眠り続ける少女がいる。
アプリコット。世界の犠牲となって、キスひとつでは目覚めないほどに深い眠りに付いた、悲劇の素敵なお姫様。クロックフィールドの心臓、僕の心臓、最愛の妻。おかえりが鳴らなくなった現状に目を背けてしまいたいほどの苦しみが緩やかに首を絞めても、今にも崩れそうな幸福のおうちに今日もエルヴィンは帰ってきた。
小指に結んだふたりの約束が、決して解かれないように。