第一章 calling you

page.6 白い花③



 IV



 夜の暗闇が世界に帳を垂らす。やがて来たる時に幕を押し上げるのは、太陽の背負う役割、運命。閉ざされた瞼の裏に届いた知らせに従い、ノエは目を開いた。
 今日もまた、規則的に朝は訪れた。就寝、起床。時間の経過と共に、また夜が巡ってきて、就寝。長い時の中で欠かさず繰り返される動作に僅かな倦怠感も退屈も覚えないのは、大切な誰かと明日を迎えるため。その明日が、当然にあるものでは無いことを誰もが知っているため。
 何の変哲もない朝の、ありふれた眩い光景を瞳に刻むための瞬き。オルゴールのぜんまいを巻く、本の表紙を開く、ハンドベルを鳴らす。いずれの動作も、誰にでも容易い簡便さに反して独特の重みと感触を持って、記憶に強く残る。彼らの瞬きも同じく、眼球を守るための自然行動以上の重さを持っている。
 軽装のまま、アトリウムに足を運ぶ。ノエの足取りは、いつもと変わらずに誰も置いていかないテンポで繰り返される。自分だけが置いていかれないように、たくさんの言葉を巡らせた。伝えたいこと、謝らなきゃいけないこと。アトリウムの扉を開く。広がるのは、もっと見せてあげたかった花々、誰かが人生の全てを過ごした古いベッド、その持ち主であるメリーベルへと手向ける言葉。

「あなたと共に過ごした、懐かしい日の夢を見ました」

 記憶の波紋を揺らす時、ノエは細く青い糸を頼りにして辿る。彼女に出会う時は、切なさに支配された何重もの幕を潜り抜け、やはり最後に残った、薄い透明な光の幕だけを隔てていたかった。

「太陽がよく出ていて……今日はお洗濯日和ですね」

 寝具を取り替えながら、夢の続きを編んでいく。あまり良いものとは言い難い現実は、靄がかった記憶とは違い、感情ばかりが今も鮮明だった。
 
 公爵家の門の先へ足を踏み入れた途端、取り乱した様子で胸元に縋りついてきたフローレス夫人の姿に、ノエはただならぬ事態が起きていると直感的に理解した。こうして夫人が萎れた花のように憔悴している時は、決まって彼女の娘に関係していたからだ。それは同時に、ノエの愛する存在に関わっていた。大怪我? 病状の急変? それとも、最悪の場合……。その先を思考することも、すぐに言葉を発することもノエにはできなかった。身動きも取れないほどの豪雨の中、警鐘だけが激しく点滅し鳴り響いているかのようだった。逃げ出せない、逃げ出すつもりもないれけど、ただ恐ろしかった。
 どうしたら、わたくしのせいで。いったい……どうしてこんなことに。呵責と困惑を繰り返しては震える唇が、ついに「あの子が、どこにもいなくなってしまった」と残酷に告げる。脳から心臓に至るまで凍りつくような感覚は、まるで死に近い。

「それは……事件……ですか?」
「わ、わからないの。め、目覚めた時にはもう横にいなくて。たくさんの方がご協力くださったけれど、使用人も、どなたも不審な人なんて見ていなくて、じ、事件にしては荒らされた様子もないし、金品もそのままで……あまりに綺麗で……あ、あの子は、ひとりじゃ、まだどこにもいけないはずなのに……」

 泣きじゃくる夫人の涙を拭うことさえできずに、呆然と立ち尽くしていた。彼女の銀糸の髪に触れ、懸命に動く華奢な身体を支えながら、共に庭園へと足を運ぶ。つい昨日まで、そこに在ったはずの全てが、こんなにも呆気なく失われてしまうのだ。
 神隠しだと、誰かが囁いた。無駄なことだ、とうに誰かの手によって……そうに違いないと憫笑を含んだ、心無い誰かの声も。供養を、と口にしたのはメリーベルの祖母だったか。しかし、公爵夫妻が深い眠りにつく最後の日まで、メリーベルの葬式が執り行われることはついに無かった。事件は糸口さえも掴めず、同時に彼女の生死を決定づける証拠も、欠片さえ発見されなかったためだ。
 コーリングの役割を授かったのは、ノエの年齢が三十路に差し掛かった頃だった。聖なる本能に手を引かれたあの日を再現し、一冊の本を出現させる。厚い青色の表紙と、いくつかの白い紙をめくり、たどり着いた最後のページには、コーリングの名前が刻まれた筆跡と同じ、子供の拙い文字でこう書かれていた。
 
 ―― Marybell Flawless。

 百年以上の時が過ぎた。人間であれば、もうメリーベルは生きてはいない。花の香りに包まれた、ベッドが置かれたこの部屋は人である彼女の墓なのだ。
 しかし、どこかで今もメリーベルは息をしている。コーリングが目覚める度、彼女の細い呼吸を知る。かつてはそうして耳を澄ませることが日課だったのだから、何ら特別なことではない。だから知らせの限り、ノエは必ず彼女を見つけ出すつもりでいた。拾い上げたまま、伝えることが叶わなかった言葉を今度こそ届ける。それだけの為に。
 抱えていた寝具を隅に寄せ、マットの上に腰かける。

「必ず、あなたに会いに行きますから……もう少しだけ……私を待っていてくださいますか?」

 聞こえているかも分からない彼女に、ぽつりと語りかける。
 
「今すぐにあなたの涙を拭って差し上げたい気持ちと同じくらい、見過ごすことの出来ない涙があるのです。とても可愛い子達で……いつかメルにも紹介したいと思っています」

 長い人生の中で出会った、たくさんの顔を思い浮かべる。フローレス夫妻に、自身の両親。失った数だけ、出会いがあった。手離し難い記憶と同じだけ、見逃したくない景色がある。

「あなたが寂しくないように、ある女の子と約束したんです。冬の星や、夏の太陽よりもきらきらとした素敵な女の子ですよ。出会えていたら、どうかお友達になって」

 彼女――アプリコットとの約束を叶えるまでにも、これほどの時間を要してしまった。例え約束を違えてしまっても、アプリコットがノエを責めることは無いだろうけれど。
 洗濯に向かいながら、彼女と約束を結んだ当時の記憶を巡らせる。新しい風の吹く今日は思い出に耽る、そういう日にしよう。



 Ⅵ
 


「あのね、内緒のお話だよ?」

 小鳥の囀りが囁く。花の便りとなるその音は、決まって自然の中に紛れている。耳を傾けるよりも早く飛んでくるもの。
 定例会議を終えた後、アプリコットは周囲の気配を窺い、入念に注意を払いノエの耳へと口を寄せた。背伸びした茶色のブーツが健気で、ノエは丁寧に腰を屈めてやる。彼女が気にしているであろうエルヴィンは、国王から私的な呼び出しを受けて席を外しているから、内緒話をする時間なんて心配せずとも十分にあるというのに。彼女らしく可愛らしい仕草だった。

「管理人さんに一つお願いごとがしたいんだ」
「まあ。私に叶えて差し上げられることでしたら、どうぞ」

 じゃれあいのような同意を得るとアプリコットはそっと耳元から顔を離して、今度は正面から目を合わせるためにノエを見上げた。深く閉ざされたベール越しに、ノエも視線を逸らず受け止める。いつもの天真爛漫な彼女よりも少し真面目で、いつも通り、どこか大人びた慈愛に溢れる眼差しの切実さに答えたくて。
 
「エルヴィンのこと、一人にしないであげてほしいんだ」
「おや、おかしな事を仰いますね? 彼にはアプリコットさん……妻である、あなたがいるでしょう」
「うん……うん。だけど、……きっとわたし、もうすぐ眠っちゃう」
 
 そしたらエルヴィン、ひとりぼっちになっちゃう。
 意外性のある言葉は、案外素直に腑に落ちた。麗らかな春の全てを体現したようなアプリコットはその柔らかな印象よりもずっと明敏で、凍てつく冬が如何に残酷であるかもよく知っていた。若葉の瞳に微かに浮かんだ悲しみは、自分が負荷の大きい能力の代償により、いずれ深い眠りの底へ落ちていくことへの恐怖ではなく、誰かのために捧げられたものだ。
 アプリコット・コールは、そういう女の子だった。
 
「エルヴィンさんにはチャーリーさんやメアリーさん、それから孤児院の皆さんもいらっしゃるでしょう? 彼らに頼めばきっと快く承諾してくださるのに、私一人を呼び出したのは何故でしょう?」

 余裕のようでいて、思考を巡らせて、慎重に言葉を返した。その場凌ぎの返事ができない理由がノエにはある。いつかあの子の元へ行かなくてはならないから。その為に、この何に変え難い時さえも手放す準備が済んでいたから。
 アプリコットはゆっくりと笑みを深くする。決して押し付けがましくはなく、陽だまりの中に手を引くような仕草と、野草を踏みしめる軽やかさでノエに歩み寄った。
 
「管理人さんにも、一人になって欲しくないから」

 小さな両の手がきゅっと結ばれ、優しい願いが星のように流れる。
 
「わたし達が過ごす時と人の流れは違うから、きっといつかはひとりぼっちになっちゃう。でもね、そんなわたし達が一緒に過ごして……支えあえたのなら。大切な家族みたいな存在にきっとなれると思うんだ。管理人さん、わたしはね、一人の悲しみも、家族がいる喜びも、よく知っているんだよ」

 アプリコットは視線を逸らさない。どこまでも一方的な愛が向けられている。
 何故ノエが名前や顔を隠すのか。それがたった一人の女の子のためであることさえもアプリコットは当然知らないし、知ろうともしない。これは純真な祈りに近いものだからだ。如何なる信念や理由がそこにあったとしても、ただ愛するあなたが、一人にならないでほしい。あなたが作った壁の向こうで、あなたがひとり涙を流すことがないように。秒針の刻む音よりも多く、深く、ノエの歩む道があるように。会議室に、日が強く差し込む。照らし出されて浮かび上がった微細なほこりさえも、煩わしいどころかにぎやかで心地がよかった。
 この少女はノエが拒絶や、想いを蔑ろにしたとしても揺らがない、そして、変わらず愛してくれるのだろう。
 初めて出会ったのは、まだ彼女が平凡な少女であったころ。二十歳そこそこのエルヴィンの背に隠れ、様子を伺うようにノエを見上げていた。こんなにも立派なって、なんて。まるで既に家族みたいだ。……ずるいな。得意とする盤上遊戯で手も足も出ず負けたような気分で、お手上げの代わりにノエは腕を組み、大袈裟に悩むような素振りを見せた。

「……それでは、私からのお願いも聞いてくださいますか?」
「もちろん! なんでも聞くよ、絶対に!」

 任せて、と片手を大きく掲げて、無邪気にアプリコットは誓いを立てる。無責任に聞こえて冗談ではないのだろうと、ノエはまた苦笑した。自分に今出来るのは譲歩だけだけれど。
 
「大切な子がいるんです。かけがえのない、家族も同然の、とても愛しい女の子が。今もひとりぼっちでいるかもしれない彼女と、友達になってくださいませんか?」
「うん、小指の約束!」

 小さな小指と大きな小指が太く頑丈な糸のように結ばれる。書面でもない、確約のない不安定な口約束であるはずのそれに、絆も、互いの人生も交わり、結ばれたように確かなものを二人は感じあった。

「管理人さんの大切な子って、どんな子?」
「……とても愛らしく、美しい子です。緩いウェーブのかかった長いシルバーの髪を二つに束ねて……ああ、そうだ。私の目を覚えていて。同じ金色の瞳を持った女の子を、どうか……」

 初めて自分の素顔を見せたのはアプリコットだったと、干されたシーツの揺らめく様子をぼんやりと眺めながら、揺蕩う当時の記憶を思い起こす。
 今思えば、あの時からいつかこんな日が来ることは決まっていたように思う。何年も被っていたベールの代わりに、まるで少女の白いワンピースのような自由さにも似た、自身の動きを追いかける髪に手櫛を通す。いつでも、大人は子供に勝てない。可愛く無垢な願いを叶えてやりたくなるものなのだから。
 メリーベルとアプリコットは出会えただろうか。自分にしては途方もない夢だけれど、互いの願いが叶えられていたらいいと願う。
 ハンカチーフを敷いて、古樹の差す傘に身を預ける。少しの蒸し暑さを感じて、髪を緩く一つに括った。
 木陰を眺め、そのあわい、輪郭の部分に、自分たちがいるのではないかと感じている。記憶を失いかけた、エルヴィンとスピカ。未だ不明点の多いコーリングの記憶障害を一時的にでも食い止められたこと。絶対的な改善には程遠いものであること。眠ったままの、アプリコットのことも。だけれどそれぞれが、自身の立場と記憶、痛みと喜びに向き合い、この苦境の中で太陽に向けて歩み始めている。であれば、あの子も......。
 そこまで考え、踏みとどまる。本のページを摘み、最後の文章を繰り返し読んでいるかのような気分だった。
 しばらくの間、揺らめく木陰を静かに眺めていた。
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