第一章 calling you

page.6 白い花②


 
 Ⅲ


 
 回数を重ねるにつれメリーベルの病状は快方に向かい、僅かな時間であれば自分の足で立ち、部屋の中を歩くことも可能なほどに回復した。時には酷く寝込む日もあり、完治とは程遠い。それでも、不治の心臓の病だなんてやっぱり気のせいだったのかもしれない、希望が差したのだとフローレス夫人は泣いてノエに感謝を告げた。

「あのね。そろそろ庭園もお散歩してみたいの」
「それは良いですね。車椅子から試してみましょうか」

 ベッドに座るメリーベルのその後ろに腰を下ろし、髪を束ねる。それはいつからか、使用人でも母親でもなく、ノエの役割になった。自然な成り行きで誕生した、二人の静かなルーティン。

「メリーベルの部屋からは庭園はよく見えないし、お花の匂いもずっと遠いでしょ? お花が近くで見たらどんな色で、どんな形をしているのかも知りたいの」
「これほど大きな屋敷では、あなたの部屋から見る花は星粒のように見えるでしょうね」
「......うん。あとね……あと……」
 
 次第に声は小さくなり、薄く小さな唇が窄む。
 ツインテールの根元にメリーベルが選んだ細い青色のリボンを結び終えると、ありがとう、とか細いお礼が返ってくる。それに、かろうじて聞こえるほどの声が続いた。
 
「……メリーベル、喋りすぎちゃった」
「え? ……いいえ、そんなことはありませんよ。あなたがこれほど会話を続けても苦しさを感じなくなったのなら、それは良いことでしょう?」
「……でも、だって……兄様は、あまり喋らないから」

 何かをきっかけに彼女の胸の棘に触れてしまった、のだと思う。
 強風に晒され、自らの重みに耐えきれず、茎が折れ曲がってしまった花のような。悲しみと、遣る瀬無さと、誰かへと向けた、仄かな怒り。緻密な感情には慣れていないノエでさえ、それだけは感じ取れてしまった。

「いいんだよ、無理にここに来なくても。メリーベルが、母様に上手に言うから、兄様は、嫌なことしなくていいんだよ」
「いえ、そういうわけでは」
「分かってるもん。人にお世話にならないと、この部屋から一歩だって出られない。部屋の外のことなんて、何一つ知らない。そんなメリーベルといたって、つまらないって、意味が無いって、ちゃんと分かってる」

 自嘲するように、メリーベルが吐き捨てる。
 この白い部屋を世界の全てとして生きることを運命に強要された、世間知らずな子供を丸め込むのはきっと容易い。そうして生きてきた。厳格な両親が求めてきた貴族として。しかし、ふと気が付いてしまった。必死に取り繕おうと……外面ばかり宝石のように綺麗に整えられた軽量な言葉の奥に埋もれてしまった、不格好な想いの原石を必死に探し出し、彼女に明け渡そうとしている自分の存在に。

「安心したの。兄様はメリーベルのこと好きじゃないって分かったから。ねえ、この家の何処にも花なんてないって、知ってるよ。それが、メリーベルのせいだってことも」

 違う。何一つ、あなたのせいではない。
 花がないのなら、彼女がこの部屋を出るその日までに、溢れるほどの花を植えればいいと思った。それを、彼女に伝えたかった。
 これまで……いや、つい先程までのように、七色の言葉で夢を彩っていて欲しい。何故そんな気持ちになるのか、彼女を見る度に胸の奥でざわめいたこれが何を意味するのか。分からない。分からないけれど、今理解しなければいけない。少なくとも、大人の弱さを、痛みを背負うのが、目の前の白い花であってはならないのだ。

「……はやく」

 だから、それを言わないで。
 
「はやく死んじゃいたい……」

 色のない声が、色のない世界にただぽつりと落とされた。意味もなく、堺もなく「無かったことになる」みたいに、どこまでも透明な言葉だった。
 
「どうして、いたそうな顔をするの? 兄様も見たでしょ? 母様の……苦しそうな顔。メリーベルのせいで、母様はずっと疲れた顔をしてる。お花も、嫌いになっちゃった。母様だけじゃない、このおうちのみんなが…………」

 続きを言わせたくなくて、咄嗟に彼女の手を握った。
 楽譜の読み方さえ覚束無い者が、人差し指で初めてに触れる。おまけにそれは、人知れず眠っていた、調律の行き届かないピアノ。古びて埃を被っている。
 音階を知っている。例えば、想像した音は、ド。白い鍵盤を選んで弾く。しかし想像した音と、自分が鳴らしたこの音が、果たして本当に一致しているのかは分からない。押した鍵盤の重さと無邪気な想いだけが、この場所で確かな正しさを持っている。
 多分、これから口から零れる言葉は、そんな音だ。
 
「先程言いかけていた、夢の続き。あとは、何だったのでしょう?」

 大切に思う人を苦しめるくらいなら、このまま茨に抱きしめられて死んでしまいたい。紛れもない、メリーベルの本心。
 それでも――息をしたいと。いつの日だったか、目まぐるしく飛び交う医者たちの指示と、悲鳴にも似たフローレス夫人の声。錯綜する世界に置いていかれたように立ち尽くす自分に向けて、溺れるような呼吸で、割れてしまう泡の静けさで生きたいと願った、自分の手を握った少女を知っていた。

「……お花、の周りは。ちょうちょが集まるって……だから……ちょうちょ、を見てみたい」
「季節にかけて様々な蝶が見られますから、今年はきっと退屈しませんね」
「流れ星を、見てみたい。3回お願いごとすると、叶うんだって、父様が言ってた」
「あなたが少し早口で頑張っている姿は私も見たいかも」
「おとなと一緒のご飯が食べたい。……元気になって……」
「うん」
「元気になって、ノエ兄様と手を繋いで歩きたい」
「必ず、叶えましょうね」

 メリーベルのそばにいる時、ノエは自分の生きてる世界が如何に狭隘であるかを思い知った。夢の見方を知らない。走り方を知らない。彼女の描く夢は、この一部屋に収まらず、既に地面を駆けて、自由なはずの自分よりも更に広い世界で生きている。
 夢の紡ぎ方を教えてくれた。自分が狭く透明な壁の中にいたことを、無垢な足取りで気付かせてくれたこの小さな女の子は、気付いたら扉を開けて内側に立っていた。

「メリーベル、夢もう一個あるよ」
「是非、お聞かせください」
「……ノエ兄様といっぱい仲良くなること!」

 出会って数ヶ月。丸い頬を色付け、いちばん愛らしい笑みでメリーベルは子供らしく、嬉しそうに笑った。
 幼いようでいて、誰にも甘えることが出来なかった、軽くて今にも消え入りそうな彼女の体重を、初めて胸に感じとった。

「……お恥ずかしい話、友人と呼べるような相手はいないものですから。他愛ない会話には慣れていないのです。ですから……メリーベルが……」
「メル! メルって、呼んで」
「はい、ふふ、メル」

 腰に精一杯巻き付く可愛らしいメリーベルの背を、頭を順番に撫でる。

「次にあなたに会う時は、花の図鑑を持ってきますね」

 ずかん? 目を輝かせて、メリーベルが顔をあげる。もっと小さな頃に何度かフローレス夫人が読み聞かせ、それきりだったようだ。母親の心中を察して、メリーベルもそれ以上は言えなかったのだろう。

「これまで花へ興味が惹かれた経験はありませんでした。ですが、メルと、二人で。知識としてではなく、思い出として。図鑑に載っている花を見てみたい。それが、私の夢です」
「いいの? 母様は、いつも痛そうなの。お花のお話、夢のお話、する度に……もう死んじゃう可哀想な子みたいな目で、メリーベルを見るの」

 花弁に乗った雫が曲線を描き、滴る。
 
「兄様と一緒に夢を見られて嬉しい」

 フローレス夫人との話し合いの末、庭園には再び花が植えられた。
 たくさんの感情を綯い交ぜにして、初めは複雑な感情を抱えていた夫人の表情も、幾らか柔らかくなったと思う。愛する娘が喜びそうな色、似合いそうな色、見せてあげたい色。目を背けていて、本当はたくさんあったもの。隣合う色が喧嘩しないように、だけれどできるだけたくさんの色を選び、メリーベルの部屋に飾る花を手に取る。
 春になれば蝶が尋ねてくる。その次の季節には、また別の蝶が、花が、色が入れ替わる。白い少女の、駆け足と一緒に。



 
「メリーベルさんとの仲は良好ですか?」
「ええ。あなたが懸念されているようなことは、何も」

 ノエはどこか感情の欠けた声で、他でもない自身の母親に、淡々と言葉を返した。
 洗練された侯爵家の色は、どこか冷たい。公爵家が春の気配をまとうのであれば、この家はさながら冬といったところだろうか。
 家に足を踏み入れれば、ノエはフォスター家の子息に戻る。公爵家で波打った感情も凍りつき、両親の理想の姿へと帰ることになる。格式を重んじる公爵夫妻に求められ続けてきた、貴族の型で。はみ出した部分は鋭くくり抜かれ、断面を見てやっと満足するのだろう。きっとそういうものなのだと、一度だって疑いもしなかった。
 そうであると思っていた目の前のひとの顔が、小さく歪んでいるのは見るまでは。

「……余計なことを、言ってしまったのかしら。ただ……先程のノエの姿が浮き足立っているようにも見えたものだから、私の見当違いでないのなら良いことだと思ったのですが……」
「まさか、私自身を気にかけていらっしゃるのですか?」
「え、ええ……それは、当たり前でしょう? 私の息子ですもの……」

 その言葉に、ノエは珍しく目を見開いた。
 息子。親の意志を継ぐもの。想いを受けて、生まれた存在。命を繋がれたもの。幾度となく耳にした言葉でありながら、今初めて向き合う言葉でもあるように、噛み合わせに違和感が生じている。
 「侯爵夫妻」「侯爵子息」として保ってきた均衡が今、「親」と「息子」に形を変えようとしている。
 何故、今更? 侯爵夫人の表情を読み取る。僅かに動揺する、瞳。自身と同じ、金色。光の影響をよく受けるその色が、何故今まで、同じだと気づかなかったのだろう。見ようとしなかったのは、気付こうとしなかったのは、自分自身だったのだろうか。もしかして、この人達は、ずっと――。
 
「失礼。少し驚いてしまって……いえ……あなたは、私に興味を持っていないものだとばかり思っていたものですから。爵位を継いで、我が家に更なる栄誉を、安寧をもたらすことだけが、あなた方の望みだとばかり」
「まさか……! ずっとそんなふうに思っていたの? そんな、私も、お父様だって、あなたをどれほど大事に思っているか! 爵位なんて、今回の件は、あなたにお友達が出来ればいいと思って……」
「貴族たれと、私に教えてきたのは?」
「この貴族社会で、私たちが培ってきた人生で与えられる一番あなたの糧になる物だったからですよ」

 もし、彼らがこの少年を息子として見ていなかったとする。ノエは、悲しくはない。強がりや諦めではなく、それは諦観に近い。夢を少し見れるようになった所で、ノエは元々そういう人間であったし、目の前で悲しそうにされたって、こちらは釣り合う感情など持ち合わせていないのだから、もうそんな顔はやめて欲しい……こんなに、自然に笑みが零れてしまうくらいには。
 
「ふふ、あなた……お母様に、ご友人がいらっしゃらないのはそういう事だったのですね」
「そ……そういう、ってどういうことですか、ノエ!」
「さあ? 晩餐の前に着替えたいので、私はこれで失礼します」

 慌てふためいた母親の珍しい姿に、ノエはご機嫌に背を向ける。
 いつの間にか自身の背を追い越し随分と大きくなった大切な息子の背中に、侯爵夫人は細い声を目いっぱいに張り上げて、十数年前、彼に与えた名を呼んだ。
 
「愛しています」

 糸を結び直すように。
 
「愛……愛とは、なんでしょう」
「さあ、難しい問いですね。……ですが、僅かでも幸せにしてあげたい、あなたが受ける痛みの全てを背負ってあげたい。ううん……こんな難しい言葉ではなくても、いつも帰りが待ち遠しい。母はそんな気持ちで、ノエをいつも送り出していました。伝わりますか?」

 ガラクタばかりだと思っていた部屋で、母がそっと差し出したひとつの言葉は、ノエが探し求めていた、ずっとメリーベルにあげたかった言葉だった。
 カチリと、欠けていたパズルのピースが、無くしていた色鉛筆の一本が、緩みきっていた糸の結び目が、本来の姿を取り戻す。
 これほど胸が逸るのは、明日が待ち遠しいのは産まれて始めてのことだった。
 この気持ちを必ずあの子に、伝えよう。夢の色を教えてくれたあなたと共に迎える明日が待ち遠しいと、心から愛しているのだと言葉にして。

 神様は運命の糸であやとりをするんだって。天使は囁いた。
 次の日、メリーベル・フローレスは、忽然と姿を消した。
 舞い散る花の行方を、誰もが知らぬように。
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