第一章 calling you

page.6 白い花




「来てくださってありがとう。ごめんなさい……あなたに、こんなことを頼んでしまって」

 フローレス公爵家の邸宅。一面に敷かれたカーペットによって二人分の足音が吸収された廊下は、淋しいほどの静けさを帯びていた。
 子供の枠に収まる自分よりも頭一つ分小さな公爵夫人を、少年は見下ろす。艶めく銀髪が女性らしく束ねられ、晒された首元は数ヶ月前に社交の場で挨拶をした時よりもいっそうほっそりとして見えた。
  
「いいえ、当家に多大なる恩威を捧げてくださった公爵夫人の頼みとあらば。……ですが、少々役不足に思えますね。ユーモア一つ持ち合わせていませんし、世話をされても、したことはありませんから」

 謝意を述べるフローレス夫人の声からは疲労が透けて見え、ため息とも間違うほどに弱々しく、か細いものだった。けれど、それは同時に深い愛情と実直な人柄を雄弁に物語る、絵に描いたような母親の声でもあった。
 少年は淡白な声色で会話を投げ返す。夫人が胸に抱える罪悪感や、今回の出来事の発端となった娘へと向けられた切実な愛情のことでさえ、少年にとっては何一つ重要なことではないのだから。
 
「……あの子がね、魘されながら『お姉ちゃん』だなんて……きょうだいなんていないのに、そう呼びましたのよ。そんな夢を見るほどに、きっと寂しいのね。わたくしの体がもっと丈夫だったのなら、愛する娘にこんな思いをさせずに済んだのかしら……いやだわ、わたくしまで暗い顔をしていてはだめね。とにかく言いたかったのは、あなたが来てくれたことは、わたくしにとっても、あの子のためにも良い事だということですわ」
「それでしたら良いのですが」

 ある扉の前でフローレス夫人が足を止めた。そこが娘の部屋なのだろう。少年は何も言わずに、一歩下がった場所に控えた。
 
「……メリーベル。起きている? あなたに紹介したい人を連れてきたの」

 扉さえ守ろうとするような力加減で、二度合図を送る。和毛のように慈しみ深い愛の色を、閉ざされた向こう側に投げかけた。
 少年の耳に返事のようなものは届かなかったけれど、しばらくして夫人自らが扉を開き手招きをしたので、それを入室の許可と捉えて軽い会釈をする。

 踏み入れた先には、色が存在しなかった。白く塗られた壁、白い清潔なベッドシーツ、風に吹かれ、波の如く自在に形を描く白いカーテン。そんな部屋の中央で、ベッドに横たわった少女が、一つも二つも世界から置いていかれた拍で、ゆっくりと瞼を開く。
 花糸のような睫毛が上がれば、それは花嫁のベールをそっとあげるときめきのように、あるいは運命の始まりのように。鈍く変化するその動作は、少女の所作が緩やかなのではなく、世界の時が緩慢になったのだと疑ってしまうほどに、誰もが目を奪ばわれるような一人の女の子が、そこには静かに存在していた。
 感受性の乏しい少年には未だそのような経験はなかったが、芸術作品に恍惚と見惚れる感覚とはこのようなものかと、ぼんやりと他人事のように思った。
 そうしてしばらく見つめていると、やがて少女の瞳が少年の姿を捉えた。秘められていた瞳が自身と同じ金色であると気がついた瞬間、少年はようやく少女が人間であることを確信したのだった。
 年は少年より十ほど幼いだろうか。肌は血の色を失い、上体を起こすために体重を支えている腕は骨が突き出てしまいそうで、ぞっとするほどに細い。苦しげな呼吸と共に懸命に動く胸元に、違和感を覚えた。気を抜いてしまえば、彼女の姿は人形とほとんど見分けがつかないからだ。
 儚さは人を切ないほどに美しく魅せる。物語の中で丁寧に命を奪われた登場人物が、一際読者の心に感銘を与え、美化され、神格化され語られるように。神様は少女への愛おしさ故に、罰とも言えるそんな悪戯を仕掛けたのではないかと、浮いた思考が柄にもなく脳に過ぎった。それでもやはり、そのどれもが、次の瞬間には枯れた花のように意味のないものとなった。

「お兄ちゃん、だぁれ」

 子供の声が、ぽつりと少年に問いかけた。掠れてしまった声は風の音よりも儚いせいで少年に届く前に空気に溶け込んで消えてしまったので、代わりにフローレス夫人が「名乗ってさしあげて」と耳打ちをする。
 少年はメリーベルのいるベッドの横まで移動して、寸分の狂いもない貴族の手本となる所作で挨拶をした。
 
「初めまして、公爵令嬢。私はフォスター侯爵家の嫡子、ノエ・フォスターと申します。公爵夫人の紹介でこちらにまいりました」

 あなたの従兄であるお兄様よ。そう言ってノエと反対側のベッドの横へと回ったフローレス夫人は、自分と揃いの銀色に染まった、メリーベルの細くて少し乱れた髪を撫でながら整えた。
 ノエ、にいさま。教えられた名前を小さく反芻する。たったそれだけの事でさえ咳き込む様子は若く丈夫なノエにとっては酷く辛そうに見えたが、普段に比べれば安定した調子なのだと夫人は言った。
 しばらくそうしていると満足したらしく、メリーベルは夫人の服の裾を痩せた指で掴んだ。
 
「かあさま。けほ、お願い。髪、いつもみたいに、してほしいの」
「ええ、今使用人を呼ぶからね。少しだけ、いい子に待っていてちょうだいね」

 その意図がノエにはさっぱり理解出来なかったが、口ぶりから親子にとっては日常的に行われている会話であることが読み取れた。
 扉の外に待機する使用人に指示を飛ばそうとフローレス夫人が立ち上がると、疑問に思いノエが呼び止める。
 
「髪がどうかなさったのですか?」
「この子ね、起き上がることさえ辛いはずなのに、どんな日も毎日髪を二つに結んでって聞かないんですのよ。きっとお守りみたいな物なのね」
 
 寂しく病弱なご令嬢の良きお友達になること——それは今回の契約における、公爵家から提示された条件。良きお友達が具体的に何に定義されるのか。両親を含め、他人と親密な関係を築いたことのないノエには、それを満たす条件を考えることは外国語の勉強よりも難解に思われた。しかし、確かなのは、それによって侯爵家が得られる利益が計り知れないほどに大きいということだった。
 そのことを頭に留めて、ノエは形だけは立派な、友好的な微笑を浮かべた。

「それでしたら、私にお任せ下さい。小さなレディ、触れても?」
「ちがう、メリーベル」

 応とも否とも判じかねる返答に、ノエは思わず表情を崩した。
 公爵令嬢、メリーベル・フローレス。知っているに決まっている。男児に恵まれなかったフローレス公爵家の跡継ぎにフォスター侯爵家を指名する事で、この取り引きは成立した。そうでなければ、子供をあやすだなんて家門にとって無意義なことに、ノエが時間を消費する理由など存在しないのだから。
 
「——は……ああ。あなたのことは前もって公爵夫人からご紹介いただきましたから、勿論、存じていますよ」
「ノエさん、違うわ。メリーベルは名前で呼んで欲しいのよ」

 フローレス夫人が口元に手を添えてくすくすと笑う。その反応から自分が的外れなことを言ったことだけは察せられたけれど、家紋、敬称、名前。何れも心底どうでもいいノエには、それ以上の理由は思い至らなかった。
 フローレス夫人がベッドの縁に腰を下ろすと、メリーベルはノエに背を向ける形でその胸に寄りかかった。上半身を起こしているだけの動作でさえも相当な負担となるようで、フローレス夫人はノエが紐を結び終えるまでの間、小さな背を労るように撫で続けた。
 
「出来ましたよ。……メリーベル」
「ありがとう、兄様」

 額に浮かんだ汗を気にも止めず、ふたつに綺麗に結ばれた柔らかい髪に触れると、メリーベルはノエを見上げて、嬉しそうに笑った。

 

 公爵邸へ足を運んだ回数が片手では数え切れなくなった頃にやっと、困ったことになったとノエは気がついた。

(……もうこれ以上、子供と話すことなんてないのだけれど……)

 多弁では無いが、対話への苦手意識もない。
 ノエが身を置いている貴族社会において、会話のモノローグは誰が当家に利益を齎すのか……そんな打算的な読み合いの繰り返しであったし、軽い発言にさえ、常に爵位を飾った家名の重責が絡み合う。ノエにとってのそれは常識であり、日常の一部だった。
 個性のない無地の仮面からレースや羽をあしらった豪勢な仮面へ。踏み入れた扉に応じて仮面と共に他人事のように罪を脱ぎさって。そのように、中には状況に応じて器用に仮面を取り替えるような人もいるのだろう。ノエはそうはしない。自分はフォスター侯爵令息以外の何者でもないし、何者にもなれない。なる必要性もない。別の生き方を選ぶ必要だって。そうして全ての関係構築を侯爵家の人間として利害の上に重ねてきた今、目の前の幼く純心なこどもを喜ばせる言葉の選び方だなんて、誰からも教わらなかった不必要なことなど彼が知る由もないのだった。
 家同士の小難しい話をしている時のメリーベルは、首を傾げてつまらなそうにした。代わりに、朝食は何を食べただとか、見かけた猫が何色だったとか、ノエにとってはつまらなく気にも止めないことには世界の秘密を解き明かすかのようにして目を輝かせた。
 空白の時間が続く。何か適当な話題でも投げかけようと、勢いで喋る形に口を開けても喉は対応する姿勢を見せなくて、代わりに空気を押し込む。気詰まりになり、置かれただけの空の花瓶を眺めた。どうしてそこに花を差さないのか。かつてフローレス夫人が真心を込めて管理していた庭園は今、花のひとつも見当たらないのか。ゆっくりと瞬きを繰り返すだけのメリーベルへと伝わることのない内側に思考を巡らせる。
 振り子時計を盗み見て、換気が十分であることを確認する。身体が冷えてはいけない、そう考えて立ち上がった瞬間、気まぐれな微風が部屋を駆け抜けた。
 
「気持ちいいね」

 寝たきりのメリーベルが呟いた。
 ただの事象。強いていえば、髪を乱すだけ、直す僅かな手間が発生しただけ。気持ちいいだろうか。その言葉に答えあぐねていると、再び風が吹き込んた。メリーベルは胸をふくらませて空気を取り込むと、彼女のからだを蝕み続ける憑き物を払うように、穏やかに息を吐いた。会話が終わることを知っていたかのように。返ってくることの無かった言葉に、そもそも期待を掛けていないような顔をして。
 やはり分からない人だと、そう思った。
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