短編
雨のちおいしい晩ごはん
「シオンのばか」
肩に雫が落ちてきたような錯覚に、思わず手を伸ばした。だけれど、そこには湿り気なんてない。そもそも、一粒だって雨など降っていないのだから。子供の賑やかな笑い声がどこまでも高らかに伸びていくような、乾いた快晴の日だった。
今日は完璧な良い日になるはずだった。……その中で唯一濡れているのが、目の前にいる自身の姉でなければ。
青空を広げた瞳から似合わない雨粒が、絶え間なく頬を伝っている。傘を差そうと伸ばした手は、振り払われてこぼれ落ちた。
ほんとうに怒ってるんだから、知らないんだから。
そう言って背を向けた姉の姿がやがて見えなくなっても、ぼくの耳には叩きつけるような雨音がいつまでも止まずに響いていた。
――パァン。
小さな手のひらから発せられるには少し大きな鋭い音が、澄み切った空気に乗って広場に鳴り響いた。それに鈍く重たい音が続いて、叩かれた少年が尻もちを着いたのだろうと推測する。前に立つ姉の白いスカートに視界が遮られていたので、様子を窺い知ることは出来なかったから、定かではない。
先程まで乱暴な言葉をぼくに向けていた彼も、姉の前では萎縮して、か弱い小動物のように見えた。
「わたし、謝らないから」
そう言って泣くコーデリア姉さんを見たのが、もう三時間ほど前のことだった。
空に夜の色が広がって、仕事から帰ってきた母さんが晩御飯の準備を始める時間になっても、玄関の扉が開かれる気配は訪れそうには無かった。
「シオン。玉ねぎ、焦げる」
「え?」
母に声をかけられて、ようやく自分の意識がどこか遠くを彷徨っていたことを知る。視線をフライパンへ落とすと、綺麗な飴色には程遠い、立派な茶色に染まった玉ねぎがあった。慌てて火から下ろし、空いたフライパンへとひき肉を落とし入れる。本来なら同時に炒めれば良かったのに、無駄に手間を増やしてしまった。
「もう手伝いはいいから。コーデリアのとこ行ってきな」
「でも、母さん……」
「どうせ喧嘩したんだろうけど。あんたらは同じ屋根の下で育ったと思えないほど正反対なんだからさ、互いに悶々と考えていたってお互いの考えなんていつまでも分かりはしないよ」
距離を取って、知らん顔して何事もなかったふうに顔を合わせて。そんな大人のふりはしなくていい。子供らしく手も足も出して喧嘩しておいで。
母さんの言葉に、昼間姉が男の子を引っぱたいた光景を思い出して、暴力は良くないんじゃないかなあ。と控えめに返したら、首根っこを掴まれて家の外に放り出された。こういう所は、姉と母は実によく似ている。ぼくの性格は父親譲りで、家事や繊細な作業を好むのは母譲りだった。
軽く打ち付けた尻をいてて、と擦りながら、足は迷いなく姉さんがいるであろう場所へと向かってきた。
家からそれ程距離のない、秘密基地にやっぱり姉さんはいた。木と木の間に上手くビニールを引っ掛けただけのふたりの基地。その内側で、お気に入りの木の実や玩具が散乱する秘密の空間に、小さく蹲って。
「もうすぐ晩御飯だから。……ね、帰ろう」
「いや」
「……ぼくのことで、姉さんが泣くのはいやだ」
顔をあげた姉さんの目元は赤く泣き腫らした痕跡が残っていた。それでも、大きな青空の瞳がようやくぼくを写してくれたことで、場違いなほどに安堵していた。
眩しさに目を瞑ってしまうような太陽にだって手が届きそうで、海のように自由な足で世界を駆ける、空が似合う人。姉弟であることが嘘のように、正反対の性格に育ったぼくたちだったけれど、何時だって憧れの先には世界を鮮やかに照らす姉さんの姿があった。そんな姉さんの世界を雨なんかが邪魔をすることは、ぼくが一番耐えられない。
そっと、痛ましげな目元を撫でてみる。細い眉をひそめながらも、その手を拒絶することはしなかった。
「ごめんね、きっとなにかしちゃったんだよね。わからなくてごめんね……ぼくが……情けないから?」
「情けないなんて言うな!」
「いったあ!?」
十代の少女とは思えない剣幕で立ち上がった姉に怯んだ刹那、少年の頬を叩いた時を上回る、軽快な音が自身の頬から生まれた。ひりつく痛みが生じたことによって、ようやく事を自覚できたほどに、迷いのない素早い動きで弟であるぼくを手のひらをいっぱいに使って姉さんは叩いた。
踏ん張りきれずにバランスを崩しかけたけれど、強い力で腕を掴まれて何とか体勢を整えることに成功した。
痛む頬を抑えて、狼狽の中言葉未満の声をもらしていると、そんなぼくを無視して、姉さんはやっと自主的に口を開いた。
「すごく怒ってるの。大切な弟が黙って傷だらけになってるから。あいつらにも、シオンにも」
「ぼ、ぼくにも?」
「シオンの在り方を変えようだなんて思ってない。今の優しすぎるシオンが好き。変わろうとするシオンが好き。変わったあとも、きっと好き」
姉さんの細くてマメだらけの子供らしい手が、力なくぼくのシャツの裾を掴んだ。
「だけど、そんなのはシオンが傷ついて良い理由にはならない。だから、それまでは……お姉ちゃんが代わりに怒ったっていいでしょ?」
自分が傷つくことはどうだって良かった。
その場で与えられた痛みが真実だったとしても、心を膿のように長く侵食し続けるのは、他人が与えられた痛みを目にすることの方だったから。そんなことなら、大した価値もない自分が傷つく方のほうが、よっぽど気楽で好ましい。そもそも、やり返す力なんて持ち合わせていないのだし。
——だけれど、一緒だったんだ。
姉弟だから、お互いが傷つくことが何より苦しかった。似ていなくても、想い合う気持ちは同じなのだということを、姉さんの言葉が示していた。
ぼくがぼくにとって大切じゃなかったとしても、姉さんだけはいつもそのままでいいと言ってくれた。姉さんにとって、ぼくはどんな時も大切な宝物だった。
「姉さん、ありがとう」
「……叩いてごめんね、シオン」
手を繋いで短い帰路を辿った。いたずらに力を込めれば、予想通りにもっと強い力が返ってくる。そんなやり取りが、かけがえのないもののように思えた。
「今日のご飯はなーに?」
「チーズいっぱいのミートドリアだよ。姉さんが大好きなやつ」
突然スキップをしだしたせいで転びかけるぼくの姿に、姉さんがけらけらと笑った。
静まった道に響き渡る楽しげなその声をいつまでも聞いていられますようにと、無責任な願いを星にかけていた。
「シオンのばか」
肩に雫が落ちてきたような錯覚に、思わず手を伸ばした。だけれど、そこには湿り気なんてない。そもそも、一粒だって雨など降っていないのだから。子供の賑やかな笑い声がどこまでも高らかに伸びていくような、乾いた快晴の日だった。
今日は完璧な良い日になるはずだった。……その中で唯一濡れているのが、目の前にいる自身の姉でなければ。
青空を広げた瞳から似合わない雨粒が、絶え間なく頬を伝っている。傘を差そうと伸ばした手は、振り払われてこぼれ落ちた。
ほんとうに怒ってるんだから、知らないんだから。
そう言って背を向けた姉の姿がやがて見えなくなっても、ぼくの耳には叩きつけるような雨音がいつまでも止まずに響いていた。
――パァン。
小さな手のひらから発せられるには少し大きな鋭い音が、澄み切った空気に乗って広場に鳴り響いた。それに鈍く重たい音が続いて、叩かれた少年が尻もちを着いたのだろうと推測する。前に立つ姉の白いスカートに視界が遮られていたので、様子を窺い知ることは出来なかったから、定かではない。
先程まで乱暴な言葉をぼくに向けていた彼も、姉の前では萎縮して、か弱い小動物のように見えた。
「わたし、謝らないから」
そう言って泣くコーデリア姉さんを見たのが、もう三時間ほど前のことだった。
空に夜の色が広がって、仕事から帰ってきた母さんが晩御飯の準備を始める時間になっても、玄関の扉が開かれる気配は訪れそうには無かった。
「シオン。玉ねぎ、焦げる」
「え?」
母に声をかけられて、ようやく自分の意識がどこか遠くを彷徨っていたことを知る。視線をフライパンへ落とすと、綺麗な飴色には程遠い、立派な茶色に染まった玉ねぎがあった。慌てて火から下ろし、空いたフライパンへとひき肉を落とし入れる。本来なら同時に炒めれば良かったのに、無駄に手間を増やしてしまった。
「もう手伝いはいいから。コーデリアのとこ行ってきな」
「でも、母さん……」
「どうせ喧嘩したんだろうけど。あんたらは同じ屋根の下で育ったと思えないほど正反対なんだからさ、互いに悶々と考えていたってお互いの考えなんていつまでも分かりはしないよ」
距離を取って、知らん顔して何事もなかったふうに顔を合わせて。そんな大人のふりはしなくていい。子供らしく手も足も出して喧嘩しておいで。
母さんの言葉に、昼間姉が男の子を引っぱたいた光景を思い出して、暴力は良くないんじゃないかなあ。と控えめに返したら、首根っこを掴まれて家の外に放り出された。こういう所は、姉と母は実によく似ている。ぼくの性格は父親譲りで、家事や繊細な作業を好むのは母譲りだった。
軽く打ち付けた尻をいてて、と擦りながら、足は迷いなく姉さんがいるであろう場所へと向かってきた。
家からそれ程距離のない、秘密基地にやっぱり姉さんはいた。木と木の間に上手くビニールを引っ掛けただけのふたりの基地。その内側で、お気に入りの木の実や玩具が散乱する秘密の空間に、小さく蹲って。
「もうすぐ晩御飯だから。……ね、帰ろう」
「いや」
「……ぼくのことで、姉さんが泣くのはいやだ」
顔をあげた姉さんの目元は赤く泣き腫らした痕跡が残っていた。それでも、大きな青空の瞳がようやくぼくを写してくれたことで、場違いなほどに安堵していた。
眩しさに目を瞑ってしまうような太陽にだって手が届きそうで、海のように自由な足で世界を駆ける、空が似合う人。姉弟であることが嘘のように、正反対の性格に育ったぼくたちだったけれど、何時だって憧れの先には世界を鮮やかに照らす姉さんの姿があった。そんな姉さんの世界を雨なんかが邪魔をすることは、ぼくが一番耐えられない。
そっと、痛ましげな目元を撫でてみる。細い眉をひそめながらも、その手を拒絶することはしなかった。
「ごめんね、きっとなにかしちゃったんだよね。わからなくてごめんね……ぼくが……情けないから?」
「情けないなんて言うな!」
「いったあ!?」
十代の少女とは思えない剣幕で立ち上がった姉に怯んだ刹那、少年の頬を叩いた時を上回る、軽快な音が自身の頬から生まれた。ひりつく痛みが生じたことによって、ようやく事を自覚できたほどに、迷いのない素早い動きで弟であるぼくを手のひらをいっぱいに使って姉さんは叩いた。
踏ん張りきれずにバランスを崩しかけたけれど、強い力で腕を掴まれて何とか体勢を整えることに成功した。
痛む頬を抑えて、狼狽の中言葉未満の声をもらしていると、そんなぼくを無視して、姉さんはやっと自主的に口を開いた。
「すごく怒ってるの。大切な弟が黙って傷だらけになってるから。あいつらにも、シオンにも」
「ぼ、ぼくにも?」
「シオンの在り方を変えようだなんて思ってない。今の優しすぎるシオンが好き。変わろうとするシオンが好き。変わったあとも、きっと好き」
姉さんの細くてマメだらけの子供らしい手が、力なくぼくのシャツの裾を掴んだ。
「だけど、そんなのはシオンが傷ついて良い理由にはならない。だから、それまでは……お姉ちゃんが代わりに怒ったっていいでしょ?」
自分が傷つくことはどうだって良かった。
その場で与えられた痛みが真実だったとしても、心を膿のように長く侵食し続けるのは、他人が与えられた痛みを目にすることの方だったから。そんなことなら、大した価値もない自分が傷つく方のほうが、よっぽど気楽で好ましい。そもそも、やり返す力なんて持ち合わせていないのだし。
——だけれど、一緒だったんだ。
姉弟だから、お互いが傷つくことが何より苦しかった。似ていなくても、想い合う気持ちは同じなのだということを、姉さんの言葉が示していた。
ぼくがぼくにとって大切じゃなかったとしても、姉さんだけはいつもそのままでいいと言ってくれた。姉さんにとって、ぼくはどんな時も大切な宝物だった。
「姉さん、ありがとう」
「……叩いてごめんね、シオン」
手を繋いで短い帰路を辿った。いたずらに力を込めれば、予想通りにもっと強い力が返ってくる。そんなやり取りが、かけがえのないもののように思えた。
「今日のご飯はなーに?」
「チーズいっぱいのミートドリアだよ。姉さんが大好きなやつ」
突然スキップをしだしたせいで転びかけるぼくの姿に、姉さんがけらけらと笑った。
静まった道に響き渡る楽しげなその声をいつまでも聞いていられますようにと、無責任な願いを星にかけていた。
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