第一章 calling you

page.5 星に願いを、君に果実を②

 

 

「もしもね、わたし達が運命で繋がれていて、もう一度出会えたなら……怖くても、辛くても、今より酷い罰を受けることになったとしても、今度は全部受け入れるから。だから……だから、その時は……」
 
 ――わたしの名前を呼んでくれる?
 結ばれた約束に、幸せそうに笑う彼女の顔が忘れられない。
 
「亡くなる前に、僕は彼女と一つ約束をしました。多分お互いに、叶うはずがないと思いながら」

 死の先には何も存在しない。例えば輪廻転生なんてものがあったとして、再び二人が巡り合い、約束を果たす。そんなことは奇跡に等しい。信じるにも縋るにも細すぎた小指は、永遠の別れを悟った二人の最後の瞬間を、辛うじて慰めるためにあった。

「そうして大人になった時、孤児院で彼女と瓜二つの女の子に出会いました。亡くなる前、教えてもらった彼女の名前と同じ……アプリコットと名乗る女の子に」

 彼女のような悲しい子供が一人でも減るように。その一心でエルヴィンは自分に出来ることを探し続けた。やがて父の助力を得て建てた孤児院で、新たに迎え入れるという子供の書類に目を通していた時、一つの紙がエルヴィンの目に止まった。
 
 (……金色の髪に、黄緑色の瞳。名前は……)
 
 アプリコット、と記載された指名の欄を震える思いでそっとなぞる。膝から力が抜けて、エルヴィンは書類を抱きしめたまま床に崩れ落ちた。勘違いかもしれない。それでも、皺の寄ってしまった書類に再度目を通して、彼女を前にした時に自分の抱えるあらゆる想いを隠しきるために、二度と呼べるはずのなかった名を何度も呼んだ。
 幾年もかけて蓄積した感情は、今度こそ幸福を得るはずの少女にはきっと不要なものだった。

「僕は、アプリコットが、あの子がもう泣かない世界を作りたかったんだ。それが大それたことだって、一番大切な愛のために何かを成したかったんだ。分かってる。全部僕のわがままで、アプリコットは目を瞑る瞬間も幸せだったって。でも……」
「寂しかったのですね」

 空間に溶けていくノエの静かな言葉を噛み砕いて、反芻しながら飲み込むように、エルヴィンは喉をふるわせた。
 最愛の少女のため、国民のために生き、保護されるべき少年時代を犠牲にした彼には、上手に甘えること一つが難しい。それでも安心しきったような顔で、胸にせき止めていた言葉を一つずつ認めて、また一つを音にした。

「……さび……しい。寂しいよ。あの子の声が聞きたい、笑った顔が見たい、返ってこないおはようもおやすみも本当は言いたくない、怖いんだ。僕は……一人になりたくない......」

 膝に顔を埋めて、成長した体をきゅっと縮こめる。言葉として象られた本心は、エルヴィンを雪の日に取り残された幼子にした。
 
「あなたは......優しすぎるわ」

 ……こんなにたくさんのものを抱えて、私に手を差し伸べてくれていたなんて。
 痛ましい表情を浮かべて、スピカは膝で組まれたエルヴィンの手に、そっと自分の手を重ねた。

「一人じゃないわ。こんなにも優しい貴方を、誰が一人になんてするものですか。愛する人の笑顔のために、本当の思いを隠そうとする気持ち、私にはよく分かるわ。だけど、否定しなくてもいいの、それは貴方の大切な気持ちの一つなんだもの。それを受け止めて覚えているのが、私達の役割なんだわ」

 僅かに顔をあげて、エルヴィンはスピカに視線を向ける。力強く繊細な温もりに、精一杯の頷きを返した。
 愛のための理想と迫り来る現実が相反する度、エルヴィンの心は複雑に絡み合った。格好つけの理想論は身の丈に合っていなくて、無理に着飾る度に重さと侘しさに首を絞められて。あらゆるもののために選んだ夜道は、いつだって薄暗くて心細い。彼だって、太陽に焦がれる内の一人なのだから。
 今、彼らがくれた言葉の数々は、明かりの存在しなかったはずのエルヴィンの道を豊かに照らして、灯火のように数多の分岐点があることを指し示してくれていた。
 
「……私にも」

 思索する様子で管理人が呟く。どこまでを差し出すべきか。慎重に思考を巡らせながらも、迷いは無いようだった。
 深いヴェールの影がそよぐ風に合わせて揺れている。

「私にも、宝物のような子がいました。もうずっと昔に離れ離れになってしまったけれど、彼女に大切なことを伝えそびれてしまって……」

 言葉が途切れる。遠くを恋しく見つめる管理人の瞳が何を写しているのか、それを知ることはできない。それ以上を語るつもりは無いようだったけれど、彼の大切にしていたものを、信頼の証として差し出したことは、二人に確かに通じていた。
 沈黙の合間に糸を通すようにエルヴィンが掠れた声で「管理人」と親しまれた彼の呼び名を口にする。呼ばれ慣れているはずのそれを聞いて、管理人は困ったように小さく笑った。
 ……そうして、長く閉ざされていたはずのベールへと、ゆっくりとした動作で手をかける。
 柔らかな布が窓から吹き込む風に踊り、ふわりと舞い上がった。

「今まで隠していてすみません。私はノエ・フォスター。ノエと、そうお呼びください」

 目の前の光景に、かすかに息を漏らしたのはエルヴィンだったか、スピカだったか。
 白い秘密に守られていたはずの金色は今、静謐な光を宿して二人に向けられている。椅子に腰をかけたまま、丁寧に腰を傾ける彼の品のある動作に合わせて、柔らかい青色の髪が肩からさらさらと垂れ下がった。
 ――守護者アテナと同じ時代を生きた、世界で最初に誕生したコーリング。その重い肩書きを有する管理人は、顔や名を伏せ、謎に包まれていながらも、誰もが彼を信用し敬愛した。宮殿の重い扉の向こうに隠された真実をあえて暴こうだなんてしなくても、長い歴史の中で彼が世界の味方であることは明らかだったからだ。
 置かれた距離に切なさを抱くことはあっても、コーリングの誰も、彼の引いた境界を無理に越えようだなんて思わなかった。
 
「どうして突然……」

 突然のことに目を大きく見開いたエルヴィンにノエは肩を軽くして、くすりと花のように端正で麗しい笑みを零した。
 
「家族が顔も名前も知らないだなんておかしな話でしょう?」
「か、家族?!」

 重苦しく静かな空気が流れていたこの空間に似つかわしくない冗談に、エルヴィンはベッドから転がり落ちそうなほどに勢いをつけて、姿勢を崩し動揺する。スピカは「あら」と冷静で楽しそうな反応を示すばかりだった。
 
「すみません、ふふ。少しふざけました。……名前や顔を明かしたのは、この世界に身を置くことへの決意です。つまり言いたかったのは……」
「私たち、家族みたいに支え合おうってことね!」

 光る星の如くぱちぱちと表情を明るくして身を乗り出すスピカに、ノエは頷いて肯定を返す。
 
「ええ。今私たちが生きる世界はあまりに不安定で、失ったものの大きさは計り知れない。……でも、誰に理解されない苦しみをあなた達と分かち合えるのなら、明日のための選択を見失わない気がするのです」

 垂れた瞼を伏せながら口にした言葉は、紛れもない彼の本心だった。
 まるで神様のように、与えるばかりのノエの姿が嫌いだった。無力だと突きつけられるようなことも。彼も感情の灯る人間であり、崩れた世界で、きっと同じような痛みをを抱えていたはずだから。
 隔たりを取り払ったノエのことを、エルヴィンはただ見つめていた。初めて見る彼の姿であるにもかかわらず不思議と安心感を覚えるのは、ベールの影の向こうで、いつだって優しい想いを注がれていたことを知っていたからなのだろう。
 



 


「本当に体調に問題はありませんね?」
「ええ、ノエ…………さん」

 別れ際、心配そうなノエの姿が親に重なって、ぎこちなく返事をした。名前を呼ぶのが照れくさいだとかそういったことではない。……多分。

「……眠っている彼女と顔を合わせるのは……やっぱり苦しいし、怖いです」

 一日は安静にして欲しいというノエに申し訳なく思いながら、エルヴィンは最終的に家に――アプリコットの元に帰ることを選択した。そこに義務のような、縛られるような感情は無い。
 積もり積もった話を語り合い、食事を共にして。政務の合間を縫って訪れた国王陛下が、ノエの姿に珍しく驚いた姿が失礼だけど愉快だったなぁとか、息抜きに足を運んだ今の時期の庭園は春のような色彩はないけれど、ノエはやけに花に詳しくて、落ち着いた声から語られる解説が面白かっただとか。
 気がつけば空は藍色を帯び、夜の準備をしていた。満ち足りた心のどこかで、頭の片隅には常にアプリコットやメアリーへの拭えない恋しさがあった。

「彼女がきっともう目覚めないことも、知っています。彼女が幸せだった事も、残される僕の幸福を願ってくれたことも知っています。それならやっぱり……彼女の前では笑顔でいたい。……だって僕は、あの子の王子様だから」

 夜空を背に立つその姿にふと、「エルヴィンはわたしの星のおうじさまなんだ」と夢見るように言っていたアプリコットの言葉を思い出す。まるで童話の王子様のようにきらきらとした、誰より格好良い王子様がそこにはいた。本人にそう伝えたなら、格好付けだからって否定するのだろうけど。

「スピカみたいに、僕は強くなれない。だけどせめて、アプリコットがコーリングをやめる日が来るまでは、僕も……だから、それまで傍で支えてくれたら……嬉しいんですけど……」

 徐々に声が窄み、視線を下げる王子様の姿が可愛らしくて、肯定の代わりに頭を撫でつけた。相手が三十路の立派な男性だとしても、百年をゆうに超える時を生きたノエからすれば、青々しい男の子と変わりない。不服を申し立てたそうな顔で甘受するその姿も、やっぱりどうしようもなく可愛らしかった。
 
「空、見て。雲が去ったみたい」

 一歩も二歩も前を歩いていたスピカが、星空を指差しながら振り向く。

「……なんて綺麗な星空だろう」

 連なる星屑の海を見上げて、遠く手の届かない場所に行ってしまった名も無き少女の面影を重ねることもなく、ただ綺麗だと思えるのは何時ぶりだろう。それは彼女を忘れてしまったのではない。自身の手をすり抜けて星として瞬く彼女と、今隣で温もりと鼓動を与えてくれる彼女。どこかで乖離していた二つの存在が一つに重なり、エルヴィンが見つめるべきものがはっきりとしたからなのだろう。
 ……貴方と出会ったことを、後悔にしない。新たな誓いを胸にもう一度見上げた星空は、あの日、彼女と出会った日のように美しい光に満ち溢れていた。


 

「一人でお辛い思いをされる必要なんてないのですよ。ご存知でしょう? わたしも、愛していたお嬢様を亡くしていること……」
「メアリー……」

 家に帰ると、エルヴィンはノエやスピカに話したことを同じようにメアリーにも伝えた。口元を押えて、強く目を瞑って、話が終わる頃には、アプリコットよりも深いエメラルドの瞳から、とめどなく涙が溢れていた。
 この家に来る以前、彼女はフレーズ公爵家の令嬢に仕えていたという。貴族の死因は滅多に明らかにされることがないからメアリーもはっきりした口ぶりでは無かったし、社交界にも真実性のない憶測ばかりが飛び交っていたから、フレーズ公爵家と深い縁のないエルヴィンの耳に詳細が届くことは無い。ただ、一生の忠誠を誓い愛した主人が亡くなり呆然としていたところを、フレーズ家の血を引くチャーリーの紹介でコール伯爵家に来たという話はメアリーから聞いたことがあった。
 
「今、同じようにお嬢様のお傍にいるのに……寂しいではありませんか。……それでも、こうしてお話してくださってよかった」
「僕は……ずっと君に支えられていたよ。メアリーがいなかったなら、この家で、この子の傍で今まで耐えられていたかも分からない。……ありがとう。今までも、これからも」
「これからは辛い時に隠さないこと、約束です。少しの我慢も許しませんよぉ。お二人の幸せのためならば、わたしはなんだってできるのですから」

 淹れ直したアップルティーをエルヴィンとアプリコット、それから自分の前に置く。雇用人と使用人。それでも、並んだ三客のティーカップは彼らが家族である証だった。


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