第一章 calling you
page.5 星に願いを、君に果実を ①
Ⅰ
広大な満天の星達が海に反射するように、果てしなく咲き誇る純白の花々がそよぐ風に踊り、清廉な香りに包まれる時。運命を思わせる一本道に、エルヴィンと少女はいつもの様に向かい合っている。彼はこの夢に、少女に、何度も何度も、巡り会っていた。
「ごめんなさい」
決まって繰り返される言葉に、エルヴィンは困ったように笑みを返した。
彼女は何故こんなにも苦しそうで、贖いのような、悲愴な声を吐くのだろう。この夢の中で声を発することができないエルヴィンは、その理由を一つだって知ることは叶わない。
けれど、リボンのように結ばれたツインテールを揺らす、夢の中で出会う小さな子。無垢で儚い白い羽根に身を包んだようで、穢れとは無縁の本物の天使みたいな女の子。この子が泣くと、胸がきゅうと痛んで涙を拭ってやりたくなった。大丈夫だよ、そう、言ってやりたくなった。
人のために涙を流せるこの子が、どんな罪を犯したというのだろう。その罪を、誰が許さないのだろう。
「ごめんなさい」
そんな事言わないで。この花畑も、きっと君に似合うと思って用意したんだ。一度でいいから、笑ってみせて。
「ごめんなさい......」
目の前の少女が白く霞んで、残酷にも夢の終わりはやってくる。
「お願い。兄様を……ノエ兄様を、一人にしないであげて」
影の落ちた金色の瞳から、涙は絶え間なく落ちていく。ああ、まだあの娘を笑わせてあげられていないんだ。どうかまだ覚めないで、泣かないでおくれ。
まだ君を、忘れたくはないんだ……。
目を覚ましたエルヴィンを迎え入れたのは、見慣れない清潔な白の天井。そこに彩りを落とすよりも先に、エルヴィンの鼻腔には慣れた花の香気が届く。なんだかそれに近い香りを、既に輪郭を散らしてしまった朧気な夢の中でも感じていたような――そう考えているうちにも夢の残滓は薄れ続け、管理人が口を開くのと同時に、そんなことを考えていたことさえも忘れていた。
「目が覚めたようですね、よかった……今侍医を呼びますから、無理に体を起こしてはいけませんよ」
エルヴィンの顔色を一瞥した管理人は、安堵の色を滲ませて、乱れた彼の髪を慈しむように撫でつけた。本来であればお互い良い大人なのだからと手を払うはずのエルヴィンは、未だ混乱し定まらない意識の焦点を定めることに精一杯でいる。
管理人は扉の外に控えていた使用人へいくつかの指示をすると、先程まで腰掛けていた、クッション一つ敷いていない硬質な木製の椅子に再び腰をかけた。医務室に持ち運びの困難である重厚な椅子があればそれは誰の目から見ても明白に異質に映るだろうが、美しい管理人がそれに腰掛けていることにもまた、同様の異質さを覚える。
「管理人がどうして……もしかして、ここは管理宮ですか?」
「いえ、王宮の一室をお借りしました。どこか痛むところは? 気分は悪くありませんか?」
「ええと、大丈夫……だと思います」
症状について管理人と軽い会話を交わしていくうちに、コンサート会場からの帰り際に突如として意識を失ったことをを思い出した。
会場から比較的近い距離にあり、適切な治療が受けられる環境として王宮が最善とされスピカの指示によって運び込まれたようだった。
知らせを受けた管理人は一時間と経たないうちに駆け付けたが、チャーリーは不在だったため連絡は行き届いていない。スピカも迅速に駆けつけられるよう、王宮に泊まったそうだ。
エルヴィンが目を覚ました朝まで、管理人は仮眠することなく傍に付き添っていた事になる。しかし、相変わらず手本のような姿勢のまま、その姿から疲労は見て取れなかった。
やがて現れた侍医の診察によって身体に異常がないことが認められると、管理人は肩の荷がおりたかのように、大きく息を吐いた。その音はエルヴィンの耳にもしっかり届き、滅多に見ることが叶わないその様子に、エルヴィンはくすくすと楽しげな笑い声を零した。
「ごめんなさい。管理人のそんなに大きなため息は珍しいと思って」
「頑張り屋さんが倒れてしまったのだから、心配するのは当然でしょう?」
綺麗に手入れが施された髪が傷まないよう、管理人は彼が無理に身を起こす必要のない範囲を櫛で梳く。エルヴィンはそれを当然のように受け入れた。
和やかな時間に満ち足りたその間も、先程のやり取りを思い出しているのか、ふいに笑みを零すエルヴィンの姿に、管理人は僅かな違和感を覚えながらも、自然に会話を繋ぐ。
「一刻も早く家に帰りたいでしょうけれど、もう一日は王宮で安静にしてほしいですね」
「わかりました」
あっさりと受理されたお願いに、管理人はベールに隠された瞳を僅かに見開いた。
スピカの役割使用に対して強制的な制限を課さなかったように、代償が待ち受ける彼らの人生に、自らの考える最善が必ずしも最適解とは限らないと管理人は理解している。だから、今回の提案も、エルヴィンの性格を鑑みれば通らない案であると予測していたのだ。
「帰らなくてよろしいのですか?」
「なんですか聞いておいて……まぁ、一日くらいは良いでしょう。メアリーも心配するでしょうから、屋敷の方に伝達だけお願いします」
エルヴィンは顔だけを動かして、管理人を見上げる。
髪を梳かしていた手は止まり、口元は大きな衝撃を受けたように薄く開き、言葉を失っていた。
その姿にエルヴィンが眉根を寄せていると、普段よりも小さな声に密かな不安を乗せて、管理人はエルヴィンに問いを投げかけた。
「アプリコットさんが待っているでしょう」
「アプリコット?」
エルヴィンは心底不思議そうに首を傾げる。
まるで知らない言葉を聞いたとでも言うふうに。
「……ッ、エルヴィンさん!」
エルヴィンの反応を受けて、その刹那、管理人は反射的に声を張り上げた。ベールに閉ざされた表情は窺い知れずとも、その先は悲痛に歪んでいるのだと伝わってしまう、そんな声を。
不自然だったのだ。アプリコットが眠りについてからのエルヴィンはいつだって苦しそうで、そんな最中でも、人のために笑みを絞り出していた。そんな彼が、自分の背負ったものを手放したかのように……まるで出会った時のように無邪気に笑っているだなんて。結果、その予感は最悪の形で的中してしまった。
感情の乱れを露わにした管理人の姿に、思わず息を飲むほどの緊迫感がその場を支配する。エルヴィンが慎重に言葉を選ぼうと思考を巡らせるその間にも、一分一秒さえ惜しいと言うように、管理人はエルヴィンとの距離を縮め、大きな手のひらで彼の両腕を掴んだ。
「思い出しなさい。あなたが何度も名前を呼んでいた、決して忘れてはいけない最愛の人でしょう」
思い出せと、言われたって。
僕の大切な人はコーリングの仲間達たち、守るべき国民、心より敬愛する国王陛下。それから孤児院の皆に、いつも悲しみを分かちあってくれる、家族のようなメアリー。
そうだ、何故、僕らはあれほどまでに悲しかったのだろう。メアリーは僕の侍女ではないのに、どうしてこんなにも傍で支え合っていたのだろう。僕は毎日待ち遠しい気持ちで必ず家に帰って、そのくせにメアリーがいるはずの、部屋の扉を開けることをやけに怖がってた。だって、その部屋には……。
「あ……」
大切な、愛する妻が眠っている。何度星に祈っても、もうきっと笑いかけてくれない妻がいる。
「そうだ、アプリコット、僕の何より大切な子。そう……分かってます……忘れてなんか……」
信じたくなくて、散乱した記憶の欠片を両手で必死に拾い集めるように否定する。だけれど、どれだけ必死に目を背けても、コーリングの代償は確実にエルヴィンを蝕んでいた。
Ⅱ
「私のせいだわ」
事情を聞いたスピカは、くぐもった声を精一杯に絞り出して、そう言った。
瞳いっぱいに張られた涙を堪えるスピカに、管理人が大丈夫、落ち着いて、と声をかけて宥める。それには揺りかごを押してあげる時のように、幼子をあやすような恩愛が含まれていた。
顔色に血色が戻ると、スピカは自責の念に耐え、声を震わせながらひとつずつ慎重に状況を説明した。
役割の代償で記憶が薄れていたこと。エルヴィンが倒れた夜、彼がそんな自分のために役割によって過去にまつわる本を取り出してくれたこと。それが、いつも会議で行っていた役割の使用方法よりもずっと負担のかかるものだったのかもしれないこと。そのせいで、今回の件を引き起こしてしまった可能性があること。
仲間の記憶が自身の幸福と引き換えに失われるなんてことはあってはならないし、もしそうなってしまった場合、スピカは自分を責めることを辞められなかっただろう。
「あなた達にこんな事を言うのは心苦しいのですが……コーリングに選ばれたその時から、代償は静かに蓄積して、いつかはこの日を迎えます。ですからスピカさんのせいでも、誰のせいでもありません」
憶測にすぎないが、忘れてかけた記憶を取り戻すことが叶ったのは、エルヴィンが記憶を司るコーリングだからかもしれないと、管理人は言った。いざとなれば、例え再びアプリコットの記憶を失ったとしても、大図書館に行けば記憶を取りにいける。
だけれど、その記憶を実体験として見るか、何一つ覚えていないただの記録として処理するかでは違うのだろう。
いつか全ての記憶が記述となり、家で眠るアプリコットを前にして、誰より愛しい妻ではなく、書類上の関係だと冷徹な義務感で接する日がきたのなら。そんな未来が、エルヴィンには何より恐ろしかった。
気休めや慰めになるような言葉は一つもない。だから、管理人も、スピカも口を閉ざした。ただ静かに、そばにいて、寄り添って。エルヴィンを一人にしなかった。
「もう、強がれない……」
ふと、エルヴィンは脱力した、誰にも届かないほど小さく掠れた声でぽつりと言葉を漏らした。そこには、どこか少年時代のようなあどけなさが含まれている。
「……スピカはこの間、僕の大切な人の話を聞いてくれると言っていたね」
「……! 勿論よ。どんな話でも知りたいわ。私にとっても大切な貴方達の話だもの」
「管理人も、僕の昔の話を聞いてくれますか」
「ええ、あなたのお話でしたら、なんでも」
スピカのように、仮面の奥を悟らせないほどの強さをエルヴィンは持ち合わせていない。しかし、他者を不安にさせまいと、国の柱たるコーリングとして、孤児院の子供たちにとっての頼れる大人として、アプリコットの王子様として、自分を奮い立たせてきた。
だが、度重なる喪失と孤独に、その脆い柱の腐食が進んでいることは明らかだった。
一番大切な思い出と、自分の弱さ。それらと一緒に、降る雪ひとつ被らぬようにしまい込んでいたひとつの記憶。それらを隣にいてくれる大切な仲間に託してみたい。
そうした所で何かが変わるのかは分からない。それでも、そうでもしなければ、もうエルヴィンは立ち上がれない。
「突飛な話で、信じ難いものかもしれないけれど、僕にとっては何より大切な記憶なんです」
まだ年齢が二桁にも満たない、幼少期の記憶を慎重に、丁寧に手繰り寄せる。
「ずっと昔……幼い時に、僕はアプリコットに会ったことがあるんです」
「それは……?」
管理人は不思議そうに首を傾げる。初めての出会いは孤児院だと聞いたことがあったし、十歳以上の差があるエルヴィンとアプリコットの年齢差を考えれば不自然な時系列だ。
「正確には、容姿も声も、アプリコットと瓜二つの女の子。ですからアプリコット……と断言して良いのか分かりません、僕が本当は……そう信じたいだけかもしれません」
今思えば、運命に導かれるような出会いだった。
その日は、吹き荒れる雪で白く視界が妨げられ、護衛とはぐれてしまった。何故そんな日に出かけてしまったのかは覚えていないし、過保護な両親が付けてくれた熟練された騎士が対象を見失うだなんておかしな話なんだけれど。
やがて森の中へと迷い込み、視界も開けない吹雪の中を堆積した雪に何度も足を取られては無我夢中に歩を進め、視界の開けた先でたまたまたどり着いたのは、家と言うには頼りない、片流れ屋根の老朽化した小屋だった。
「そこに、その子は住んでいました。親に捨てられて、真冬にも関わらず、薄手の服で震えて耐えていたんです。苦労を知らないお坊ちゃまなんて本当は突き放したかったのかもしれないけれど、優しい子で。僕を招き入れてくれました」
陽光に照らされれば若葉のような光沢を放つであろう瞳は光を失い、金糸の細い髪は痛んで、肩の辺りまで無造作に伸びている。暖房設備もないこの古い小屋は隙間風が絶え間なく体温を奪うと言うのに、彼女を守るのはただの布切れに等しい薄布が一枚。赤くなった手先には興味を示すことさえせずに、全てを諦めたような幼い少女の姿は、酷く痛ましいものだった。
「名前は聞きたくないから言わないで。わたしも教えないから」
「どうして?」
「……果実が、実るの。一度実ったら、わたしの背じゃきっと届かない。いいなって、眺めるだけ。それは、きっと苦しいから」
肉親に見捨てられた彼女は愛が芽生えることを恐れ、名前を教えること、知ることをまるで禁忌のように拒絶した。
名前さえ知らない、偶然出会っただけの女の子。笑って欲しくて工夫を凝らしても、聞いているのかさえ判然としない虚ろな様子で。
それでも、帰り際に別れの言葉を告げたとき、不安と期待を同時に滲ませて自身を見つめる姿、「またね」に小さく手を振り返してくれるその姿に、可愛らしくてどうしようも無いような気持ちにさせられた。たった一夜の出会いとして片付けるには、とても足らないほどに。
「エルヴィン、最近外出が多いように思えるけれど」
「お母様達に何か秘密があるのではないかしら」
外出が増えると、その存在はやがて両親の知るところとなった。息子へ深い愛情を注いでいた心優しいコール夫妻は少女の存在を寛容に受け入れ、真夜中であるにも関わらず、躊躇わず少女の住処へと馬車を走らせた。
これでやっと、彼女は凍えるような寒さに身を晒されずに済む。大好きな子が苦しむことなく、ずっと一緒に寄り添っていられる。二人で家に帰ったなら、湯気の立つ暖かなポタージュがお出迎え。湯船に体を沈めて芯まで温まった後は、ふかふかのお布団に身を沈めて、暖炉の火がゆらゆら形を変えるのを眺める。大人たちの寝静まった夜の時間は、子供たちだけの特別な世界。星を眺めるのも、絵本をめくるのも、手を繋いで夢を迎えることも――あの子としたいことばかり。
だけれど、馬車を降りたエルヴィンの視界に真っ先に飛び込んだのは、雪に倒れこんだ他でもない大切なあの子で。
短い人生の中でまだ経験したことの無い恐怖に胸を締め付けられながら、必死に彼女の元へと駆け寄る。深く積もる雪は容赦なく脚の自由を奪い、少年の小さな体は逸るばかりの心とは裏腹に思うように進まない。それは、自分と彼女の運命を残酷に切り裂こうとしているようで。
積雪にぐったりと預けられていた体を抱き寄せて、自身の着ていた外套で包み込む。混乱の中必死に呼びかけ続けると、かすかに瞼が持ち上げられ、安心したエルヴィンは、ぽろぽろと涙を零した。
肌に滴り零れ落ちるそれを、暖かいと、少女は笑った。
「……お兄ちゃん、わたし、星を見ていたの。お星様に触れてみたくて。でもね、すごく遠いの……悲しくて、痛いよ......」
「もう大丈夫だよ。僕が星を取ってきてあげるから、だから、僕とおうちに帰ろう……」
現実から切り離されたように抑揚のなかった少女の声に、熱が宿り、震えていた。初めて感情を吐露した少女の涙は、あまりに細い身体から、残酷に体力を奪っていく。
エルヴィンに出来たことは、つよく抱き締めて、寒空に盗まれてしまった体温を分け合うことだけだった。
「それなら……連れ帰っても、その……助からなかったの?」
エルヴィンの屋敷で、少女の面影は見当たらないし、アプリコットに似ているという女の子も見たことが無い。幼少期を語るエルヴィンからは、在りし日への憧憬で恋しく、遠い目をしていた。
管理人は過去に幾度か、エルヴィンの口から彼が管理する孤児院の話を聞いたことがある。それ以外にも、コーリングに選ばれる以前からアプリコットの話を、彼女の侍女となったメアリーの話をしてくれた。エルヴィンは愛する人を他者に示す傾向にあるから、生きているならば紹介されない理由がない。つまりは、スピカの予想通り少女はもう何処にもいないのだろう。
その事実を前にして、管理人はエルヴィンに蓄積された冷たく耐え難い記憶ごと、エルヴィンを腕に抱きとめてやりたい衝動に駆られた。
スピカの問いかけに、エルヴィンは自分の無力さを思い出して嘲笑するように頷いた。
「そもそも、受け入れて貰えなかったよ。結局彼女は、誰にも心を許せずに、当たり前に受け取るべき愛を恐れたまま、僕の腕の中で息を引き取ったんだ」
傍にいれば、永遠になると思っていた。
神様も見逃してしまうほどに、それは一瞬のまぼろしで。まぼろしと言うには強烈な、流星のような恋だった。
Ⅰ
広大な満天の星達が海に反射するように、果てしなく咲き誇る純白の花々がそよぐ風に踊り、清廉な香りに包まれる時。運命を思わせる一本道に、エルヴィンと少女はいつもの様に向かい合っている。彼はこの夢に、少女に、何度も何度も、巡り会っていた。
「ごめんなさい」
決まって繰り返される言葉に、エルヴィンは困ったように笑みを返した。
彼女は何故こんなにも苦しそうで、贖いのような、悲愴な声を吐くのだろう。この夢の中で声を発することができないエルヴィンは、その理由を一つだって知ることは叶わない。
けれど、リボンのように結ばれたツインテールを揺らす、夢の中で出会う小さな子。無垢で儚い白い羽根に身を包んだようで、穢れとは無縁の本物の天使みたいな女の子。この子が泣くと、胸がきゅうと痛んで涙を拭ってやりたくなった。大丈夫だよ、そう、言ってやりたくなった。
人のために涙を流せるこの子が、どんな罪を犯したというのだろう。その罪を、誰が許さないのだろう。
「ごめんなさい」
そんな事言わないで。この花畑も、きっと君に似合うと思って用意したんだ。一度でいいから、笑ってみせて。
「ごめんなさい......」
目の前の少女が白く霞んで、残酷にも夢の終わりはやってくる。
「お願い。兄様を……ノエ兄様を、一人にしないであげて」
影の落ちた金色の瞳から、涙は絶え間なく落ちていく。ああ、まだあの娘を笑わせてあげられていないんだ。どうかまだ覚めないで、泣かないでおくれ。
まだ君を、忘れたくはないんだ……。
目を覚ましたエルヴィンを迎え入れたのは、見慣れない清潔な白の天井。そこに彩りを落とすよりも先に、エルヴィンの鼻腔には慣れた花の香気が届く。なんだかそれに近い香りを、既に輪郭を散らしてしまった朧気な夢の中でも感じていたような――そう考えているうちにも夢の残滓は薄れ続け、管理人が口を開くのと同時に、そんなことを考えていたことさえも忘れていた。
「目が覚めたようですね、よかった……今侍医を呼びますから、無理に体を起こしてはいけませんよ」
エルヴィンの顔色を一瞥した管理人は、安堵の色を滲ませて、乱れた彼の髪を慈しむように撫でつけた。本来であればお互い良い大人なのだからと手を払うはずのエルヴィンは、未だ混乱し定まらない意識の焦点を定めることに精一杯でいる。
管理人は扉の外に控えていた使用人へいくつかの指示をすると、先程まで腰掛けていた、クッション一つ敷いていない硬質な木製の椅子に再び腰をかけた。医務室に持ち運びの困難である重厚な椅子があればそれは誰の目から見ても明白に異質に映るだろうが、美しい管理人がそれに腰掛けていることにもまた、同様の異質さを覚える。
「管理人がどうして……もしかして、ここは管理宮ですか?」
「いえ、王宮の一室をお借りしました。どこか痛むところは? 気分は悪くありませんか?」
「ええと、大丈夫……だと思います」
症状について管理人と軽い会話を交わしていくうちに、コンサート会場からの帰り際に突如として意識を失ったことをを思い出した。
会場から比較的近い距離にあり、適切な治療が受けられる環境として王宮が最善とされスピカの指示によって運び込まれたようだった。
知らせを受けた管理人は一時間と経たないうちに駆け付けたが、チャーリーは不在だったため連絡は行き届いていない。スピカも迅速に駆けつけられるよう、王宮に泊まったそうだ。
エルヴィンが目を覚ました朝まで、管理人は仮眠することなく傍に付き添っていた事になる。しかし、相変わらず手本のような姿勢のまま、その姿から疲労は見て取れなかった。
やがて現れた侍医の診察によって身体に異常がないことが認められると、管理人は肩の荷がおりたかのように、大きく息を吐いた。その音はエルヴィンの耳にもしっかり届き、滅多に見ることが叶わないその様子に、エルヴィンはくすくすと楽しげな笑い声を零した。
「ごめんなさい。管理人のそんなに大きなため息は珍しいと思って」
「頑張り屋さんが倒れてしまったのだから、心配するのは当然でしょう?」
綺麗に手入れが施された髪が傷まないよう、管理人は彼が無理に身を起こす必要のない範囲を櫛で梳く。エルヴィンはそれを当然のように受け入れた。
和やかな時間に満ち足りたその間も、先程のやり取りを思い出しているのか、ふいに笑みを零すエルヴィンの姿に、管理人は僅かな違和感を覚えながらも、自然に会話を繋ぐ。
「一刻も早く家に帰りたいでしょうけれど、もう一日は王宮で安静にしてほしいですね」
「わかりました」
あっさりと受理されたお願いに、管理人はベールに隠された瞳を僅かに見開いた。
スピカの役割使用に対して強制的な制限を課さなかったように、代償が待ち受ける彼らの人生に、自らの考える最善が必ずしも最適解とは限らないと管理人は理解している。だから、今回の提案も、エルヴィンの性格を鑑みれば通らない案であると予測していたのだ。
「帰らなくてよろしいのですか?」
「なんですか聞いておいて……まぁ、一日くらいは良いでしょう。メアリーも心配するでしょうから、屋敷の方に伝達だけお願いします」
エルヴィンは顔だけを動かして、管理人を見上げる。
髪を梳かしていた手は止まり、口元は大きな衝撃を受けたように薄く開き、言葉を失っていた。
その姿にエルヴィンが眉根を寄せていると、普段よりも小さな声に密かな不安を乗せて、管理人はエルヴィンに問いを投げかけた。
「アプリコットさんが待っているでしょう」
「アプリコット?」
エルヴィンは心底不思議そうに首を傾げる。
まるで知らない言葉を聞いたとでも言うふうに。
「……ッ、エルヴィンさん!」
エルヴィンの反応を受けて、その刹那、管理人は反射的に声を張り上げた。ベールに閉ざされた表情は窺い知れずとも、その先は悲痛に歪んでいるのだと伝わってしまう、そんな声を。
不自然だったのだ。アプリコットが眠りについてからのエルヴィンはいつだって苦しそうで、そんな最中でも、人のために笑みを絞り出していた。そんな彼が、自分の背負ったものを手放したかのように……まるで出会った時のように無邪気に笑っているだなんて。結果、その予感は最悪の形で的中してしまった。
感情の乱れを露わにした管理人の姿に、思わず息を飲むほどの緊迫感がその場を支配する。エルヴィンが慎重に言葉を選ぼうと思考を巡らせるその間にも、一分一秒さえ惜しいと言うように、管理人はエルヴィンとの距離を縮め、大きな手のひらで彼の両腕を掴んだ。
「思い出しなさい。あなたが何度も名前を呼んでいた、決して忘れてはいけない最愛の人でしょう」
思い出せと、言われたって。
僕の大切な人はコーリングの仲間達たち、守るべき国民、心より敬愛する国王陛下。それから孤児院の皆に、いつも悲しみを分かちあってくれる、家族のようなメアリー。
そうだ、何故、僕らはあれほどまでに悲しかったのだろう。メアリーは僕の侍女ではないのに、どうしてこんなにも傍で支え合っていたのだろう。僕は毎日待ち遠しい気持ちで必ず家に帰って、そのくせにメアリーがいるはずの、部屋の扉を開けることをやけに怖がってた。だって、その部屋には……。
「あ……」
大切な、愛する妻が眠っている。何度星に祈っても、もうきっと笑いかけてくれない妻がいる。
「そうだ、アプリコット、僕の何より大切な子。そう……分かってます……忘れてなんか……」
信じたくなくて、散乱した記憶の欠片を両手で必死に拾い集めるように否定する。だけれど、どれだけ必死に目を背けても、コーリングの代償は確実にエルヴィンを蝕んでいた。
Ⅱ
「私のせいだわ」
事情を聞いたスピカは、くぐもった声を精一杯に絞り出して、そう言った。
瞳いっぱいに張られた涙を堪えるスピカに、管理人が大丈夫、落ち着いて、と声をかけて宥める。それには揺りかごを押してあげる時のように、幼子をあやすような恩愛が含まれていた。
顔色に血色が戻ると、スピカは自責の念に耐え、声を震わせながらひとつずつ慎重に状況を説明した。
役割の代償で記憶が薄れていたこと。エルヴィンが倒れた夜、彼がそんな自分のために役割によって過去にまつわる本を取り出してくれたこと。それが、いつも会議で行っていた役割の使用方法よりもずっと負担のかかるものだったのかもしれないこと。そのせいで、今回の件を引き起こしてしまった可能性があること。
仲間の記憶が自身の幸福と引き換えに失われるなんてことはあってはならないし、もしそうなってしまった場合、スピカは自分を責めることを辞められなかっただろう。
「あなた達にこんな事を言うのは心苦しいのですが……コーリングに選ばれたその時から、代償は静かに蓄積して、いつかはこの日を迎えます。ですからスピカさんのせいでも、誰のせいでもありません」
憶測にすぎないが、忘れてかけた記憶を取り戻すことが叶ったのは、エルヴィンが記憶を司るコーリングだからかもしれないと、管理人は言った。いざとなれば、例え再びアプリコットの記憶を失ったとしても、大図書館に行けば記憶を取りにいける。
だけれど、その記憶を実体験として見るか、何一つ覚えていないただの記録として処理するかでは違うのだろう。
いつか全ての記憶が記述となり、家で眠るアプリコットを前にして、誰より愛しい妻ではなく、書類上の関係だと冷徹な義務感で接する日がきたのなら。そんな未来が、エルヴィンには何より恐ろしかった。
気休めや慰めになるような言葉は一つもない。だから、管理人も、スピカも口を閉ざした。ただ静かに、そばにいて、寄り添って。エルヴィンを一人にしなかった。
「もう、強がれない……」
ふと、エルヴィンは脱力した、誰にも届かないほど小さく掠れた声でぽつりと言葉を漏らした。そこには、どこか少年時代のようなあどけなさが含まれている。
「……スピカはこの間、僕の大切な人の話を聞いてくれると言っていたね」
「……! 勿論よ。どんな話でも知りたいわ。私にとっても大切な貴方達の話だもの」
「管理人も、僕の昔の話を聞いてくれますか」
「ええ、あなたのお話でしたら、なんでも」
スピカのように、仮面の奥を悟らせないほどの強さをエルヴィンは持ち合わせていない。しかし、他者を不安にさせまいと、国の柱たるコーリングとして、孤児院の子供たちにとっての頼れる大人として、アプリコットの王子様として、自分を奮い立たせてきた。
だが、度重なる喪失と孤独に、その脆い柱の腐食が進んでいることは明らかだった。
一番大切な思い出と、自分の弱さ。それらと一緒に、降る雪ひとつ被らぬようにしまい込んでいたひとつの記憶。それらを隣にいてくれる大切な仲間に託してみたい。
そうした所で何かが変わるのかは分からない。それでも、そうでもしなければ、もうエルヴィンは立ち上がれない。
「突飛な話で、信じ難いものかもしれないけれど、僕にとっては何より大切な記憶なんです」
まだ年齢が二桁にも満たない、幼少期の記憶を慎重に、丁寧に手繰り寄せる。
「ずっと昔……幼い時に、僕はアプリコットに会ったことがあるんです」
「それは……?」
管理人は不思議そうに首を傾げる。初めての出会いは孤児院だと聞いたことがあったし、十歳以上の差があるエルヴィンとアプリコットの年齢差を考えれば不自然な時系列だ。
「正確には、容姿も声も、アプリコットと瓜二つの女の子。ですからアプリコット……と断言して良いのか分かりません、僕が本当は……そう信じたいだけかもしれません」
今思えば、運命に導かれるような出会いだった。
その日は、吹き荒れる雪で白く視界が妨げられ、護衛とはぐれてしまった。何故そんな日に出かけてしまったのかは覚えていないし、過保護な両親が付けてくれた熟練された騎士が対象を見失うだなんておかしな話なんだけれど。
やがて森の中へと迷い込み、視界も開けない吹雪の中を堆積した雪に何度も足を取られては無我夢中に歩を進め、視界の開けた先でたまたまたどり着いたのは、家と言うには頼りない、片流れ屋根の老朽化した小屋だった。
「そこに、その子は住んでいました。親に捨てられて、真冬にも関わらず、薄手の服で震えて耐えていたんです。苦労を知らないお坊ちゃまなんて本当は突き放したかったのかもしれないけれど、優しい子で。僕を招き入れてくれました」
陽光に照らされれば若葉のような光沢を放つであろう瞳は光を失い、金糸の細い髪は痛んで、肩の辺りまで無造作に伸びている。暖房設備もないこの古い小屋は隙間風が絶え間なく体温を奪うと言うのに、彼女を守るのはただの布切れに等しい薄布が一枚。赤くなった手先には興味を示すことさえせずに、全てを諦めたような幼い少女の姿は、酷く痛ましいものだった。
「名前は聞きたくないから言わないで。わたしも教えないから」
「どうして?」
「……果実が、実るの。一度実ったら、わたしの背じゃきっと届かない。いいなって、眺めるだけ。それは、きっと苦しいから」
肉親に見捨てられた彼女は愛が芽生えることを恐れ、名前を教えること、知ることをまるで禁忌のように拒絶した。
名前さえ知らない、偶然出会っただけの女の子。笑って欲しくて工夫を凝らしても、聞いているのかさえ判然としない虚ろな様子で。
それでも、帰り際に別れの言葉を告げたとき、不安と期待を同時に滲ませて自身を見つめる姿、「またね」に小さく手を振り返してくれるその姿に、可愛らしくてどうしようも無いような気持ちにさせられた。たった一夜の出会いとして片付けるには、とても足らないほどに。
「エルヴィン、最近外出が多いように思えるけれど」
「お母様達に何か秘密があるのではないかしら」
外出が増えると、その存在はやがて両親の知るところとなった。息子へ深い愛情を注いでいた心優しいコール夫妻は少女の存在を寛容に受け入れ、真夜中であるにも関わらず、躊躇わず少女の住処へと馬車を走らせた。
これでやっと、彼女は凍えるような寒さに身を晒されずに済む。大好きな子が苦しむことなく、ずっと一緒に寄り添っていられる。二人で家に帰ったなら、湯気の立つ暖かなポタージュがお出迎え。湯船に体を沈めて芯まで温まった後は、ふかふかのお布団に身を沈めて、暖炉の火がゆらゆら形を変えるのを眺める。大人たちの寝静まった夜の時間は、子供たちだけの特別な世界。星を眺めるのも、絵本をめくるのも、手を繋いで夢を迎えることも――あの子としたいことばかり。
だけれど、馬車を降りたエルヴィンの視界に真っ先に飛び込んだのは、雪に倒れこんだ他でもない大切なあの子で。
短い人生の中でまだ経験したことの無い恐怖に胸を締め付けられながら、必死に彼女の元へと駆け寄る。深く積もる雪は容赦なく脚の自由を奪い、少年の小さな体は逸るばかりの心とは裏腹に思うように進まない。それは、自分と彼女の運命を残酷に切り裂こうとしているようで。
積雪にぐったりと預けられていた体を抱き寄せて、自身の着ていた外套で包み込む。混乱の中必死に呼びかけ続けると、かすかに瞼が持ち上げられ、安心したエルヴィンは、ぽろぽろと涙を零した。
肌に滴り零れ落ちるそれを、暖かいと、少女は笑った。
「……お兄ちゃん、わたし、星を見ていたの。お星様に触れてみたくて。でもね、すごく遠いの……悲しくて、痛いよ......」
「もう大丈夫だよ。僕が星を取ってきてあげるから、だから、僕とおうちに帰ろう……」
現実から切り離されたように抑揚のなかった少女の声に、熱が宿り、震えていた。初めて感情を吐露した少女の涙は、あまりに細い身体から、残酷に体力を奪っていく。
エルヴィンに出来たことは、つよく抱き締めて、寒空に盗まれてしまった体温を分け合うことだけだった。
「それなら……連れ帰っても、その……助からなかったの?」
エルヴィンの屋敷で、少女の面影は見当たらないし、アプリコットに似ているという女の子も見たことが無い。幼少期を語るエルヴィンからは、在りし日への憧憬で恋しく、遠い目をしていた。
管理人は過去に幾度か、エルヴィンの口から彼が管理する孤児院の話を聞いたことがある。それ以外にも、コーリングに選ばれる以前からアプリコットの話を、彼女の侍女となったメアリーの話をしてくれた。エルヴィンは愛する人を他者に示す傾向にあるから、生きているならば紹介されない理由がない。つまりは、スピカの予想通り少女はもう何処にもいないのだろう。
その事実を前にして、管理人はエルヴィンに蓄積された冷たく耐え難い記憶ごと、エルヴィンを腕に抱きとめてやりたい衝動に駆られた。
スピカの問いかけに、エルヴィンは自分の無力さを思い出して嘲笑するように頷いた。
「そもそも、受け入れて貰えなかったよ。結局彼女は、誰にも心を許せずに、当たり前に受け取るべき愛を恐れたまま、僕の腕の中で息を引き取ったんだ」
傍にいれば、永遠になると思っていた。
神様も見逃してしまうほどに、それは一瞬のまぼろしで。まぼろしと言うには強烈な、流星のような恋だった。