第一章 calling you
page.4 揺らめく少女・エトワール ②
Ⅱ
迷子の手を引いてくれたあの日の温かさを、生涯忘れたくないと願う。
貴方が繋いでくれた手でマイクを握り続けるために。道を示してくれた貴方に変わって、今度は私が導となるために。
偶像がまだひとりの少女であり、スピカ・クロイツェル……その名前すらも剥奪され、ただの"スピカ"となった頃、彼女は音楽を嫌悪していた。
スピカを産んだ実母は、よく歌を歌っていた。衣服を選ぶ時、レコードを選ぶ時。ふとした瞬間にも小鳥のように何かを口ずさんでいて、それはお世辞にも上手だなんて呼べないものだったけれど、麗らかな陽春の微睡みのような、安らぎを誘う歌声でスピカに子守唄を紡いでくれた。まるで、愛のように。
そんな母親がいとも簡単にスピカの手を放し、いよいよ一瞥もせず去ってしまうだなんて。笑ってしまいそうなほど、嘘みたいな話だ。
「ママね、可愛いスピカのためにお歌を一生懸命練習したよ」
――嘘。
「愛してる、ママのスピカ」
これも、嘘。
嘘ばかりの母親が教えてくれた唯一の本当は、人を騙すのは指先一つで事足りて、世界は幾千の嘘が歯車の形を取って整然と成り立っているということ。与えられたものは同時に奪われるものだということ。
心地の良い春の旋律が耳に絡みついて、音が嫌いになった。音を乗せた言葉が嫌いになった。だから、言葉が飛び交うコミュニケーションなんて論外だ。腹の探り合いで疲弊してしまう。大人の打算や思惑を受け入れるには、スピカはまだあまりにも幼かった。
そんな世界のほんとうを幼くして知ったスピカだからこそ、こんな始まり方も、仕方がないのだろう。
「私、貴方達と家族ごっこをするつもりはありません。不満があるならどうぞ手放して孤児院に返してください」
「おやまあ。随分と可愛らしい子が我が家にきてくれたようだ」
そう言って不信感を顕にするスピカの頭を、養父の彼は満足そうに撫でた。
まだ五歳の幼子と言えど、どれだけ不遜な態度を取っても実子と分け隔てなく接してくれた養親の姿勢は、実母に呆気なく捨てられたスピカにとっては酷く気味が悪いものに思えた。
スピカが引き取られたブライト子爵家は、名の知れた音楽の名家である。そこに暮らす誰もが当然に音楽と生き、親しみ、愛している。
初めて定期演奏会で聞いた彼らの奏でる音は、まるで命を宿したように跳ねて、滑って、揺れながら、自在にその場に広がっていく。スピカが知る音と根源的に異なるその音は不可思議だったけれど、触れられる輪郭があったのなら、きっと、ずっと目で追っていたのだろう。
「スピカは楽しそうに歌うね」
「きゃあっ」
興味本位だった。
耳が良いのか、一度聞いた音楽は早々忘れることがない。だから何度も周囲を振り返って、庭に人影がないことを確認して。茂みに身を隠して、小さな声で耳に残った彼らの旋律をなぞった。
だと言うのに。
「酷いわ、ぬ、盗み聞きよ!」
「ふふ、ごめんなさい。あんまり素敵だから、特等席でこの歌声を聞かせてもらいたいと思って」
嫌な汗がどっと沸き上がる。じりじり照りつける炎天下に灼かれたかのような熱気を体にまといながら、狼狽と衝撃に晒された体は凍りついて固まっている。
隣にはいつのまにか、長男であるエスが座っていた。三つ子の中でも一際大人びていて、十代とは思えないほどに落ち着きを払い、両親と大人同士であるように対等な会話を成り立たせている人。次男のルミは心配性で落ち着きがないし、三男のレイは物静かだから、より際立っているのかもしれないけれど。
腰が抜けたのを誤魔化すために、跳ねるような勢いに任せて立ち上がる。スピカが睨みつけて威嚇してもエスが気にすることはなく、かわいい子猫を宥める時のような仕草で頭についていた葉を払ってくれる。甘やかすような優しい手つきや振る舞いも、やはり居心地が悪かった。
「楽しそうって、さっき。適当に言ったんでしょう」
「どうして?」
「だって、一度だって笑ってなんかいないもの」
「笑わないと、楽しさの証明にはならないと思っているんだね」
スピカはじっと黙った。だって、顔を顰めて歌う人を見て、いったい誰が楽しそうなんて解釈するのだろう。子供なんて聞こえの良い言葉を並べておけば、たやすく機嫌が良くなると嘲て高を括っているのではないか。
騙されないようにと考える。相手の意図を測ろうと思考するほどに、胸には靄が渦巻いていった。
ふと影が差し込み、辺りが暗く包まれる。そのせいだろうか、空気がやけに重たく体に伸し掛る。喧騒に塗れた心を誤魔化すために、ろくな関心もないくせに、風に転がされる葉をただ眺めていた。
「……これからも歌ってほしいな。あなたの音楽は世界に必要とされている気がするよ」
「……なんですって?」
スピカの柔らかな手に見合わない力が加わって、痛いほどに強く握られる。
エスが覗くと俯かれたその顔は、悲しみも怒りも綯い交ぜにして、巡る血で仄かに赤く、悲憤に染まっていた。
「理解できないわ。ううん、今回だけじゃなくて、ずっと。私にはあなた達が聞こえの良い嘘を並べているようにしか聞こえない」
この家族はどうかしている。
自分を引き取ったことも偽善を誇示するためで、惑わすような言葉を巧みに吐いて、幻想を押し付けて。そうしてその子供が最も理想的な形で育つように、ありもしない偶像に仕立てようとしているだけなのだろう。あの母親のように、醜悪な手段で。
「私を利用しないでよ。振り回さないでよ! もう誰かに奪われるのは散々だわ!」
鼓動がやけに大きく反響して、周囲の音が霞む。視界が眩むほどの興奮は小さな体に負担をかけ、震える足は力を入れていないと今にも崩れてしまいそうなのに、それをエスに笑われるのではないかという妄執が、スピカに油断を許さない。
かき乱されたスピカの思考に響くエスの声はこんな時でさえ夏に触れる涼やかな水のようで、「聞いて」その一言だけで、暴れていた熱が彼に吸収されていくのを感じていた。
「わたし達は音楽を愛しているから、大切な音楽を蔑ろにするような人は家に入れたりしない。つまり、あなたを引き取ったことにはそれ相応の理由がある」
「……だったら尚更適当じゃない。私、あなたたちにそんな素振りを見せた覚えはないもの」
慈善活動の一環として、ブライト家の両親が孤児院に訪れた時でさえ、スピカは彼らの目に触れない場で、外のざわめきが止むのをじっと待っていた。貴族の偽善の見世物にされる事のないように。例えその先に豪奢で安寧の暮らしがあったとしても、僅かな可能性への期待のために他人に翻弄されることは、もう散々だったから。
だというのに、当主様が呼んでいると、院長に呼び出されたのだ。
エスが身軽に立ち上がり、白菫色の髪が肩に沿って流れを作る。衣服の汚れを軽く手で払うと、腰をスピカの視線まで落とした。まるで、年齢も立場も取っ払い、対等であることを示すようにして。
「賛美歌、一人だけ歌ってなかったんでしょう。両親からそれだけを聞いて、わたしたち全員が納得して。そうして、他でもないあなたに来てもらうことにしたんだよ」
「賛美歌......?」
神の恩寵を受けた人物が実在するクロックフィールドの教会では、明日を無事に迎えられるように祈念して、週終わりである土曜日の日暮れが礼拝の日として定められている。スピカが引き取られた孤児院でも、正当な教育と庇護を実親から受けることが叶わなかった少年少女が、国の歴史と深く関わる神を軽んじることがないよう、同様に設けられていた。
あの日は確かに礼拝の日で、両親が孤児院に来る前に賛美歌の時間があったことは覚えている。スピカの意識の外で、どこかで耳に入ったとしてもそれ自体不可解ではない。だけれど、それがどうしたってこの家に引き入れる理由に足るのかは、到底理解に足らない主張だった。
「どうしてあの時歌わなかったのか、あなたの口で教えてご覧。歌が嫌いだから?」
「……神様がいたとしても、敬う気持ちにはなれなかったから。信仰も賛美も、持ち合わせていなかったから」
仮に神様がいたとして、見守るだけのその存在が自分に何をもたらしてくれたのだろう。形式をなぞっただけの歌を賛美と呼ぶのなら、それは嘘の愛を教えて奪った母親と、きっと変わらない。
エスは、予想通りだと言うように目を細めた。
「スピカは音を放棄したんじゃない、自らの選択で休符を取り入れた。楽譜を書き換えた。奏でたい音が決まっているスピカは誰より音楽の才能がある」
感情の伴わない音楽に意味が無いとは、エスは思わない。口承で伝わる音は、歴史の中に美しく、高い価値を持って刻まれるはずだ。しかし、そうして形式化された音楽に命を吹き込むのはきっと、スピカのような子なのだろう。
そんな彼女が自分の妹になると知った時、エスはまだ見ぬ少女を思い、愛しさで胸が詰まるほど嬉しかったのだ。
「あなたは、自分の足で立っていたいんでしょう」
淡緑の瞳が精悍な眼差しでスピカに問いかける。曲げることの無い意志を表すようにして、スピカは確かに頷いた。
強ばっていた体はいつの間にか、雲の帳に隠した光のような想いを受け入れて、再び手を繋いでいる。目を逸らしていた晴れた空の日差しの心地良さに返すものは、お久しぶりねと歌う、ご機嫌な微笑みになる。
「あなたの雑音にはなりたくないから、いつだってその選択を尊重しよう。笑いたくない時無理に笑う必要はない。だけれど、もしもスピカが少しのきっかけを必要とするのなら、歌はあなたの特別な友人になってくれる。スピカの代わりに、思いの全てを肯定してくれる。あなたから発せられる音の全ては、あなたそのものなのだから」
彼らの音は自由で、地面を踏みしめる音や衣服の擦れる音さえ翼を持っているように軽やかで。その理由を今、理解した気がした。そしてスピカの音も、これから彼らのようになって、家族になっていく。そんな頼りなくて、どこか確信めいた予感がする。
誰より対等に自身を見てくれる人。だけれど意地っ張りで臆病な部分さえ見透かして、知らないふりをしてくれるずっとおとなの人。きっとこの時、エスのおかげで歌が好きな自分を、音を、人を受け入れることが出来た。
「……音は奪われるばかりだと思ってた」
「まさか。奏でる音はわたし達だけのものだ」
Ⅲ
それから八年の月日が流れた。スピカは自分がブライト家の一員であることを受け入れ、すっかりこの家の末っ子として馴染んでいた。
若くして宮廷音楽家となったエスからはピアノ、ルミからはギター、レイからは作詞、母からはハープと歌を教えられた。父はヴァイオリンを覚えさせたかったようだけれど、弾き語りを好むスピカには父やエスの演奏を聞いている方が性に合っているようで、とうとう触れることはなかった。
一見厳格な雰囲気を纏う父がしょんぼりと肩を落とす姿は随分と可愛らしいもので、その度母と顔を見合せてくすくすと笑えば笑顔が家族に伝播して。心を丸ごと預けるように腰を落ち着けられる場所があるということが、こんなにも心を穏やかにしてくれるのだと知った。
アイドルという存在を知ったのもこの頃のことだった。
ルミ、エスと共に楽器店に向かう途中、一人の少女が広場の一角で、歌や踊りを披露している様子が目に入った。
膨らんだリボンや幾重にも重なったフリルのスカート......たくさんの装飾が施された衣装が少女のお供をする妖精のように揺れて、一挙一動を華やかに飾っている。
観客の視線は夜の空に初めての輝きを見つけたかのように彼女に集中していて、それはスピカも例外ではなかった。多くの視線をその背に受けて尚、堂々と鮮やかに煌めく彼女から、どうしたって視線を逸らせない。
その様子を静かに見つめていたルミが、人差し指を立ててスピカに声をかける。
「初めて見たの? あの子みたいに可愛らしい衣装を着て踊りながら歌う子達をアイドルって言うんだよ。よくこの辺で野外ライブしてるんだ」
「アイドル……」
どこか惚けたスピカをみれば、彼女がアイドルに心を奪われたことは明らかで。ルミは妙案を思いついたと言わんばかりに大きく両手を広げ、垂れた瞳を目いっぱい輝かせた。
「スピカちゃんもアイドルやろうよ。クロックフィールド一人気のアイドルになること間違いなしだよ!」
「スーちゃんはうちだけのアイドルでいい」
ルミの発言を、レイが研いだばかりの刀のような鋭さでぴしゃりと両断する。賛同して貰えると疑わなかったルミは、子供のようにむっと唇をとがらせた。
「えーっ、それも分かるけど。かわいい衣装着てるスピカちゃん、レイも見たいでしょ?」
「家で着てもらう」
「着ないわよ、そういうの柄じゃないでしょ」
お揃いの淡緑の髪がぶつかる程に近づき、喧嘩が始まりそうな予感がして、当事者であるスピカが仲裁するように間に割って入る。ルミとレイは対立することが多く、すぐに喧嘩に発展してはスピカがため息をつくこともルーティンのようになっていた。
「たしかに、いつも装飾の多いドレスは断固拒否って感じだけど……みんなスピカちゃんの歌好きだし~、バレエの筋も良くて身体能力も高いし~、もうこれはアイドルになるしかないんじゃない!? って、思うんだけどなー」
目星をつけていた品を購入し、買い物を終えて馬車を降りながらも、ルミのその言葉と今日のステージがスピカの頭に反芻し続ける。
可愛らしい装いに興味が無いわけではない。生みの親と暮らしていた頃は父親から女の子らしい服を与えられて、喜んで身に纏っていた。しかし、装飾が多く着いた服はそれに釣り合うように高価で、この家に来たばかりの頃は意地を張って興味が無いと言い張ってきた。
家族や使用人から大人びていると褒められるスピカだけれど、実の所は背伸びをしているだけで、意地っ張りで、ほんの少しおませなのだ。心の奥にあるものを言葉にする行為への苦手意識は、いつまでも拭えないままで。
そんなスピカに勇気をくれたのはいつだって、あの日、エスがくれた言葉だった。
他でもない歌が、私を肯定するのだと。
「……兄さん、私が何言っても笑わないよね?」
「勿論」と、二人はスピカに向かい合う。一歩先で、スピカの答えを手を広げて待つようにして。
鳴り止まない心臓の音が、メトロノームのように規則的に刻まれる。緊張をはぐらかすために大きく息を吸いこんで、耳に焼き付いた彼女の曲を口にした。アイドルのダンスは習ったことがないから、見様見真似で。不格好だけれど、不安は隠して、彼女のように堂々と、星々のようにきらきらと。
兄の拍手も、整わない息さえも待たないで、今しか伝えられない思いを、スピカは懸命に紡ぐ。
「わ、私。アイドルやってみたい。あの子みたいに愛嬌なんてないし、きらきらしてないけど、だけど」
可愛くなって、みたいから。
火照っていることを感じて、余計に羞恥心が煽られる。とても顔はあげられずに、下を向いたままきゅっと目を瞑る。しかし兄からの返事が一向に返ってこないことに不安を覚え、恐る恐る顔を上げると、スピカの目に飛び込んだのは顔面蒼白になったルミだった。
スピカが困惑の声をもらすと、ルミは慌ただしく両手を宙にばたつかせる。動きがうるさい、とレイに頭を叩かれて、怒りながらもやっと正常に戻ったようだ。
「どっ、どうしよう。そう言われたら急に心配になってきちゃった。厄介なファンとかついちゃったら手が出るかも」
「言い出したのルミでしょ。何今更慌ててんの」
「……やっぱりいけない? 私がアイドルだなんて、……か、可愛くなりたいなんて、今更おかしいかしら」
スピカは落ち込んだように目を伏せる。その様子を目にしたルミとエスは慌てて持ちうる限りの頭の辞書から言葉を引き、賛辞の言葉を並べた。
観客は兄二人だけの、彼女の初めてのステージ。すっかり日は落ち、スポットライトなんてなくて、照明は街頭だけの心許ない灯りだけ。それでも、夜空に見合う光度を持った、歌い踊る彼女の幸福そうな笑顔を見れば、兄達が止める理由なんて何一つないのだ。
「スピカちゃん」
「スーちゃん」
応援してる。そう言って、二人でスピカの手を引いた。
あ、ハモったねって笑う三人の声が、広い空を駆けるみたいに響いた。
Ⅱ
迷子の手を引いてくれたあの日の温かさを、生涯忘れたくないと願う。
貴方が繋いでくれた手でマイクを握り続けるために。道を示してくれた貴方に変わって、今度は私が導となるために。
偶像がまだひとりの少女であり、スピカ・クロイツェル……その名前すらも剥奪され、ただの"スピカ"となった頃、彼女は音楽を嫌悪していた。
スピカを産んだ実母は、よく歌を歌っていた。衣服を選ぶ時、レコードを選ぶ時。ふとした瞬間にも小鳥のように何かを口ずさんでいて、それはお世辞にも上手だなんて呼べないものだったけれど、麗らかな陽春の微睡みのような、安らぎを誘う歌声でスピカに子守唄を紡いでくれた。まるで、愛のように。
そんな母親がいとも簡単にスピカの手を放し、いよいよ一瞥もせず去ってしまうだなんて。笑ってしまいそうなほど、嘘みたいな話だ。
「ママね、可愛いスピカのためにお歌を一生懸命練習したよ」
――嘘。
「愛してる、ママのスピカ」
これも、嘘。
嘘ばかりの母親が教えてくれた唯一の本当は、人を騙すのは指先一つで事足りて、世界は幾千の嘘が歯車の形を取って整然と成り立っているということ。与えられたものは同時に奪われるものだということ。
心地の良い春の旋律が耳に絡みついて、音が嫌いになった。音を乗せた言葉が嫌いになった。だから、言葉が飛び交うコミュニケーションなんて論外だ。腹の探り合いで疲弊してしまう。大人の打算や思惑を受け入れるには、スピカはまだあまりにも幼かった。
そんな世界のほんとうを幼くして知ったスピカだからこそ、こんな始まり方も、仕方がないのだろう。
「私、貴方達と家族ごっこをするつもりはありません。不満があるならどうぞ手放して孤児院に返してください」
「おやまあ。随分と可愛らしい子が我が家にきてくれたようだ」
そう言って不信感を顕にするスピカの頭を、養父の彼は満足そうに撫でた。
まだ五歳の幼子と言えど、どれだけ不遜な態度を取っても実子と分け隔てなく接してくれた養親の姿勢は、実母に呆気なく捨てられたスピカにとっては酷く気味が悪いものに思えた。
スピカが引き取られたブライト子爵家は、名の知れた音楽の名家である。そこに暮らす誰もが当然に音楽と生き、親しみ、愛している。
初めて定期演奏会で聞いた彼らの奏でる音は、まるで命を宿したように跳ねて、滑って、揺れながら、自在にその場に広がっていく。スピカが知る音と根源的に異なるその音は不可思議だったけれど、触れられる輪郭があったのなら、きっと、ずっと目で追っていたのだろう。
「スピカは楽しそうに歌うね」
「きゃあっ」
興味本位だった。
耳が良いのか、一度聞いた音楽は早々忘れることがない。だから何度も周囲を振り返って、庭に人影がないことを確認して。茂みに身を隠して、小さな声で耳に残った彼らの旋律をなぞった。
だと言うのに。
「酷いわ、ぬ、盗み聞きよ!」
「ふふ、ごめんなさい。あんまり素敵だから、特等席でこの歌声を聞かせてもらいたいと思って」
嫌な汗がどっと沸き上がる。じりじり照りつける炎天下に灼かれたかのような熱気を体にまといながら、狼狽と衝撃に晒された体は凍りついて固まっている。
隣にはいつのまにか、長男であるエスが座っていた。三つ子の中でも一際大人びていて、十代とは思えないほどに落ち着きを払い、両親と大人同士であるように対等な会話を成り立たせている人。次男のルミは心配性で落ち着きがないし、三男のレイは物静かだから、より際立っているのかもしれないけれど。
腰が抜けたのを誤魔化すために、跳ねるような勢いに任せて立ち上がる。スピカが睨みつけて威嚇してもエスが気にすることはなく、かわいい子猫を宥める時のような仕草で頭についていた葉を払ってくれる。甘やかすような優しい手つきや振る舞いも、やはり居心地が悪かった。
「楽しそうって、さっき。適当に言ったんでしょう」
「どうして?」
「だって、一度だって笑ってなんかいないもの」
「笑わないと、楽しさの証明にはならないと思っているんだね」
スピカはじっと黙った。だって、顔を顰めて歌う人を見て、いったい誰が楽しそうなんて解釈するのだろう。子供なんて聞こえの良い言葉を並べておけば、たやすく機嫌が良くなると嘲て高を括っているのではないか。
騙されないようにと考える。相手の意図を測ろうと思考するほどに、胸には靄が渦巻いていった。
ふと影が差し込み、辺りが暗く包まれる。そのせいだろうか、空気がやけに重たく体に伸し掛る。喧騒に塗れた心を誤魔化すために、ろくな関心もないくせに、風に転がされる葉をただ眺めていた。
「……これからも歌ってほしいな。あなたの音楽は世界に必要とされている気がするよ」
「……なんですって?」
スピカの柔らかな手に見合わない力が加わって、痛いほどに強く握られる。
エスが覗くと俯かれたその顔は、悲しみも怒りも綯い交ぜにして、巡る血で仄かに赤く、悲憤に染まっていた。
「理解できないわ。ううん、今回だけじゃなくて、ずっと。私にはあなた達が聞こえの良い嘘を並べているようにしか聞こえない」
この家族はどうかしている。
自分を引き取ったことも偽善を誇示するためで、惑わすような言葉を巧みに吐いて、幻想を押し付けて。そうしてその子供が最も理想的な形で育つように、ありもしない偶像に仕立てようとしているだけなのだろう。あの母親のように、醜悪な手段で。
「私を利用しないでよ。振り回さないでよ! もう誰かに奪われるのは散々だわ!」
鼓動がやけに大きく反響して、周囲の音が霞む。視界が眩むほどの興奮は小さな体に負担をかけ、震える足は力を入れていないと今にも崩れてしまいそうなのに、それをエスに笑われるのではないかという妄執が、スピカに油断を許さない。
かき乱されたスピカの思考に響くエスの声はこんな時でさえ夏に触れる涼やかな水のようで、「聞いて」その一言だけで、暴れていた熱が彼に吸収されていくのを感じていた。
「わたし達は音楽を愛しているから、大切な音楽を蔑ろにするような人は家に入れたりしない。つまり、あなたを引き取ったことにはそれ相応の理由がある」
「……だったら尚更適当じゃない。私、あなたたちにそんな素振りを見せた覚えはないもの」
慈善活動の一環として、ブライト家の両親が孤児院に訪れた時でさえ、スピカは彼らの目に触れない場で、外のざわめきが止むのをじっと待っていた。貴族の偽善の見世物にされる事のないように。例えその先に豪奢で安寧の暮らしがあったとしても、僅かな可能性への期待のために他人に翻弄されることは、もう散々だったから。
だというのに、当主様が呼んでいると、院長に呼び出されたのだ。
エスが身軽に立ち上がり、白菫色の髪が肩に沿って流れを作る。衣服の汚れを軽く手で払うと、腰をスピカの視線まで落とした。まるで、年齢も立場も取っ払い、対等であることを示すようにして。
「賛美歌、一人だけ歌ってなかったんでしょう。両親からそれだけを聞いて、わたしたち全員が納得して。そうして、他でもないあなたに来てもらうことにしたんだよ」
「賛美歌......?」
神の恩寵を受けた人物が実在するクロックフィールドの教会では、明日を無事に迎えられるように祈念して、週終わりである土曜日の日暮れが礼拝の日として定められている。スピカが引き取られた孤児院でも、正当な教育と庇護を実親から受けることが叶わなかった少年少女が、国の歴史と深く関わる神を軽んじることがないよう、同様に設けられていた。
あの日は確かに礼拝の日で、両親が孤児院に来る前に賛美歌の時間があったことは覚えている。スピカの意識の外で、どこかで耳に入ったとしてもそれ自体不可解ではない。だけれど、それがどうしたってこの家に引き入れる理由に足るのかは、到底理解に足らない主張だった。
「どうしてあの時歌わなかったのか、あなたの口で教えてご覧。歌が嫌いだから?」
「……神様がいたとしても、敬う気持ちにはなれなかったから。信仰も賛美も、持ち合わせていなかったから」
仮に神様がいたとして、見守るだけのその存在が自分に何をもたらしてくれたのだろう。形式をなぞっただけの歌を賛美と呼ぶのなら、それは嘘の愛を教えて奪った母親と、きっと変わらない。
エスは、予想通りだと言うように目を細めた。
「スピカは音を放棄したんじゃない、自らの選択で休符を取り入れた。楽譜を書き換えた。奏でたい音が決まっているスピカは誰より音楽の才能がある」
感情の伴わない音楽に意味が無いとは、エスは思わない。口承で伝わる音は、歴史の中に美しく、高い価値を持って刻まれるはずだ。しかし、そうして形式化された音楽に命を吹き込むのはきっと、スピカのような子なのだろう。
そんな彼女が自分の妹になると知った時、エスはまだ見ぬ少女を思い、愛しさで胸が詰まるほど嬉しかったのだ。
「あなたは、自分の足で立っていたいんでしょう」
淡緑の瞳が精悍な眼差しでスピカに問いかける。曲げることの無い意志を表すようにして、スピカは確かに頷いた。
強ばっていた体はいつの間にか、雲の帳に隠した光のような想いを受け入れて、再び手を繋いでいる。目を逸らしていた晴れた空の日差しの心地良さに返すものは、お久しぶりねと歌う、ご機嫌な微笑みになる。
「あなたの雑音にはなりたくないから、いつだってその選択を尊重しよう。笑いたくない時無理に笑う必要はない。だけれど、もしもスピカが少しのきっかけを必要とするのなら、歌はあなたの特別な友人になってくれる。スピカの代わりに、思いの全てを肯定してくれる。あなたから発せられる音の全ては、あなたそのものなのだから」
彼らの音は自由で、地面を踏みしめる音や衣服の擦れる音さえ翼を持っているように軽やかで。その理由を今、理解した気がした。そしてスピカの音も、これから彼らのようになって、家族になっていく。そんな頼りなくて、どこか確信めいた予感がする。
誰より対等に自身を見てくれる人。だけれど意地っ張りで臆病な部分さえ見透かして、知らないふりをしてくれるずっとおとなの人。きっとこの時、エスのおかげで歌が好きな自分を、音を、人を受け入れることが出来た。
「……音は奪われるばかりだと思ってた」
「まさか。奏でる音はわたし達だけのものだ」
Ⅲ
それから八年の月日が流れた。スピカは自分がブライト家の一員であることを受け入れ、すっかりこの家の末っ子として馴染んでいた。
若くして宮廷音楽家となったエスからはピアノ、ルミからはギター、レイからは作詞、母からはハープと歌を教えられた。父はヴァイオリンを覚えさせたかったようだけれど、弾き語りを好むスピカには父やエスの演奏を聞いている方が性に合っているようで、とうとう触れることはなかった。
一見厳格な雰囲気を纏う父がしょんぼりと肩を落とす姿は随分と可愛らしいもので、その度母と顔を見合せてくすくすと笑えば笑顔が家族に伝播して。心を丸ごと預けるように腰を落ち着けられる場所があるということが、こんなにも心を穏やかにしてくれるのだと知った。
アイドルという存在を知ったのもこの頃のことだった。
ルミ、エスと共に楽器店に向かう途中、一人の少女が広場の一角で、歌や踊りを披露している様子が目に入った。
膨らんだリボンや幾重にも重なったフリルのスカート......たくさんの装飾が施された衣装が少女のお供をする妖精のように揺れて、一挙一動を華やかに飾っている。
観客の視線は夜の空に初めての輝きを見つけたかのように彼女に集中していて、それはスピカも例外ではなかった。多くの視線をその背に受けて尚、堂々と鮮やかに煌めく彼女から、どうしたって視線を逸らせない。
その様子を静かに見つめていたルミが、人差し指を立ててスピカに声をかける。
「初めて見たの? あの子みたいに可愛らしい衣装を着て踊りながら歌う子達をアイドルって言うんだよ。よくこの辺で野外ライブしてるんだ」
「アイドル……」
どこか惚けたスピカをみれば、彼女がアイドルに心を奪われたことは明らかで。ルミは妙案を思いついたと言わんばかりに大きく両手を広げ、垂れた瞳を目いっぱい輝かせた。
「スピカちゃんもアイドルやろうよ。クロックフィールド一人気のアイドルになること間違いなしだよ!」
「スーちゃんはうちだけのアイドルでいい」
ルミの発言を、レイが研いだばかりの刀のような鋭さでぴしゃりと両断する。賛同して貰えると疑わなかったルミは、子供のようにむっと唇をとがらせた。
「えーっ、それも分かるけど。かわいい衣装着てるスピカちゃん、レイも見たいでしょ?」
「家で着てもらう」
「着ないわよ、そういうの柄じゃないでしょ」
お揃いの淡緑の髪がぶつかる程に近づき、喧嘩が始まりそうな予感がして、当事者であるスピカが仲裁するように間に割って入る。ルミとレイは対立することが多く、すぐに喧嘩に発展してはスピカがため息をつくこともルーティンのようになっていた。
「たしかに、いつも装飾の多いドレスは断固拒否って感じだけど……みんなスピカちゃんの歌好きだし~、バレエの筋も良くて身体能力も高いし~、もうこれはアイドルになるしかないんじゃない!? って、思うんだけどなー」
目星をつけていた品を購入し、買い物を終えて馬車を降りながらも、ルミのその言葉と今日のステージがスピカの頭に反芻し続ける。
可愛らしい装いに興味が無いわけではない。生みの親と暮らしていた頃は父親から女の子らしい服を与えられて、喜んで身に纏っていた。しかし、装飾が多く着いた服はそれに釣り合うように高価で、この家に来たばかりの頃は意地を張って興味が無いと言い張ってきた。
家族や使用人から大人びていると褒められるスピカだけれど、実の所は背伸びをしているだけで、意地っ張りで、ほんの少しおませなのだ。心の奥にあるものを言葉にする行為への苦手意識は、いつまでも拭えないままで。
そんなスピカに勇気をくれたのはいつだって、あの日、エスがくれた言葉だった。
他でもない歌が、私を肯定するのだと。
「……兄さん、私が何言っても笑わないよね?」
「勿論」と、二人はスピカに向かい合う。一歩先で、スピカの答えを手を広げて待つようにして。
鳴り止まない心臓の音が、メトロノームのように規則的に刻まれる。緊張をはぐらかすために大きく息を吸いこんで、耳に焼き付いた彼女の曲を口にした。アイドルのダンスは習ったことがないから、見様見真似で。不格好だけれど、不安は隠して、彼女のように堂々と、星々のようにきらきらと。
兄の拍手も、整わない息さえも待たないで、今しか伝えられない思いを、スピカは懸命に紡ぐ。
「わ、私。アイドルやってみたい。あの子みたいに愛嬌なんてないし、きらきらしてないけど、だけど」
可愛くなって、みたいから。
火照っていることを感じて、余計に羞恥心が煽られる。とても顔はあげられずに、下を向いたままきゅっと目を瞑る。しかし兄からの返事が一向に返ってこないことに不安を覚え、恐る恐る顔を上げると、スピカの目に飛び込んだのは顔面蒼白になったルミだった。
スピカが困惑の声をもらすと、ルミは慌ただしく両手を宙にばたつかせる。動きがうるさい、とレイに頭を叩かれて、怒りながらもやっと正常に戻ったようだ。
「どっ、どうしよう。そう言われたら急に心配になってきちゃった。厄介なファンとかついちゃったら手が出るかも」
「言い出したのルミでしょ。何今更慌ててんの」
「……やっぱりいけない? 私がアイドルだなんて、……か、可愛くなりたいなんて、今更おかしいかしら」
スピカは落ち込んだように目を伏せる。その様子を目にしたルミとエスは慌てて持ちうる限りの頭の辞書から言葉を引き、賛辞の言葉を並べた。
観客は兄二人だけの、彼女の初めてのステージ。すっかり日は落ち、スポットライトなんてなくて、照明は街頭だけの心許ない灯りだけ。それでも、夜空に見合う光度を持った、歌い踊る彼女の幸福そうな笑顔を見れば、兄達が止める理由なんて何一つないのだ。
「スピカちゃん」
「スーちゃん」
応援してる。そう言って、二人でスピカの手を引いた。
あ、ハモったねって笑う三人の声が、広い空を駆けるみたいに響いた。