貴方という秩序
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「私は、なまえさんが社長のことを見つめていたのと同じだけ、なまえさんの働きぶりを見ていたわ。それで、貴女こそが私の後任に相応しい、そう思ったのよ。別に、貴女と社長の仲をお膳立てしようってわけじゃないけれど」
蹲ったまま、ロビンさんの顔を見上げる。男性社員達を虜にするその美貌は、今は笑顔という最高の彩を添えて、私1人に向けられていた。
「4年も連れ添った忠臣に裏切られた主人の心を融かすのは、きっと容易じゃないわ。でもなまえさんなら、あの人好みに粛々と仕事を熟すことが出来ると思う。私が貴女にあげられるのは、チャンスだけだけれど」
引き受けてくれるかしら、と言って、ロビンさんは笑顔で首を傾げる。その仕草はとても可愛らしくて、こんな素敵な女性を射止めた男性はどこの幸せ者だろう、と俄然興味が湧いた。同時に、この仕事も出来て、更には女性としてもとても魅力的なこの人の代わりなど、私に務まるのだろうか、と不安にもなる。
正直に言えば、彼女の代わりに彼の隣に立つことを、ずっと夢見ていた。才知と野心に溢れるその横顔を、もっと近くで見ていたいと感じていた。その権利を得るためのチャンスのバトンが、今――私の目の前に差し出されている。
少しの逡巡の後、私は立ち上がり、ロビンさんの目を見て大きく頷いた。私の答えにホッとしたのだろう、ロビンさんの笑みが濃くなる。す、と差し出された、色白の細い手。それをがっちりと掴んだ私は、どこか晴れ晴れとした気持ちでいた。
だが、そんな晴れやかな気持ちは、いとも簡単に打ち砕かれることになる。
引き継ぎが始まってからというもの、私は2人について一日の流れを学んだり、社長と関わりの深い役員や社員達への挨拶回りをしたりと、忙しく駆け回っていた。
ロビンさんはといえば、私にアドバイスしてくれたように粛々と、社長とは必要最低限の言葉だけしか交わすことなく、それでも社長秘書として最高の仕事ぶりを披露しており、私はすっかり感心しきりであった。言葉は交わさずとも、僅かの躊躇もなく仕事が進んで行く様は、やはり長年のパートナーシップが築き上げてきたものなのだろう。正直――そこに社内で噂されているような事実がない、というのが信じられない程であった。
そして、慌ただしくも無事引き継ぎを終え迎えた、ロビンさんの最終出勤日。
その日のスケジュールの全てを終え、私とロビンさんは共に社長室へと赴いた。社長はガラス張りの窓辺に立ち、外を眺めながら葉巻を嗜んでいる。振り返る素振りすら見せないその背中に、ロビンさんは構わず声を掛けた。
「無事、全ての引き継ぎを終えました。私は、これで失礼させていただきます。これまで、ありがとうございました」
深々と頭を下げるロビンさんだったが、社長はだんまりを決め込んだままだ。いくら仕事のときにあまり言葉を交わさない2人だといえど、最後くらいは何かないのだろうか。困惑する私を余所に、ロビンさんは頭を上げ、社長室を出て行こうとする。私は慌てて、自分も挨拶だけして、その後を追おうとした――その時だった。
「――
社長の言葉に、ロビンさんは足を止め、振り返る。思いも寄らない言葉だったのだろう、その大きな目は、驚きに見開かれていた。
「俺にとってはそれだけで充分、お前は利用価値のある女だったと言える。しかし――」
ゆっくりと、社長が振り返る。その目に、私は戦慄した。それは、4年間共に仕事をしてきた相手に向けるそれとは到底かけ離れた――憎悪に満ちたものであったからだ。
「最後にお前は俺を裏切った……! 競合他社の野郎の元に嫁ぐとは、お前の強かさには言葉もねェ!!」
デスクに置かれた大理石の灰皿に葉巻を押し付けて、コツコツと革靴の底を鳴らしながら社長が私達2人に近付く。私もロビンさんもその迫力に気圧されて、その場から微動だに出来ずにいた。
「――だが俺はお前に怒りなど感じない。なぜだか分かるか……?」
ロビンさんの目の前に立ち、社長は幾分か声のトーンを落として呟く。ロビンさんは黙ってその目を見つめ返していた。
「全てを許そうニコ・ロビン。なぜなら俺は……」
社長の手が、ロビンさんの胸元のポケットへと伸ばされた。何を、と思う間もなく、彼の人差し指と中指がそこから何かを捕らえ、ロビンさんの顔の前まで引き上げられる。
「
ロビンさんはただ茫然と、その指先に捕らえられたUSBメモリを見つめていた。まさか。
混乱する私を余所に、社長は平然とUSBメモリを自分の胸ポケットへとしまい、代わりにシガーケースから葉巻を1本取り出す。そしてそれをロビンさんの鼻先へと突き出すと、無言の圧力でもって、彼女を促した。ロビンさんは震える手でポケットからシガーカッターを取り出すと、葉巻の先端を切り、マッチを擦って火を点ける。
「――ご苦労」
満足そうに口の端だけを上げて笑うと、社長はフーッと葉巻の煙をロビンさんの顔へと吹きかけた。ロビンさんは黙って頭を下げ、速足に社長室を出て行く。私はただ茫然と、去って行くその背中を見送ることしか出来なかった。
◆◆◆◆◆
「――あれから、私は貴方からの信用を得るためだけに、ただひたすら粛々と、自分を殺して今まで働いてきました」
感情を露わにして話すみょうじの瞳から、再び涙が零れ落ちる。それを拭ってやることも出来ないまま、俺はただ立ち尽くしていた。
「貴方という秩序の中で、貴方のために生きてきたのです。『ゴミ出し』だって、本当は嫌で嫌で仕方なかったけれど」
そう言ったみょうじは、今朝の出来事を思い出したのか、不快そうに顔を歪ませた。
「私の働きで貴方の心が少しでも癒えればと、今まで文句も言わずに耐えてきたのです。それなのに、貴方って人は――」
1つ息を吐いて、キッと抗議の視線を向けるみょうじ。その目には、もう涙は浮かんではいなかった。その事に、俺はひどく安堵する。それどころか、その目を彩る怒りの色が、俺にはとても情熱的で、魅力的なものとして映っていた。
「貴方の身勝手で秩序を易々と乱して、私の心をめちゃくちゃに踏み荒らして。こんな醜い泣き顔も、怒った顔も、貴方にだけは――見られたくなかったのに」
「――馬鹿な事を」