貴方という秩序
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勤めて長いとはいえ、秘書室で特に目立つこともなくコツコツと働いてきたのだけが取り柄の私が、突然社長秘書に任命されてから、1年。初めての出来事に、私は表面上だけでも冷静を装おうと必死になっていた。だが、そんな努力も空しく、膝の上で握られた拳は、情けなくもカタカタと震えている。少しでも気を紛らわそうと、私は不躾にならない程度に、初めて入るリビングを見渡した。
ソファの目の前にはピカピカに磨かれたガラスのローテーブルが置かれ、その奥には――一体何インチあるのだろう巨大な画面を誇るテレビが鎮座している。テレビの脇にはスピーカーが並び、音響にも拘っているらしいことが窺えた。テレビ台の中には真新しいBlu-rayデッキが置かれ、その横にはたくさんのディスクが並べられている。タイトルはどれも不朽の名作ばかりだ。
(社長、映画がお好きなんだ――)
そういえば、寝室にも何やらモノクロの映画ポスターのようなものが飾られていた気がする。自分の知らないタイトルのものだったのであまり気にしていなかったのだが、そう考えてみれば、自分はこの1年、彼の何を見ていたのだろう、と不思議になる。
背後から聞こえるカチャカチャという音にそっと振り返れば、社長は食器棚からティーカップを2セット用意しているところだった。これも恐らく高級品なのであろう、艶やかな白磁のそれは、とても優しく、柔らかな輝きを放っていた。ティーカップと揃いのポットから紅茶を注ぐ社長は実に手慣れた様子で、彼自身がカフェをやってもいいのではないか、と思わせるほどだ。
(まぁ、でも)
こんな強面の中年男性が切り盛りする店に、客なんて入るかしら。そんな事を考えて、私は小さく笑ってしまう。その瞬間。クスッと笑った声に気付いたのか、社長がこちらへと鋭い視線を向けてきた。
◆◆◆◆◆
「今の顔――」
何気なく笑ったのを見咎められて驚いたのか、みょうじはすぐさまいつも通りの顔に戻った。俺にはそれがもどかしくて、つい口調がキツくなってしまう。
「――今の顔を、もう一度見せてみろ」
「……しゃ、社長?」
何を言っているのか分からない、といった様子で、みょうじは首を傾げる。ああ、クソ。俺はせっかく淹れた紅茶を放り置いて、速足でテレビの元へと向かい、しゃがみ込む。
「――おいお前、好きな映画は。色々ある。この中に、お前が泣ける物や、笑える物はないのか」
「ちょ、ちょっと待ってください、社長……!」
俺が焦れれば焦れる程、みょうじの表情には、困惑の色が濃くなっていく。そういう顔も初めて見るものではあるが、それじゃない。俺が見たいのは――
「社長!」
苛立つ俺に業を煮やして、みょうじがソファから立ち上がり、声を荒げる。ふと気が付けば、彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「さっきから一体、何なのですか? 急にこんな所に連れて来て、訳の分からないことを言って。貴方の急な予定変更や我儘に付き合わされるのにはもう慣れましたけど、こんなのは――あんまりです」
はらはらと、みょうじの頬を涙が伝う。みょうじは自分が泣いていることに気が付くと、慌ててバッグからハンカチを取り出し、目元を拭った。俺はといえば、泣き顔も見てみたいと感じた表情の1つだったはずなのに、実際にそれを見た途端、胸をギュッと鷲掴みにされたような気になって、呆然と立ち尽くしていた。
◇◇◇◇◇
やっぱり無理だったんだ、あの人の代わりなんて。頬を伝い落ちる雫の感触に、私は今まで彼のために積み上げてきたものがガラガラと崩れ落ちていくのを感じていた。
*****
「なまえさん、ちょっといいかしら」
ある日、前任の社長秘書であったロビンさんはそう言って、彼女を除いては秘書室で1番の古株であった私を唐突に呼び付けた。何でしょう、と問い掛けると、彼女はちょいちょい、と可愛らしい仕草で私に手招きをする。あまり大勢に聞かれたくはない話らしい。私は一緒にランチ休憩を取りに出ようとしていた同僚達に先に行ってて、と告げて、ロビンさんの後について秘書室を出た。
「突然の事で申し訳ないのだけれど。来月から貴女には、私に替わって社長秘書を務めてもらいたいの」
「えぇっ?! 何で私が……というか、ロビンさんはどうするんですか? 異動……ではないですよね?」
社長室のあるフロアの女子トイレで、私は驚きの声をあげる。そこに他の女性社員が来ることは滅多にないが、私の声のボリュームに、ロビンさんはしーっと人差し指を口元に当てる。私は慌てて口を噤んだ。
「実はね、結婚するのよ。それで、相手が相手だから、どうにも会社にいづらくなっちゃって」
ロビンさんの言葉に、心臓がドキリと跳ねる。相手が相手だから、というのは、どういう事だろう。社内で実しやかに囁かれている噂が、頭を過る。ドキン、ドキンと心音が直接耳に響くように五月蠅い。ロビンさんの唇が続く言葉を紡ごうと小さく開くのを見て、私は思わず、ギュッと目を瞑っていた。
「――安心して。相手は社長じゃないから」
「……へ?」
思いがけない言葉に目を開けると、ロビンさんはにこにこしながら私を見ている。私は暫く茫然としていたが、彼女の言葉が意味するところを理解すると、熱くなった頬を両手で押さえるようにして、その場へと蹲った。
「ふふ。その様子じゃあ、私の予想は大当たりってところかしら」
「~~~……! いつから気付いてたんですか……?」
「さぁ、いつだったかしら。私も彼とは4年一緒に仕事をしているけれど、いつも気が付けば貴女の視線を感じていたわね」
うわぁぁぁぁぁ、と声にならない悲鳴をあげながら悶絶する私を、ロビンさんは可笑しそうに眺めている。仕事以外での彼女の姿はあまり見たことがなかったのだが、結構Sっ気のある人なんだな、とそのとき思った。
「私ね、“トムズ・ワーカーズ”の人と結婚するの」
ぽつり、ロビンさんの零した言葉で、私は全てを理解した。トムズ・ワーカーズは、国内の造船業界において、我が社と1、2を争う企業である。社長秘書である彼女が、そんな会社の男性と結婚するとなると。
「――彼は、裏切られたように感じると思うわ」
「……」
そうですね、とは思っていても言えず、私は黙って耳を傾ける。その沈黙をどのように捉えたのかは分からないが、ロビンさんは静かに言葉を続けた。