貴方という秩序
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「――社長?」
「――ポーラ、今日は御苦労。俺はコイツと2人で戻ると、そうダズに伝えておけ。お前は奴と直帰して構わん」
「あら、嬉しい。ありがとうございます、社長」
え、と思った次の瞬間には、社長は既に裏口へと通じる通路に足を向けていた。私は慌ててポーラさんに挨拶をすると、その後ろ姿を追う。だが圧倒的なコンパスの差で、先を行く彼に私がようやく追い付いたのは、彼がその身を運転席へと収めてしまってからだった。
「……! 社長、運転でしたら、私が致しますので――」
「煩い。女共が気付いちまう前に、さっさと行くぞ。早く乗れ」
私は運転を替わろうと運転席側のドアへと取り付いたのだが、寸でのところで社長に中からロックを掛けられてしまった。渋々、運転は諦めることにしたのだが、今度はどこに座るべきかの判断が付かない。困り果て、情けないことにフリーズしてしまった私を見て、社長は呆れ顔で呟く。
「何をぐずぐずしている、来い」
そう言って、彼が左手でポンポンと叩いて示したのは、彼の隣の席であった。
社長の意外な程紳士的な運転に、その車体を優しく躍らせるメルセデス・マイバッハ。店に群がった女性ファン達からまんまと逃げ仰せた社長は、どこか満足げに愛車を走らせていた。
(なんとか抜け出せたのはいいけど……どこに向かってるっていうの……?)
ファーストクラスのように贅沢な座り心地の助手席で、私はそのラグジュアリー感を楽しむ余裕などないまま、体を強張らせる。ちら、と腕時計に目をやれば、まだ16時を少し過ぎたばかりだ。本来の終業時間までには、まだ時間がある。このままでは埒が明かないと感じた私は、自らを奮い立たせ、意を決して社長に問い掛けた。
「社長。これからどうなさるおつもりですか? 予定では、競合他社のカフェにモニタリング調査に行くことになっておりましたが……」
「ああ、それだがな、みょうじ君――」
丁度信号が赤になり、余裕を持ったブレーキングで車が停まる。社長はこちらを振り返りもせずに、淡々と答えた。
「やめだ。今日はこのまま帰る」
「……なっ……?!」
驚いた私が助手席のシートから体を起こしたのと同時に、信号が青になり、車が滑らかに発進する。ゆっくりとしたスピードではあったが、体が前につんのめりそうになり、私は慌てて右手をシートに突っ張った。
「そう慌てるな。第一、考えてもみろ。俺やお前みたいな風体の男女が、カフェなんざに入ると思うか? ましてさっきの店での騒ぎ――俺だと分かれば、まともに調査なんざ出来ねェのは、目に見えてる」
「それは、そう、ですが……」
言われてみれば確かに、こんな目立つ男が自らモニタリング調査なんぞに行けるわけがない。スケジュール組みの甘さが露呈してしまって、私は悔しくなる。
(「あの人」なら、こんな初歩的なミス、犯さなかったんだろうな……)
1年程前に寿退社した前任の社長秘書の顔が思い浮かんで、私は肩を落とした。彼女はとても優秀な人で、私なんて到底足元にも及ばない。小さく溜息を漏らした私に気付いたのか、社長は前を向いたまま口を開いた。
「就業時間のことなら気にするな。お前にはやってもらうことがある」
車から見える風景は、いつしか普段運転しない私でも見慣れたものに変わっていた。海に臨む真新しいタワーマンションが見えてくる。本当に、帰って来てしまった。しかも、何故か私も伴って。いつもなら、会社でそのまま別れて自分の家に帰っているところなのだが……。
(朝の態度といい今といい、何なの? 一体……)
社長の気紛れによって、私の日常がおかしな方向に進んでいる気がする。私はこれから何が起きるのか分からない不安に、目が眩みそうな思いで、眼前に聳え立つマンションを見上げた。
◆◆◆◆◆
駐車場に車を停め、運転席から出る。エントランスへ向かって歩き出すと、少し遅れてバタン、と助手席のドアを閉める音が聞こえてきた。アイツに合わせる気などまるでない俺の歩幅に必死についてこようと、カツコツと忙しなくヒールの音が鳴る。
エントランスを抜け、ロビーへと足を踏み入れると、コンシェルジュの女が立ち上がり、一礼でもって俺達2人を迎える。数秒して顔を上げた女の表情には、おや、とでも言いたげな色が浮かんでいた。それもそうだろう。女はみょうじのことも見知っているはずで、毎朝の迎えの時間以外に彼女がここを訪れることなど、今までにはなかったことなのだから。
大きく口を開けたエレベーターへと乗り込み、階数ボタンを押そうとすると、それを色白な手が遮った。その手の持ち主は漸く何かしらの覚悟を決めたらしい。意思の強い瞳で真っ直ぐにこちらを見据える彼女に俺は満足し、ボタンを押そうとしていた手を引っ込める。女はいつものようにパネルの前に立つと、最上階のボタンを押してエレベーターのドアを閉めた。
ポーン、と、エレベーターが到着を告げる音を鳴らす。ドアが開き、他に住人のいない静かなフロアへと降り立つと、吹き抜けを上ってきた潮風が頬を撫でる。
(――このまま振り返ることも、言葉を掛けることもしなければ)
アイツは、そのまま帰ってしまうだろうか。唐突にそんな思いに駆られ、振り返る。そこには、急に振り返った俺のことを不思議そうに見つめる女の姿があった。安堵すると同時に、はたと気付く。
(何を不安になってやがるんだ、俺は――)
別に、帰られたとて何の問題もないはずだ。規程の勤務時間には足りないとはいえ、自分の我儘に付き合わせているという自覚はある。だからそこについて文句を言うつもりなど毛頭ない。まして「やってもらいたいこと」というのも、自分の興味でしかないことは火を見るより明らかであったのだから。
だが、そこまで分かっていたとしても帰って欲しくないと思った自分の胸に、どういう思いがあるのか。その理由については答えを出せないまま、俺は部屋のドアを開けた。
◇◇◇◇◇
普段通されることのないリビングで、私は立ち尽くしていた。どうしてこんな事になっているのだろう。その思いだけが、頭の中を席巻する。
「何ボーッとしてやがる。座れ」
「ですが――」
オシャレなアイランドキッチンで何やら手を動かしている社長を見て、自分だけが何もしないわけにもいかず、私は口籠る。だが社長は、そんな私を威圧的に一睨みして、ほら、とでも言うように顎でソファを指し示した。圧倒された私は渋々、広々としたソファに腰を下ろす。足元のふかふかのラグが、疲れた脚に心地良かった。
(これから何が起きるっていうんだろう――)