貴方という秩序
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きっぱりと言い切った横顔は、どこか苦々しげに歪められていた。以前女性誌の取材で、いつもはオールバックに纏めている髪をはらはらと乱され、シャツのボタンを3つ程外して大胆に胸元を晒した写真を撮られたことがあって以来、彼はスチール撮影時にスタイリストやヘアメイクが入る仕事には警戒心を露わにする。私はかしこまりました、と答えると、手帳に「スタイリスト不要・ヘアメイクNG」、と書き加えた。会社に着いたら先方へ連絡しておかなくては。
「取材の終了時刻は16時の予定となっております。先週の打ち合わせでは、その後競合他社のカフェにモニタリング調査に行って直帰すると仰っていましたが……こちらはこのままのご予定でよろしいですか?」
「ああ、結構だ」
短く返事をすると、社長はポケットからシガーケースを取り出して、葉巻を1本、義手である左手の人差し指と中指で挟み、こちらへと差し出した。すかさず私はシガーカッターでその先端を切り、マッチを擦って火を点ける。その一連の動作は淀みなく、時間にして恐らく15秒もかかってはいない。すっかり飼い慣らされている――そんな事を考えながら、私は社長に聞こえないくらいの小さな溜息を吐き、手帳をバッグへとしまった。
◆◆◆◆◆
「お前達――」
付き合ってるのか、と聞こうとして、これは流石にセクハラになるだろうかと口を噤んだ俺に気付き、ポーラはその真っ赤な口紅を引いた口角を上げてにんまりと笑った。
「――付き合っていますよ? 私から誘ったのだけれど……社内恋愛はダメでした?」
「いや――そんな事はないが」
明け透けにそう口にして笑うポーラの視線の先には、手を後ろに組み、仁王立ちで取材の準備を見守る、武骨な坊主頭の男の姿。男は俺達2人の視線に気が付くと、バツが悪そうに目を逸らした。
*****
ダズとポーラ――その2人の関係性にピンと来たのは、試食会の時だった。
秋の新メニューに関するミーティングを終えて時計を見れば、その針は間もなく頂点を指そうかという時間であった。厨房では、スタッフ達がほぼ完成に近いマニュアルに則って、夏の新メニューを試作している。
俺は当然のように、その試食会を以て昼を兼ねようと考えていたのだが、ミーティングに同席していた秘書と、あくまで運転手だというのにSPよろしく俺に付きっきりの男は、そうではなかったようだ。そっと壁際に寄り、2人して昼食の相談をしているらしい姿が目に入った。
「良かったら、なまえさんとダズさんも試食して行きません? ランチも兼ねて」
そんな2人に声を掛けたのは、厨房のスタッフ達の様子を見守りながら、自分はコーヒーの準備をしていたポーラだった。彼女はどうやら最初からそのつもりだったようで、その手元には4つのコーヒーカップが用意されている。彼女の突然の提案に、目を合わせて困惑している様子のみょうじとダズを、俺は溜息を吐きながら促した。
「いいから、早く座れ。コーヒーが冷めちまうだろう」
ポーラの淹れたコーヒーの素晴らしさを知る俺は、有無を言わさず視線で2人を圧倒する。では……と言って椅子を引き、2人が席に着いた、その時。ダズとポーラが視線を合わせ、ひどく穏やかな表情をした。
それはほんの一瞬のことであったが、それでも、普段の2人を知る俺からすれば、その光景には驚愕という字を当てるのが適切だろう。
(――これは)
普段から真面目一辺倒、といった感じで、冗談1つ言った事がない男――ダズ。運転手として雇ってから随分長い付き合いになるが、この男の厚い唇の端が引き上げられるのを俺が見るのは、これが初めてであった。
ポーラはといえば、逆によく笑う女だった。だがその笑みは、屈託のない、といった類のものではなく、不敵な、と表現するのが妥当な笑みであった。キリッとした顔立ちと、インパクトのあるソバージュヘア。がっつり天を向いた睫毛と真っ赤な紅を引いた唇は、いわゆる「肉食系」そのものだ。
そんな2人が見せた、一瞬の表情。そこからは、2人だけに通じる特別な、何か温かいものが感じられたのだ。
(――成程)
つい気になって、食事を終えて取材の準備を待っている間に訊ねてしまったが。その事実を明らかにしてからというもの、ポーラは俺に気兼ねをする必要がなくなったと感じたのか、事あるごとにダズに視線を送ったり、ウィンクをしてみせたり、奴が困ったように赤らめた顔を逸らすのをからかって楽しんでいるようだった。
(――アイツにも、特別な相手にしか見せない顔があるんだろうか)
ふと、ダズと並んで取材の準備の様子を見守るみょうじの姿が目に留まる。奴とは前任の秘書が退職して以来1年程の付き合いになるが、その表情は驚く程乏しく、いつもの淡々とした、感情が迷子になったかのような顔以外には、今朝焦りの表情を見たのが初めてと言っていいくらいだ。
はた、とこちらの視線に気付いて、みょうじがふいっと目を伏せ、顔を逸らす。それと同時に、俺の胸には微かな苛立ちが湧いた。それは葉巻の煙のように、手で払えばすぐに消える程のものではあったのだが、同時に葉巻の香りのようにいつまでも纏わりついて、準備が出来たことを告げに来た取材の連中を、大層怖がらせることになったのだった。
◇◇◇◇◇
取材と表紙用のスチール撮影は、スパイダーズ・カフェの店内で行われた。取材が始まる直前、社長が何故か急に不機嫌になり、取材班の方々を凍りつかせるという場面もあったが、それ以外は滞りなく進み、予定していた時間よりも早く、取材は終わった。
「お疲れ様です、本日はありがとうございました。また、よろしくお願い致します」
対外用の笑顔で取材班の方々への挨拶を終え、私はカウンター席で一服している社長の元へと向かう。取材のため、今日は店は休業としていたのだが、ガラス張りになっている店の正面には、クロコダイルに気付いた女性達が人だかりを作っていた。通行の妨げにならないよう、ダズが外へ見物人を散らしに行ってくれたのだが、逆にもみくちゃにされている様子が、中からも窺える。その姿を一目見ようと必死な女性達の形相は、正直、見ていて怖い。
「取材班の方々は帰られました。車は裏口につけてありますが、ダズさんは外の混雑の整理に行ってしまっていて――如何なさいますか?」
外の様子を見ながら、ポーラさんがあらあら、と笑いながら呆れたように肩を竦めた。社長はフーッと長い溜息と共に葉巻の煙を吐き出すと、黙って私が座るには高過ぎるスツールからヒラリと降りてみせる。フローリングの床を踏み締めた良く磨かれた革靴が、コツリ、と軽やかに鳴った。