貴方という秩序
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女の目が驚愕に見開かれ、その顔がみるみる青ざめていく。女はようやく観念したのか、震える手で胸元のポケットからUSBメモリを取り出すと、最後に精一杯の虚勢でもって、私の顔へとそれを投げ付けた。私は寸での所でそれを避けると、力を込めていた右手を離してやる。縛めが解けるが早いか、女は大きく舌打ちをすると素早くドアを開け、倒けつ転びつ部屋を出て行った。
◆◆◆◆◆
「――そのUSBのどこに秘匿情報が入ってるっていうんだ? みょうじ君」
「――聞いていらっしゃったのですか」
身支度を終えて寝室へと戻り、ゆったりと声を掛けた俺のことを振り返りもせず、みょうじは足元に転がったUSBメモリを拾い上げる。パタパタと軽く手で埃を払うと、みょうじはそれを俺へと手渡した。
「少なくとも、私にとっては秘匿しておきたい物なのです、社長」
そう言うと、みょうじは開きっ放しになっていたアタッシュケースを閉じ、その細い左手首に着けられた腕時計に目をやる。ちょうど10分。俺が時間を守ったことに気を良くしたのか、みょうじは少しだけ表情を和らげると、参りましょう、と言って寝室のドアを開けた。
みょうじの先に立ち、部屋を出る。海を臨む一等地に建てられたこの真新しいタワーマンションの最上階には、俺の他にまだ入居者はいない。「回」の字型に作られたマンションは中央が吹き抜けになっており、そこから潮風を感じることが出来る。連れ込んだ女が挙って顔を顰めるそのベタッとした風と、プランクトンの死臭とも言われる海の香りを、俺はとても気に入っていた。
エレベーターが来るまでの間、このひどくきっちりした女が秘匿しておきたいデータとは何だっただろうか、と、俺は思案を廻らせた。ふと、寝室を出るときに見た、ベッドに散らばった紙片のことを思い出す。と同時に、データの中身も思い出されて、俺はそれに喉の奥で小さく笑った。
「……ック」
「……? どうなさったのですか? 社長」
「クハハハハ! 成程、分かった。あれは確かに、そうだな」
到着したエレベーターに乗り込み、取り澄ました顔のまま1階のボタンを押すみょうじの姿を見て、俺は堪えきれずに噴き出した。独り合点している俺を、みょうじは訝しげに見つめる。その様子に、俺は目の前の女を少しからかってやりたくなって、意地悪く嗤ってみせながら言った。
「俺はワニを描け、と言ったのに、お前ときたら……結局アレは何を描いたんだ? タヌキか?」
「……! 違っ……私はいたって真面目に……!!」
我が社のマスコットキャラクターである、バナナワニのバナーニ。そのキャラクターデザインを社内公募した折に、この女はその壊滅的な画力によって、俺を含む選考委員達を戦慄させた。昨夜メールで「追加で特製名刺を作るからバナーニの画像データをくれ」、とみょうじに頼まれ、忘れないよう迎えに来た朝一で渡そうと社からUSBを持ち帰っていたのだが――確か決定したデザインの他に、選考時のデータも一緒に入っていたはずだ。
顔を真っ赤にしながら焦り、反論しようと食って掛かる寸前で、みょうじは自分の立場を思い出したのか口を噤む。さてどうするのだろうか、と見ていると、彼女はプイッとそっぽを向き、いつもより少しだけ眉の角度を鋭角にして押し黙った。子供のようなそのむくれ方に、俺の頬は自然と緩む。1階へと到着したエレベーターを降りる頃にはみょうじの表情はいつもの淡々としたものに戻っていたが、彼女の珍しく感情を露わにした顔を見られたことに俺はひどく満足して、エントランスで待ち構えていた運転手の肩を、上機嫌でポン、と叩いてやったのだった。
◇◇◇◇◇
社長の様子がおかしい。いつもなら、女性と同衾した翌朝は――相手に対して物凄く失礼な話ではあるが――大抵不機嫌そうにしているというのに、今日はどこか機嫌が良さそうなのだ。後部座席でゆったりと長い脚を組み、窓の外を眺めるその横顔からは、いつものような寄らば斬らんと言わんばかりの殺気は感じられない。
同じ事を、社長お抱えの運転手であるダズ・ボーネスも感じたようで、先程からチラチラとバックミラーでこちらの様子を窺っている。その視線は、私に「何があったんだ」と無言で問い掛けており、私はそれに気が付いていながら、はて……と首を傾げることしか出来ずにいた。
「――おい」
「! はいっ!?」
唐突に声を掛けられ、不覚にもビクッと体を強張らせてしまった私を、社長は訝しむ。ちらりダズへと目をやれば、彼はこれまでこちらに送っていた視線を真っ直ぐ前へと向けて、何食わぬ顔で運転をしていた。我関せず、といった表情の分厚い唇をした坊主頭を、私は憎々しげに見つめた。
「何をぼんやりしてやがる――今日のスケジュールを」
「し、失礼致しました。只今――」
私としたことが、社長のいつもとは違う様子に気を取られて、本来であれば発車後すぐに行うはずであったその日のスケジュール確認を、すっかり怠っていた。慌ててバッグから手帳を取り出し、1つ1つペンで指して確認しながら読み上げる。
「――本日は、9時よりスパイダーズ・カフェ1号店に於いて、ポーラ店長と秋の新メニューに関するミーティングがございます。その後、同店にて夏の新メニューの最終試食会。その後14時より、雑誌『ビジネス・クー』のインタビューを組んでおります。『女性のアイディアを活かせる、男性社長の目線とは』という特集テーマで、ポーラ店長との対談形式で行われるとのことです。表紙用の写真撮影もございます」
「――そうか。なら、キートンの新作を着てきて正解だったな」
そう言って、社長は長い脚を組み替える。皺の醸し出す滑らかな光沢感が美しいそのスーツこそが、彼の大のお気に入りであるスーツブランド・キートンのKBである。その美しいシルエットは、彼の広い肩幅や厚い胸板を更に逞しく、スラリと伸びた手足をさらに美しく演出する。今日初めて見る新作というのも、彼には珍しく明るめの紺に細いストライプが入っているものであったが、それもまた、悔しいぐらいに良く似合っていた。
「――では、着替えは必要ありませんね。ヘアメイクは如何なされますか?」
「必要ない。また妙な写真を撮られても困る」