砂糖菓子の心は貫けない
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大人だらけの船上を、少年がその間を縫ってバタバタと駆けていく。いっちょまえにシルクハットを被って息を切らせるその後ろ姿に、大人達は皆一様に笑顔になった。
「おいサボ! お前、勉強の時間じゃなかったのか?」
「へへん、もう終わったよーだ!」
「ホントかよ! じゃあ九九の7の段、言ってみろ!!」
「んっと、しちいちがしち、しちにじゅう……う、うるせーな! 俺は急いでんだよ!! また後でな!」
ハハハ、と船上で笑い声が上がる。サボと呼ばれたその少年は、ちぇっ、と舌打ちをしながらも、照れ臭そうに笑って再び一目散に駆け出した。彼がこの船に同乗して3カ月。年端もいかず、すきっ歯が愛らしい少年は、今ではすっかり船の仲間達皆に愛されていた。
「雪櫻~! 来たぞ!!」
「あら、早かったわね。さては……勉強の時間、抜け出してきたんでしょ?!」
「へへっ、当ったりー!」
「もー、やめてよね。イナズマさんに怒られるのは私なんだから……」
少年が駆け込んだ船室は、薬品の匂いに混じって、洗い立てのリネンが優しく香る医務室だった。雪櫻と呼ばれた白衣の女性が振り返り、サボに優しい笑みを向ける。悪戯っ子を咎める口調も穏やかなものだった。
「いいんだよ! 勉強ができることだけが全てじゃないんだから!!」
「何よ、いっちょまえに!」
くすくすと雪櫻が笑うと、サボも一緒になって笑う。早く早く、と急かすサボに、はいはい、と言って雪櫻は本棚から数冊の本を取り出した。それと一緒に机の引き出しから取り出されたガラス製のクッキーポットに、サボは目を輝かせる。
「いい? 1冊読み終えたら1つ、だからね?」
「分かってるって! もう、早くしろよ雪櫻!!」
「あなたねぇ……ちょっとは年上に対する口の利き方も覚えなさいよ!」
少年が現れて、途端に騒がしくなった医務室。怪我をしてベッドで療養中だった船員も苦笑いをして、2人の賑やかな様子を眺めていた。
3カ月前、“東の海 ”に位置する小国・ゴア王国で、“革命軍”の総司令官であるモンキー・D・ドラゴンが救った少年――サボ。彼はその前に起きた事件の影響で、記憶喪失になってしまっていた。
自分の名前さえ覚えておらず、しかし国へ帰そうとするとそれを頑なに拒む少年を、ドラゴンはこのまま船に乗せてやることに決めた。とは言え、記憶が戻るに越したことはない、ということで、船医の中でも精神医学に習いのあった雪櫻に、この少年を預けることにしたのだった。
「……こうして猿の兄弟は、コルボ山に小さな山小屋を作って、仲良く一緒に暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。――どう? 何かピンとくる言葉、あった?」
「んー、あったような、なかったような……よく分かんねェ!」
記憶を戻す手助けにならないかと、雪櫻はサボの故郷であるゴア王国に伝わる昔話を読み聞かせて、何か聞き覚えのある単語がないかの反応を見る、ということを、この3カ月行っていた。だがその反応は芳しくなく、当の本人も、記憶を取り戻すことはほとんど諦めてしまっているようだった。
「な、1冊よみおわったんだから、クッキーくれよ!」
「はいはい、どうぞ」
わーい! と嬉しそうに笑ってクッキーを貪る少年。その笑顔を眺めながら、雪櫻は小さく溜息を吐いた。
サボが連れて来られた直後に彼を診た医者は雪櫻ではなかったのだが、国に帰りたくない、と拒否する彼の様子は尋常ではなかったと、ドラゴンから聞いた。記憶を失って尚残る、故郷への拒否反応。彼のためには、このまま記憶が戻らない方が、却っていいのではないか。そう思うこともしょっちゅうだ。本人も最早このように、お菓子を貰うためだけに雪櫻の元に通っているような節さえある。
「雪櫻、何むずかしいかおしてるんだ?」
「ん? そうね……なかなかあなたの記憶が戻らないから、なんだか申し訳ないなぁ、って思って」
「なんだ、そんなことか! いいんだ、俺、ぜんぜん気にしてないぞ!!」
子供に励まされてしまって、雪櫻は苦笑する。しれっと2個目のクッキーに手を伸ばそうとするサボからクッキーポットを取り上げると、少年はへへっ、と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なぁ、『あれ』、また言ってくれよ。俺、記憶が戻るよりそっちの方が元気出るんだ」
「また? ホントに好きねぇ」
「あれ」とは、2人が初めて会ったときに、緊張していたサボに雪櫻が掛けてあげた言葉のことだった。彼はそれをいたく気に入った様子で、こうして聞きたい、と何度もねだってくる。雪櫻は呆れながら、キラキラと目を輝かせて自分のことを見つめるサボの額に、自身のそれをこつん、とくっつける。両手を握りしめ合ってそっと目を閉じ、雪櫻は呟いた。
「記憶が戻らなくても。これからのあなたを作っていくのはあなた自身よ――サボ」
「……うん……へへっ。ありがとな、雪櫻! じゃ、また明日来る!!」
少年は元気良く椅子から飛び降り、ドアを乱暴に開けて走り去って行く。あっという間に小さくなっていくその後ろ姿を眺めながら、雪櫻は小さく微笑んだ。
「雪櫻」
名前を呼ばれ、は、と目を覚まして顔を上げると、そこには夢で見たより身長も髪も伸びて、すっかり大人びた青年の姿があった。一瞬、どちらが夢でどちらが現実だか分からなくなる。
「何だ、寝てたのか?」
「あー……うん、ごめん」
はは、と優しく笑われて、バツが悪くなった雪櫻はぐしゃぐしゃと髪をかきあげ、辺りを見回す。あの頃と何一つ変わらない医務室。昔彼に読み聞かせてあげた絵本も、そのまま本棚にある。
変わったのは、彼だけ。そう、それだけなのだ。
12年の月日は少年を大人にし、それと同じだけ雪櫻も年を取った。悪戯っ子だった少年はいつしか逞しく強くなり、今では革命軍の参謀長として、多くの仲間を率いて戦いの日々を送っている。そしてその日々の中で彼は――ある新聞記事を切っ掛けに、その記憶を取り戻していた。
「俺、行くから」
「ん――気を付けて」
「ああ。もし怪我したら、そのときは頼むわ」
「うん、頼まれたわ」
2人の間で交わされる言葉はどれも短く、昔のような笑顔はない。雪櫻は手持ち無沙汰に、机の上に置きっ放しになっていたマグカップを手に取り、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干す。背後のサボが部屋を出て行く気配は、まだない。
「俺さ、気付いたんだ」
「おいサボ! お前、勉強の時間じゃなかったのか?」
「へへん、もう終わったよーだ!」
「ホントかよ! じゃあ九九の7の段、言ってみろ!!」
「んっと、しちいちがしち、しちにじゅう……う、うるせーな! 俺は急いでんだよ!! また後でな!」
ハハハ、と船上で笑い声が上がる。サボと呼ばれたその少年は、ちぇっ、と舌打ちをしながらも、照れ臭そうに笑って再び一目散に駆け出した。彼がこの船に同乗して3カ月。年端もいかず、すきっ歯が愛らしい少年は、今ではすっかり船の仲間達皆に愛されていた。
「雪櫻~! 来たぞ!!」
「あら、早かったわね。さては……勉強の時間、抜け出してきたんでしょ?!」
「へへっ、当ったりー!」
「もー、やめてよね。イナズマさんに怒られるのは私なんだから……」
少年が駆け込んだ船室は、薬品の匂いに混じって、洗い立てのリネンが優しく香る医務室だった。雪櫻と呼ばれた白衣の女性が振り返り、サボに優しい笑みを向ける。悪戯っ子を咎める口調も穏やかなものだった。
「いいんだよ! 勉強ができることだけが全てじゃないんだから!!」
「何よ、いっちょまえに!」
くすくすと雪櫻が笑うと、サボも一緒になって笑う。早く早く、と急かすサボに、はいはい、と言って雪櫻は本棚から数冊の本を取り出した。それと一緒に机の引き出しから取り出されたガラス製のクッキーポットに、サボは目を輝かせる。
「いい? 1冊読み終えたら1つ、だからね?」
「分かってるって! もう、早くしろよ雪櫻!!」
「あなたねぇ……ちょっとは年上に対する口の利き方も覚えなさいよ!」
少年が現れて、途端に騒がしくなった医務室。怪我をしてベッドで療養中だった船員も苦笑いをして、2人の賑やかな様子を眺めていた。
3カ月前、“
自分の名前さえ覚えておらず、しかし国へ帰そうとするとそれを頑なに拒む少年を、ドラゴンはこのまま船に乗せてやることに決めた。とは言え、記憶が戻るに越したことはない、ということで、船医の中でも精神医学に習いのあった雪櫻に、この少年を預けることにしたのだった。
「……こうして猿の兄弟は、コルボ山に小さな山小屋を作って、仲良く一緒に暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。――どう? 何かピンとくる言葉、あった?」
「んー、あったような、なかったような……よく分かんねェ!」
記憶を戻す手助けにならないかと、雪櫻はサボの故郷であるゴア王国に伝わる昔話を読み聞かせて、何か聞き覚えのある単語がないかの反応を見る、ということを、この3カ月行っていた。だがその反応は芳しくなく、当の本人も、記憶を取り戻すことはほとんど諦めてしまっているようだった。
「な、1冊よみおわったんだから、クッキーくれよ!」
「はいはい、どうぞ」
わーい! と嬉しそうに笑ってクッキーを貪る少年。その笑顔を眺めながら、雪櫻は小さく溜息を吐いた。
サボが連れて来られた直後に彼を診た医者は雪櫻ではなかったのだが、国に帰りたくない、と拒否する彼の様子は尋常ではなかったと、ドラゴンから聞いた。記憶を失って尚残る、故郷への拒否反応。彼のためには、このまま記憶が戻らない方が、却っていいのではないか。そう思うこともしょっちゅうだ。本人も最早このように、お菓子を貰うためだけに雪櫻の元に通っているような節さえある。
「雪櫻、何むずかしいかおしてるんだ?」
「ん? そうね……なかなかあなたの記憶が戻らないから、なんだか申し訳ないなぁ、って思って」
「なんだ、そんなことか! いいんだ、俺、ぜんぜん気にしてないぞ!!」
子供に励まされてしまって、雪櫻は苦笑する。しれっと2個目のクッキーに手を伸ばそうとするサボからクッキーポットを取り上げると、少年はへへっ、と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なぁ、『あれ』、また言ってくれよ。俺、記憶が戻るよりそっちの方が元気出るんだ」
「また? ホントに好きねぇ」
「あれ」とは、2人が初めて会ったときに、緊張していたサボに雪櫻が掛けてあげた言葉のことだった。彼はそれをいたく気に入った様子で、こうして聞きたい、と何度もねだってくる。雪櫻は呆れながら、キラキラと目を輝かせて自分のことを見つめるサボの額に、自身のそれをこつん、とくっつける。両手を握りしめ合ってそっと目を閉じ、雪櫻は呟いた。
「記憶が戻らなくても。これからのあなたを作っていくのはあなた自身よ――サボ」
「……うん……へへっ。ありがとな、雪櫻! じゃ、また明日来る!!」
少年は元気良く椅子から飛び降り、ドアを乱暴に開けて走り去って行く。あっという間に小さくなっていくその後ろ姿を眺めながら、雪櫻は小さく微笑んだ。
「雪櫻」
名前を呼ばれ、は、と目を覚まして顔を上げると、そこには夢で見たより身長も髪も伸びて、すっかり大人びた青年の姿があった。一瞬、どちらが夢でどちらが現実だか分からなくなる。
「何だ、寝てたのか?」
「あー……うん、ごめん」
はは、と優しく笑われて、バツが悪くなった雪櫻はぐしゃぐしゃと髪をかきあげ、辺りを見回す。あの頃と何一つ変わらない医務室。昔彼に読み聞かせてあげた絵本も、そのまま本棚にある。
変わったのは、彼だけ。そう、それだけなのだ。
12年の月日は少年を大人にし、それと同じだけ雪櫻も年を取った。悪戯っ子だった少年はいつしか逞しく強くなり、今では革命軍の参謀長として、多くの仲間を率いて戦いの日々を送っている。そしてその日々の中で彼は――ある新聞記事を切っ掛けに、その記憶を取り戻していた。
「俺、行くから」
「ん――気を付けて」
「ああ。もし怪我したら、そのときは頼むわ」
「うん、頼まれたわ」
2人の間で交わされる言葉はどれも短く、昔のような笑顔はない。雪櫻は手持ち無沙汰に、机の上に置きっ放しになっていたマグカップを手に取り、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干す。背後のサボが部屋を出て行く気配は、まだない。
「俺さ、気付いたんだ」
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