März
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薄々、おかしいな、とは感じていた。
会おうと言われて指定されたのが、会社の昼休み時間だったこと。カフェ巡りが趣味だった私達が、10年もの間、デートでも一度だって入ったことのなかったチェーン店のカフェで向き合っていること。そして透が、私がこれまでに贈ってきたもの──コートや腕時計など──を1つも身に着けていないこと。それら全ての違和感に目を瞑って、淡い期待を抱いてここに座った、はずだったのに。
──涙一つ、出ないなんてね。
堰を切ったように溢れ出した透の言葉を、私は黙って聞いていた。テーブル上に置かれた2つのカップは、既に冷たくなっている。訥々と、何度重ねたか分からない唇から語られる、これまで彼が私に抱いてきたという思いは、小雨が滲みて靴下を濡らすように、じんわりとした不快感となって心をざわつかせた。
要約すると、こうだ。
私は──自分で言うのもなんだが──会社員時代、社内評価が彼よりも高かった。同じ出版社に編集部志望で入社し、編集職は人気が高いから、ということで初めは営業部に回された者同士だった私達。それから営業部で苦楽を共にし、私は入社5年目、彼は6年目に念願の編集部へと異動になった。2人共編集部に入ることが出来てからも、周囲の評価は変わらず私の方が上で、いつしかそれを面白くなく思うようになっていた、と。
極めつけは、自分より先に編集デスクの役職についたのに、それをあっさり捨てて、カフェを開業する、と突然転身宣言したことだという。これについては、私も編集部内で面白くなく思う人が出るだろうな、と思って、何度も透に相談していたのだ。けれど、彼もまさにその1人だったのに、恋人同士だから言い出せずに、応援するよ、などと思ってもないことを言ってしまったのだという。
「──それに」
言葉を切った透は、スマートフォンに目を落としたかと思うと、店の入り口に視線を移した。え、と思って振り返ると、そこには編集部時代に可愛がっていた後輩の悠美が立っていた。彼女は私と目が合うと、その場でぺこりと一礼してこちらに向かって歩いて来た。成程。わざわざこんな混んだカフェのテラス席で、別れ話だというのに妙に大きな声で話していた理由に合点がいって、私はカップに残っていたすっかり冷え切ってしまったカフェモカを一息に飲み干す。カップの底に残った沈殿物は、この数分間の間に心に溜まった澱に、どこか似ていた。
「どこで聞いていたの? 全然気付かなかった。芸能班の張番でもやっていけるんじゃない?」
「……すみません」
慣れた様子で彼女のために椅子を引く透と、そんな彼に礼も言わず、当然のようにそこに座る悠美。私の精一杯の嫌味にも顔色一つ変えずに淡々と頭を下げる彼女の姿は、なまえさん、なまえさん、と言って慕ってくれていた頃とは打って変わってしまっていた。ふと見れば、2人はテーブルの下で手を繋いでいるようだ。
──そんな事、私とは付き合い始めにだってしなかったのに。
キャラクターの違いといえばそれまでなのだろう。今日着てきたパステルカラーのモヘアニットは、私なんかより悠美の方がずっと似合う。自分で椅子を引き、脚を組んでどっかり座れる私と、椅子を引いてもらってちょこん、と座るのが似合う彼女。そういうことだ。
「俺は、なまえにもっと頼って欲しかった。でもなまえは仕事だって俺よりできるし、カフェをやりたいって夢だって自分1人で叶えられるし、開業の手続きだって準備だって、何でも1人で出来ちゃうだろ? 俺が一緒にいる意味あるのかなって思うんだよ」
聞き間違いだろうか。彼は私のそういうところを、人として尊敬出来る、好きだ、って言っていたはずだけれど。
「悠美に仕事で頼られるようになって、親しくなっていくうちに分かったんだ。なまえは俺なしでも生きていけるけど、悠美には俺がいないとダメなんだよ」
これも変な話だ。悠美は私に、「先輩みたいに、男に頼らなくても1人でバリバリ仕事をこなせるようになりたいです!」などと言っていたはずだが。
「だから──」
「もういい」
これ以上聞いていたくなくて、私は席から立ち上がる。乱暴に椅子を下げたせいで大きな音がして、悠美はそれにビクッと身体を震わせた。
「こんな『阪急電車』みたいな話、まさか自分に起きるなんて思ってもみなかった。まさか、妊娠させてたりはしないよね?」
「……」
させてるんだ、と呆れて溜息を吐く。「阪急電車」が何を表すのかこの場で1人だけ分かっていないらしい悠美は、何の話、といった様子で私と恋人の顔を交互に見る。本や映画にはたくさん触れるように言ったじゃない。この子は透を奪うためだけに、私を慕うふりをしていたというのだろうか。それ程までに想ってもらえるのなら、男としてはさぞかし気分が良いことだろう。
「今更考え直して、とか、人の男に何してくれてんのよ、なんて言うつもりはないわ。せいぜいお幸せに」
「なまえ……」
バッグから財布を取り出して千円札を抜き取ると、それをテーブルに叩き付ける。手切れ金替わりにコーヒー1杯奢ったつもりなら、こちらとて奢られてやるつもりも毛頭なかった。私の去った後に、透がこの千円札をせこせこ財布にしまう姿を想像すると、情けなくて笑えてくる。
「──さよなら」
「なまえ、お前──」
テラス席から去ろうとする背に、透が最後の言葉を投げ掛けようとする。気付けば道路側の席の客は、私達3人の只ならぬ様子に注目していたらしい。一斉に視線を逸らされて、居心地の悪さを感じながら立ち止まる。
「──こんなときでも、泣かないんだな」
こんなときだからこそ、泣きたくないのよ。と、胸の中でだけ悪態をついて、無言でその場から立ち去る。店を出ようと自動ドアの前に立つと、店員のありがとうございました、と底抜けに明るい声が降ってきた。マニュアルは時に人の心を抉ることもあるんだな、とぼんやり考えた。
悔しさや腹立たしさ、それに僅な悲しさが綯交ぜになって胸の奥に渦巻く。高いヒールの靴で来れば良かった。そうすれば、歩みに全ての感情を込めて、地面に置いてこれたのに。こんなぺたんこな靴じゃ、それも叶いやしない。堪らなくなって、私は人の波を掻き分けて走り出した。道行く人達が迷惑そうにこちらを見るが、構わなかった。
──今はただ、あの10年を。
彼と長い時間を過ごしたこの街に、全て置き去りにしたい。そんな思いだけが、背中を押してくれていた。
そんな風に、私の3月は、終わりを告げたのだった。
......To be continued.
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