März
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3月──厳しい冬の寒さは段々とその鋭利な鋒を収め、冷たい空気の中にも、僅ながら陽射しの暖かさが混じるようになってきた。
下ろし立てのパステルブルーのフラットパンプスは、待ち合わせ場所である駅へと、軽快に身体を運んでいる。スプリングコートのポケットの中で鳴動したスマートフォンを、足を止めずに取り出すと、私は画面を一瞥して、通話ボタンを押した。
「お疲れ様。もうすぐ着くよ」
『お疲れ──あれ、歩いてる?』
「うん。早く着きそうだったから、1駅歩いて来たの。割と暖かかったし」
『そっか──俺もこれから会社を出るから、改札前で落ち合おう。じゃあ、また』
「うん、後でね」
以前は通い慣れた道も、所々工事をしていたり、ビルのテナントが新しくなっていたりと、その様子を変えている。そんな少しの変化も、今の私の心を踊らせるには充分だった。
私の人生も、今日で大きく変わるかもしれない。
恋人の透から、話があるから、と呼び出されたのは3日前のこと。雑誌の編集者である彼は、月末のこの時期は忙しいはずで、もともと同僚だった私は大丈夫なの、と確認した。すると彼はそれに対して、きりがいいから今月中に話しておきたいんだ、と答えたのだ。
きりがいい。それって──
互いに忙しくて、会って祝いこそしなかったが、今月私達は、付き合いだして10年目の記念日を迎えた。
これを期に一緒に暮らそうか、とも話していたが、彼はそれより更にもう一歩、踏み込むことを決めてくれたのかもしれない。そんな淡い期待は、自然と歩みを速くさせた。首元に巻いたストールの下には、うっすらと汗が浮かんできている。私はストールを外すと、畳んでバッグにしまった。
視線を上げると、待ち合わせ場所である駅の改札前に、コート姿の見慣れた顔が佇んでいる。まだ距離があったが、私はいてもたってもいられず、その名前を呼んだ。
「透!」
声に気付いて、透が振り返る。彼は子供みたいに大きく手を振っている私に気付くと困ったように笑い、手袋を嵌めた手を小さく振った。1秒でも早く、久しぶりに会う彼の元へと駆け寄りたい。そんな風に、心ばかりが急く私を足止めしていた歩道の信号が変わり、人の波が動き出す。恐らく数秒程信号無視をしてその波よりも早く駆け出した足は、2人の物理的な距離をあっという間に縮めて、待ち合わせ時間ちょうどに、私達は合流した。
「久しぶり!」
「ああ、久しぶり──忙しいのに、わざわざ来てもらってごめんな」
「ううん、全然。もう結構形になってきたし」
カフェを開業することに決めて半年前に会社を辞めた私は、オープンに向けた準備でバタバタしていて、このところ透と会えていなかった。久しぶりに会える、と思ってつい浮かれてしまい、パステルカラーのモヘアニットなんぞを着てきたことが今更ながらに恥ずかしくなり、俯く。透はそんな私の様子には目もくれず、時計を気にしながら言った。
「どこか入ろうか」
「うん。お昼まだでしょ? “Sonnenblume”はどう? 久しぶりにあそこのランチプレート食べたいなって思って」
会社員時代に透とよく一緒に通っていたカフェ、“Sonnenblume ”。雑居ビルの3階にあるその店は、オフィス街で絶品の日替りランチプレートを安価で提供する割には穴場で、ランチタイムでも滅多に混むことがない。オーナー夫婦とも顔見知りなので、久しぶりに会いに行って、近況報告もしたかった。
「あー……いや、いいかな、軽くコーヒーだけで。あそこにしよう」
「? いいけど……」
今日の日替りプレートはなんだろうな、とうきうきしていた私に替わって透が提案したのは、道の反対側にあるチェーン店のカフェだった。少し残念な気もしたが、このところ自分の店のことばっかりで、他のカフェにはあまり行っていなかった。私がオープンするのはブックカフェだからチェーン店とは客層が違うと思われるが──それでも学ぶことはあるだろう。そう思うことにして、私は先に立って歩き出した透の背中を追った。
学生アルバイトらしき若い女性店員の元気な挨拶に迎えられて店に入り、カウンターでドリンクを注文する。透はカフェアメリカーノ、私はカフェモカ。席は既に埋まっていて、店員が申し訳なさそうにテラス席なら空いているのですが、と言う。いいかな、と尋ねた透に頷いてみせると、彼は払っておくから先に行っといて、と言った。私はありがと、と短く礼を言い、席を取りに行く。
テラスへ出ると、冷たい風が頬を撫でた。陽射しのお陰で我慢出来ない程ではないが、やはりまだ寒さは残っている。さっき外したばかりのストールを膝に掛けて座ると、透がドリンクを持ってやって来た。
「ごめんね、出してもらっちゃって」
「いいよ、これくらい」
サンドイッチなど何か軽いフードメニューでも買ってくるのかと思いきや、トレーには他に何も乗っていない。本当にお昼はいらないのだろうか、と心配になったが、透がドリンクを口にしたので、何も聞かず私もそれに倣う。カフェモカの温かさとほろ苦さが口いっぱいに広がって、私はほぅっと息をついた。
「最近、仕事はどう?」
「ん……まぁ、ぼちぼちだよ」
「そう。何か困ったことがあったら相談してね?」
私の言葉に、透は頭を掻きながら俯く。仕事で何か悩みでもあるのだろうか、なんだか歯切れが悪い。力になってあげたいけれど、彼もこの業界10年目。今が踏ん張りどころなのだろう。私はそれだけ言うと、話題を変える。
「そういえば、部屋の件なんだけど。この間更新の連絡が来て──」
話し始めてすぐに、しまった、と思う。彼の考える話の流れみたいなものがあったとしたら、ぶち壊してしまったかもしれない。事実、私の言葉に透はピクリと反応を示した。だが彼はそれを遮るでもなく、ただ黙って聞いている。私は已む無く、言葉を続けた。
「そろそろ、部屋探し始めようか。調べてみたんだけど、お互い通勤時間を1時間として考えたら、上大岡辺りが──」
「──なまえ」
どくん、と。心臓が大きく跳ねる。カップを持つ手が小さく震えて、透の顔を見ることが出来ない。どうしよう、今私、どんな顔をしている? 耳の奥にそれがあるかのように、どくんどくんと心音が五月蠅い。こんなんじゃ、透の言葉を聞き逃してしまう。私はカップを静かに置くと、膝に掛けたストールの上で、ぎゅっと両手を握り締めた。
「──何?」
「ずっと早く言わなきゃ、って思ってたんだけど──俺達」
あっ、待って。やっぱりまだ、心の準備が──
そんな願いも空しく、透の薄い唇から、続く言葉が紡ぎ出された。
「──もう、別れよう」
下ろし立てのパステルブルーのフラットパンプスは、待ち合わせ場所である駅へと、軽快に身体を運んでいる。スプリングコートのポケットの中で鳴動したスマートフォンを、足を止めずに取り出すと、私は画面を一瞥して、通話ボタンを押した。
「お疲れ様。もうすぐ着くよ」
『お疲れ──あれ、歩いてる?』
「うん。早く着きそうだったから、1駅歩いて来たの。割と暖かかったし」
『そっか──俺もこれから会社を出るから、改札前で落ち合おう。じゃあ、また』
「うん、後でね」
以前は通い慣れた道も、所々工事をしていたり、ビルのテナントが新しくなっていたりと、その様子を変えている。そんな少しの変化も、今の私の心を踊らせるには充分だった。
私の人生も、今日で大きく変わるかもしれない。
恋人の透から、話があるから、と呼び出されたのは3日前のこと。雑誌の編集者である彼は、月末のこの時期は忙しいはずで、もともと同僚だった私は大丈夫なの、と確認した。すると彼はそれに対して、きりがいいから今月中に話しておきたいんだ、と答えたのだ。
きりがいい。それって──
互いに忙しくて、会って祝いこそしなかったが、今月私達は、付き合いだして10年目の記念日を迎えた。
これを期に一緒に暮らそうか、とも話していたが、彼はそれより更にもう一歩、踏み込むことを決めてくれたのかもしれない。そんな淡い期待は、自然と歩みを速くさせた。首元に巻いたストールの下には、うっすらと汗が浮かんできている。私はストールを外すと、畳んでバッグにしまった。
視線を上げると、待ち合わせ場所である駅の改札前に、コート姿の見慣れた顔が佇んでいる。まだ距離があったが、私はいてもたってもいられず、その名前を呼んだ。
「透!」
声に気付いて、透が振り返る。彼は子供みたいに大きく手を振っている私に気付くと困ったように笑い、手袋を嵌めた手を小さく振った。1秒でも早く、久しぶりに会う彼の元へと駆け寄りたい。そんな風に、心ばかりが急く私を足止めしていた歩道の信号が変わり、人の波が動き出す。恐らく数秒程信号無視をしてその波よりも早く駆け出した足は、2人の物理的な距離をあっという間に縮めて、待ち合わせ時間ちょうどに、私達は合流した。
「久しぶり!」
「ああ、久しぶり──忙しいのに、わざわざ来てもらってごめんな」
「ううん、全然。もう結構形になってきたし」
カフェを開業することに決めて半年前に会社を辞めた私は、オープンに向けた準備でバタバタしていて、このところ透と会えていなかった。久しぶりに会える、と思ってつい浮かれてしまい、パステルカラーのモヘアニットなんぞを着てきたことが今更ながらに恥ずかしくなり、俯く。透はそんな私の様子には目もくれず、時計を気にしながら言った。
「どこか入ろうか」
「うん。お昼まだでしょ? “Sonnenblume”はどう? 久しぶりにあそこのランチプレート食べたいなって思って」
会社員時代に透とよく一緒に通っていたカフェ、“
「あー……いや、いいかな、軽くコーヒーだけで。あそこにしよう」
「? いいけど……」
今日の日替りプレートはなんだろうな、とうきうきしていた私に替わって透が提案したのは、道の反対側にあるチェーン店のカフェだった。少し残念な気もしたが、このところ自分の店のことばっかりで、他のカフェにはあまり行っていなかった。私がオープンするのはブックカフェだからチェーン店とは客層が違うと思われるが──それでも学ぶことはあるだろう。そう思うことにして、私は先に立って歩き出した透の背中を追った。
学生アルバイトらしき若い女性店員の元気な挨拶に迎えられて店に入り、カウンターでドリンクを注文する。透はカフェアメリカーノ、私はカフェモカ。席は既に埋まっていて、店員が申し訳なさそうにテラス席なら空いているのですが、と言う。いいかな、と尋ねた透に頷いてみせると、彼は払っておくから先に行っといて、と言った。私はありがと、と短く礼を言い、席を取りに行く。
テラスへ出ると、冷たい風が頬を撫でた。陽射しのお陰で我慢出来ない程ではないが、やはりまだ寒さは残っている。さっき外したばかりのストールを膝に掛けて座ると、透がドリンクを持ってやって来た。
「ごめんね、出してもらっちゃって」
「いいよ、これくらい」
サンドイッチなど何か軽いフードメニューでも買ってくるのかと思いきや、トレーには他に何も乗っていない。本当にお昼はいらないのだろうか、と心配になったが、透がドリンクを口にしたので、何も聞かず私もそれに倣う。カフェモカの温かさとほろ苦さが口いっぱいに広がって、私はほぅっと息をついた。
「最近、仕事はどう?」
「ん……まぁ、ぼちぼちだよ」
「そう。何か困ったことがあったら相談してね?」
私の言葉に、透は頭を掻きながら俯く。仕事で何か悩みでもあるのだろうか、なんだか歯切れが悪い。力になってあげたいけれど、彼もこの業界10年目。今が踏ん張りどころなのだろう。私はそれだけ言うと、話題を変える。
「そういえば、部屋の件なんだけど。この間更新の連絡が来て──」
話し始めてすぐに、しまった、と思う。彼の考える話の流れみたいなものがあったとしたら、ぶち壊してしまったかもしれない。事実、私の言葉に透はピクリと反応を示した。だが彼はそれを遮るでもなく、ただ黙って聞いている。私は已む無く、言葉を続けた。
「そろそろ、部屋探し始めようか。調べてみたんだけど、お互い通勤時間を1時間として考えたら、上大岡辺りが──」
「──なまえ」
どくん、と。心臓が大きく跳ねる。カップを持つ手が小さく震えて、透の顔を見ることが出来ない。どうしよう、今私、どんな顔をしている? 耳の奥にそれがあるかのように、どくんどくんと心音が五月蠅い。こんなんじゃ、透の言葉を聞き逃してしまう。私はカップを静かに置くと、膝に掛けたストールの上で、ぎゅっと両手を握り締めた。
「──何?」
「ずっと早く言わなきゃ、って思ってたんだけど──俺達」
あっ、待って。やっぱりまだ、心の準備が──
そんな願いも空しく、透の薄い唇から、続く言葉が紡ぎ出された。
「──もう、別れよう」
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