唇泥棒注意報
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雲一つない快晴。門出の日に相応しい天気に、私は太陽を仰ぎ見て目を細める。すっかり日課になったF-ワニへの朝の餌やりを終えると、私は1つ欠伸をして店の裏口へと向かった。
「あ、おはようございます。ミス・アニヴェルセル」
「おー、おはよー。やけに早いね~」
「そりゃぁ、オープン初日ですから! 気合い入れてきました!! ……って、なんか既に疲れてません……?」
「えー、そう? そんなことないよ~」
裏口で鉢合わせたディーラー仲間の女の子の言葉にとぼけながら、私は内心あちゃ~……と思っていた。目の隈は化粧で隠したが、精神的な疲れが表情に出てしまっていたらしい。お客様の前では気を付けなくては。
昨夜はあんなことがあって、平然とベッドに入って眠ってしまったクロコダイルとは対照的に、私はほとんど眠れないまま朝を迎えた。隣のベッドに入ることすら憚られて、毛布だけを引っ張ってきてソファに横になっていた私の体は、お陰様であちこちから悲鳴を上げている。本当なら恨み言の1つも言ってやりたいところなのだが──
(正直、嬉しかった気持ちもあるし……)
思い出したくもないくらい恥ずかしい反面で、何度も反芻してしまうのは何故なのだろう。とにかく、このままでは仕事にならない。着替えてきますね、と言って更衣室へと向かった先のディーラーの背中を見送って、私は地下へと向かう。
(地下にグレープフルーツジュースとかってあったっけな……)
とりあえず、柑橘系のジュースでも飲んで頭と気持ちをシャキッとさせたい。あとは制服に着替えてしまえば、勝手に仕事スイッチが入ってくれるはずだ。
(私はこの店を盛り上げるためにいるんだから。クロコダイルの気紛れなんかに振り回されてなんかいられない!)
私は足早に地下のミニキッチンへと向かう。そこでオレンジジュースを見つけると、グラスに注いで一息に飲み干した。爽やかな酸味が思考をクリアにするのと同時に、まだ唇に微かに残っている気がしていた自分以外の体温も打ち消してくれる。よし、と小さく呟いて、私はグラスを洗うと部屋へ足を向けた。
コンコン、とドアをノックすると、中から入れ、と短い返事があった。ドアを開けると、クロコダイルは以前宮殿での会食に参加したときに着ていたのと同じ、ガラビアに身を包んでいた。今日はオープン初日ともあって、貴族などの来店も見込めるから、この国の正装でいるのだろう。姿見を見ながらスカーフを整える後姿に、私は声を掛けた。
「おはよう、クロコダイル」
「──ああ。外の様子はどうだった」
「人はかなりいたけど、海兵さん達が警備してくれてたから、今のところは落ち着いてたよ」
「そうか。俺はこれからミス・オールサンデーと最終ミーティングだ。ディーラーの方のミーティングはお前に任せる、いいな?」
「──かしこまりました。あの、着替えても?」
「……? ……ああ」
クロコダイルは姿見から離れ、机に向かう。ミーティングの資料でも用意するのか、引き出しを開ける音がした。出来ればそのまま部屋を出て行って欲しい。そうでないと、自分の精一杯の決意が無に帰してしまいそうで。
クローゼットに入り1つ溜息を吐くと、制服に着替える。糊の効いたYシャツに、黒のパンツ。ここまでは、Heaven's Bellで着ていたものと見た目はそう変わらない──のだが。
(やっぱり、ちょっと派手じゃない……?)
用意されたベストとタイを眺めながら、私は眉根を寄せる。
クローム・オレンジの背中が開いたベストに、コバルト・バイオレットのワイドタイ。Tailleur du roiで仕立てられたというこれらの服は、制服と呼ぶには勿体無いくらいの代物だ。滑らかな光沢を持つその生地は、ファッションにはとんと疎い私でも、その良さが分かる程だった。
「おい」
「──っ!? な、何でしょう?!」
不意にクローゼットの外から声を掛けられて、あまりに高価な仕事着を着るに着られずにいた私は驚く。外でクロコダイルが少し苛立ったような口調で言った。
「渡す物がある。早く出てこい」
「か、かしこまりました!」
慌ててベストに袖を通し、タイを結ぶ。カフスは後で着けよう、と掌に握り締めてクロ-ゼットから出ると、クロコダイルはベッドに腰掛けて葉巻を吸いながら待っていた。
「申し訳ありません、お待たせ致しました」
「ああ──これを」
クロコダイルは立ち上がると、小さな箱から何かを取り出して、私の手を取る。思わずビクッ、と体を強張らせるが、クロコダイルは意にも介さずそれをごそごそと袖口に着け始めた。
「──これでいい」
両手首に着けられたのは、向日葵を模したカフスだった。可愛らしいその贈り物に、私の視線は釘付けになる。
「これは……?」
「餞別だ、お前にはこれから馬車馬みてェに働いてもらうからな」
「あ、ありがとうございます……」
「それと──」
不意に手首を強く握られ、私は顔を上げてクロコダイルを見た。その顔は、なんとも複雑な表情で彩られている。
(──そんな顔、しないでよ……)
これから何を言われるのか容易に想像がついて、私は唇をキュッと強く結んだ。
「──今日はやけに他人行儀だな。何があった?」
「別に、何も……。ただ、やはり私がここに置いていただいているのは仕事のためですから、そこはきちんと線引きをしなければ、と」
「……そうか。だが、そんな態度を取るのは仕事の時だけにしろ。お前の存在自体を『仕事』にする必要はない。いいな?」
「……はい」
私が頷くと、クロコダイルは手を離して部屋を出て行った。私は深く溜息を吐いてベッドに腰を下ろす。手首に咲いた小さな向日葵を一瞥して、私は頭を抱えた。
「あぁ、もう……なんでこんな事するわけ……?」
思い上がってはいけない。少しばかり優しい言葉をかけてもらったからって。こんなに嬉しい贈り物をしてもらったからって。昨日交わした唇からは、嗜虐心しか伝わってこなかった。本当に、ただからかうためだけにしたものなのだろうから。
(これだったら、アイツの方が幾分か好意が伝わってきてた──)
ふと、思い出されたにんまり顔。脳裏に浮かんだ不適な笑みを、私は頭を振ってそこから追い出す。何を考えているんだ、私は。
私には、男女のことはよく分からない。Heaven's Bellには色んなディーラーがいた。客と懇ろになって、結ばれて幸せに店を去っていく娘もいた。逆に、客の気持ちを見誤り、自分だけが熱を上げて、想いの齟齬に気が付いたときには絶望して命を絶とうとした娘もいた。
「あ、おはようございます。ミス・アニヴェルセル」
「おー、おはよー。やけに早いね~」
「そりゃぁ、オープン初日ですから! 気合い入れてきました!! ……って、なんか既に疲れてません……?」
「えー、そう? そんなことないよ~」
裏口で鉢合わせたディーラー仲間の女の子の言葉にとぼけながら、私は内心あちゃ~……と思っていた。目の隈は化粧で隠したが、精神的な疲れが表情に出てしまっていたらしい。お客様の前では気を付けなくては。
昨夜はあんなことがあって、平然とベッドに入って眠ってしまったクロコダイルとは対照的に、私はほとんど眠れないまま朝を迎えた。隣のベッドに入ることすら憚られて、毛布だけを引っ張ってきてソファに横になっていた私の体は、お陰様であちこちから悲鳴を上げている。本当なら恨み言の1つも言ってやりたいところなのだが──
(正直、嬉しかった気持ちもあるし……)
思い出したくもないくらい恥ずかしい反面で、何度も反芻してしまうのは何故なのだろう。とにかく、このままでは仕事にならない。着替えてきますね、と言って更衣室へと向かった先のディーラーの背中を見送って、私は地下へと向かう。
(地下にグレープフルーツジュースとかってあったっけな……)
とりあえず、柑橘系のジュースでも飲んで頭と気持ちをシャキッとさせたい。あとは制服に着替えてしまえば、勝手に仕事スイッチが入ってくれるはずだ。
(私はこの店を盛り上げるためにいるんだから。クロコダイルの気紛れなんかに振り回されてなんかいられない!)
私は足早に地下のミニキッチンへと向かう。そこでオレンジジュースを見つけると、グラスに注いで一息に飲み干した。爽やかな酸味が思考をクリアにするのと同時に、まだ唇に微かに残っている気がしていた自分以外の体温も打ち消してくれる。よし、と小さく呟いて、私はグラスを洗うと部屋へ足を向けた。
コンコン、とドアをノックすると、中から入れ、と短い返事があった。ドアを開けると、クロコダイルは以前宮殿での会食に参加したときに着ていたのと同じ、ガラビアに身を包んでいた。今日はオープン初日ともあって、貴族などの来店も見込めるから、この国の正装でいるのだろう。姿見を見ながらスカーフを整える後姿に、私は声を掛けた。
「おはよう、クロコダイル」
「──ああ。外の様子はどうだった」
「人はかなりいたけど、海兵さん達が警備してくれてたから、今のところは落ち着いてたよ」
「そうか。俺はこれからミス・オールサンデーと最終ミーティングだ。ディーラーの方のミーティングはお前に任せる、いいな?」
「──かしこまりました。あの、着替えても?」
「……? ……ああ」
クロコダイルは姿見から離れ、机に向かう。ミーティングの資料でも用意するのか、引き出しを開ける音がした。出来ればそのまま部屋を出て行って欲しい。そうでないと、自分の精一杯の決意が無に帰してしまいそうで。
クローゼットに入り1つ溜息を吐くと、制服に着替える。糊の効いたYシャツに、黒のパンツ。ここまでは、Heaven's Bellで着ていたものと見た目はそう変わらない──のだが。
(やっぱり、ちょっと派手じゃない……?)
用意されたベストとタイを眺めながら、私は眉根を寄せる。
クローム・オレンジの背中が開いたベストに、コバルト・バイオレットのワイドタイ。Tailleur du roiで仕立てられたというこれらの服は、制服と呼ぶには勿体無いくらいの代物だ。滑らかな光沢を持つその生地は、ファッションにはとんと疎い私でも、その良さが分かる程だった。
「おい」
「──っ!? な、何でしょう?!」
不意にクローゼットの外から声を掛けられて、あまりに高価な仕事着を着るに着られずにいた私は驚く。外でクロコダイルが少し苛立ったような口調で言った。
「渡す物がある。早く出てこい」
「か、かしこまりました!」
慌ててベストに袖を通し、タイを結ぶ。カフスは後で着けよう、と掌に握り締めてクロ-ゼットから出ると、クロコダイルはベッドに腰掛けて葉巻を吸いながら待っていた。
「申し訳ありません、お待たせ致しました」
「ああ──これを」
クロコダイルは立ち上がると、小さな箱から何かを取り出して、私の手を取る。思わずビクッ、と体を強張らせるが、クロコダイルは意にも介さずそれをごそごそと袖口に着け始めた。
「──これでいい」
両手首に着けられたのは、向日葵を模したカフスだった。可愛らしいその贈り物に、私の視線は釘付けになる。
「これは……?」
「餞別だ、お前にはこれから馬車馬みてェに働いてもらうからな」
「あ、ありがとうございます……」
「それと──」
不意に手首を強く握られ、私は顔を上げてクロコダイルを見た。その顔は、なんとも複雑な表情で彩られている。
(──そんな顔、しないでよ……)
これから何を言われるのか容易に想像がついて、私は唇をキュッと強く結んだ。
「──今日はやけに他人行儀だな。何があった?」
「別に、何も……。ただ、やはり私がここに置いていただいているのは仕事のためですから、そこはきちんと線引きをしなければ、と」
「……そうか。だが、そんな態度を取るのは仕事の時だけにしろ。お前の存在自体を『仕事』にする必要はない。いいな?」
「……はい」
私が頷くと、クロコダイルは手を離して部屋を出て行った。私は深く溜息を吐いてベッドに腰を下ろす。手首に咲いた小さな向日葵を一瞥して、私は頭を抱えた。
「あぁ、もう……なんでこんな事するわけ……?」
思い上がってはいけない。少しばかり優しい言葉をかけてもらったからって。こんなに嬉しい贈り物をしてもらったからって。昨日交わした唇からは、嗜虐心しか伝わってこなかった。本当に、ただからかうためだけにしたものなのだろうから。
(これだったら、アイツの方が幾分か好意が伝わってきてた──)
ふと、思い出されたにんまり顔。脳裏に浮かんだ不適な笑みを、私は頭を振ってそこから追い出す。何を考えているんだ、私は。
私には、男女のことはよく分からない。Heaven's Bellには色んなディーラーがいた。客と懇ろになって、結ばれて幸せに店を去っていく娘もいた。逆に、客の気持ちを見誤り、自分だけが熱を上げて、想いの齟齬に気が付いたときには絶望して命を絶とうとした娘もいた。
