あなたが私の

 ちりんちりん。と軽やかな音を奏でるのは、縁側に飾られた小さな風鈴だ。外から吹き込む夜風に揺られて気ままに音を鳴らしている。
 綾瀬川はなんとなく風鈴の下に座り、庭を眺める。丁寧に整えられた庭木が並ぶ園家の広い庭には、似つかわしくないほど無骨なホームベースとバッターボックスが備え付けられている。
 そのバッターボックスでは、飾り気のない練習着に身を包んだ男がブンブンとひたすらにバットを振り回している。部活を終えて帰って来たばかりだと言うのに、夕飯までの僅かな時間もおとなしく待てないようだった。
 「大和〜お前いつまでやってんだよ」
 「帰って来た途端にちゃんと練習してんのかって言うて来たん綾さんやん」
 「甲子園出れないで不貞腐れてんじゃねーのかって心配してやったんだろ!」
 一年前、綾瀬川から三打席連続でホームランを放ち甲子園で優勝した金惶大阪は、今年は出場も叶わず予選で敗退していた。勿論敗退したからと言って気楽に遊び惚けているわけでは無い。早々に新体制に移行し、秋の大会に向けて練習を重ねているはずだ。
 綾瀬川とて、甲子園に出られなかったからといって大和が不貞腐れたり練習を疎かにするようなタイプだとは思っていない。事実、客人を放っておいて、帰宅早々に素振りをし出す始末だ。
 「綾さんこそ、こないだの試合観たで。最後の方崩れてもうてたけど体は平気やったん?」
 「べっつに……。何もない」
 先日の登板、先発投手として起用された綾瀬川は順調な立ち上がりで四回までを完璧に抑えたものの、五回からやや制球を乱し、結局六回の途中で降板した。
 理由は自分自身が一番よくわかっている。身体の不調なんてものは一つもない。一重にメンタルの問題だった。
 天才だと言われることの何が気に食わないのだと言われるが、天才だなんて無責任な言葉を額面通りに受け取るほど呑気に生きてきてはいなかっただけだ。
 今までの努力も、犠牲にしてきたことも、苦しんだ過去も、何も知らない奴らに天才だなんて言葉で一括りにされるのはまっぴらだった。
 周囲の勝手な言葉を、いくら遠ざけるようにしてもマウンドに登れば逃げ場は無い。
 水の底に引き摺り込まれた様に息苦しくて、段々と体が思う様に動かなくなる。
 嫌なら辞めてしまえば良いのに。そう思うけれど、そんな訳にはいかない。
 お前のせいだぞ、という気持ちを込めて大和の目を見る。
 ちりんちりん、と風に揺られた音につられて、大和は風鈴を見上げた。
 「綾さん、知っとる?風鈴って元は風鐸って言うてな、青銅とかの金属で出来てたらしいで」
 「ふうたく?」
 「おん。でな、金属やからガランガランって音が鳴るんやけど、その音が聞こえる範囲には災いが起こらへんって言われとったんやって」
 金属ではなくガラスで出来た風鈴は、素知らぬ顔で、ちりんちりんと音を奏でる。
 「せやから、この風鈴の下は安全地帯や。ここには綾さんの事損なうもん何ひとつあらへん」
 バットを地面に突いて、こちらを見下ろす大和の言葉を聞いて、綾瀬川は無意識に詰めていた息を吐く。ずっと心臓を雁字搦めに縛っていたものを振り解いて、久しぶりに呼吸をしたような気がした。
 大和はいつだって、綾瀬川の戦術や工夫を見抜くのが得意だった。それだけでなく、綾瀬川の心の中でさえ、読み取ってしまうのだろうか。何で分かるんだよって聞いたって、答えてくれないのは目に見えているけれど。
 「うるせ、ばーか」
 「何や僕に言いたいことあらへんの」
 「何もない、大丈夫だよ」
 大丈夫。何万人、何億人の人間に理解されなくたって、大和は分かってくれる。綾瀬川の野球のことも、綾瀬川の心も。
 それだけで、風鈴の音が届かないマウンドでだって頑張れる気がした。もしまた苦しくなっても、ここは安全地帯なんだ。また息継ぎをして、肺を空気で満たせば生きていける。
 けれどいつか限界が来る前に、大和にはプロに来てもらわなければいけない。そうすれば大和と対峙するマウンドの上が、綾瀬川の新しい安全地帯だ。
 その為には、まずは春のセンバツに向けて、もうすぐやってくる秋の大会では大いに活躍してもらわなければ話にならない。腑抜けた試合をしていたらまた気合いを入れてやらなければ。
 「てか、物知りじゃん。何で知ったの?」
 「国語便覧」
 「懐っ!」
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