灰谷蘭・竜胆
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冷え切った夜の空気が、開け放たれた窓から静かに流れ込んでいた。
古い木の床が、風の通るたびに小さくきしむ。
部屋の明かりは落とされ、月光だけが室内を淡く青白く照らし出していた。
ソファの背に身を預け、長い脚を組んだ灰谷蘭は手元で弄んでいたライターの火を消した。
カチリと硬質な音が、静まり返った部屋に落ちる。
その視線の先には、小さく肩を揺らして息を整える■■■の姿があった。
「こんな時間に呼び出して、どうかした?」
先に沈黙を破ったのはソファの端に腰掛けた■■■だった。
「んー? 別に用がなきゃダメだった?」
蘭はわざと軽い調子で返しながら、目だけは笑っていなかった。
「そういうわけじゃないけど。いつも急だから」
「ごめんね。でもさ、こうして呼んだらすぐに来てくれるじゃん」
「……断れないって知っててやってるでしょ」
■■■が視線を落とすと、蘭の口元がわずかに歪んだ。
笑っているのに、目だけがどこか醒めている。
「そういう物分かりのいいところ、嫌いじゃないよ」
蘭は立ち上がり、■■■の背後に回った。
長い指先が肩に触れるか触れないかの距離で止まる。
「蘭……」
「なに?」
「用がないなら、もう戻る」
「つれないねえ。オレは■■■に会いたかったのに」
耳元で囁かれる声は甘いのに、なぜか少しも近づいてくる気配がしなかった。
「本当に、それだけ?」
「それだけって?」
「用事、それだけなのかなって」
蘭は一瞬だけ視線を彷徨わせ、すぐにいつもの笑みを貼り付けた。
「そうだよ。ただ、会いたかっただけ」
嘘だと分かっていても、それを追及する術をわたしは持たなかった。
彼の生きる世界と、自分のいるこの場所との間には、越えられない溝があるような気がしていた。
蘭は絶対にその溝を渡ろうとしない。そして、わたしが渡ってくることも、きっと望んでいない。
「……じゃあ、もう行くね」
立ち上がろうとした瞬間、蘭の手がその手首を掴んだ。
驚いて見上げるわたしの視線を受け止めながら、蘭の指の力がわずかに強まる。
「まだ、いいでしょ」
「蘭の手、冷たい」
「そりゃ、夜風に当たってたからね」
そう言って笑う蘭の体温は確かに低かった。
なのに掴まれた手首の皮膚だけが、じんと痺れたように熱を持ち始めている。
「離してよ」
「やだって言ったら?」
「子供みたいなこと言わないで」
「ねえ、もう少しここにいてよ」
軽口を重ねるうちに、二人の距離が確実に狭まっていく。
蘭の呼吸が肌に触れる距離に達した時、抑えていたはずの何かが喉の奥でせり上がってくる。
蘭は■■■の手首を掴んだまま、もう片方の手で頬に触れた。
親指の腹が、なぞるようにゆっくりと動く。
ただ優しいだけのその動きに、なぜか泣きたくなった。
「……ずるいよ」
「何が?」
「いつもそうやって、思わせぶりなことばかりする」
「思わせぶりじゃないよ。オレはいつだって本気」
「……嘘つき」
■■■の非難に蘭は応えなかった。
ただ頬を撫でる指先だけが、何かをこらえるように微かに震えていた。
月光に照らされた蘭の輪郭は酷く鮮明で、同時に今すぐ消えてしまいそうなほど不確かに見えた。
焦りとも諦めともつかない何かが、指先を通して中に流れ込んでくる気がした。
「蘭は、わたしのことどう思ってるの」
「どう、って?」
「言葉の通り。ただの暇つぶし?」
蘭は目を細め、触れていた手をゆっくりと離した。
その瞬間、触れ合っていた場所が急激に冷えていく。
「そんなわけないじゃん。……でもさ、それ以上知ってどうするの」
低い声だった。
いつもの軽薄なトーンは完全に消え失せ、底暗い響きだけが耳に残った。
「わたしは知りたい。蘭の本当の気持ち」
「言ったら、戻れなくなるよ」
蘭は一歩下がり■■■との間に距離を作った。
「オレさ、■■■をここに置いておきたいわけじゃないんだよね」
「え……?」
「こんな薄汚いところにさ、綺麗なのを置いておきたくないの。わかる?」
そう言う蘭の視線は、■■■から一瞬も逸れなかった。
拒絶の言葉と、その視線の強さが、どうしても噛み合わない気がした。
蘭の言葉のトゲが、思ったより深く刺さっていた。
痛いはずなのに、特別扱いされているのかもしれないという予感だけが、じんわりと胸に広がっていく。
「勝手に決めないでよ……」
「事実でしょ。オマエはこっち側に来ちゃいけないの」
「それは、蘭の都合でしょ……」
声がわずかに震えた。
蘭は何も言わず、ただじっと見つめ返した。
その目には、愛おしむような色と突き放すような硬さが同時に浮かんでいる。
部屋の中に、また沈黙が落ちる。
けれど今度の沈黙は、さっきまでとは質が違っていた。
互いにぶつけた言葉の余韻だけが、まだそこに残っている。
「……もう遅いから。送るよ」
しばらくして、蘭はいつものトーンで言った。
だが、その声はどこか掠れていた。
「一人で帰れる」
「だめ。危ないから」
蘭は返事を待たずに歩き出した。
その背中は、これ以上近づくなと言っているようだった。
■■■は蘭の背中を見つめながら、拳を強く握りしめた。
手のひらに爪が食い込む。
二人は並んで暗い廊下を歩き始めた。
お互いの肩が触れ合いそうなほど近いのに、その距離はどうしても縮まらない気がした。
建物を出ると、外の空気は室内よりも一段と冷え切っていた。
夜の帳が降りた街は音もなく、二人の足音だけがアスファルトに不規則に響く。
蘭はポケットに両手を突っ込んだまま前を歩いていた。
長い影が月光に引き伸ばされ、■■■の足元に重なる。
「……ねえ、蘭」
「ん?」
「そんなに急いで歩かないで」
「ごめんごめん」
そう言って速度を落としたものの、蘭は決して隣に並ぼうとはせず、絶妙な距離を保ち続ける。
触れ合えるほど近くにいるのに、その一線だけは絶対に越えさせてもらえない。そんな気がした。
「じゃ、ここまでね」
「まだ、話終わってない」
「話すことなんて、もうないよ。お利口さんは早く寝な」
「蘭も、わたしのことちゃんと見てよ」
蘭は小さくため息をつき、ゆっくりと振り返った。
その表情から笑みが消えていた。
瞳だけが、やけに強く射抜いている。
「見てるよ。ずっと見てる」
「……っ」
「……だから、これ以上近づくなって言ってるの」
蘭の手が■■■の手首を包み込んだ。
「■■■さ、自分がどんな場所にいるか分かってないでしょ」
「わかってるよ……」
「オレのいる世界はね、オマエが考えてるよりずっと泥濘んでて、汚れてるんだよ」
「そんなの、関係ない……」
「関係あるんだって。オレが嫌なの」
低い声が、耳の奥にざらりと残る。
言葉は鋭い拒絶そのものなのに、掴まれた手首から伝わる蘭の脈は、狂おしいほど速かった。
言葉と身体、どちらを信じればいいのか分からなくなる。
「蘭が汚いなら、わたしも汚れていい」
「馬鹿言わないの」
声が一段と低くなり、■■■の身体を掴む手に力がこもる。
蘭の瞳が、一瞬だけ何かをこらえるように揺れた。
何を考えているのか、少しも読み取れない。
ただ、その手の力だけが言葉とは違う何かを伝えようとしている気がした。
「■■■にそんな覚悟ないよ」
「決めるのは蘭じゃないでしょ……」
言葉の途中で、蘭の指先が■■■の唇を塞いだ。
冷たいはずの指先が、なぜか震えて感じられる。
触れられた場所から痺れが全身に広がっていくようだった。
「これ以上喋ったら、本当に帰れなくなるよ」
蘭の声音には脅しが含まれていた。
だがその瞳は、なぜか泣きそうな子供のようにも見えた。
唇に触れる蘭の指を、自分の両手でそっと包み込んだ。
引き剥がすためではなく、この指先だけは離したくないと思ったから。
「……帰さないでよ」
小さく呟いた言葉に蘭は息を呑んだ。
二人の間に束の間の沈黙が流れる。
蘭の指がピクリと震え、■■■の頬を滑るようにして髪をすくい上げた。
何を思っているのか、その表情からはもう何も読み取れなかった。
蘭は■■■の額に自分の額をそっと押し当てた。
ただそれだけの接触なのに、息をするのを忘れそうになる。
「……本当に悪い子だね、■■■は」
呟きは掠れていて、今にも消えそうだった。
どれだけ強く拒絶しても、引き離そうとしても、二人の間にある何かは、少しも薄まらなかった。
蘭はゆっくりと額を離し、■■■の手を優しく解いた。
「もう行きな」
「……っ」
「……これ以上は、オレも我慢してあげられない」
そう言って微笑んだ蘭の顔は、いつもの完璧な仮面に戻っていた。
けれどその瞳だけは、まだどこか揺れたままだった。
これ以上言葉を重ねても届かないことを悟った。
それでもさっきまでの蘭の様子だけは、確かにこの手の中に残っていた。
「……また、呼んでくれるよね」
■■■が静かに歩き出す。
背後から蘭の視線が残っているのを感じながら、一度も振り返らずに自分の居場所へと戻っていった。
夜風が二人の間を静かに吹き抜けていく。
触れられた場所の感触だけが、いつまでも消えずに残っていた。