三ツ谷隆
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ミシンの規則正しい駆動音だけが、部屋の中で一定のリズムを刻んでいた。
三ツ谷は手元の生地から目を離さないまま、迷いのない手つきでミシンを動かす。
その横で■■■は仕上がったばかりの型紙を丁寧に畳んでいる。
「こっちの端の処理、これで合ってる?」
■■■が差し出した布地を、三ツ谷はミシンの動きを止めて覗き込んだ。
わずかに近づいた距離に、思わず息を詰める。
「どれ?」
「ここ」
「綺麗に縫えてんじゃん」
「ここ、もうひと針内側攻めると、裏返したとき形がパキッとするぜ」
「本当だ。なんか、ちょっと丸くなっちゃうなと思ってた」
「感覚で覚えていくしかねぇからな、こういうのは。ほら、貸してみ」
三ツ谷は■■■の手から自然に布を引くと、自分のミシンの押さえ金の下に滑り込ませた。
迷いのない手つきで針を落とし、一瞬で直線を縫い上げる。
その横顔から、■■■は目を離せなかった。
「よし、やってみ?」
「うん、ありがとう」
「最近手際良くなったよな」
「本当?」
「最初の頃なんて、針に糸通すだけで日が暮れそうだったのに」
「それは言い過ぎ。でも、三ツ谷の教え方がいいのは認める」
「じゃあ、次の課題はこれな」
手渡されたのは少し厚手のデニム生地だった。
重なる部分の処理が難しそうな代物を見て、■■■は少しだけ眉を寄せる。
「うわ、難易度上げてきた」
「オマエならできると思って。無理か?」
三ツ谷が片方の口角だけ上げて笑うと、■■■は首を振った。
「ううん、やる。置いていかれたくないし」
「置いてかねぇよ」
作業に戻りながら、三ツ谷がボソリと呟いた。
窓の外では、オレンジ色から深い紫へと空の色が移り変わり始めていた。
作業に没頭するあまり、二人の間の会話は一時的に途切れていたが、気まずさは一切ない。
ミシンの音だけが、二人の間を心地よく埋めていた。
「……ちょっと休憩しない?」
■■■がハサミを置くと、三ツ谷も背中を伸ばして首の骨を軽く鳴らした。
「そうだな。もうこんな時間か」
三ツ谷はポケットから小さな飴の包みを二つ取り出し、一つを■■■に向かって軽く投げた。
綺麗な放物線を描いたそれを、■■■は両手で受け止める。
「ありがとう。三ツ谷っていつも何か持ってるよね」
「妹たちにせがまれるからな。それに、甘いもん食うと頭回るだろ」
包みを開けて口に含むと、甘酸っぱい味が広がった。
三ツ谷も自分の分の飴を口に放り込み、窓枠に軽く腰を掛ける。
沈みゆく夕日が彼の輪郭を柔らかく縁取っていた。
「なぁ、■■■」
「ん?」
「オマエさ、卒業してもこういうの続けるわけ?」
唐突な問いに■■■は三ツ谷の顔を見た。
彼は外の景色を眺めており、その表情の真意は読み取れない。
「どうかな。でも、三ツ谷に教えてもらったことは忘れたくないな」
「……そっか」
三ツ谷は視線を窓の外から■■■へと移した。
その瞳の奥にある熱に、■■■は一瞬だけ息を呑む。
言葉にできない感情が、じわじわと二人の間の距離を埋めていくようだった。
「忘れるなよ、絶対」
「忘れないよ」
「オマエたまにフラッとどっか行きそうなんだよな」
「そんなことないよ。ここにいるよ」
三ツ谷の手が、ゆっくりと伸びてくる。
彼の指先が■■■の髪に触れ、そのまま耳の後ろへと滑り落ちた。
ただそれだけの動作なのに、触れられた場所だけが、やけに鮮明に感じられた。
「髪、糸くずついてた」
「あ……ありがと」
「顔、赤いぞ?」
三ツ谷の顔がさらに近づく。
彼の吐息が届きそうな距離で、お互いの視線が完全に絡み合っていた。
「三ツ谷のせいかも」
その呟きが落ちた瞬間、家庭科室から物音が消えたような気がした。
三ツ谷の指先が、■■■の耳の後ろで止まっている。
ほんの数ミリの隙間を残して静止した指から、彼の体温だけが微かに伝わってきた。
動くことも、引くこともできないまま、二人の視線は至近距離で膠着している。
「……オマエ、無自覚に言ってんなら、本気でタチ悪いぞ」
「無自覚じゃない、かも」
■■■が視線を逸らさずに応じると、三ツ谷は小さく息を吐き出し、額に手を当てて天を仰いだ。
耳の裏が、夕日の赤よりも深く染まっているのがわかる。
眉を八の字に曲げてから、三ツ谷は諦めたように笑った。
「あー、クソ。完全にやられた」
三ツ谷がゆっくりと手を下ろすと、その手のひらは髪ではなく、■■■の肩に優しく置かれた。
衣服越しに伝わる手の重みが妙にリアルで、呼吸のタイミングすら分からなくなる。
「片付けるか。これ以上ここにいたら、オレの理性がもたねぇ」
「……理性がどうかしたの?」
「聞くなよ。自分で言っといて恥ずかしいんだから」
三ツ谷はわざとらしく大きな動作で、机の上のハサミや型紙を片付け始めた。
しかし、その手元はいつもより少しだけぎこちない。
■■■も慌てて自分の荷物をまとめ、裁縫箱の蓋を閉めた。
パチンという金具の音が静まり返った室内にやけに大きく響く。
◇
施錠を済ませて校舎を出ると、外はすっかり薄暗くなっていた。
冷え始めた空気の中で隣を歩く三ツ谷の存在感が、先ほどよりもずっと濃く感じられる。
「寒くねぇ?」
「うん、平気。動いてたからかな」
「ならいいけど」
歩道を進むにつれ、街灯が一つまた一つと灯っていく。
光の下を通るたび、地面に伸びる二人の影が近づいては重なり、また離れていく。
その影の動きを目で追うだけで、なぜか泣きたいような、笑いたいような、変な気持ちになった。
「■■■」
不意に三ツ谷が立ち止まった。
街灯の光が彼の斜め後ろから差し込んでいる。
逆光になった彼の表情はよく見えないが、まっすぐにこちらを見つめている気配だけが肌を通じて伝わってきた。
「なに?」
「オレさ、オマエが顔出すようになってから作業スピード落ちてんだよ」
「え……そうなの? なんかごめん」
「手元見てるフリして、オマエのことばっか見てた」
「……えっ」
「針先見つめてる横顔とか、上手く縫えて嬉しそうにしてる顔とか」
「……」
「全部オレだけが知ってたいって、ずっと思ってた」
その言葉に、■■■はすぐに返事ができなかった。
三ツ谷はゆっくりと距離を詰めた。
お互いの靴先が触れ合うほどの距離。
「オレ、結構独占欲も強い方なのかも」
「三ツ谷が……?」
「おう。見えねぇだろ? でもそうなんだよ。だからさ」
三ツ谷の手が■■■の右手を包み込んだ。
指が一本ずつ絡み合い、指先の温度差さえも分からなくなっていく。
繋いだ手のひらから、三ツ谷の脈の速さが伝わってきた。
「もう、ダチの顔して隣にいるの限界。……オレの彼女になってくんねぇかな」
まっすぐな声だった。
「……うん。わたしも、三ツ谷の隣にいたい」
■■■が応えると、三ツ谷は大きく息を吐いた。
「よかった……。断られたらどうしようかと本気で焦ったわ」
「三ツ谷でも緊張することあるんだね」
「当たり前だろ。相手がオマエなんだから」
そう言って三ツ谷は繋いだ手にさらに力を込め、■■■の体を優しく引き寄せた。
彼の胸に顔が埋まり、互いの呼吸の音が重なり合う。
しばらく、どちらも動かなかった。
ゆっくりと体を離した三ツ谷は小さく笑うと、今度はどちらからともなく指を絡ませるようにして再び歩き出す。
そのままの歩調で歩いていたが、三ツ谷がふと足を止め、繋がれた手を少し持ち上げて見つめた。
「なぁ、これ、明日から学校でもやっていいわけ?」
「え……? 学校ではちょっと、恥ずかしいかも」
「なんだよそれ。オレはもう隠す気ねぇんだけどな」
そう言って笑う三ツ谷の顔は、いつもの頼れる表情に戻っていた。
「でもさ、これでオマエの課題、もっと厳しく見れるわ」
「えっ、なんで?」
「おう。オレの彼女なんだから、並の腕じゃ帰さねぇ。覚悟しとけよ」
「スパルタだ……」
「嘘。嫌がることはしねぇよ」
三ツ谷は繋いだ手を軽く振りながら、また歩き出す。
「一歩ずつ、オマエのペースでいいからさ」
「うん。よろしくね、隆くん」
不意に名前で呼んでみると、三ツ谷は目を見張り、それから片手で顔を覆った。
「……本当にタチ悪い」
街灯の下、赤くなった耳を隠そうと早足になる彼に引っ張られながら、■■■はこらえきれずに笑い声をこぼした。