◯◯しないと出られない部屋
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白く四角い部屋だった。
扉には鍵穴もなく、壁一面に無機質な文字だけが浮かび上がっている。
相手をキュンとさせないと出られない部屋
文字を読んだリリアは喉を鳴らして笑った。
「これはまた、妙な悪戯に巻き込まれたものじゃな」
「リリア先輩、これって……」
「文字通りの意味であろう。退屈しのぎの魔法か、あるいは誰かの仕掛けた罠か」
リリアは軽い足取りで壁に近づき、指先で文字に触れた。
何も起きない。ただの滑らかな壁だ。
「どうする? ななし。わしをときめかせてみるか?」
「冗談言わないでください。わたしにそんな大役、無理です」
「ほう、最初から諦めるか。若者らしくないのう」
リリアは壁に背を預け腕を組んでななしを見た。
その視線はどこか楽しげで、緊迫感はまるでない。
「……リリア先輩は、どんなことでドキドキしますか?」
「わしか? そうじゃのう……、戦場で強い敵と対峙した時じゃな」
「そういうドキドキじゃないんですけど」
小さく溜息をつくとリリアは可笑しそうに目を細めた。
「分かっておる。要するに、男女の機微というやつであろう。しかし困った、わしはこれでも長く生きとる。並大抵の事では心は動かんぞ?」
「ハードルが高すぎます。じゃあ、リリア先輩からわたしをキュンとさせてみてください」
「ほう、わしに振るか」
リリアは一歩、足を踏み出し近づく。
足音は驚くほど静かで、気づけばななしの目の前にその姿がある。
「では、少し本気を出してみるか」
「えっ」
「そう身構えるな。まずは基本からじゃ」
リリアが手を伸ばしななしの前髪にそっと触れた。指先が額をかすめる。ほんの少し触れただけのはずだが、触れられた肌が微かに赤みを帯びた。
「……どうじゃ? 変化はありそうか」
「……いえ、特に壁に変化はないみたいです」
「手厳しいのう。少しは顔が赤くなったように見えたんじゃが」
「それは、急に近づかれたから驚いただけです」
リリアは指を離し、ふむ、と顎に手を当てた。
「驚きと、ときめきは別物ということか。なかなか判定が厳しい部屋じゃ」
「リリア先輩、本当に出る気ありますか?」
「もちろんあるとも。ただ、この状況を楽しんでもおる」
「楽しんでる場合じゃないですよ」
ななしは部屋の隅へ移動し床に腰を下ろした。
白一色の空間は時間の感覚を狂わせる。
「怒るな怒るな。焦っても扉は現れん。少し頭を冷やそう」
リリアも隣に滑り込み、肩が触れ合うほどの距離になる。部屋が狭いわけではないのに二人の距離だけが狭まっていく。
「ななしは、どういう時にその、きゅん、とするのじゃ?」
「わたしですか? ……考えたこともないです」
「嘘をつけ。年頃の娘なら、一つや二つ理想のシチュエーションくらいあるものじゃろ」
「本当にないんです。毎日生きるのに必死ですから」
日常の慌ただしさを思い出すような、少し投げやりな声だった。
「ふむ。余裕がない、か。それはわしらの責任でもあるな。先輩として、もっとお主を労ってやるべきじゃった」
リリアの声音が少しだけ低くなる。
いつものからかうような調子ではない大人の響き。
「リリア先輩?」
「こうして二人きりでいると、お主がどれだけ小さな存在かよく分かる」
リリアの手が今度は頬に触れた。冷たいはずの指先は思いのほか温かい。その手が髪を耳にかけ、そのまま首筋へと滑り落ちた。
「……ッ」
「息が止まっておるぞ」
「だって、急に」
「これが、ときめきというやつではないのか?」
リリアの顔がさらに近づく。彼の瞳の奥にある光が、じっと目の前の存在を射抜いていた。その強い視線にななしの身体がすくむ。
「……まだ、変化なしですね」
「ふむ。これでも駄目か」
リリアは手を引き、わずかに距離を取った。触れた場所には、まだ微かな熱の余韻が残り続けている。
「難攻不落じゃな、お主は」
「それはこっちのセリフです。リリア先輩こそ、全然動じてないじゃないですか」
「わしか? わしは先ほどから、それなりに楽しんでおるぞ。お主の新鮮な反応を見るのは悪くない」
「からかわないでください」
「からかってなどおらぬ。本気で外に出ようと考えておる」
リリアは立ち上がり再び壁の文字を見つめた。
「相手をキュンとさせる。主語がないのが気になるのう。わしがお主を、か。お主がわしを、か。あるいは……」
「あるいは?」
「お互いが同時に、という可能性もある」
リリアが振り返る。
その表情には確信めいた笑みが浮かんでいた。
「同時に、ですか?」
「そうじゃ。どちらか一方の感情だけでは、この部屋の鍵は開かないのかもしれん」
「じゃあ、わたしもリリア先輩を本気でドキドキさせないといけないってことですね」
「うむ。覚悟を決めて、かかってくるがいい」
リリアは両腕を広げ無防備な姿を晒した。
その余裕に満ちた態度に、ななしの視線が僅かに鋭くなる。
「……分かりました。じゃあ、行きます」
「ほう、やる気になったか」
リリアは広げた腕をそのままに、迎え入れるような姿勢を崩さない。
その胸元へと、一歩踏み込む。リリアの身体から、微かに衣類の擦れる音が聞こえた。いつもなら通り過ぎるはずの距離を越え、さらに足を進める。
「リリア先輩」
「なんじゃ」
ななしが声をかけると、リリアの視線がまっすぐに落ちてきた。
「……こうされるの、嫌ですか?」
「まさか。お主が自ら近づいてくるなど、滅多にない機会じゃからな」
リリアの言葉は相変わらず軽妙だった。けれど、その声のトーンは先ほどよりも低く、密閉された空間に深く残る。
伸ばした両手をリリアの制服の上着の裾へと伸ばした。薄い生地越しにリリアの体温が指先に伝わる。男にしては細身の身体だが、掴んだ布地の向こう側には確かな骨格と硬い筋肉の存在があった。
「ほう」
「……」
リリアの喉が小さく上下する。
ななしは布地を握る手に力を込めた。
そのまま顔を上げ、じっと彼を見つめ返す。
「リリア先輩は、本当に何ともないんですか」
「何ともない、と言えば嘘になるがのう」
リリアの口元から笑みが消えた。
「お主、手が少し震えておるぞ」
「……それは」
「緊張しておるのか。それとも、わしに怯えておるのか?」
リリアがゆっくりと自分の両腕を下ろした。
下ろされた手がななしの腰のあたりに添えられる。二人の間に、密着するような確かな圧迫感が生まれた。
「怯えて、ないです」
「強情なやつじゃ。心臓の音が、ここまで聞こえてきそうじゃがな」
リリアの顔が僅かに傾く。
彼の髪が相手の頬を掠めた。その瞬間、部屋の空気そのものが熱を帯びたように重くなる。密閉された空間の中で互いの呼吸だけが静かに重なり合っていく。
「ななし」
「はい」
「お主は、わしを先輩としてしか見ておらんのだろうな」
その問いかけにななしの言葉が詰まった。
リリアの指先が腰から背中へと這い上がってくる。
制服の生地を隔てていても、その指の動きがどこをなぞっているのかがはっきりと形となって伝わる。
「どうした。答えんのか?」
「……リリア先輩こそ、わたしのこと、どう思ってるんですか」
「わしか? わしはお主を……」
リリアの言葉が途切れる。
彼の顔がさらに数センチ近づいた。
吐息が唇の端に触れる。白一色の冷徹な部屋の中で、リリアの存在だけが圧倒的な熱量を持って迫っていた。
「これ以上は、お主が引き返せなくなるぞ」
「引き返すって、どこにですか」
「わしの、領域じゃ」
リリアの瞳の奥にある光が一段と深くなる。それは普段の学園生活では決して見せることのない、どこか艶を孕んだものだった。
背中に回されたリリアの手が力を帯びる。
身体が完全に密着した。リリアの胸の力強い鼓動が、そのままななしへと直接伝わっていく。
「リリア、先輩……」
「お主の勝ち、かもしれんな」
リリアの低い声が至近距離で揺れる。
彼の指先が今度はうなじへと触れた。肌に直接触れる指の熱に、ななしの身体が思わず小さく跳ねる。
「壁を見てみろ」
リリアに言われ、ななしは壁へと視線を向けた。
浮かび上がっていた無機質な文字が、淡い光を放ちながらゆっくりと形を崩し始めている。
「……消えかけて、ます」
「うむ。判定は下ったようじゃな」
リリアの腕の力は、緩まない。
むしろ衣服の摩擦さえもどかしいと思わせるほどに、その距離は強固に固定されていた。
首筋に触れる彼の指先が微かに這う。肌の表面を滑るような、それでいて芯を捉えるような動きに、ななしの肩が僅かに震えた。
「リリア先輩、もう部屋は……」
「開くであろうな。だが、わしが離すとは言っておらん」
その言葉は酷く静かだった。
からかうような響きは完全に削ぎ落とされ、低く冷たい熱だけがリリアの喉から紡がれている。
「……ずるいです」
「そうじゃな」
リリアはふっと息を吐き出す。
その熱が鎖骨のあたりに散り、ななしの肌を揺らした。
「だが、わしが不満足じゃ」
「え……」
「まだ、足りん。お主の心音が、こんなにも高鳴っておる。わしの腕の中で、お主がどれほど熱くなっておるか、お主自身は気づいておるまい」
リリアの指先が、うなじから髪の生え際をゆっくりと動く。
それに伴い、ななしの呼吸が僅かに浅くなった。密閉された空間の空気のすべてに、互いの存在が混ざり込んでいく。
「わたしは、ただ……」
「うむ。お主はただ一生懸命だった。そのひたむきさが、わしの胸に深く刺さった。……長く生きると、心臓が動く感覚など滅多に味わえんのじゃよ」
リリアの瞳が至近距離で見つめてくる。
そこには暗い夜の底のような、深い熱が揺らめいていた。
「ななし」
「はい」
「わしを揺さぶった責任は、取ってもらわねばな」
リリアの顔がさらに影を落とす。
唇がほとんど触れ合うほどの位置で止まった。
「……どうやって、取るんですか」
「こうするのじゃ」
リリアの唇がそっと重なった。
それは驚くほど静かで、しかし逃げることを許さない絶対的な重みを持っていた。
重なり合う部分から、じわじわと甘い熱が広がっていく。
リリアの舌先が、そっと唇の端をなぞる。
その微かな刺激に、ななしの喉奥から小さな吐息が漏れた。
彼はそれを逃さず、深く内側へと侵入してくる。
「っ……」
互いの呼吸が完全に重なる。
二人の与える熱と、内側から湧き上がる熱が混ざり合い、境界線が溶けていく。
どれほどの時間が経ったのだろう。
数秒のようでもあり、永遠のようでもあった。
ゆっくりと唇が離される。
リリアは潤んだ瞳で見上げるななしの姿を、じっと見つめていた。その表情にはいつもの余裕は微塵も残っていない。
「……やはり、お主は恐ろしい存在じゃな」
「リリア、先輩……」
「外の世界に戻っても、わしは元には戻れんぞ」
リリアはそう言うと満足そうに微笑んだ。
その笑顔はどこか切なく、それでいて幸福そうだった。
背中にあった彼の手が名残惜しそうに離れていく。
身体が離れると白い部屋の壁の文字は完全に消え去り、そこには元からそこにあったかのように、古い木製の扉が佇んでいた。
「さあ、帰るか。元の、騒がしい日常へ」
リリアは先に扉へと歩み寄りノブを手にする。
引かれた扉の隙間から、外の光が差し込んだ。
リリアはもう一度振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「次は、部屋の仕掛けなしで、わしをときめかせてみせよ、ななし」
その言葉を残し彼は扉を開いた。
光の向こう側へと進むリリアの背中を、ななしは熱の残る唇を指先でなぞりながら見つめ、追いかけるために一歩を踏み出した。
扉には鍵穴もなく、壁一面に無機質な文字だけが浮かび上がっている。
相手をキュンとさせないと出られない部屋
文字を読んだリリアは喉を鳴らして笑った。
「これはまた、妙な悪戯に巻き込まれたものじゃな」
「リリア先輩、これって……」
「文字通りの意味であろう。退屈しのぎの魔法か、あるいは誰かの仕掛けた罠か」
リリアは軽い足取りで壁に近づき、指先で文字に触れた。
何も起きない。ただの滑らかな壁だ。
「どうする? ななし。わしをときめかせてみるか?」
「冗談言わないでください。わたしにそんな大役、無理です」
「ほう、最初から諦めるか。若者らしくないのう」
リリアは壁に背を預け腕を組んでななしを見た。
その視線はどこか楽しげで、緊迫感はまるでない。
「……リリア先輩は、どんなことでドキドキしますか?」
「わしか? そうじゃのう……、戦場で強い敵と対峙した時じゃな」
「そういうドキドキじゃないんですけど」
小さく溜息をつくとリリアは可笑しそうに目を細めた。
「分かっておる。要するに、男女の機微というやつであろう。しかし困った、わしはこれでも長く生きとる。並大抵の事では心は動かんぞ?」
「ハードルが高すぎます。じゃあ、リリア先輩からわたしをキュンとさせてみてください」
「ほう、わしに振るか」
リリアは一歩、足を踏み出し近づく。
足音は驚くほど静かで、気づけばななしの目の前にその姿がある。
「では、少し本気を出してみるか」
「えっ」
「そう身構えるな。まずは基本からじゃ」
リリアが手を伸ばしななしの前髪にそっと触れた。指先が額をかすめる。ほんの少し触れただけのはずだが、触れられた肌が微かに赤みを帯びた。
「……どうじゃ? 変化はありそうか」
「……いえ、特に壁に変化はないみたいです」
「手厳しいのう。少しは顔が赤くなったように見えたんじゃが」
「それは、急に近づかれたから驚いただけです」
リリアは指を離し、ふむ、と顎に手を当てた。
「驚きと、ときめきは別物ということか。なかなか判定が厳しい部屋じゃ」
「リリア先輩、本当に出る気ありますか?」
「もちろんあるとも。ただ、この状況を楽しんでもおる」
「楽しんでる場合じゃないですよ」
ななしは部屋の隅へ移動し床に腰を下ろした。
白一色の空間は時間の感覚を狂わせる。
「怒るな怒るな。焦っても扉は現れん。少し頭を冷やそう」
リリアも隣に滑り込み、肩が触れ合うほどの距離になる。部屋が狭いわけではないのに二人の距離だけが狭まっていく。
「ななしは、どういう時にその、きゅん、とするのじゃ?」
「わたしですか? ……考えたこともないです」
「嘘をつけ。年頃の娘なら、一つや二つ理想のシチュエーションくらいあるものじゃろ」
「本当にないんです。毎日生きるのに必死ですから」
日常の慌ただしさを思い出すような、少し投げやりな声だった。
「ふむ。余裕がない、か。それはわしらの責任でもあるな。先輩として、もっとお主を労ってやるべきじゃった」
リリアの声音が少しだけ低くなる。
いつものからかうような調子ではない大人の響き。
「リリア先輩?」
「こうして二人きりでいると、お主がどれだけ小さな存在かよく分かる」
リリアの手が今度は頬に触れた。冷たいはずの指先は思いのほか温かい。その手が髪を耳にかけ、そのまま首筋へと滑り落ちた。
「……ッ」
「息が止まっておるぞ」
「だって、急に」
「これが、ときめきというやつではないのか?」
リリアの顔がさらに近づく。彼の瞳の奥にある光が、じっと目の前の存在を射抜いていた。その強い視線にななしの身体がすくむ。
「……まだ、変化なしですね」
「ふむ。これでも駄目か」
リリアは手を引き、わずかに距離を取った。触れた場所には、まだ微かな熱の余韻が残り続けている。
「難攻不落じゃな、お主は」
「それはこっちのセリフです。リリア先輩こそ、全然動じてないじゃないですか」
「わしか? わしは先ほどから、それなりに楽しんでおるぞ。お主の新鮮な反応を見るのは悪くない」
「からかわないでください」
「からかってなどおらぬ。本気で外に出ようと考えておる」
リリアは立ち上がり再び壁の文字を見つめた。
「相手をキュンとさせる。主語がないのが気になるのう。わしがお主を、か。お主がわしを、か。あるいは……」
「あるいは?」
「お互いが同時に、という可能性もある」
リリアが振り返る。
その表情には確信めいた笑みが浮かんでいた。
「同時に、ですか?」
「そうじゃ。どちらか一方の感情だけでは、この部屋の鍵は開かないのかもしれん」
「じゃあ、わたしもリリア先輩を本気でドキドキさせないといけないってことですね」
「うむ。覚悟を決めて、かかってくるがいい」
リリアは両腕を広げ無防備な姿を晒した。
その余裕に満ちた態度に、ななしの視線が僅かに鋭くなる。
「……分かりました。じゃあ、行きます」
「ほう、やる気になったか」
リリアは広げた腕をそのままに、迎え入れるような姿勢を崩さない。
その胸元へと、一歩踏み込む。リリアの身体から、微かに衣類の擦れる音が聞こえた。いつもなら通り過ぎるはずの距離を越え、さらに足を進める。
「リリア先輩」
「なんじゃ」
ななしが声をかけると、リリアの視線がまっすぐに落ちてきた。
「……こうされるの、嫌ですか?」
「まさか。お主が自ら近づいてくるなど、滅多にない機会じゃからな」
リリアの言葉は相変わらず軽妙だった。けれど、その声のトーンは先ほどよりも低く、密閉された空間に深く残る。
伸ばした両手をリリアの制服の上着の裾へと伸ばした。薄い生地越しにリリアの体温が指先に伝わる。男にしては細身の身体だが、掴んだ布地の向こう側には確かな骨格と硬い筋肉の存在があった。
「ほう」
「……」
リリアの喉が小さく上下する。
ななしは布地を握る手に力を込めた。
そのまま顔を上げ、じっと彼を見つめ返す。
「リリア先輩は、本当に何ともないんですか」
「何ともない、と言えば嘘になるがのう」
リリアの口元から笑みが消えた。
「お主、手が少し震えておるぞ」
「……それは」
「緊張しておるのか。それとも、わしに怯えておるのか?」
リリアがゆっくりと自分の両腕を下ろした。
下ろされた手がななしの腰のあたりに添えられる。二人の間に、密着するような確かな圧迫感が生まれた。
「怯えて、ないです」
「強情なやつじゃ。心臓の音が、ここまで聞こえてきそうじゃがな」
リリアの顔が僅かに傾く。
彼の髪が相手の頬を掠めた。その瞬間、部屋の空気そのものが熱を帯びたように重くなる。密閉された空間の中で互いの呼吸だけが静かに重なり合っていく。
「ななし」
「はい」
「お主は、わしを先輩としてしか見ておらんのだろうな」
その問いかけにななしの言葉が詰まった。
リリアの指先が腰から背中へと這い上がってくる。
制服の生地を隔てていても、その指の動きがどこをなぞっているのかがはっきりと形となって伝わる。
「どうした。答えんのか?」
「……リリア先輩こそ、わたしのこと、どう思ってるんですか」
「わしか? わしはお主を……」
リリアの言葉が途切れる。
彼の顔がさらに数センチ近づいた。
吐息が唇の端に触れる。白一色の冷徹な部屋の中で、リリアの存在だけが圧倒的な熱量を持って迫っていた。
「これ以上は、お主が引き返せなくなるぞ」
「引き返すって、どこにですか」
「わしの、領域じゃ」
リリアの瞳の奥にある光が一段と深くなる。それは普段の学園生活では決して見せることのない、どこか艶を孕んだものだった。
背中に回されたリリアの手が力を帯びる。
身体が完全に密着した。リリアの胸の力強い鼓動が、そのままななしへと直接伝わっていく。
「リリア、先輩……」
「お主の勝ち、かもしれんな」
リリアの低い声が至近距離で揺れる。
彼の指先が今度はうなじへと触れた。肌に直接触れる指の熱に、ななしの身体が思わず小さく跳ねる。
「壁を見てみろ」
リリアに言われ、ななしは壁へと視線を向けた。
浮かび上がっていた無機質な文字が、淡い光を放ちながらゆっくりと形を崩し始めている。
「……消えかけて、ます」
「うむ。判定は下ったようじゃな」
リリアの腕の力は、緩まない。
むしろ衣服の摩擦さえもどかしいと思わせるほどに、その距離は強固に固定されていた。
首筋に触れる彼の指先が微かに這う。肌の表面を滑るような、それでいて芯を捉えるような動きに、ななしの肩が僅かに震えた。
「リリア先輩、もう部屋は……」
「開くであろうな。だが、わしが離すとは言っておらん」
その言葉は酷く静かだった。
からかうような響きは完全に削ぎ落とされ、低く冷たい熱だけがリリアの喉から紡がれている。
「……ずるいです」
「そうじゃな」
リリアはふっと息を吐き出す。
その熱が鎖骨のあたりに散り、ななしの肌を揺らした。
「だが、わしが不満足じゃ」
「え……」
「まだ、足りん。お主の心音が、こんなにも高鳴っておる。わしの腕の中で、お主がどれほど熱くなっておるか、お主自身は気づいておるまい」
リリアの指先が、うなじから髪の生え際をゆっくりと動く。
それに伴い、ななしの呼吸が僅かに浅くなった。密閉された空間の空気のすべてに、互いの存在が混ざり込んでいく。
「わたしは、ただ……」
「うむ。お主はただ一生懸命だった。そのひたむきさが、わしの胸に深く刺さった。……長く生きると、心臓が動く感覚など滅多に味わえんのじゃよ」
リリアの瞳が至近距離で見つめてくる。
そこには暗い夜の底のような、深い熱が揺らめいていた。
「ななし」
「はい」
「わしを揺さぶった責任は、取ってもらわねばな」
リリアの顔がさらに影を落とす。
唇がほとんど触れ合うほどの位置で止まった。
「……どうやって、取るんですか」
「こうするのじゃ」
リリアの唇がそっと重なった。
それは驚くほど静かで、しかし逃げることを許さない絶対的な重みを持っていた。
重なり合う部分から、じわじわと甘い熱が広がっていく。
リリアの舌先が、そっと唇の端をなぞる。
その微かな刺激に、ななしの喉奥から小さな吐息が漏れた。
彼はそれを逃さず、深く内側へと侵入してくる。
「っ……」
互いの呼吸が完全に重なる。
二人の与える熱と、内側から湧き上がる熱が混ざり合い、境界線が溶けていく。
どれほどの時間が経ったのだろう。
数秒のようでもあり、永遠のようでもあった。
ゆっくりと唇が離される。
リリアは潤んだ瞳で見上げるななしの姿を、じっと見つめていた。その表情にはいつもの余裕は微塵も残っていない。
「……やはり、お主は恐ろしい存在じゃな」
「リリア、先輩……」
「外の世界に戻っても、わしは元には戻れんぞ」
リリアはそう言うと満足そうに微笑んだ。
その笑顔はどこか切なく、それでいて幸福そうだった。
背中にあった彼の手が名残惜しそうに離れていく。
身体が離れると白い部屋の壁の文字は完全に消え去り、そこには元からそこにあったかのように、古い木製の扉が佇んでいた。
「さあ、帰るか。元の、騒がしい日常へ」
リリアは先に扉へと歩み寄りノブを手にする。
引かれた扉の隙間から、外の光が差し込んだ。
リリアはもう一度振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「次は、部屋の仕掛けなしで、わしをときめかせてみせよ、ななし」
その言葉を残し彼は扉を開いた。
光の向こう側へと進むリリアの背中を、ななしは熱の残る唇を指先でなぞりながら見つめ、追いかけるために一歩を踏み出した。
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