◯◯しないと出られない部屋
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カチリと背後で重々しい音が響いた。
振り返ればさっきまで開いていたはずの扉が壁と完全に一体化している。
取っ手はおろか隙間すら存在しない。
「おい、冗談はやめろ! 誰の仕業だ!」
静まり返った白い部屋にセベクの怒鳴り声が木霊する。
耳を塞ぎたくなるほどの声量だったが壁はびくともしない。
部屋の中央には頼りない木製のテーブルが一つ。その上には、見慣れない装飾の施された砂時計と羊皮紙が一枚置かれている。
「ちょっとセベク、うるさい。耳が痛いんだけど」
「うるさいとは何だ! この緊急事態に、お前はなぜそんなに落ち着いている!」
「落ち着いてるんじゃなくて、呆れてるの。ほら、あそこに何か書いてあるよ」
指差した先にある羊皮紙を、セベクがひったくるように持ち上げた。
そこに書かれた文字を鋭い視線で睨みつける。
30分手を繋がないと出られない部屋
「……30分手を繋がないと出られない……だと? 悪質な悪戯だな!」
「手を繋ぐ? それだけ?」
「それだけだと!? お前、僕と手を繋ぐという意味が分かっているのか!」
「意味も何も、ただの条件でしょ。さっさと終わらせて出ようよ」
差し出された右手をセベクは露骨に嫌そうな顔で見つめる。
プライドの塊のような彼にとって、この状況自体が屈辱的なのだろう。
しかし部屋には他に脱出口が見当たらない。
「くっ……。若様の護衛に戻らねばならないというのに、こんなところで時間を無駄にするわけにはいかない……!」
「はいはい、分かったから。ほら、早く」
促されて、セベクが渋々と手を伸ばす。
大きな手のひらが迷いながらもこちらの手に重なった。
その瞬間、テーブルの上の砂時計がひとりでにひっくり返り、さらさらと白い砂が落ち始める。
「……始まったみたいね」
「ふん。たかが30分だ。お前さえ大人しくしていれば、すぐに終わる」
そう言って、セベクはぐっと力を込めて握り込んできた。
骨が軋むほどの強さに、思わず顔が歪む。
「痛い! 力が強すぎる!」
「なっ……! お前が軟弱すぎるのだろう!」
「加減ってものがあるでしょ!」
「大袈裟な奴だ。これでどうだ!」
少しだけ緩められたものの、それでも十分に力強い。
彼の掌は驚くほど熱く、ゴツゴツとした硬さがある。
普段、どれほど厳しい鍛錬を積んでいるかが、触れているだけで伝わってくるようだった。
「……これなら文句ないだろう」
「まあ、さっきよりはマシ」
文句を言い合いながらも、繋いだ手は離せない。
二人は部屋の壁に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。
沈黙が流れると、途端に部屋の狭さが際立つ。
普段のナイトレイブンカレッジでの喧騒が嘘のように、静寂が二人を包み込んだ。
「……セベク、静かだね」
「お前が喋らないからだろう」
「いつもはあなたが大声で喋り倒してるだけでしょ」
「僕は必要なことしか口にしていない!」
きっぱりと言い放つセベクの横顔を見る。
いつも通りの不機嫌そうな表情。
だが繋がれた手からは、彼の規則正しい、しかしどこか普段より早い鼓動が微かに伝わってくる気がした。
「……何を見ている」
「別に。何分経ったかなって思っただけ」
「砂時計を見れば分かる。まだ5分も経っていない」
「先は長いね」
はあ、とわざとらしくため息をついてみせる。
セベクはそれを聞いて、不満げに眉を寄せた。
「僕と手を繋いでいるのがそんなに不満か」
「不満っていうか、緊張感がないっていうか」
「緊張感なら僕が持っている! どんな敵が襲ってきても、お前を守れるようにな!」
「へえ、セベクが守ってくれるんだ」
「なっ……! ぶ、無礼者! 僕は若様の護衛としての心構えを言ったまでだ! お前を特別視しているわけではない!」
「はいはい。でも、ちょっと安心した」
「――っ! 邪推はやめろと言っているだろう!」
ひとりで勝手に赤くなり、声を荒らげるセベクの横顔を見る。
いつもの頑なさに少しだけ口元が緩む。
そう思うと、この奇妙な状況への不安も少しずつ薄れていく。
だが時間が経つにつれて、別の違和感が首をもたげ始めた。
繋いだ手のひらが、じっとりと熱を帯び始めている。
密着した皮膚の境界線が、体温によって曖昧になっていくような感覚。
「ねえ、セベク」
「何だ」
「……なんか、熱くない?」
「部屋の温度は一定のはずだ。お前の気のせいだろう」
セベクは冷たくあしらうが、その声は心なしかいつもより低かった。
視線を向けると、彼は頑なに正面を向いたまま頑としてこちらを見ようとしない。
その耳の先端が、心なしか赤くなっているように見えるのは部屋の照明のせいだろうか。
「本当に? セベクの手、すごく熱いよ」
「僕の体温が高いのは生まれつきだ! 文句を言うな!」
言い返しながらセベクの指がわずかに動いた。
こちらの指の隙間に彼の長い指がすり抜けるようにして、深く入り込んでいく。
ただ重ねていただけの手が、いつの間にか指を交差させる形へと変わっていた。
「あ……」
「……離すと最初からやり直しになる可能性がある。より確実に固定するためだ。変な勘違いをするなよ」
言い訳のような言葉を口にするセベクの指先が、微かに震えている。
がっちりと噛み合わされた指と指。
手のひら全体がぴったりと隙間なく密着し、お互いの皮膚の柔らかさと硬さがダイレクトに伝わってきた。
「勘違いなんてしてないけど」
「ならいい」
セベクの声が先ほどよりも少しだけ掠れていた。
砂時計の砂は、まだ半分も落ちていない。
それなのに、部屋の中の空気が確実に変化し始めているのを二人は感じていた。
沈黙が部屋の熱をじわじわと引き上げていく。
繋ぎ合わされた手のひらは完全に馴染み合っていた。
セベクの大きな手がななしの指をきつく包み込む。
その指先がわずかに動くたびにお互いの境界が融けていくような錯覚さえ覚える。
「……おい」
「なに?」
「お前の手はなぜそんなに冷たいのだ」
「冷たくないよ。セベクの体温が高すぎるだけ」
「僕が異常だと言うのか」
「そうじゃなくて、あなたが温かいって言ってるの」
ななしが少しだけ力を込めて握り返すとセベクの肩が小さく跳ねた。
彼は大きく息を吸い込み再び頑なに正面を見つめる。
「ふん。僕の強靭な肉体からすればこの程度の体温は当然だ」
「じゃあその温かい手でしっかり握っててね。離れたら最初からだし」
「言われずとも離すつもりはない!」
セベクは語気を強めたが繋がれた指の合わせ目はどこか優しかった。
言葉の鋭さとは裏腹にななしの手を壊れ物でも扱うかのように微調整するその仕草が余計に意識を手のひらへと集中させる。
お互いの手のひらから伝わる脈動。
規則正しく打たれるその音がどちらのものなのか判別がつかなくなっていく。
「……セベク、耳まで赤くなってるよ」
「なっ……! 部屋の照明だろう!」
「照明は白いよ」
「やかましい! 僕に話しかけるな!」
怒鳴るセベクの横顔は明らかに普段のそれとは違っていた。
威勢は良いものの視線が泳ぎおのずと呼吸が浅くなっている。
ななしもまたからかうような口調を維持しながらも自身の胸の鼓動が速くなっていることに気づいていた。
セベクの体温が指先から腕へそして胸の奥へとじわじわと染み込んでいく。
「ねえ、本当に怒ってない?」
「怒ってなどいないと何度も言わせるな!」
「じゃあどうしてこっちを見ないの」
「見る必要がないからだ!」
「わたしはセベクの顔、見たいんだけどな」
その言葉が落ちた瞬間セベクの身体が完全に硬直した。
繋いだ手から伝わる彼の熱が一気に跳ね上がったような気がした。
ゆっくりと、しかしどこか恐る恐るという風にセベクの顔がこちらを向く。
「お前……今、何と言った」
「別に。何でもないよ」
「誤魔化すな! はっきりと聞こえたぞ!」
「聞こえたなら言わせないでよ。恥ずかしいんだから」
ななしがそっぽを向くと今度はセベクがその顔を覗き込もうとしてくる。大きな身体がじりじりと近づき二人の肩と肩が触れ合った。
触れている部分すべてから熱が伝わってくる。
「恥ずかしい? お前が、僕に対してか?」
「そうだよ。こんなに近くで、ずっと手を繋いでるんだから」
「……っ」
セベクは何かを言おうとして口を開きそのまま言葉を失ったように沈黙した。彼の大きな手のひらが今度は包み込むだけでなくななしの指の隙間をさらに深く満たしていく。
指の根元までが固く噛み合いもういっそのこと一つの塊のようになっていた。
「……僕だって、同じだ」
消え入りそうな声でセベクが呟いた。
その声はいつも寄宿舎中に響き渡る大声とは似ても似つかないほど繊細で甘い響きを帯びていた。
ななしは驚いてセベクを見た。
彼の顔は今や耳だけでなく首筋まで真っ赤に染まっている。
それでも彼は今度は目を逸らさなかった。
まっすぐにこちらを見つめるその瞳にはいつもの反抗的な光ではなく戸惑いと熱い情動が揺らめいている。
「セベク……」
「お前の手の熱が、僕の身体の中を滅茶苦茶にかき回している。……これは、お前の魔術か何かか?」
「そんなわけないでしょ。ただ手を繋いでるだけ」
「嘘だ。ただの接触で、これほど息が苦しくなるはずがない」
セベクの呼吸は明らかに乱れていた。
胸が大きく上下し繋いだ手からは汗ばんだ湿り気と、耐えきれないほどの熱が溢れ出している。
その熱はななしの身体感覚をも麻痺させていく。
頭の芯がぼうっとして思考がまとまらない。
ただセベクの手のひらの感触と彼の熱い息遣いだけが部屋のすべてを支配しているかのように感じられた。
「苦しいの?」
「……苦しい。だが、不快ではない」
セベクがぽつりと言い、繋いだ手をさらに自分の胸元へと引き寄せた。
彼の胸板の硬さと、その奥でトクトクと暴れるように鳴り響く心音がななしの甲に直接伝わってくる。
二人の距離はもう、唇が触れ合うほどの近さまで縮まっていた。
「ななし……」
「なに……?」
「砂が……」
セベクが視線を向けた先、テーブルの上の砂時計は残りわずかな砂をさらさらと落とし続けていた。しかし二人の意識は、もう扉が開くことなどどうでもよくなっているかのように、お互いの熱に深く沈み込んでいた。
さらり、と最後の砂が落ちた。
同時に部屋のどこかで小さく、そして確かに何かが解錠される音がした。
元の壁に戻っていたはずの扉が、再びわずかな隙間を開けてそこに佇んでいる。
「……開いた、みたいだね」
「あ、ああ……そう、らしいな」
それなのに、どちらも手を離そうとはしなかった。
がっちりと絡み合った指先はすでに汗ばんで、お互いの体温を逃がさないように固く結ばれたままだ。むしろ、扉が開いたという事実が、二人の間の境界をさらに狭めるかのように作用していた。
「セベク」
「何だ」
「手が、離せないんだけど」
「……僕が離していないのではない。お前が力を込めているからだ」
「嘘言わないで。セベクの方が、さっきからずっと強く握ってる」
セベクは反論しようとして、そのまま口を噤んだ。
彼の視線が、ななしの目元から、微かに震える唇へとゆっくりと滑り落ちる。至近距離にある彼の吐息が、ななしの肌を直接撫で、熱を煽っていく。
もう、どちらの心臓がこれほど激しく脈打っているのかなど、考える余裕すら失われていた。
「ななし」
「なに……?」
「お前は、このまま僕と手を離し、平然とあの扉を出られるのか」
「出られるわけないでしょ。こんなに、頭がぼうっとしてるのに」
「……僕もだ」
セベクの手が動き、絡み合う指の隙間をさらに圧迫するように力を込める。彼の大きな身体が、逃げ道を塞ぐようにして、さらに一歩近づいた。
互いの胸元が触れ合い、衣服越しにセベクの強靭な鼓動が直に伝わってくる。その絶対的な質量と、彼の中から溢れ出る熱情に、ななしはただ翻弄されるしかなかった。
「お前のその顔が……僕を狂わせているのだと、自覚しろ」
「わたしのせいにするなんて、ずるいよ。先にそんな顔をしたのは、セベクのほうじゃない」
「うるさい……! 僕が、どのような顔をしていると言うのだ!」
「泣きそうなのに、すごく、熱い目をしてる」
その指摘に、セベクの喉がひくりと揺れた。
彼はまるで耐えかねたように繋いでいない方の手を伸ばし、ななしの頬を包み込んだ。
指先が肌に触れた瞬間、体内に甘い電流が走る。
彼の手のひらは、驚くほど熱く、そしてどこまでも優しかった。
「お前が、僕をこんな風にしたのだ」
「セベク……」
「引き返すなど、もう許さぬからな」
囁きと同時に、熱い唇が重ねられた。
吸い込まれるような接触に、ななしは小さく息を呑む。
その隙を突くように、セベクの接吻はさらに深く濃密に重なる。
互いの息が混ざり合い、部屋の酸素がすべて彼に奪われていくかのような錯覚に陥った。
頭の芯が完全に融け、繋いだ手のひらから、そして触れ合う唇から、ただ無尽蔵の熱だけが注ぎ込まれていく。
「ん……っ、セベク……」
「ななし……」
一度離れかけた唇が磁石のように吸い寄せられ、再び深く交わされる。
セベクの大きな手がななしの背中に回り、壊れ物を抱くように、それでいて絶対に逃がさないという強い意志を込めて、その身体を強く抱きしめた。
背中に回された彼の腕から、彼の必死な想いが言葉を介さずにすべて流れ込んでくるようだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
ようやく唇が離れたとき、二人の呼吸は完全に乱れ、部屋の空気は甘く淀んでいた。
セベクは赤くなった顔を隠すように、ななしの肩口に額を預けて、大きく息を吐き出している。
「……おい」
「なに?」
「もう一度、お前の口から聞かせろ」
「何を?」
「僕の顔が、見たいと言っただろう。……あれは、どういう意味だ」
耳元で響く低い声が、ななしの鼓動を再び跳ね上げる。
肩に回されたセベクの腕に、さらにぎゅっと力が込められた。
「そのままの意味だよ。セベクのことが、好きだから見たいの」
「……っ!」
セベクの身体が、弾かれたように跳ね起きた。
彼の顔は首元まで真っ赤に染まり、息を切らせながら、信じられないものを見るかのようにななしを見つめている。
「お、お前……! そのようなことを、簡単に言うな!」
「すごく勇気を出して言ったんだけど」
「嘘をつくな! お前はいつも、僕をからかって楽しんでいるだろう!」
「からかってない。……本当に、好きなんだから」
そっぽを向いたななしの顎を、セベクの大きな手が優しく引き戻す。
彼の瞳に宿る熱は、先ほどよりもさらに深く、揺るぎないものに変わっていた。
「……僕の方が、お前を想う気持ちは強い」
「張り合わないでよ、そんなところで」
「張り合ってなどいない! 事実を述べているだけだ!」
そう言い張りながらも、セベクの表情はどこか嬉しそうに和らいでいた。
彼は繋いだままの手を自分の唇に寄せ、ななしの指先にそっと口づけを落とした。
その丁寧な仕草に、胸の奥がくすぐったいほどの甘さで満たされていく。
「……帰るぞ」
「うん」
「だが、部屋を出ても、この手は離さぬ」
「食堂とかでそれやったら、みんなに見られるよ」
「見られたところで、何の問題がある! 僕は何も恥じることなどしていない!」
再びいつもの大きな声が戻ってきたことに、ななしは思わず吹き出した。それでも絡められた指先は、今度はセベクの意思でさらに固く結び直された。
二人はゆっくりと立ち上がり、開いた扉へと歩き出す。
部屋を一歩踏み出した先には、いつもの見慣れたナイトレイブンカレッジの廊下が広がっていた。
しかし、繋がれた手から伝わる熱だけは、あの閉ざされた空間のまま、冷めることなく脈打ち続けていた。
振り返ればさっきまで開いていたはずの扉が壁と完全に一体化している。
取っ手はおろか隙間すら存在しない。
「おい、冗談はやめろ! 誰の仕業だ!」
静まり返った白い部屋にセベクの怒鳴り声が木霊する。
耳を塞ぎたくなるほどの声量だったが壁はびくともしない。
部屋の中央には頼りない木製のテーブルが一つ。その上には、見慣れない装飾の施された砂時計と羊皮紙が一枚置かれている。
「ちょっとセベク、うるさい。耳が痛いんだけど」
「うるさいとは何だ! この緊急事態に、お前はなぜそんなに落ち着いている!」
「落ち着いてるんじゃなくて、呆れてるの。ほら、あそこに何か書いてあるよ」
指差した先にある羊皮紙を、セベクがひったくるように持ち上げた。
そこに書かれた文字を鋭い視線で睨みつける。
30分手を繋がないと出られない部屋
「……30分手を繋がないと出られない……だと? 悪質な悪戯だな!」
「手を繋ぐ? それだけ?」
「それだけだと!? お前、僕と手を繋ぐという意味が分かっているのか!」
「意味も何も、ただの条件でしょ。さっさと終わらせて出ようよ」
差し出された右手をセベクは露骨に嫌そうな顔で見つめる。
プライドの塊のような彼にとって、この状況自体が屈辱的なのだろう。
しかし部屋には他に脱出口が見当たらない。
「くっ……。若様の護衛に戻らねばならないというのに、こんなところで時間を無駄にするわけにはいかない……!」
「はいはい、分かったから。ほら、早く」
促されて、セベクが渋々と手を伸ばす。
大きな手のひらが迷いながらもこちらの手に重なった。
その瞬間、テーブルの上の砂時計がひとりでにひっくり返り、さらさらと白い砂が落ち始める。
「……始まったみたいね」
「ふん。たかが30分だ。お前さえ大人しくしていれば、すぐに終わる」
そう言って、セベクはぐっと力を込めて握り込んできた。
骨が軋むほどの強さに、思わず顔が歪む。
「痛い! 力が強すぎる!」
「なっ……! お前が軟弱すぎるのだろう!」
「加減ってものがあるでしょ!」
「大袈裟な奴だ。これでどうだ!」
少しだけ緩められたものの、それでも十分に力強い。
彼の掌は驚くほど熱く、ゴツゴツとした硬さがある。
普段、どれほど厳しい鍛錬を積んでいるかが、触れているだけで伝わってくるようだった。
「……これなら文句ないだろう」
「まあ、さっきよりはマシ」
文句を言い合いながらも、繋いだ手は離せない。
二人は部屋の壁に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。
沈黙が流れると、途端に部屋の狭さが際立つ。
普段のナイトレイブンカレッジでの喧騒が嘘のように、静寂が二人を包み込んだ。
「……セベク、静かだね」
「お前が喋らないからだろう」
「いつもはあなたが大声で喋り倒してるだけでしょ」
「僕は必要なことしか口にしていない!」
きっぱりと言い放つセベクの横顔を見る。
いつも通りの不機嫌そうな表情。
だが繋がれた手からは、彼の規則正しい、しかしどこか普段より早い鼓動が微かに伝わってくる気がした。
「……何を見ている」
「別に。何分経ったかなって思っただけ」
「砂時計を見れば分かる。まだ5分も経っていない」
「先は長いね」
はあ、とわざとらしくため息をついてみせる。
セベクはそれを聞いて、不満げに眉を寄せた。
「僕と手を繋いでいるのがそんなに不満か」
「不満っていうか、緊張感がないっていうか」
「緊張感なら僕が持っている! どんな敵が襲ってきても、お前を守れるようにな!」
「へえ、セベクが守ってくれるんだ」
「なっ……! ぶ、無礼者! 僕は若様の護衛としての心構えを言ったまでだ! お前を特別視しているわけではない!」
「はいはい。でも、ちょっと安心した」
「――っ! 邪推はやめろと言っているだろう!」
ひとりで勝手に赤くなり、声を荒らげるセベクの横顔を見る。
いつもの頑なさに少しだけ口元が緩む。
そう思うと、この奇妙な状況への不安も少しずつ薄れていく。
だが時間が経つにつれて、別の違和感が首をもたげ始めた。
繋いだ手のひらが、じっとりと熱を帯び始めている。
密着した皮膚の境界線が、体温によって曖昧になっていくような感覚。
「ねえ、セベク」
「何だ」
「……なんか、熱くない?」
「部屋の温度は一定のはずだ。お前の気のせいだろう」
セベクは冷たくあしらうが、その声は心なしかいつもより低かった。
視線を向けると、彼は頑なに正面を向いたまま頑としてこちらを見ようとしない。
その耳の先端が、心なしか赤くなっているように見えるのは部屋の照明のせいだろうか。
「本当に? セベクの手、すごく熱いよ」
「僕の体温が高いのは生まれつきだ! 文句を言うな!」
言い返しながらセベクの指がわずかに動いた。
こちらの指の隙間に彼の長い指がすり抜けるようにして、深く入り込んでいく。
ただ重ねていただけの手が、いつの間にか指を交差させる形へと変わっていた。
「あ……」
「……離すと最初からやり直しになる可能性がある。より確実に固定するためだ。変な勘違いをするなよ」
言い訳のような言葉を口にするセベクの指先が、微かに震えている。
がっちりと噛み合わされた指と指。
手のひら全体がぴったりと隙間なく密着し、お互いの皮膚の柔らかさと硬さがダイレクトに伝わってきた。
「勘違いなんてしてないけど」
「ならいい」
セベクの声が先ほどよりも少しだけ掠れていた。
砂時計の砂は、まだ半分も落ちていない。
それなのに、部屋の中の空気が確実に変化し始めているのを二人は感じていた。
沈黙が部屋の熱をじわじわと引き上げていく。
繋ぎ合わされた手のひらは完全に馴染み合っていた。
セベクの大きな手がななしの指をきつく包み込む。
その指先がわずかに動くたびにお互いの境界が融けていくような錯覚さえ覚える。
「……おい」
「なに?」
「お前の手はなぜそんなに冷たいのだ」
「冷たくないよ。セベクの体温が高すぎるだけ」
「僕が異常だと言うのか」
「そうじゃなくて、あなたが温かいって言ってるの」
ななしが少しだけ力を込めて握り返すとセベクの肩が小さく跳ねた。
彼は大きく息を吸い込み再び頑なに正面を見つめる。
「ふん。僕の強靭な肉体からすればこの程度の体温は当然だ」
「じゃあその温かい手でしっかり握っててね。離れたら最初からだし」
「言われずとも離すつもりはない!」
セベクは語気を強めたが繋がれた指の合わせ目はどこか優しかった。
言葉の鋭さとは裏腹にななしの手を壊れ物でも扱うかのように微調整するその仕草が余計に意識を手のひらへと集中させる。
お互いの手のひらから伝わる脈動。
規則正しく打たれるその音がどちらのものなのか判別がつかなくなっていく。
「……セベク、耳まで赤くなってるよ」
「なっ……! 部屋の照明だろう!」
「照明は白いよ」
「やかましい! 僕に話しかけるな!」
怒鳴るセベクの横顔は明らかに普段のそれとは違っていた。
威勢は良いものの視線が泳ぎおのずと呼吸が浅くなっている。
ななしもまたからかうような口調を維持しながらも自身の胸の鼓動が速くなっていることに気づいていた。
セベクの体温が指先から腕へそして胸の奥へとじわじわと染み込んでいく。
「ねえ、本当に怒ってない?」
「怒ってなどいないと何度も言わせるな!」
「じゃあどうしてこっちを見ないの」
「見る必要がないからだ!」
「わたしはセベクの顔、見たいんだけどな」
その言葉が落ちた瞬間セベクの身体が完全に硬直した。
繋いだ手から伝わる彼の熱が一気に跳ね上がったような気がした。
ゆっくりと、しかしどこか恐る恐るという風にセベクの顔がこちらを向く。
「お前……今、何と言った」
「別に。何でもないよ」
「誤魔化すな! はっきりと聞こえたぞ!」
「聞こえたなら言わせないでよ。恥ずかしいんだから」
ななしがそっぽを向くと今度はセベクがその顔を覗き込もうとしてくる。大きな身体がじりじりと近づき二人の肩と肩が触れ合った。
触れている部分すべてから熱が伝わってくる。
「恥ずかしい? お前が、僕に対してか?」
「そうだよ。こんなに近くで、ずっと手を繋いでるんだから」
「……っ」
セベクは何かを言おうとして口を開きそのまま言葉を失ったように沈黙した。彼の大きな手のひらが今度は包み込むだけでなくななしの指の隙間をさらに深く満たしていく。
指の根元までが固く噛み合いもういっそのこと一つの塊のようになっていた。
「……僕だって、同じだ」
消え入りそうな声でセベクが呟いた。
その声はいつも寄宿舎中に響き渡る大声とは似ても似つかないほど繊細で甘い響きを帯びていた。
ななしは驚いてセベクを見た。
彼の顔は今や耳だけでなく首筋まで真っ赤に染まっている。
それでも彼は今度は目を逸らさなかった。
まっすぐにこちらを見つめるその瞳にはいつもの反抗的な光ではなく戸惑いと熱い情動が揺らめいている。
「セベク……」
「お前の手の熱が、僕の身体の中を滅茶苦茶にかき回している。……これは、お前の魔術か何かか?」
「そんなわけないでしょ。ただ手を繋いでるだけ」
「嘘だ。ただの接触で、これほど息が苦しくなるはずがない」
セベクの呼吸は明らかに乱れていた。
胸が大きく上下し繋いだ手からは汗ばんだ湿り気と、耐えきれないほどの熱が溢れ出している。
その熱はななしの身体感覚をも麻痺させていく。
頭の芯がぼうっとして思考がまとまらない。
ただセベクの手のひらの感触と彼の熱い息遣いだけが部屋のすべてを支配しているかのように感じられた。
「苦しいの?」
「……苦しい。だが、不快ではない」
セベクがぽつりと言い、繋いだ手をさらに自分の胸元へと引き寄せた。
彼の胸板の硬さと、その奥でトクトクと暴れるように鳴り響く心音がななしの甲に直接伝わってくる。
二人の距離はもう、唇が触れ合うほどの近さまで縮まっていた。
「ななし……」
「なに……?」
「砂が……」
セベクが視線を向けた先、テーブルの上の砂時計は残りわずかな砂をさらさらと落とし続けていた。しかし二人の意識は、もう扉が開くことなどどうでもよくなっているかのように、お互いの熱に深く沈み込んでいた。
さらり、と最後の砂が落ちた。
同時に部屋のどこかで小さく、そして確かに何かが解錠される音がした。
元の壁に戻っていたはずの扉が、再びわずかな隙間を開けてそこに佇んでいる。
「……開いた、みたいだね」
「あ、ああ……そう、らしいな」
それなのに、どちらも手を離そうとはしなかった。
がっちりと絡み合った指先はすでに汗ばんで、お互いの体温を逃がさないように固く結ばれたままだ。むしろ、扉が開いたという事実が、二人の間の境界をさらに狭めるかのように作用していた。
「セベク」
「何だ」
「手が、離せないんだけど」
「……僕が離していないのではない。お前が力を込めているからだ」
「嘘言わないで。セベクの方が、さっきからずっと強く握ってる」
セベクは反論しようとして、そのまま口を噤んだ。
彼の視線が、ななしの目元から、微かに震える唇へとゆっくりと滑り落ちる。至近距離にある彼の吐息が、ななしの肌を直接撫で、熱を煽っていく。
もう、どちらの心臓がこれほど激しく脈打っているのかなど、考える余裕すら失われていた。
「ななし」
「なに……?」
「お前は、このまま僕と手を離し、平然とあの扉を出られるのか」
「出られるわけないでしょ。こんなに、頭がぼうっとしてるのに」
「……僕もだ」
セベクの手が動き、絡み合う指の隙間をさらに圧迫するように力を込める。彼の大きな身体が、逃げ道を塞ぐようにして、さらに一歩近づいた。
互いの胸元が触れ合い、衣服越しにセベクの強靭な鼓動が直に伝わってくる。その絶対的な質量と、彼の中から溢れ出る熱情に、ななしはただ翻弄されるしかなかった。
「お前のその顔が……僕を狂わせているのだと、自覚しろ」
「わたしのせいにするなんて、ずるいよ。先にそんな顔をしたのは、セベクのほうじゃない」
「うるさい……! 僕が、どのような顔をしていると言うのだ!」
「泣きそうなのに、すごく、熱い目をしてる」
その指摘に、セベクの喉がひくりと揺れた。
彼はまるで耐えかねたように繋いでいない方の手を伸ばし、ななしの頬を包み込んだ。
指先が肌に触れた瞬間、体内に甘い電流が走る。
彼の手のひらは、驚くほど熱く、そしてどこまでも優しかった。
「お前が、僕をこんな風にしたのだ」
「セベク……」
「引き返すなど、もう許さぬからな」
囁きと同時に、熱い唇が重ねられた。
吸い込まれるような接触に、ななしは小さく息を呑む。
その隙を突くように、セベクの接吻はさらに深く濃密に重なる。
互いの息が混ざり合い、部屋の酸素がすべて彼に奪われていくかのような錯覚に陥った。
頭の芯が完全に融け、繋いだ手のひらから、そして触れ合う唇から、ただ無尽蔵の熱だけが注ぎ込まれていく。
「ん……っ、セベク……」
「ななし……」
一度離れかけた唇が磁石のように吸い寄せられ、再び深く交わされる。
セベクの大きな手がななしの背中に回り、壊れ物を抱くように、それでいて絶対に逃がさないという強い意志を込めて、その身体を強く抱きしめた。
背中に回された彼の腕から、彼の必死な想いが言葉を介さずにすべて流れ込んでくるようだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
ようやく唇が離れたとき、二人の呼吸は完全に乱れ、部屋の空気は甘く淀んでいた。
セベクは赤くなった顔を隠すように、ななしの肩口に額を預けて、大きく息を吐き出している。
「……おい」
「なに?」
「もう一度、お前の口から聞かせろ」
「何を?」
「僕の顔が、見たいと言っただろう。……あれは、どういう意味だ」
耳元で響く低い声が、ななしの鼓動を再び跳ね上げる。
肩に回されたセベクの腕に、さらにぎゅっと力が込められた。
「そのままの意味だよ。セベクのことが、好きだから見たいの」
「……っ!」
セベクの身体が、弾かれたように跳ね起きた。
彼の顔は首元まで真っ赤に染まり、息を切らせながら、信じられないものを見るかのようにななしを見つめている。
「お、お前……! そのようなことを、簡単に言うな!」
「すごく勇気を出して言ったんだけど」
「嘘をつくな! お前はいつも、僕をからかって楽しんでいるだろう!」
「からかってない。……本当に、好きなんだから」
そっぽを向いたななしの顎を、セベクの大きな手が優しく引き戻す。
彼の瞳に宿る熱は、先ほどよりもさらに深く、揺るぎないものに変わっていた。
「……僕の方が、お前を想う気持ちは強い」
「張り合わないでよ、そんなところで」
「張り合ってなどいない! 事実を述べているだけだ!」
そう言い張りながらも、セベクの表情はどこか嬉しそうに和らいでいた。
彼は繋いだままの手を自分の唇に寄せ、ななしの指先にそっと口づけを落とした。
その丁寧な仕草に、胸の奥がくすぐったいほどの甘さで満たされていく。
「……帰るぞ」
「うん」
「だが、部屋を出ても、この手は離さぬ」
「食堂とかでそれやったら、みんなに見られるよ」
「見られたところで、何の問題がある! 僕は何も恥じることなどしていない!」
再びいつもの大きな声が戻ってきたことに、ななしは思わず吹き出した。それでも絡められた指先は、今度はセベクの意思でさらに固く結び直された。
二人はゆっくりと立ち上がり、開いた扉へと歩き出す。
部屋を一歩踏み出した先には、いつもの見慣れたナイトレイブンカレッジの廊下が広がっていた。
しかし、繋がれた手から伝わる熱だけは、あの閉ざされた空間のまま、冷めることなく脈打ち続けていた。
