歌詞シリーズ
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オンボロ寮の壊れたソファーの真ん中。
湿った夜気が窓の隙間から滑り込み、部屋の隅の埃を小さく揺らす。
ななしの隣には、あまりにも長すぎる四肢を持った男が寝そべっていた。
「ねえ、小エビちゃん」
フロイドは自分の前髪を指先で弄びながら天井を見上げている。その瞳は、暗がりの中でも不思議な光を湛えて鈍く輝く。
「なんですか、フロイド先輩」
「なんかさあ、退屈。すっごい退屈。なんか面白いことしてよ」
「面白いことと言われても、わたしには何もできませんよ」
ななしは膝の上に置いた古い魔導書の頁をめくる。
紙の擦れる音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
「嘘。小エビちゃん、いっつもオレのこと驚かせるじゃん。ほら、その顔。真面目ぶっちゃってさあ」
フロイドは大きな身体を寝返らせ、ななしの太腿に容赦なく頭を乗せてきた。ずしりとした重みが伝わる。彼の髪から微かに潮の香りと、購買部で売っている安価なキャンディの匂いが立ち上った。
「重いです、フロイド先輩」
「いーじゃん。オレ、今すっごい不機嫌になりそうなんだよね。小エビちゃんが優しくしてくれないと、その本、バリバリに破いちゃうかもよ?」
「困ります。図書室から借りてきたものなので」
「じゃあオレを見て。本なんかより、オレの方がずっと面白いよ?」
下から見上げてくる瞳が、悪戯っぽく細められる。
ななしは溜息をひとつ吐き、魔導書を閉じて傍らに置いた。
フロイドは満足そうに口元を歪め、長い指先でななしのシャツの裾を軽く引っ張る。
「そうそう、いい子。小エビちゃんはさあ、オレがいなくなったら寂しい?」
「……急に、なんの話ですか」
「んー? なんとなく。オレ、飽き性だしさ。明日にはどっか遠いところに行っちゃうかもよ? 海の底とか、もっと別の世界とか」
「それは困ります。フロイド先輩がいないと、モストロ・ラウンジのシフトが回らなくてアズール先輩が怒鳴り込んできますから」
「あはは! アズールのことなんかどーでもいーの。オレが聞いてんのは、小エビちゃん個人の話」
フロイドの低い笑い声が、胸の奥を微かに震わせる。
彼はそのまま、ななしの手首をそっと掴んだ。
その手は驚くほど熱く、そして強固だった。
「ねえ、小エビちゃん」
「はい」
「オレさあ、死にたくないなあ」
突飛な言葉だった。
いつも気まぐれで、他人の命にも自分の命にも執着が薄そうに見える男の口から出たとは思えない単語。ななしは掴まれた手首に意識を集中させないよう、努めて平坦な声を返す。
「そんな物騒なこと言わないでください」
「わかんないじゃん。明日、空からおっきな石が降ってくるかもしれないし、オレが息の仕方を忘れちゃうかもしれない。そしたらさあ、オレ、小エビちゃんに会えなくなっちゃうじゃん」
フロイドの指先が、手首から手のひらへと移動する。
親指の腹が、ななしの皮膚をゆっくりと擦る。
その皮膚が擦れ合う微かな摩擦が、部屋の温度を一段階引き上げたような錯覚を呼ぶ。
「……フロイド先輩、少し熱い気がします」
「んー? そう? オレ、いっつもこんなもんだよ。小エビちゃんが冷たすぎるんじゃない?」
フロイドは起き上がり、今度はななしの顔のすぐ近くまでその端正な容姿を近づけた。
夜の闇が二人の距離を曖昧にする。
視線が絡み合い、外を走る風の音が遠ざかっていく。
じわじわと、鼓動が速くなるのがわかる。
それが自分のものなのか、それとも眼前の大柄な人魚のものなのか、判別がつかない。
「小エビちゃんさあ、オレといるとき、どんな気持ち?」
「どんな、と言われても」
「オレはねえ、今、すっごい心臓がバタバタしてる。うるさいくらい。小エビちゃんのちっちゃい手がここにあるだけで、なんか頭の奥がジンジンするんだよね」
フロイドはななしの手を自分の胸へと導いた。
厚い胸板の向こう側で、確かに獰猛なほどのテンポで肉塊が脈打っている。ドクドクと規則正しく、しかし暴力的なまでの生命力が手のひらを通じて脳内に流れ込んでくる。
「ねえ、聞こえる? これ、全部小エビちゃんのせい。オレをこんな風にしたの、小エビちゃんだよ」
「フロイド先輩が勝手に興奮しているだけです」
「冷たいなあ。でも、その冷たいのがすっごい気持ちいい」
フロイドの吐息が前髪をかすめる。熱が、
波のように押し寄せては退き、また押し寄せる。
部屋の中の空気が密度を増し、呼吸が少しだけ苦しくなる。
ななしの視界はフロイドの濡れたような瞳と、わずかに開かれた薄い唇だけで満たされていた。
「小エビちゃん、目、離しちゃダメだよ。オレだけ見てて。オレのことだけ考えて」
彼の声は、いつもの軽薄さを完全に失っていた。
低く、掠れたその響きは、まるで深い海の底から響く呪文のようだった。
「……見ています。見ていますから、そんなに強く握らないでください」
「やだ。離したら、小エビちゃんどっか行っちゃいそうだもん。オレ、絶対に離さないから」
フロイドの大きな身体が、じりじりとななしをソファーの背もたれへと追い詰めていく。逃げ場のない狭い空間の中で、二人の影は完全にひとつに重なり合おうとしていた。
身体の境界線が、曖昧になっていく。
衣服越しに伝わる皮膚の温度が、血流となって自身の身体を巡るような、奇妙な一体感がそこにはあった。
フロイドの指先が、今度はななしの頬に触れる。大きな手が、壊れやすい硝子細工を扱うかのように、慎重に、かつ執拗にその輪郭をなぞった。
「小エビちゃん」
その呼び声は、もはや切願に近かった。
この世の終わりを恐れる子供のように、あるいは、永遠を手に入れようとする道化のように。
「オレのこと、忘れたら絶対に許さないからね。死んでも、忘れないで」
濃密な夜の闇が、二人のすべてを塗り潰していく。ななしはただ、その圧倒的な熱の渦の中に、深く深く沈んでいくしかなかった。
ソファーの背もたれに押し付けられた背中に、古びたスプリングの軋む感触が微かに伝わる。だが、その程度の硬質な違和感など、眼前に迫る巨大な質量を前にしては瞬時に霧散してしまった。
頬に触れる彼の指先は、ひどく熱い。
熱帯の夜に放置された濡れた砂のように、じっとりと肌を侵食していく。
「……フロイド先輩、本当にどうしたんですか。今日、いつもよりおかしいです」
ななしの声は、暗い部屋の空気に溶けていくように低かった。
恐れているわけではない。
ただ彼の瞳の奥に宿る、言葉にできないほどに飢えた光に、どう応えればいいのかがわからない。
「おかしくなんかないって。オレさあ、いっつも考えてるもん。もし明日、世界が全部海に沈んじゃったら、小エビちゃんは死んじゃうのかなあって」
フロイドは細い笑みを浮かべたまま、顔をさらに近づけてくる。
彼の前髪がななしの額に触れ、くすぐったいような、それでいて皮膚を直接焦がされるような錯覚が走る。
「フロイド先輩は、わたしを助けてくれますか」
「助けるに決まってんじゃん。でもさあ、もしオレの手が届かないくらい遠いところで、小エビちゃんがオレの名前呼んでたら? オレ、それを想像するだけで、なんか胸のここらへんが、ぐちゃぐちゃに引きちぎられそうになるんだよね」
フロイドは自分の左胸を、もう片方の手で乱暴に掴んだ。
シャツの生地が皺を寄せ、爪が肉に食い込むほどの力加減。
その強い自己主張に、ななしは喉の奥が乾くのを感じた。
「死ぬとか、沈むとか、そんな極端なことばかり言わないでください」
「だってさあ、本当にそうなんだもん。オレ、今まで生きてることとか、死ぬこととか、どっちでもいいって思ってた。でもね、小エビちゃん」
フロイドの指先が頬から顎、そして首筋へとゆっくりと滑り落ちる。
細い首のドクドクと脈打つ血管の真上で、その指がぴたりと止まった。
軽く力を込めれば、容易くその呼吸を止めてしまえるほどに圧倒的な力の差がそこには厳然として存在している。
だが、フロイドの指は驚くほどに震えていた。
「小エビちゃんがオレの目の前にいて、こうやって話してんの。これ、オレが死んだら全部なくなっちゃうんでしょ? 小エビちゃんが他の奴と笑ったり、オレのいないところでご飯食べたりすんの。それ、オレ、絶対に見たくない」
「それは……」
「オレ、死にたくないよ。小エビちゃんを誰にも触らせたくないし、オレ以外の誰も見せたくない。オレ、ずっとここで小エビちゃんとこうしてたい」
フロイドの問いかけはひどく純粋で、それゆえに狂気を孕んでいた。
彼の内面にある混沌とした感情の渦が、言葉という形をとってななしの耳元へ直接注ぎ込まれる。
その熱に浮かされたような声を聞いているうちに、自身の内側でも、何かがゆっくりと溶け始めていく。
いつも飄々として、何を考えているのかわからないフロイド。
気まぐれに近づいてきては、嵐のように去っていく台風のような存在。
それなのに、今の彼はあまりにも脆く、今にも消えてしまいそうな危うさを漂わせている。そのギャップが、ななしの心の最も深い部分を静かに揺さぶった。
「ダメじゃないです。わたしも、フロイド先輩にいなくなられたら困ります」
「困るだけ?」
「……寂しいです。すごく、寂しいと思います」
その言葉がフロイドの何かのスイッチを押した。
彼は小さく息を呑むと、ななしの身体を抱きすくめるようにして、その肩に顔を埋めた。
長い腕が背中に回り、呼吸が完全に制限されるほどの力で締め付けられる。
苦しい。
けれどその苦しさが、自分が今ここで、フロイドという存在に必要とされているという事実を強烈に身体に刻み込んでいく。
「寂しいって言った。小エビちゃん、オレがいないと寂しいんだ」
「はい。だから、そんなに強く抱きしめないでください。息が……」
「やだ。もっときつくする。オレと小エビちゃんが、いっこになっちゃえばいいのに」
フロイドの低い声が、直接耳の鼓膜を震わせる。
彼の息が耳たぶを掠めるたび、背筋に甘い悪寒が走った。
視界は完全に塞がれ、聴覚と触覚、そして嗅覚だけが異常に研ぎ澄まされていく。外ではいつの間にか雨が降り始めたのか、窓を打つ細かな音が聞こえていた。
だがそんな世界の営みなど、今の二人にとっては完全に無意味な雑音に過ぎない。
この薄暗い一室だけが、世界のすべて。
フロイドの熱い吐息と、自分の皮膚を焦がすような体温。
そして、互いの胸の奥で暴れる、同じ速度の、狂おしい鼓動。
「ねえ、小エビちゃん。キスしていい?」
驚くほど掠れた、低い囁き。
フロイドは頭を上げ、ななしの唇をじっと見つめていた。
その瞳は、もはや獲物を狙う獣のものではなく、唯一の救いを求める信徒のそれだった。
「……ずるいです、フロイド先輩。そんな顔で聞くなんて」
「いいじゃん、オレ、わがままだもん。小エビちゃんに嫌われたら死んじゃうけど、でも、どうしてもしたいんだよね」
答えを待たずに、彼の唇が重なった。
それは驚くほど優しく、そして深い温度を伴っていた。
熱い湿り気が口内を満たしていく。
頭の芯がジワリと痺れ、輪郭が溶けていくような感覚に襲われる。
フロイドの舌が、支配を強めるように深く入ってくる。
それに合わせて、彼の手がななしの髪を優しく梳き、後頭部をしっかりと固定した。
逃げることなど、最初から考えてもいなかった。
ただこの男の熱に溺れ、どこまでも一緒に沈んでいきたいと、本気で思ってしまっている自分がそこにいた。
「ん……、ふ、……フロイド、先輩」
「……まだ。まだ足りない。小エビちゃん、もっと。オレをいっぱいに満たして」
唇が離れるわずかな隙間に、フロイドは飢えた獣のように呟く。
再び重なる唇。
今度はさらに深く、執拗に、互いの境界線を奪い合うような抱擁。
汗がにじみ、衣服が擦れ、肌と肌が密着する音が、暗闇の中で妙に艶めかしく響く。
「オレさあ、もう絶対、小エビちゃんから離れないから」
熱い吐息とともに紡がれる言葉は、甘い誓約のようであり、解けない呪いのようでもあった。
「明日が来ても、その次が来ても、オレ、ずっと小エビちゃんをこうして離さない。死ぬまで、ねえ、いいでしょ?」
フロイドの熱を帯びた瞳が、真っ直ぐにななしの心を射抜く。
その問いに対し、ななしは言葉を返す代わりに彼の広い背中にそっと手を回し力を込めた。
それが自分にできる唯一の、そして最大の回答だった。
真夜中の静寂の中、雨音だけが二人の溶け合うような熱を優しく包み込んでいた。
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Song by 銀杏BOYZ
湿った夜気が窓の隙間から滑り込み、部屋の隅の埃を小さく揺らす。
ななしの隣には、あまりにも長すぎる四肢を持った男が寝そべっていた。
「ねえ、小エビちゃん」
フロイドは自分の前髪を指先で弄びながら天井を見上げている。その瞳は、暗がりの中でも不思議な光を湛えて鈍く輝く。
「なんですか、フロイド先輩」
「なんかさあ、退屈。すっごい退屈。なんか面白いことしてよ」
「面白いことと言われても、わたしには何もできませんよ」
ななしは膝の上に置いた古い魔導書の頁をめくる。
紙の擦れる音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
「嘘。小エビちゃん、いっつもオレのこと驚かせるじゃん。ほら、その顔。真面目ぶっちゃってさあ」
フロイドは大きな身体を寝返らせ、ななしの太腿に容赦なく頭を乗せてきた。ずしりとした重みが伝わる。彼の髪から微かに潮の香りと、購買部で売っている安価なキャンディの匂いが立ち上った。
「重いです、フロイド先輩」
「いーじゃん。オレ、今すっごい不機嫌になりそうなんだよね。小エビちゃんが優しくしてくれないと、その本、バリバリに破いちゃうかもよ?」
「困ります。図書室から借りてきたものなので」
「じゃあオレを見て。本なんかより、オレの方がずっと面白いよ?」
下から見上げてくる瞳が、悪戯っぽく細められる。
ななしは溜息をひとつ吐き、魔導書を閉じて傍らに置いた。
フロイドは満足そうに口元を歪め、長い指先でななしのシャツの裾を軽く引っ張る。
「そうそう、いい子。小エビちゃんはさあ、オレがいなくなったら寂しい?」
「……急に、なんの話ですか」
「んー? なんとなく。オレ、飽き性だしさ。明日にはどっか遠いところに行っちゃうかもよ? 海の底とか、もっと別の世界とか」
「それは困ります。フロイド先輩がいないと、モストロ・ラウンジのシフトが回らなくてアズール先輩が怒鳴り込んできますから」
「あはは! アズールのことなんかどーでもいーの。オレが聞いてんのは、小エビちゃん個人の話」
フロイドの低い笑い声が、胸の奥を微かに震わせる。
彼はそのまま、ななしの手首をそっと掴んだ。
その手は驚くほど熱く、そして強固だった。
「ねえ、小エビちゃん」
「はい」
「オレさあ、死にたくないなあ」
突飛な言葉だった。
いつも気まぐれで、他人の命にも自分の命にも執着が薄そうに見える男の口から出たとは思えない単語。ななしは掴まれた手首に意識を集中させないよう、努めて平坦な声を返す。
「そんな物騒なこと言わないでください」
「わかんないじゃん。明日、空からおっきな石が降ってくるかもしれないし、オレが息の仕方を忘れちゃうかもしれない。そしたらさあ、オレ、小エビちゃんに会えなくなっちゃうじゃん」
フロイドの指先が、手首から手のひらへと移動する。
親指の腹が、ななしの皮膚をゆっくりと擦る。
その皮膚が擦れ合う微かな摩擦が、部屋の温度を一段階引き上げたような錯覚を呼ぶ。
「……フロイド先輩、少し熱い気がします」
「んー? そう? オレ、いっつもこんなもんだよ。小エビちゃんが冷たすぎるんじゃない?」
フロイドは起き上がり、今度はななしの顔のすぐ近くまでその端正な容姿を近づけた。
夜の闇が二人の距離を曖昧にする。
視線が絡み合い、外を走る風の音が遠ざかっていく。
じわじわと、鼓動が速くなるのがわかる。
それが自分のものなのか、それとも眼前の大柄な人魚のものなのか、判別がつかない。
「小エビちゃんさあ、オレといるとき、どんな気持ち?」
「どんな、と言われても」
「オレはねえ、今、すっごい心臓がバタバタしてる。うるさいくらい。小エビちゃんのちっちゃい手がここにあるだけで、なんか頭の奥がジンジンするんだよね」
フロイドはななしの手を自分の胸へと導いた。
厚い胸板の向こう側で、確かに獰猛なほどのテンポで肉塊が脈打っている。ドクドクと規則正しく、しかし暴力的なまでの生命力が手のひらを通じて脳内に流れ込んでくる。
「ねえ、聞こえる? これ、全部小エビちゃんのせい。オレをこんな風にしたの、小エビちゃんだよ」
「フロイド先輩が勝手に興奮しているだけです」
「冷たいなあ。でも、その冷たいのがすっごい気持ちいい」
フロイドの吐息が前髪をかすめる。熱が、
波のように押し寄せては退き、また押し寄せる。
部屋の中の空気が密度を増し、呼吸が少しだけ苦しくなる。
ななしの視界はフロイドの濡れたような瞳と、わずかに開かれた薄い唇だけで満たされていた。
「小エビちゃん、目、離しちゃダメだよ。オレだけ見てて。オレのことだけ考えて」
彼の声は、いつもの軽薄さを完全に失っていた。
低く、掠れたその響きは、まるで深い海の底から響く呪文のようだった。
「……見ています。見ていますから、そんなに強く握らないでください」
「やだ。離したら、小エビちゃんどっか行っちゃいそうだもん。オレ、絶対に離さないから」
フロイドの大きな身体が、じりじりとななしをソファーの背もたれへと追い詰めていく。逃げ場のない狭い空間の中で、二人の影は完全にひとつに重なり合おうとしていた。
身体の境界線が、曖昧になっていく。
衣服越しに伝わる皮膚の温度が、血流となって自身の身体を巡るような、奇妙な一体感がそこにはあった。
フロイドの指先が、今度はななしの頬に触れる。大きな手が、壊れやすい硝子細工を扱うかのように、慎重に、かつ執拗にその輪郭をなぞった。
「小エビちゃん」
その呼び声は、もはや切願に近かった。
この世の終わりを恐れる子供のように、あるいは、永遠を手に入れようとする道化のように。
「オレのこと、忘れたら絶対に許さないからね。死んでも、忘れないで」
濃密な夜の闇が、二人のすべてを塗り潰していく。ななしはただ、その圧倒的な熱の渦の中に、深く深く沈んでいくしかなかった。
ソファーの背もたれに押し付けられた背中に、古びたスプリングの軋む感触が微かに伝わる。だが、その程度の硬質な違和感など、眼前に迫る巨大な質量を前にしては瞬時に霧散してしまった。
頬に触れる彼の指先は、ひどく熱い。
熱帯の夜に放置された濡れた砂のように、じっとりと肌を侵食していく。
「……フロイド先輩、本当にどうしたんですか。今日、いつもよりおかしいです」
ななしの声は、暗い部屋の空気に溶けていくように低かった。
恐れているわけではない。
ただ彼の瞳の奥に宿る、言葉にできないほどに飢えた光に、どう応えればいいのかがわからない。
「おかしくなんかないって。オレさあ、いっつも考えてるもん。もし明日、世界が全部海に沈んじゃったら、小エビちゃんは死んじゃうのかなあって」
フロイドは細い笑みを浮かべたまま、顔をさらに近づけてくる。
彼の前髪がななしの額に触れ、くすぐったいような、それでいて皮膚を直接焦がされるような錯覚が走る。
「フロイド先輩は、わたしを助けてくれますか」
「助けるに決まってんじゃん。でもさあ、もしオレの手が届かないくらい遠いところで、小エビちゃんがオレの名前呼んでたら? オレ、それを想像するだけで、なんか胸のここらへんが、ぐちゃぐちゃに引きちぎられそうになるんだよね」
フロイドは自分の左胸を、もう片方の手で乱暴に掴んだ。
シャツの生地が皺を寄せ、爪が肉に食い込むほどの力加減。
その強い自己主張に、ななしは喉の奥が乾くのを感じた。
「死ぬとか、沈むとか、そんな極端なことばかり言わないでください」
「だってさあ、本当にそうなんだもん。オレ、今まで生きてることとか、死ぬこととか、どっちでもいいって思ってた。でもね、小エビちゃん」
フロイドの指先が頬から顎、そして首筋へとゆっくりと滑り落ちる。
細い首のドクドクと脈打つ血管の真上で、その指がぴたりと止まった。
軽く力を込めれば、容易くその呼吸を止めてしまえるほどに圧倒的な力の差がそこには厳然として存在している。
だが、フロイドの指は驚くほどに震えていた。
「小エビちゃんがオレの目の前にいて、こうやって話してんの。これ、オレが死んだら全部なくなっちゃうんでしょ? 小エビちゃんが他の奴と笑ったり、オレのいないところでご飯食べたりすんの。それ、オレ、絶対に見たくない」
「それは……」
「オレ、死にたくないよ。小エビちゃんを誰にも触らせたくないし、オレ以外の誰も見せたくない。オレ、ずっとここで小エビちゃんとこうしてたい」
フロイドの問いかけはひどく純粋で、それゆえに狂気を孕んでいた。
彼の内面にある混沌とした感情の渦が、言葉という形をとってななしの耳元へ直接注ぎ込まれる。
その熱に浮かされたような声を聞いているうちに、自身の内側でも、何かがゆっくりと溶け始めていく。
いつも飄々として、何を考えているのかわからないフロイド。
気まぐれに近づいてきては、嵐のように去っていく台風のような存在。
それなのに、今の彼はあまりにも脆く、今にも消えてしまいそうな危うさを漂わせている。そのギャップが、ななしの心の最も深い部分を静かに揺さぶった。
「ダメじゃないです。わたしも、フロイド先輩にいなくなられたら困ります」
「困るだけ?」
「……寂しいです。すごく、寂しいと思います」
その言葉がフロイドの何かのスイッチを押した。
彼は小さく息を呑むと、ななしの身体を抱きすくめるようにして、その肩に顔を埋めた。
長い腕が背中に回り、呼吸が完全に制限されるほどの力で締め付けられる。
苦しい。
けれどその苦しさが、自分が今ここで、フロイドという存在に必要とされているという事実を強烈に身体に刻み込んでいく。
「寂しいって言った。小エビちゃん、オレがいないと寂しいんだ」
「はい。だから、そんなに強く抱きしめないでください。息が……」
「やだ。もっときつくする。オレと小エビちゃんが、いっこになっちゃえばいいのに」
フロイドの低い声が、直接耳の鼓膜を震わせる。
彼の息が耳たぶを掠めるたび、背筋に甘い悪寒が走った。
視界は完全に塞がれ、聴覚と触覚、そして嗅覚だけが異常に研ぎ澄まされていく。外ではいつの間にか雨が降り始めたのか、窓を打つ細かな音が聞こえていた。
だがそんな世界の営みなど、今の二人にとっては完全に無意味な雑音に過ぎない。
この薄暗い一室だけが、世界のすべて。
フロイドの熱い吐息と、自分の皮膚を焦がすような体温。
そして、互いの胸の奥で暴れる、同じ速度の、狂おしい鼓動。
「ねえ、小エビちゃん。キスしていい?」
驚くほど掠れた、低い囁き。
フロイドは頭を上げ、ななしの唇をじっと見つめていた。
その瞳は、もはや獲物を狙う獣のものではなく、唯一の救いを求める信徒のそれだった。
「……ずるいです、フロイド先輩。そんな顔で聞くなんて」
「いいじゃん、オレ、わがままだもん。小エビちゃんに嫌われたら死んじゃうけど、でも、どうしてもしたいんだよね」
答えを待たずに、彼の唇が重なった。
それは驚くほど優しく、そして深い温度を伴っていた。
熱い湿り気が口内を満たしていく。
頭の芯がジワリと痺れ、輪郭が溶けていくような感覚に襲われる。
フロイドの舌が、支配を強めるように深く入ってくる。
それに合わせて、彼の手がななしの髪を優しく梳き、後頭部をしっかりと固定した。
逃げることなど、最初から考えてもいなかった。
ただこの男の熱に溺れ、どこまでも一緒に沈んでいきたいと、本気で思ってしまっている自分がそこにいた。
「ん……、ふ、……フロイド、先輩」
「……まだ。まだ足りない。小エビちゃん、もっと。オレをいっぱいに満たして」
唇が離れるわずかな隙間に、フロイドは飢えた獣のように呟く。
再び重なる唇。
今度はさらに深く、執拗に、互いの境界線を奪い合うような抱擁。
汗がにじみ、衣服が擦れ、肌と肌が密着する音が、暗闇の中で妙に艶めかしく響く。
「オレさあ、もう絶対、小エビちゃんから離れないから」
熱い吐息とともに紡がれる言葉は、甘い誓約のようであり、解けない呪いのようでもあった。
「明日が来ても、その次が来ても、オレ、ずっと小エビちゃんをこうして離さない。死ぬまで、ねえ、いいでしょ?」
フロイドの熱を帯びた瞳が、真っ直ぐにななしの心を射抜く。
その問いに対し、ななしは言葉を返す代わりに彼の広い背中にそっと手を回し力を込めた。
それが自分にできる唯一の、そして最大の回答だった。
真夜中の静寂の中、雨音だけが二人の溶け合うような熱を優しく包み込んでいた。
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Song by 銀杏BOYZ
