◯◯しないと出られない部屋
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放課後の図書室は、静寂に包まれていた。
ななしは調べ物のために古い資料が並ぶ書架の奥へと足を踏み入れていた。薄暗い棚の隙間で、ひときわ異彩を放つ表紙に宝飾が埋め込まれた魔導書が目に留まる。
「何だろう、この本……」
指先がその古びた革表紙に触れた、その瞬間だった。
「おーい! ななしー! 見つけたぞー!」
静寂を裂いて、突き抜けるような明るい声が響いた。
スカラビア寮長カリム・アルアジームが、いつものように豪快な笑顔を浮かべて現れる。
「カリム先輩!? どうしてここに……」
「探したんだぜ! ななしに美味い菓子を分けてやろうと思ってさ! ほら、それ何の本だ?」
カリムがななしの手元を覗き込もうと顔を近づけた拍子に、魔導書の表紙がパチリと音を立てて開いた。
途端に、眩い光が二人を包み込む。
ガタタン、と大きな音がしたかと思うと、図書室の出口へと続くはずの通路がまるで蜃気楼のように歪んで消え去ってしまった。
代わりに目の前に立ち塞がったのは、漆黒の巨大な石扉。
その表面に淡い桃色の文字がじわじわと浮かび上がっていく。
お互いの第一印象を言わないと出られない部屋
「……ん? なんだ!?」
カリムが不思議そうに扉を押し戻そうとするが、びくともしない。
「で、出られない……? お互いの、だいいちいんしょう……?」
「なーんだ、第一印象を言えばいいのか! だったら簡単だな! よし、オレから行くぞ!」
カリムは屈託のない笑みを浮かべ、ななしの正面に回り込んだ。
「オレのななしに対する最初の印象だろ? うーん、そうだな……。オレさ、人の顔を覚えるのがすっごく苦手なんだよ。ジャミルにもいつも怒られるんだけどさ。初めてお前に会った時も、最初は『えっと、誰だっけ?』って思っちゃったんだ!」
「……あ、そう、でしたね……」
「でもな、そのあとすぐに、なんていうか……すぐに壊れちゃいそうな生き物みたいだなって思ったんだ! 異世界から突然ここに来たって聞いてたし、魔法も使えないだろ? なのに、あの学園長にめちゃくちゃな生活を押し付けられてさ。顔を覚えるのが苦手なオレが、なんだか一瞬で目が離せなくなっちゃって。……危なっかしくて、守ってやりてえな、って思ったのが最初だな!」
カリムは胸を張り、眩しい笑顔を向けた。
ななしは言葉を失い、さらに顔を赤くして俯く。
最初は顔を忘れられていた気まずさと、「守ってやりたい」というストレートな言葉の熱さが、閉ざされた空間の空気にじわりと溶けていく。
「あ、あの、先輩……そんな風に思われてたなんて……」
「あはは! 悪かったか? でも、本当のことだぜ! さあ、次はななしの番だ! オレの最初の印象教えてくれよ!」
カリムが期待に満ちた目をキラキラと輝かせ、一歩距離を詰めてくる。
ななしの視界にカリムの白い上着と、彼が動くたびに小さく鳴る金の装飾品が映り込んだ。
部屋の温度が、少しずつ上がり始めている。
ななしはきつく目を閉じ、指先をぎゅっと握りしめた。
「わ、わたしは……、カリム先輩の最初の印象、は……」
「おう、なんだ?」
「……すごく、眩しくて、遠い国の王子様みたいで……わたしなんかじゃ、おこがましくて、まともに目も合わせられないような……そういう、人、だって……」
消え入りそうな声で、どうにかそれだけを絞り出す。
言い終えた瞬間、ななしの耳の裏までが真っ赤に染まった。
「王子様!? あはは、面白いな! 遠い国かぁ、確かにオレの故郷はここから遠いもんな!」
カリムは豪快に笑ったが、ふと、その笑い声を止めた。
カチリ、と扉から小さな音が響く。だが、扉は開かない。壁の文字が、さらに赤みを増して怪しく明滅し始める。
『――不十分なり。表面上の言葉ではなく、魂の奥底にある最初の衝撃を、身体をもって示せ――』
「……不十分? なんだよこれ、まだ出られないのか?」
カリムが首を傾げる。
しかし部屋に満ちる空気は急速に熱を帯び始めていた。
ななしの背中に冷や汗とは違う、じっとりとした熱が伝う。
心臓の鼓動が激しくなり、呼吸が浅くなるのを自覚した。
「……カリム先輩……なんだか、この部屋、あつ、くないですか……?」
「あ、ああ……そうだな。なんだか、オレの故郷の昼間みたいに、じわじわ暑くなってきてる気がする……」
カリムの声が、先ほどよりも少しだけ低くなっていた。
彼はななしの顔を覗き込もうと、さらに距離を縮める。
ななしが驚いて一歩後ろに下がると、背中が閉ざされた石壁に当たった。
「ななし……。顔、すっごく赤いぞ。大丈夫か?」
カリムが心配そうに手を伸ばし、ななしの額にそっと触れた。
「ひゃあっ!?」
触れられた瞬間、まるで小さな電流が走ったかのような衝撃がななしの身体を駆け抜けた。カリムの手のひらは驚くほど熱く、そして男性らしい大きさをしていた。
「熱は……なさそうだけど。でも、オレの手まで熱くなってきそうだ」
カリムの指先が、額からゆっくりとななしの濡れた頬へと滑り落ちる。その身体感覚の共有が、二人の間の感情をより一層濃いものへと変えていく。
「……オレさ、さっきの、嘘じゃないんだけど、もっと奥の印象、あるんだ」
カリムの瞳が、じっとななしを見つめた。いつもなら太陽のように爛漫なその瞳が、今は陽炎のように揺らめき、底知れない熱を孕んでいる。
「じつはさ……、顔を思い出せなかったはずなのに、あんまりにもななしが一生懸命で、可愛かったから……」
カリムの呼吸が、ななしの首筋にかかる。
「……誰にも触らせたくない、オレだけのものにしたいって、一瞬だけ、すごく悪いことが頭を過ったんだ」
「……え、あ……」
ななしの頭の中が、真っ白に弾けた。
カリムがそんな独占欲に満ちたことを考えていたなど、想像すらしていなかった。彼の大きな手が、ななしの華奢な肩を包み込むようにして強く掴む。
「オレ、自分でもびっくりしたんだぜ。普段はそんなこと思わないのに。……ななしを見てると、オレの中の我慢できない部分が、じわじわ暴れそうになるんだ」
カリムの体温が服の布地を通して、直接ななしの皮膚へと染み込んでくる。ななしは逃げることもできず、ただその熱に浮かされるようにカリムの胸元を見つめるしかなかった。
彼の胸が大きく上下している。
彼もまた、緊張と、それ以上の何かに翻弄されているのが分かった。
「……ななしの、本当の第一印象も、オレに教えてくれよ。どんなに不格好でも、恥ずかしくてもいいから。……オレ、お前の本音が、全部欲しい」
歪んだ空間の中で、カリムの放つ圧倒的な存在感と熱量が、ななしの内面を隅々まで満たしていく。
もはや恥ずかしがって逃げる猶予など、この部屋の魔法も、目の前の男も、与えてはくれそうにない。
「……カリム先輩の、本当の、第一印象……」
ななしは喉の奥でその言葉を繰り返した。
視界がカリムの胸元に飾られた大きな魔法石のきらめきで歪む。彼の大きな手のひらが肩を包む熱は、制服の生地をやすやすと突き破り、肌の奥の細胞ひとつひとつを直に揺さぶるようだった。ドクドクと、尋常ではない速さで脈打つ自分の心臓の音が、狭い石壁の隙間に反響しているのではないかと錯覚する。
「なぁ、ななし。オレの目を見て言ってくれよ。どんなことでも受け止めるからさ」
カリムの声は、いつも宴で聞く朗らかなトーンとはまるで違っていた。低く、砂漠の夜風のようにどこか切実で、それでいて有無を言わせない強さがある。彼の指先が、今度はななしの小さく震える顎に触れ、ゆっくりと上を向かせた。
強制的に視線が交差する。
カリムの瞳の奥に、いつも通りの無邪気な光はない。そこにあるのは、じりじりと肌を焦がすような底知れない熱情だった。
「わ、わたし……」
ななしは一度唇を噛み、胸の奥に閉じ込めていた記憶の扉をこじ開けた。あの大騒ぎだった入学式。異世界に放り込まれ、魔法も使えず、絶望と混乱の渦中にいた自分。その前に現れたのが、誰よりも明るいカリムだった。
「カリム先輩に、最初に会った時……、わたし、先輩が覚えてないって言って、すごく安心したんです」
「えっ……? 安心?」
カリムの眉がわずかに動く。
掴まれた肩の力が、ほんの少しだけ強くなった。
「何も持たない私は、ずっと場違いだと感じていました。だからカリム先輩に忘れられていても当然だって、安心したかったんです。先輩の言葉は、私の救いでした」
ななしの瞳から、じわりと熱い涙が溢れそうになる。それは恥ずかしさと、当時の孤独がカリムの熱によって溶け出した証拠だった。
「でも、先輩がわたしの名前を呼んで、笑いかけてくれた時……。……世界が、一瞬でひっくり返るくらい、胸が苦しくなったんです」
「胸が、苦しく……?」
「眩しすぎて、直視できなかったんです。この人にだけは情けない私を絶対に見せたくない。特別な存在として、私を見てほしい……そんな大それた独占欲が心臓の奥で溶け出して……これが、私が最初に抱いた本当の気持ちです」
一気に捲し立てると、ななしは耐えきれずにカリムの胸元に顔を埋めた。恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。己の身の程知らずな本音を、これ以上ないほどあけすけに晒してしまったのだ。
沈黙が、重く部屋を満たす。
カリムの身体が強張ったのが衣服越しに伝わってきた。
やがて彼の胸の奥から、深く熱い吐息が漏れる。
「……そっか。お前も、オレと同じだったんだな」
カリムの手がななしの後頭部を優しく、けれど拒絶を許さない力強さで抱きすくめた。彼の身体が、ななしの全身を包み込むように重なる。耳元でカリムの速い鼓動がじかに響いた。それはななしの心臓のテンポと、完全に同調している。
「オレさ、さっき『悪いことが頭を過った』って言っただろ? あれ、一瞬だけじゃなかったみたいだ」
「カリム、先輩……?」
「ななしが他のヤツと楽しそうに話してたり、オレの知らないところで無茶してたりするのを見るたびに、ずっと胸の奥がモヤモヤしてたんだ。……人の名前と顔を覚えるのが苦手なオレが、お前の表情ひとつ忘れたくないって思うなんて、どうかしてるよな」
カリムの指先が、ななしの背中をなぞるように這う。
その感触に、ななしの身体が小さく跳ねた。
感情の昂ぶりと比例するように、部屋の空気はさらに密度を増し、じっとりと肌にまとわりつく。もはや、ただの第一印象の暴露ではない。二人が心の奥底で育てていた互いへの歪な執着が、お互いの体温を通じて皮膚から直接注ぎ込まれ、混ざり合っていく。
「ななしの最初の独占欲も、その恥ずかしがって震えてる身体も……全部オレがもらう。もう、雲の上なんて言わせないからな」
カリムの低い囁きが、ななしの内面を完全に支配していく。
壁の文字が、赤から、どろりとした濃密な黄金色へと変化し、激しく明滅した。
黄金色に燃え盛る壁の文字が、二人の影を狭い石室の床に濃く落としていた。カリムの腕の中に完全に閉じ込められた状態で、ななしは思考のすべてをその熱に奪われていた。恥ずかしさで爆発しそうだった胸の奥は、今や彼から直に注ぎ込まれる圧倒的な情熱によって、甘く息苦しいほどに満たされている。
「……なぁ、ななし。まだ、顔を見せてくれないのか?」
カリムの声音には、いつもの天真爛漫な響きは微塵もなかった。ただひたすらに低く、じらされた猛獣が喉を鳴らすような、底知れない執着が滲んでいる。
彼の胸元に額を押し付けたまま、ななしは小さく首を横に振った。今の自分の顔がどれほど真っ赤で、どんなに情けない表情をしているか、自覚するだけで心臓が押し潰されそうだったからだ。
「だめ、です……。だって、カリム先輩の顔、まともに見たら、わたし……本当にどうにかなっちゃいそうで……」
「どうにかなってもいいさ。オレがちゃんと、受け止めてやるから」
カリムの大きな手が、ななしの髪を愛おしそうに何度も撫でる。その指先が耳裏の柔らかい肌に触れるたび、ななしの背筋にゾクゾクとした甘い戦慄が走った。
カリムの頭の中で、これまでただの可愛い後輩として理性の箱に閉じ込めていた感情が、音を立てて決壊していく。顔を覚えるのが苦手だったはずの自分が、なぜこの少女の存在だけは、出会ったその瞬間から世界の中心に据えてしまったのか。その本当の理由が、ななしの口から語られた独占欲という言葉によって、完全に証明されたのだ。
カリムの内面を満たすのは、砂漠の太陽のような純粋さではない。一度狙いを定めた獲物を決して逃がさない、渇いた大地に生きる捕食者の本能だった。
「お前がオレの目に焼き付けてほしいって願うなら、オレは一生、ななしだけを見続ける。オレを信じろ」
カリムはそう囁くと、ななしの肩を掴んで強引に自分の方へと引き寄せた。逃げ場を失ったななしが 恐る恐る目を開けると、そこには、陽炎のようにゆらゆらと妖しく光る熱い瞳があった。吸い込まれそうなその視線に射抜かれた瞬間、ななしは呼吸の仕方を忘れたように喉を鳴らす。
「先輩……っ、そんな風に、見られたら……」
「嫌か? 嫌なら、オレを突き放して逃げてみろよ」
カリムは不敵に、けれど最高に艶やかに唇の端を上げた。
逃げられるはずがなかった。ななしの手首を掴む彼の指先は、骨が軋むほどの力強さで固定されている。いや、それ以上に、ななし自身の心が、この熱くて少しだけ強引なカリムの支配を、心の底から求めてしまっていたのだ。
「……にげない、です。にげたく、ない……」
その言葉が引き金だった。
カリムはななしの腰を強引に抱き寄せると、その開いた唇を奪うように深く、熱く塞いだ。
恥ずかしさに震える唇を、カリムは何度も形を確かめるように貪欲に食んだ。頭の芯がジリジリと焼け焦げていくような感覚の中で、ななしはただカリムの白い衣服をぎゅっと掴み、彼がもたらす極上の熱に身を委ねるしかなかった。
カチリ――。
二人の魂が完全に重なり合ったその瞬間、目の前の漆黒の石扉が静かに滑るように開かれた。差し込んできたのは、いつもの見慣れた図書室の、穏やかな夕暮れの光。しかし結界が解けたというのに、カリムはななしを抱きしめた腕を、微かにも緩めようとはしなかった。
「……カリム、先輩。扉、開きました、よ……?」
「知ってる。でも、まだ離したくない」
カリムはななしの濡れた唇を指先でそっと拭うと、その耳元に、今度は甘く、ひどく独占欲に満ちた声で囁いた。
「最初の印象はもう終わりだ。これからは、オレたちの『これから』の話をしようぜ、ななし」
光の戻った図書室の中で、赤くなった顔を隠せないななしを、カリムは世界で一番大切な宝物を愛でるような目で、いつまでも見つめ続けていた。
ななしは調べ物のために古い資料が並ぶ書架の奥へと足を踏み入れていた。薄暗い棚の隙間で、ひときわ異彩を放つ表紙に宝飾が埋め込まれた魔導書が目に留まる。
「何だろう、この本……」
指先がその古びた革表紙に触れた、その瞬間だった。
「おーい! ななしー! 見つけたぞー!」
静寂を裂いて、突き抜けるような明るい声が響いた。
スカラビア寮長カリム・アルアジームが、いつものように豪快な笑顔を浮かべて現れる。
「カリム先輩!? どうしてここに……」
「探したんだぜ! ななしに美味い菓子を分けてやろうと思ってさ! ほら、それ何の本だ?」
カリムがななしの手元を覗き込もうと顔を近づけた拍子に、魔導書の表紙がパチリと音を立てて開いた。
途端に、眩い光が二人を包み込む。
ガタタン、と大きな音がしたかと思うと、図書室の出口へと続くはずの通路がまるで蜃気楼のように歪んで消え去ってしまった。
代わりに目の前に立ち塞がったのは、漆黒の巨大な石扉。
その表面に淡い桃色の文字がじわじわと浮かび上がっていく。
お互いの第一印象を言わないと出られない部屋
「……ん? なんだ!?」
カリムが不思議そうに扉を押し戻そうとするが、びくともしない。
「で、出られない……? お互いの、だいいちいんしょう……?」
「なーんだ、第一印象を言えばいいのか! だったら簡単だな! よし、オレから行くぞ!」
カリムは屈託のない笑みを浮かべ、ななしの正面に回り込んだ。
「オレのななしに対する最初の印象だろ? うーん、そうだな……。オレさ、人の顔を覚えるのがすっごく苦手なんだよ。ジャミルにもいつも怒られるんだけどさ。初めてお前に会った時も、最初は『えっと、誰だっけ?』って思っちゃったんだ!」
「……あ、そう、でしたね……」
「でもな、そのあとすぐに、なんていうか……すぐに壊れちゃいそうな生き物みたいだなって思ったんだ! 異世界から突然ここに来たって聞いてたし、魔法も使えないだろ? なのに、あの学園長にめちゃくちゃな生活を押し付けられてさ。顔を覚えるのが苦手なオレが、なんだか一瞬で目が離せなくなっちゃって。……危なっかしくて、守ってやりてえな、って思ったのが最初だな!」
カリムは胸を張り、眩しい笑顔を向けた。
ななしは言葉を失い、さらに顔を赤くして俯く。
最初は顔を忘れられていた気まずさと、「守ってやりたい」というストレートな言葉の熱さが、閉ざされた空間の空気にじわりと溶けていく。
「あ、あの、先輩……そんな風に思われてたなんて……」
「あはは! 悪かったか? でも、本当のことだぜ! さあ、次はななしの番だ! オレの最初の印象教えてくれよ!」
カリムが期待に満ちた目をキラキラと輝かせ、一歩距離を詰めてくる。
ななしの視界にカリムの白い上着と、彼が動くたびに小さく鳴る金の装飾品が映り込んだ。
部屋の温度が、少しずつ上がり始めている。
ななしはきつく目を閉じ、指先をぎゅっと握りしめた。
「わ、わたしは……、カリム先輩の最初の印象、は……」
「おう、なんだ?」
「……すごく、眩しくて、遠い国の王子様みたいで……わたしなんかじゃ、おこがましくて、まともに目も合わせられないような……そういう、人、だって……」
消え入りそうな声で、どうにかそれだけを絞り出す。
言い終えた瞬間、ななしの耳の裏までが真っ赤に染まった。
「王子様!? あはは、面白いな! 遠い国かぁ、確かにオレの故郷はここから遠いもんな!」
カリムは豪快に笑ったが、ふと、その笑い声を止めた。
カチリ、と扉から小さな音が響く。だが、扉は開かない。壁の文字が、さらに赤みを増して怪しく明滅し始める。
『――不十分なり。表面上の言葉ではなく、魂の奥底にある最初の衝撃を、身体をもって示せ――』
「……不十分? なんだよこれ、まだ出られないのか?」
カリムが首を傾げる。
しかし部屋に満ちる空気は急速に熱を帯び始めていた。
ななしの背中に冷や汗とは違う、じっとりとした熱が伝う。
心臓の鼓動が激しくなり、呼吸が浅くなるのを自覚した。
「……カリム先輩……なんだか、この部屋、あつ、くないですか……?」
「あ、ああ……そうだな。なんだか、オレの故郷の昼間みたいに、じわじわ暑くなってきてる気がする……」
カリムの声が、先ほどよりも少しだけ低くなっていた。
彼はななしの顔を覗き込もうと、さらに距離を縮める。
ななしが驚いて一歩後ろに下がると、背中が閉ざされた石壁に当たった。
「ななし……。顔、すっごく赤いぞ。大丈夫か?」
カリムが心配そうに手を伸ばし、ななしの額にそっと触れた。
「ひゃあっ!?」
触れられた瞬間、まるで小さな電流が走ったかのような衝撃がななしの身体を駆け抜けた。カリムの手のひらは驚くほど熱く、そして男性らしい大きさをしていた。
「熱は……なさそうだけど。でも、オレの手まで熱くなってきそうだ」
カリムの指先が、額からゆっくりとななしの濡れた頬へと滑り落ちる。その身体感覚の共有が、二人の間の感情をより一層濃いものへと変えていく。
「……オレさ、さっきの、嘘じゃないんだけど、もっと奥の印象、あるんだ」
カリムの瞳が、じっとななしを見つめた。いつもなら太陽のように爛漫なその瞳が、今は陽炎のように揺らめき、底知れない熱を孕んでいる。
「じつはさ……、顔を思い出せなかったはずなのに、あんまりにもななしが一生懸命で、可愛かったから……」
カリムの呼吸が、ななしの首筋にかかる。
「……誰にも触らせたくない、オレだけのものにしたいって、一瞬だけ、すごく悪いことが頭を過ったんだ」
「……え、あ……」
ななしの頭の中が、真っ白に弾けた。
カリムがそんな独占欲に満ちたことを考えていたなど、想像すらしていなかった。彼の大きな手が、ななしの華奢な肩を包み込むようにして強く掴む。
「オレ、自分でもびっくりしたんだぜ。普段はそんなこと思わないのに。……ななしを見てると、オレの中の我慢できない部分が、じわじわ暴れそうになるんだ」
カリムの体温が服の布地を通して、直接ななしの皮膚へと染み込んでくる。ななしは逃げることもできず、ただその熱に浮かされるようにカリムの胸元を見つめるしかなかった。
彼の胸が大きく上下している。
彼もまた、緊張と、それ以上の何かに翻弄されているのが分かった。
「……ななしの、本当の第一印象も、オレに教えてくれよ。どんなに不格好でも、恥ずかしくてもいいから。……オレ、お前の本音が、全部欲しい」
歪んだ空間の中で、カリムの放つ圧倒的な存在感と熱量が、ななしの内面を隅々まで満たしていく。
もはや恥ずかしがって逃げる猶予など、この部屋の魔法も、目の前の男も、与えてはくれそうにない。
「……カリム先輩の、本当の、第一印象……」
ななしは喉の奥でその言葉を繰り返した。
視界がカリムの胸元に飾られた大きな魔法石のきらめきで歪む。彼の大きな手のひらが肩を包む熱は、制服の生地をやすやすと突き破り、肌の奥の細胞ひとつひとつを直に揺さぶるようだった。ドクドクと、尋常ではない速さで脈打つ自分の心臓の音が、狭い石壁の隙間に反響しているのではないかと錯覚する。
「なぁ、ななし。オレの目を見て言ってくれよ。どんなことでも受け止めるからさ」
カリムの声は、いつも宴で聞く朗らかなトーンとはまるで違っていた。低く、砂漠の夜風のようにどこか切実で、それでいて有無を言わせない強さがある。彼の指先が、今度はななしの小さく震える顎に触れ、ゆっくりと上を向かせた。
強制的に視線が交差する。
カリムの瞳の奥に、いつも通りの無邪気な光はない。そこにあるのは、じりじりと肌を焦がすような底知れない熱情だった。
「わ、わたし……」
ななしは一度唇を噛み、胸の奥に閉じ込めていた記憶の扉をこじ開けた。あの大騒ぎだった入学式。異世界に放り込まれ、魔法も使えず、絶望と混乱の渦中にいた自分。その前に現れたのが、誰よりも明るいカリムだった。
「カリム先輩に、最初に会った時……、わたし、先輩が覚えてないって言って、すごく安心したんです」
「えっ……? 安心?」
カリムの眉がわずかに動く。
掴まれた肩の力が、ほんの少しだけ強くなった。
「何も持たない私は、ずっと場違いだと感じていました。だからカリム先輩に忘れられていても当然だって、安心したかったんです。先輩の言葉は、私の救いでした」
ななしの瞳から、じわりと熱い涙が溢れそうになる。それは恥ずかしさと、当時の孤独がカリムの熱によって溶け出した証拠だった。
「でも、先輩がわたしの名前を呼んで、笑いかけてくれた時……。……世界が、一瞬でひっくり返るくらい、胸が苦しくなったんです」
「胸が、苦しく……?」
「眩しすぎて、直視できなかったんです。この人にだけは情けない私を絶対に見せたくない。特別な存在として、私を見てほしい……そんな大それた独占欲が心臓の奥で溶け出して……これが、私が最初に抱いた本当の気持ちです」
一気に捲し立てると、ななしは耐えきれずにカリムの胸元に顔を埋めた。恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。己の身の程知らずな本音を、これ以上ないほどあけすけに晒してしまったのだ。
沈黙が、重く部屋を満たす。
カリムの身体が強張ったのが衣服越しに伝わってきた。
やがて彼の胸の奥から、深く熱い吐息が漏れる。
「……そっか。お前も、オレと同じだったんだな」
カリムの手がななしの後頭部を優しく、けれど拒絶を許さない力強さで抱きすくめた。彼の身体が、ななしの全身を包み込むように重なる。耳元でカリムの速い鼓動がじかに響いた。それはななしの心臓のテンポと、完全に同調している。
「オレさ、さっき『悪いことが頭を過った』って言っただろ? あれ、一瞬だけじゃなかったみたいだ」
「カリム、先輩……?」
「ななしが他のヤツと楽しそうに話してたり、オレの知らないところで無茶してたりするのを見るたびに、ずっと胸の奥がモヤモヤしてたんだ。……人の名前と顔を覚えるのが苦手なオレが、お前の表情ひとつ忘れたくないって思うなんて、どうかしてるよな」
カリムの指先が、ななしの背中をなぞるように這う。
その感触に、ななしの身体が小さく跳ねた。
感情の昂ぶりと比例するように、部屋の空気はさらに密度を増し、じっとりと肌にまとわりつく。もはや、ただの第一印象の暴露ではない。二人が心の奥底で育てていた互いへの歪な執着が、お互いの体温を通じて皮膚から直接注ぎ込まれ、混ざり合っていく。
「ななしの最初の独占欲も、その恥ずかしがって震えてる身体も……全部オレがもらう。もう、雲の上なんて言わせないからな」
カリムの低い囁きが、ななしの内面を完全に支配していく。
壁の文字が、赤から、どろりとした濃密な黄金色へと変化し、激しく明滅した。
黄金色に燃え盛る壁の文字が、二人の影を狭い石室の床に濃く落としていた。カリムの腕の中に完全に閉じ込められた状態で、ななしは思考のすべてをその熱に奪われていた。恥ずかしさで爆発しそうだった胸の奥は、今や彼から直に注ぎ込まれる圧倒的な情熱によって、甘く息苦しいほどに満たされている。
「……なぁ、ななし。まだ、顔を見せてくれないのか?」
カリムの声音には、いつもの天真爛漫な響きは微塵もなかった。ただひたすらに低く、じらされた猛獣が喉を鳴らすような、底知れない執着が滲んでいる。
彼の胸元に額を押し付けたまま、ななしは小さく首を横に振った。今の自分の顔がどれほど真っ赤で、どんなに情けない表情をしているか、自覚するだけで心臓が押し潰されそうだったからだ。
「だめ、です……。だって、カリム先輩の顔、まともに見たら、わたし……本当にどうにかなっちゃいそうで……」
「どうにかなってもいいさ。オレがちゃんと、受け止めてやるから」
カリムの大きな手が、ななしの髪を愛おしそうに何度も撫でる。その指先が耳裏の柔らかい肌に触れるたび、ななしの背筋にゾクゾクとした甘い戦慄が走った。
カリムの頭の中で、これまでただの可愛い後輩として理性の箱に閉じ込めていた感情が、音を立てて決壊していく。顔を覚えるのが苦手だったはずの自分が、なぜこの少女の存在だけは、出会ったその瞬間から世界の中心に据えてしまったのか。その本当の理由が、ななしの口から語られた独占欲という言葉によって、完全に証明されたのだ。
カリムの内面を満たすのは、砂漠の太陽のような純粋さではない。一度狙いを定めた獲物を決して逃がさない、渇いた大地に生きる捕食者の本能だった。
「お前がオレの目に焼き付けてほしいって願うなら、オレは一生、ななしだけを見続ける。オレを信じろ」
カリムはそう囁くと、ななしの肩を掴んで強引に自分の方へと引き寄せた。逃げ場を失ったななしが 恐る恐る目を開けると、そこには、陽炎のようにゆらゆらと妖しく光る熱い瞳があった。吸い込まれそうなその視線に射抜かれた瞬間、ななしは呼吸の仕方を忘れたように喉を鳴らす。
「先輩……っ、そんな風に、見られたら……」
「嫌か? 嫌なら、オレを突き放して逃げてみろよ」
カリムは不敵に、けれど最高に艶やかに唇の端を上げた。
逃げられるはずがなかった。ななしの手首を掴む彼の指先は、骨が軋むほどの力強さで固定されている。いや、それ以上に、ななし自身の心が、この熱くて少しだけ強引なカリムの支配を、心の底から求めてしまっていたのだ。
「……にげない、です。にげたく、ない……」
その言葉が引き金だった。
カリムはななしの腰を強引に抱き寄せると、その開いた唇を奪うように深く、熱く塞いだ。
恥ずかしさに震える唇を、カリムは何度も形を確かめるように貪欲に食んだ。頭の芯がジリジリと焼け焦げていくような感覚の中で、ななしはただカリムの白い衣服をぎゅっと掴み、彼がもたらす極上の熱に身を委ねるしかなかった。
カチリ――。
二人の魂が完全に重なり合ったその瞬間、目の前の漆黒の石扉が静かに滑るように開かれた。差し込んできたのは、いつもの見慣れた図書室の、穏やかな夕暮れの光。しかし結界が解けたというのに、カリムはななしを抱きしめた腕を、微かにも緩めようとはしなかった。
「……カリム、先輩。扉、開きました、よ……?」
「知ってる。でも、まだ離したくない」
カリムはななしの濡れた唇を指先でそっと拭うと、その耳元に、今度は甘く、ひどく独占欲に満ちた声で囁いた。
「最初の印象はもう終わりだ。これからは、オレたちの『これから』の話をしようぜ、ななし」
光の戻った図書室の中で、赤くなった顔を隠せないななしを、カリムは世界で一番大切な宝物を愛でるような目で、いつまでも見つめ続けていた。
