◯◯しないと出られない部屋
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学園の喧騒から離れた北校舎の空き教室。
モストロ・ラウンジの運営に関する書類を届けるため、ななしはアズール・アーシェングロットに呼び出されていた。
「お疲れ様です、アズール先輩。頼まれていた資料、持ってきましたよ」
「おや、ななしさん。わざわざ足労をおかけしましたね。さあ、中へ入ってください」
アズールは慇懃な笑みを浮かべ、扉を開けて彼女を促す。
二人が足を踏み入れた瞬間、背後で扉が吸い付くように閉まった。
同時に、視界が真っ白な魔力に染まる。
「え……? アズール先輩、電気が消えたんですか?」
「いえ、これは……。おや、扉が開きませんね。魔法による封鎖ですか。困りましたねぇ」
アズールは眼鏡を押し上げ、冷静に扉を検分する。だが、その声には微かな動揺が混じっていた。
真っ白な空間に、文字が浮かび上がる。
アズールに10分間膝枕しないと出られない部屋
「ひざまくら……?」
ななしは首を傾げ、宙に浮く文字をなぞった。
「アズール先輩、膝枕だって書いてありますよ。最近の魔法教育はユニークですね」
「……ユニークなのはこの状況ですよ。膝枕、ですか」
アズールは溜息をつく。
「アズール先輩、どうします? 私、別にいいですよ、膝枕くらい。アズール先輩、いつも忙しそうですし、少しお昼寝したらどうですか?」
「……あなたという人は、本当に警戒心というものがないのですか?」
「え? 先輩相手に警戒なんて必要ないじゃないですか。さ、どうぞどうぞ!」
ななしは白い床にすとんと座り、自分の太ももをポンポンと叩いた。
「……やれやれ。断る理由もありませんし、この非合理的な魔法に従うとしましょう」
アズールは内心の鼓動を隠し、静かに横になった。
彼の頭が、ななしの膝に乗る。柔らかな感触と、微かに漂う彼女の香りに、アズールの思考が一瞬停止した。
「……。……ななしさん、10分ですよ。正確に測ってください」
「わかってますって。……あ、アズール先輩、眼鏡外しますか? 痛くないですか?」
「いえ、そのままで……。……。……やはり、外しましょうか。少し、落ち着きません」
アズールが眼鏡を外すと、その伏せられた睫毛の長さが露わになる。
ななしは、まじまじとその顔を見つめた。
「アズール先輩って、眼鏡外すと雰囲気が変わりますね。なんだか……少し、幼く見えるというか」
「……余計な観察は不要です。僕は今、休息をとっているのですから」
1分が経過する。
アズールは目を閉じているが、意識は研ぎ澄まされていた。膝から伝わる彼女の体温。呼吸に合わせて微かに揺れる視界。
「……アズール先輩、髪、綺麗ですね」
ななしが、指先でアズールの髪をそっとなぞった。
「なっ……! 何をしているんですか!」
「え? だって、膝枕ってこう……撫でたりするものかなって。あ、嫌でした?」
「……嫌、ではなく。……いえ、許可なく触れるのはマナー違反だと言っているのです」
「すみません。でも、アズール先輩、今すごく眉間にシワが寄ってますよ。リラックスしないと10分経っても開かないかもしれないですよ?」
「……。……勝手にしてください」
アズールは諦めたように再び目を閉じた。
ななしは、丁寧に彼の髪を梳くように撫で始める。指先が、耳の裏やこめかみを優しく刺激する。
「……ふぅ」
アズールの口から、小さな吐息が漏れた。
「あ、気持ちいいですか?」
「……悪くはありませんね。……あなたの指は、案外……温かい」
3分が経過した。
アズールの体が、少しずつななしに委ねられていく。
「アズール先輩。さっきの資料なんですけど、ジェイド先輩が『これ、アズールには内緒ですよ』って言ってた修正案、入れておきましたからね」
「……なんですって? ……後で詳しく聞かせなさい」
「あはは、あと7分は私の膝の上ですもんね」
「…………強気ですね、今日のあなたは」
「だって、今の主導権は私にありますから。アズール先輩は、大人しく私に甘やかされてればいいんです」
アズールは目を開け、真上にあるななしの顔を見上げた。
「ななしさん」
「はい、なんでしょう」
「……あなたは、誰にでもこうして膝枕をしてあげるのですか?」
「え? しないですよ。まあ、グリムにはしょっちゅう膝貸してあげてますけど」
「……。……そうですか。それは、重畳だ」
アズールの声に、微かな満足感が混じる。
5分が経過した。
ななしの撫で方は、ますますリズミカルに、穏やかになっていく。
「……アズール先輩、寝ちゃいました?」
「……起きていますよ。僕はあなたほど、どこでも寝られるほど能天気ではありません」
「ひどいなぁ。……でも、先輩の呼吸、さっきよりゆっくりになりましたね。心臓の音も、私の膝に響いてますよ。トクトクって」
「……! そ、それは、……気圧のせいでしょう」
「気圧外とそんなに違ってます?」
「……細かいことは気にしないことです。……それより、もっと……右の方を」
「右? ここですか?」
「……。……ええ」
アズールは、自分の顔をななしのお腹の方へと少し埋めるように動いた。密着度が増す。ななしは一瞬驚いたが、「よっぽど疲れてるんだなぁ」と結論づけて、さらに優しく彼の頭を抱きしめるように固定した。アズールは、彼女の柔らかな体温に包まれながら、暗い悦びに浸っていた。
7分が経過。
「アズール先輩。……私、アズール先輩のこと、尊敬してるんですよ」
唐突なななしの言葉に、アズールは肩を揺らした。
「……尊敬? 僕を、ですか?」
「アズール先輩は努力の人です。先輩がどれだけ計算して、どれだけ準備して毎日を過ごしてるか、みんな知ってます。……だから、たまにはこうして、私に寄りかかってくれてもいいのになって、思ってたんです」
「…………あなたは、本当に……」
アズールは、自分の顔を覆うように腕を上げた。
耳まで赤くなっているのを、見られたくなかった。
「……アズール先輩?」
「……黙っててください。……今、僕は極上の休息を堪能しているところなのですから」
残り、1分。
部屋を支配していた緊張感は完全に消え、そこには穏やかで、少しだけ切ない親密さが漂っていた。
「あと少しで終わっちゃいますね。……名残惜しいですか?」
「……まさか。早くこの不毛な空間から脱出したいだけですよ」
アズールは嘘をついた。本当は離れたくない。この10分間の契約を、永遠に延長したいとさえ思っていた。
「……10、9、8……」
ななしがカウントダウンを始める。
「3、2、1。……はい、10分経ちました!」
掲示板がまばゆい光を放ち、扉のロックが外れる音が響いた。
アズールは、ゆっくりと体を起こした。
ななしは痺れた足をさすりながら、ニコニコと笑っている。
「お疲れ様でした、アズール先輩。よく眠れました?」
「……ええ。お陰様で、数日分の睡眠を摂取した気分ですよ」
アズールは眼鏡をかけ直し、いつもの冷徹で知的な支配人の顔に戻る。だがその指先は、まだななしの膝の感覚を覚えていた。
「さあ、戻りましょう。滞っている仕事が山積みです」
「あ、待ってください! 資料、預かったままですよ」
「……。……。ああ、そうでしたね」
アズールは資料を受け取る際、わざとななしの手に自分の手を重ねた。
「……ななしさん」
「はい?」
「……今回の件、報酬は高くつきますよ。僕の弱みを10分間も握ったのですから」
「ええっ、お金取るんですか!? 膝貸したのは私なのに!」
「お金ではありません。……また僕が疲れた時は、今日の業務を遂行していただきます。……いいですね?」
「え……? それって、また膝枕していいってことですか?」
「……察しが悪いですね。……僕の独占契約ですよ、あなたは」
アズールは口角を上げ、不敵に、けれど少しだけ熱を帯びた眼差しを向けた。ななしは「? よくわからないけど、先輩が休めるならいいかな」と頷いた。
「わかりました。アズール先輩の専属膝枕係ですね。任せてください!」
「……。……本当に、あなたは。……ふふっ」
アズールは小さく笑い、先に立って部屋を出た。
廊下を歩く彼の足取りは、いつになく軽やかだった。
背後をついてくるななしには見えない場所で、彼は自分の手のひらを見つめ、再びあの温もりを思い出していた。
「(……慈愛、ですか。……いいえ。これはもっと、利己的で独占的な、僕だけの愛ですよ。……ななしさん)」
真っ白な教室に残された魔法の文字は、二人が去ると同時に、溶けるように消えていった。しかし、アズールの心に刻まれた10分間の休息は、どんな契約書よりも重く、彼を縛り続けることになる。
夕暮れの校舎に、二人の賑やかな声が消えていく。
アズールの計算高い恋路は、今、ようやく始まったばかりだった。
モストロ・ラウンジの運営に関する書類を届けるため、ななしはアズール・アーシェングロットに呼び出されていた。
「お疲れ様です、アズール先輩。頼まれていた資料、持ってきましたよ」
「おや、ななしさん。わざわざ足労をおかけしましたね。さあ、中へ入ってください」
アズールは慇懃な笑みを浮かべ、扉を開けて彼女を促す。
二人が足を踏み入れた瞬間、背後で扉が吸い付くように閉まった。
同時に、視界が真っ白な魔力に染まる。
「え……? アズール先輩、電気が消えたんですか?」
「いえ、これは……。おや、扉が開きませんね。魔法による封鎖ですか。困りましたねぇ」
アズールは眼鏡を押し上げ、冷静に扉を検分する。だが、その声には微かな動揺が混じっていた。
真っ白な空間に、文字が浮かび上がる。
アズールに10分間膝枕しないと出られない部屋
「ひざまくら……?」
ななしは首を傾げ、宙に浮く文字をなぞった。
「アズール先輩、膝枕だって書いてありますよ。最近の魔法教育はユニークですね」
「……ユニークなのはこの状況ですよ。膝枕、ですか」
アズールは溜息をつく。
「アズール先輩、どうします? 私、別にいいですよ、膝枕くらい。アズール先輩、いつも忙しそうですし、少しお昼寝したらどうですか?」
「……あなたという人は、本当に警戒心というものがないのですか?」
「え? 先輩相手に警戒なんて必要ないじゃないですか。さ、どうぞどうぞ!」
ななしは白い床にすとんと座り、自分の太ももをポンポンと叩いた。
「……やれやれ。断る理由もありませんし、この非合理的な魔法に従うとしましょう」
アズールは内心の鼓動を隠し、静かに横になった。
彼の頭が、ななしの膝に乗る。柔らかな感触と、微かに漂う彼女の香りに、アズールの思考が一瞬停止した。
「……。……ななしさん、10分ですよ。正確に測ってください」
「わかってますって。……あ、アズール先輩、眼鏡外しますか? 痛くないですか?」
「いえ、そのままで……。……。……やはり、外しましょうか。少し、落ち着きません」
アズールが眼鏡を外すと、その伏せられた睫毛の長さが露わになる。
ななしは、まじまじとその顔を見つめた。
「アズール先輩って、眼鏡外すと雰囲気が変わりますね。なんだか……少し、幼く見えるというか」
「……余計な観察は不要です。僕は今、休息をとっているのですから」
1分が経過する。
アズールは目を閉じているが、意識は研ぎ澄まされていた。膝から伝わる彼女の体温。呼吸に合わせて微かに揺れる視界。
「……アズール先輩、髪、綺麗ですね」
ななしが、指先でアズールの髪をそっとなぞった。
「なっ……! 何をしているんですか!」
「え? だって、膝枕ってこう……撫でたりするものかなって。あ、嫌でした?」
「……嫌、ではなく。……いえ、許可なく触れるのはマナー違反だと言っているのです」
「すみません。でも、アズール先輩、今すごく眉間にシワが寄ってますよ。リラックスしないと10分経っても開かないかもしれないですよ?」
「……。……勝手にしてください」
アズールは諦めたように再び目を閉じた。
ななしは、丁寧に彼の髪を梳くように撫で始める。指先が、耳の裏やこめかみを優しく刺激する。
「……ふぅ」
アズールの口から、小さな吐息が漏れた。
「あ、気持ちいいですか?」
「……悪くはありませんね。……あなたの指は、案外……温かい」
3分が経過した。
アズールの体が、少しずつななしに委ねられていく。
「アズール先輩。さっきの資料なんですけど、ジェイド先輩が『これ、アズールには内緒ですよ』って言ってた修正案、入れておきましたからね」
「……なんですって? ……後で詳しく聞かせなさい」
「あはは、あと7分は私の膝の上ですもんね」
「…………強気ですね、今日のあなたは」
「だって、今の主導権は私にありますから。アズール先輩は、大人しく私に甘やかされてればいいんです」
アズールは目を開け、真上にあるななしの顔を見上げた。
「ななしさん」
「はい、なんでしょう」
「……あなたは、誰にでもこうして膝枕をしてあげるのですか?」
「え? しないですよ。まあ、グリムにはしょっちゅう膝貸してあげてますけど」
「……。……そうですか。それは、重畳だ」
アズールの声に、微かな満足感が混じる。
5分が経過した。
ななしの撫で方は、ますますリズミカルに、穏やかになっていく。
「……アズール先輩、寝ちゃいました?」
「……起きていますよ。僕はあなたほど、どこでも寝られるほど能天気ではありません」
「ひどいなぁ。……でも、先輩の呼吸、さっきよりゆっくりになりましたね。心臓の音も、私の膝に響いてますよ。トクトクって」
「……! そ、それは、……気圧のせいでしょう」
「気圧外とそんなに違ってます?」
「……細かいことは気にしないことです。……それより、もっと……右の方を」
「右? ここですか?」
「……。……ええ」
アズールは、自分の顔をななしのお腹の方へと少し埋めるように動いた。密着度が増す。ななしは一瞬驚いたが、「よっぽど疲れてるんだなぁ」と結論づけて、さらに優しく彼の頭を抱きしめるように固定した。アズールは、彼女の柔らかな体温に包まれながら、暗い悦びに浸っていた。
7分が経過。
「アズール先輩。……私、アズール先輩のこと、尊敬してるんですよ」
唐突なななしの言葉に、アズールは肩を揺らした。
「……尊敬? 僕を、ですか?」
「アズール先輩は努力の人です。先輩がどれだけ計算して、どれだけ準備して毎日を過ごしてるか、みんな知ってます。……だから、たまにはこうして、私に寄りかかってくれてもいいのになって、思ってたんです」
「…………あなたは、本当に……」
アズールは、自分の顔を覆うように腕を上げた。
耳まで赤くなっているのを、見られたくなかった。
「……アズール先輩?」
「……黙っててください。……今、僕は極上の休息を堪能しているところなのですから」
残り、1分。
部屋を支配していた緊張感は完全に消え、そこには穏やかで、少しだけ切ない親密さが漂っていた。
「あと少しで終わっちゃいますね。……名残惜しいですか?」
「……まさか。早くこの不毛な空間から脱出したいだけですよ」
アズールは嘘をついた。本当は離れたくない。この10分間の契約を、永遠に延長したいとさえ思っていた。
「……10、9、8……」
ななしがカウントダウンを始める。
「3、2、1。……はい、10分経ちました!」
掲示板がまばゆい光を放ち、扉のロックが外れる音が響いた。
アズールは、ゆっくりと体を起こした。
ななしは痺れた足をさすりながら、ニコニコと笑っている。
「お疲れ様でした、アズール先輩。よく眠れました?」
「……ええ。お陰様で、数日分の睡眠を摂取した気分ですよ」
アズールは眼鏡をかけ直し、いつもの冷徹で知的な支配人の顔に戻る。だがその指先は、まだななしの膝の感覚を覚えていた。
「さあ、戻りましょう。滞っている仕事が山積みです」
「あ、待ってください! 資料、預かったままですよ」
「……。……。ああ、そうでしたね」
アズールは資料を受け取る際、わざとななしの手に自分の手を重ねた。
「……ななしさん」
「はい?」
「……今回の件、報酬は高くつきますよ。僕の弱みを10分間も握ったのですから」
「ええっ、お金取るんですか!? 膝貸したのは私なのに!」
「お金ではありません。……また僕が疲れた時は、今日の業務を遂行していただきます。……いいですね?」
「え……? それって、また膝枕していいってことですか?」
「……察しが悪いですね。……僕の独占契約ですよ、あなたは」
アズールは口角を上げ、不敵に、けれど少しだけ熱を帯びた眼差しを向けた。ななしは「? よくわからないけど、先輩が休めるならいいかな」と頷いた。
「わかりました。アズール先輩の専属膝枕係ですね。任せてください!」
「……。……本当に、あなたは。……ふふっ」
アズールは小さく笑い、先に立って部屋を出た。
廊下を歩く彼の足取りは、いつになく軽やかだった。
背後をついてくるななしには見えない場所で、彼は自分の手のひらを見つめ、再びあの温もりを思い出していた。
「(……慈愛、ですか。……いいえ。これはもっと、利己的で独占的な、僕だけの愛ですよ。……ななしさん)」
真っ白な教室に残された魔法の文字は、二人が去ると同時に、溶けるように消えていった。しかし、アズールの心に刻まれた10分間の休息は、どんな契約書よりも重く、彼を縛り続けることになる。
夕暮れの校舎に、二人の賑やかな声が消えていく。
アズールの計算高い恋路は、今、ようやく始まったばかりだった。
