◯◯しないと出られない部屋
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その日は、不運が重なっただけのはずだった。
学園の図書室で借りた本の返却期限が迫り、放課後に急いで向かっていたななしは、曲がり角でハーツラビュル寮の副寮長トレイ・クローバーと出くわした。
「おっと。……大丈夫か、ななし」
「あ、トレイ先輩! すみません、前を見てなくて」
「はは、いいって。急いでるみたいだが、そんなに慌てると危ないぞ」
いつもと変わらない、穏やかで頼りになる先輩の笑顔。トレイはななしが落としかけた本を支えてやり、そのついでに彼女の頭を軽く撫でた。
その直後だった。
廊下の空間がぐにゃりと歪み、二人の視界は真っ白な光に包まれる。
次に目を覚ました時、そこは窓も家具もない真っ白な四角い部屋だった。唯一の出口である重厚な鉄格子の扉には、魔法の文字が浮かび上がっている。
甘い言葉を囁かないと出られない部屋
「……は?」
トレイの口から、およそ彼らしくない呆然とした声が漏れる。
「あ、甘い言葉……? トレイ先輩、これって……」
ななしは掲示板の文字を見るなり、顔面を林檎のように真っ赤に染めた。
「トレイ先輩、どうしましょう。私、そんな……気の利いたことなんて言えるか……」
「……いや、俺もだ。甘いものを作るのは得意だが、甘い台詞を吐くのは専門外だな」
トレイは眼鏡を押し上げ、困ったように眉を下げた。だが、その瞳の奥には、ななしには決して見せない暗い熱が灯っている。
「……とりあえず、座ろうか。立ちっぱなしでは考えもまとまらない」
座った二人の距離は、膝が触れ合うほどに近い。
「……ななし、まずは俺から試してみてもいいか? こう見えても、少しは年上の余裕を見せないとな」
「は、はい……お願いします」
トレイは少し照れくさそうに笑い、ななしの耳元に顔を寄せた。
「……いつも頑張っているお前の姿、見てるよ。その笑顔に、俺は何度も救われてる。……大好きだ」
ななしの心臓がドクリと跳ねる。しかし、扉の魔法計はピクリとも動かない。
「……不合格、か。やっぱり、この程度じゃ『赤面して動けなくなるほど』とは言えないらしい」
トレイは自嘲気味に笑った。
「先輩……今の、すごく嬉しかったです」
「ありがとう。だが、足りないみたいだ。……次は、お前の番だ」
ななしは意を決して、トレイの胸板に手を添えた。
「トレイ先輩の……焼いてくれるお菓子、世界で一番好きです。でも、それよりも……ふとした時の、優しい目が……もっと好きです」
言い終えると同時に、ななしは顔を伏せた。
「……はは、まいったな。そんなことを言われるとは思わなかった」
トレイの顔もわずかに赤らむが、魔法計は依然として沈黙を保っている。
「……ななし、掲示板の言葉をよく見てくれ。『赤面して動けなくなるほど』だ。……これは、ありきたりな告白じゃ通らないという意味かもしれない」
トレイの声が、先ほどよりも低く、重厚な響きを帯びる。
「……もっと、心の奥底にある、他人には決して見せられないような毒の混じった甘さが必要なのかもしれないな」
「毒……?」
「ああ。……いいか、ななし。ここからは、俺も先輩の仮面を外させてもらうよ」
トレイは唐突にななしの手首を掴み、自分の膝の上に引き寄せた。
「トレイ、先輩……?」
「言っただろう、今は先輩じゃない。……一人の男として、お前に囁かせてもらう」
眼鏡越しの彼の瞳は、いつもの穏やかさなど微塵も残っていない。欲望と執着と、そして隠しきれない愛情が混ざり合った、雄の目だった。
「お前はいつも、誰にでも分け隔てなく明るく接する。エースやデュース、グリム……。それを見るたび、俺がどれだけ黒い感情を抱いているか、想像したことはあるか?」
トレイの唇が、ななしの耳たぶに触れる。
「その明るい声も笑顔も、俺だけに向けてほしい。お前が他の誰かと笑っているだけで、俺の中の理性が削れていくんだ。……本当は、お前をこの部屋から出したくない。誰の目にも触れない場所に閉じ込めて、俺が作ったお菓子だけでお前を満たして……俺以外の味を知らない身体にしてしまいたいとさえ思ってる」
「…………っ」
ななしは声も出せず、震える身体でトレイを見上げた。トレイの手が彼女の頬を愛おしそうになぞる。
「お前の心臓の音、ここまで聞こえるよ。……怖いか? それとも、俺と同じくらい、お前も俺を欲しがってくれてるのか?」
トレイの指先が、ななしの唇を割るように押し入る。
「……俺は、お前に甘いだけの魔法をかけるつもりはない。二度と俺なしでは生きられなくなるような、最高に依存性の高い毒を、お前の奥深くまで流し込んであげたいんだ」
ななしの顔は、これ以上ないほどに赤く染まり、指先一つ動かすことができない。トレイから発せられる熱量と彼の本音に脳が痺れていく。
「……ななし、返事を聞きたいんだが」
「……はい、……あ」
ななしの口から、掠れた声が漏れる。
その瞬間。
部屋中に目も眩むような光が溢れた。
魔法計の針が振り切れ、真っ赤な警告灯のような輝きを放つ。
――ガシャン。
重厚な鎖が砕け散り、扉がゆっくりと左右に開いていく。
条件は達成された。出口はもう目の前にある。
だが、トレイは動かなかった。
彼はななしの肩に顔を埋め、熱い吐息を吐き出している。
「……開いたな」
「……はい。……出なきゃ、いけませんね」
「……ああ。だが、一つだけ勘違いしないでくれ」
トレイは顔を上げ、ななしの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「今の言葉は、部屋を出すための演技じゃない。……全部、俺の本心だ」
トレイはいつもの穏やかな副寮長の顔に戻る。しかし繋いだままの手には、先ほどまでの強引な熱が残っていた。
「さあ、帰ろうか。ななし。……寮まで送るよ。……もちろん、他の奴らに見つからないように、な」
開かれた扉の向こう側から、夕暮れの学園の風が吹き込む。
トレイはななしの指を一本ずつ絡めるようにして握り直し、ゆっくりと歩き出した。
「……あの」
「なんだ?」
「……さっきの言葉の続き、また聞かせてくれますか?」
「……はは、ななしは相当、耐性があるみたいだ。……今度は、誰にも邪魔されない俺の部屋で、たっぷりと聞かせてやるな」
夕暮れの廊下に響く二人の足音は、以前よりもずっと深く重なり合っていた。あの真っ白な部屋が誰の仕業だったのか、それは二人の秘密、あるいは隠しきれなくなった本音を暴くための、魔法のいたずらだったのかもしれない。
学園の図書室で借りた本の返却期限が迫り、放課後に急いで向かっていたななしは、曲がり角でハーツラビュル寮の副寮長トレイ・クローバーと出くわした。
「おっと。……大丈夫か、ななし」
「あ、トレイ先輩! すみません、前を見てなくて」
「はは、いいって。急いでるみたいだが、そんなに慌てると危ないぞ」
いつもと変わらない、穏やかで頼りになる先輩の笑顔。トレイはななしが落としかけた本を支えてやり、そのついでに彼女の頭を軽く撫でた。
その直後だった。
廊下の空間がぐにゃりと歪み、二人の視界は真っ白な光に包まれる。
次に目を覚ました時、そこは窓も家具もない真っ白な四角い部屋だった。唯一の出口である重厚な鉄格子の扉には、魔法の文字が浮かび上がっている。
甘い言葉を囁かないと出られない部屋
「……は?」
トレイの口から、およそ彼らしくない呆然とした声が漏れる。
「あ、甘い言葉……? トレイ先輩、これって……」
ななしは掲示板の文字を見るなり、顔面を林檎のように真っ赤に染めた。
「トレイ先輩、どうしましょう。私、そんな……気の利いたことなんて言えるか……」
「……いや、俺もだ。甘いものを作るのは得意だが、甘い台詞を吐くのは専門外だな」
トレイは眼鏡を押し上げ、困ったように眉を下げた。だが、その瞳の奥には、ななしには決して見せない暗い熱が灯っている。
「……とりあえず、座ろうか。立ちっぱなしでは考えもまとまらない」
座った二人の距離は、膝が触れ合うほどに近い。
「……ななし、まずは俺から試してみてもいいか? こう見えても、少しは年上の余裕を見せないとな」
「は、はい……お願いします」
トレイは少し照れくさそうに笑い、ななしの耳元に顔を寄せた。
「……いつも頑張っているお前の姿、見てるよ。その笑顔に、俺は何度も救われてる。……大好きだ」
ななしの心臓がドクリと跳ねる。しかし、扉の魔法計はピクリとも動かない。
「……不合格、か。やっぱり、この程度じゃ『赤面して動けなくなるほど』とは言えないらしい」
トレイは自嘲気味に笑った。
「先輩……今の、すごく嬉しかったです」
「ありがとう。だが、足りないみたいだ。……次は、お前の番だ」
ななしは意を決して、トレイの胸板に手を添えた。
「トレイ先輩の……焼いてくれるお菓子、世界で一番好きです。でも、それよりも……ふとした時の、優しい目が……もっと好きです」
言い終えると同時に、ななしは顔を伏せた。
「……はは、まいったな。そんなことを言われるとは思わなかった」
トレイの顔もわずかに赤らむが、魔法計は依然として沈黙を保っている。
「……ななし、掲示板の言葉をよく見てくれ。『赤面して動けなくなるほど』だ。……これは、ありきたりな告白じゃ通らないという意味かもしれない」
トレイの声が、先ほどよりも低く、重厚な響きを帯びる。
「……もっと、心の奥底にある、他人には決して見せられないような毒の混じった甘さが必要なのかもしれないな」
「毒……?」
「ああ。……いいか、ななし。ここからは、俺も先輩の仮面を外させてもらうよ」
トレイは唐突にななしの手首を掴み、自分の膝の上に引き寄せた。
「トレイ、先輩……?」
「言っただろう、今は先輩じゃない。……一人の男として、お前に囁かせてもらう」
眼鏡越しの彼の瞳は、いつもの穏やかさなど微塵も残っていない。欲望と執着と、そして隠しきれない愛情が混ざり合った、雄の目だった。
「お前はいつも、誰にでも分け隔てなく明るく接する。エースやデュース、グリム……。それを見るたび、俺がどれだけ黒い感情を抱いているか、想像したことはあるか?」
トレイの唇が、ななしの耳たぶに触れる。
「その明るい声も笑顔も、俺だけに向けてほしい。お前が他の誰かと笑っているだけで、俺の中の理性が削れていくんだ。……本当は、お前をこの部屋から出したくない。誰の目にも触れない場所に閉じ込めて、俺が作ったお菓子だけでお前を満たして……俺以外の味を知らない身体にしてしまいたいとさえ思ってる」
「…………っ」
ななしは声も出せず、震える身体でトレイを見上げた。トレイの手が彼女の頬を愛おしそうになぞる。
「お前の心臓の音、ここまで聞こえるよ。……怖いか? それとも、俺と同じくらい、お前も俺を欲しがってくれてるのか?」
トレイの指先が、ななしの唇を割るように押し入る。
「……俺は、お前に甘いだけの魔法をかけるつもりはない。二度と俺なしでは生きられなくなるような、最高に依存性の高い毒を、お前の奥深くまで流し込んであげたいんだ」
ななしの顔は、これ以上ないほどに赤く染まり、指先一つ動かすことができない。トレイから発せられる熱量と彼の本音に脳が痺れていく。
「……ななし、返事を聞きたいんだが」
「……はい、……あ」
ななしの口から、掠れた声が漏れる。
その瞬間。
部屋中に目も眩むような光が溢れた。
魔法計の針が振り切れ、真っ赤な警告灯のような輝きを放つ。
――ガシャン。
重厚な鎖が砕け散り、扉がゆっくりと左右に開いていく。
条件は達成された。出口はもう目の前にある。
だが、トレイは動かなかった。
彼はななしの肩に顔を埋め、熱い吐息を吐き出している。
「……開いたな」
「……はい。……出なきゃ、いけませんね」
「……ああ。だが、一つだけ勘違いしないでくれ」
トレイは顔を上げ、ななしの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「今の言葉は、部屋を出すための演技じゃない。……全部、俺の本心だ」
トレイはいつもの穏やかな副寮長の顔に戻る。しかし繋いだままの手には、先ほどまでの強引な熱が残っていた。
「さあ、帰ろうか。ななし。……寮まで送るよ。……もちろん、他の奴らに見つからないように、な」
開かれた扉の向こう側から、夕暮れの学園の風が吹き込む。
トレイはななしの指を一本ずつ絡めるようにして握り直し、ゆっくりと歩き出した。
「……あの」
「なんだ?」
「……さっきの言葉の続き、また聞かせてくれますか?」
「……はは、ななしは相当、耐性があるみたいだ。……今度は、誰にも邪魔されない俺の部屋で、たっぷりと聞かせてやるな」
夕暮れの廊下に響く二人の足音は、以前よりもずっと深く重なり合っていた。あの真っ白な部屋が誰の仕業だったのか、それは二人の秘密、あるいは隠しきれなくなった本音を暴くための、魔法のいたずらだったのかもしれない。
