微睡の淵の銀鎖
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学園の喧騒から少し離れた場所にある馬術部の厩舎。
そこには乾いた藁の匂いと馬たちが時折鳴らす鼻鳴きが響く、穏やかな時間が流れていた。
放課後、ななしは学園長から預かった馬用の特製ブラシを届けるため厩舎へと足を運んでいた。
「失礼します……。シルバー先輩、いらっしゃいますか?」
返事はない。
だが厩舎の奥からはパカッ、パカッという規則正しい足音が聞こえてくる。不思議に思って覗き込むと、そこには愛馬に跨がり、ゆっくりと歩かせているシルバーの姿があった。
「あ、練習中だったかな……」
声をかけようとして、ななしは息を呑んだ。
シルバーの背筋はいつも通り伸びている。手綱を握る拳も位置を保っている。だがその頭はゆっくりと左右に揺れ、瞼は完全に閉じられていた。
「(えっ、ちょっと待って……。嘘でしょ、馬の上で寝てる!?)」
シルバーの「どこでも寝てしまう」体質は知っていたが、動いている馬の上というのは流石にレベルが違いすぎる。ななしは慌てて柵のそばまで駆け寄った。
「シルバー先輩! シルバー先輩、起きてください! 危ないですよ!」
「……ん……。……セベク、声が大きいぞ……」
「セベクくんじゃありません、ななしです! 起きて、落ちちゃいますっ!」
ななしの必死の呼びかけに、シルバーがわずかに身じろぎした。それが仇となったのか、バランスが崩れ、彼の体が大きく右側へ傾く。
「あっ……!」
重力に従い、シルバーの体が馬の背から滑り落ちる。
ななしは考えるより先に体が動いていた。柵を乗り越え、地面に積まれた高い藁の山へ向かって、彼を受け止めようと両腕を伸ばす。
「シルバー先輩っ!!」
ドサッ、という鈍い音。
ななしはシルバーの体を受け止めきれず、勢いそのままに二人で藁の山へと転げ落ちた。
「痛た……」
視界がぐるぐると回り、鼻先を乾いた藁がくすぐる。
ななしがようやく目を上げると、目の前には自分を庇うように腕を回したシルバーの顔があった。
彼はすでに目を覚ましており、ひどく驚いたような、そして酷く痛ましそうな表情でななしを見つめていた。
「……ななしか? ……なぜ、ここに……」
「なぜって、先輩が落ちそうだったからですよ! もう、びっくりしました……。怪我、ないですか?」
「俺は大丈夫だ。……それより、お前を巻き込んでしまった。痛むところはないか? どこか打っていないか?」
シルバーは焦った様子でななしの肩を掴み、その体を検分するように見つめる。彼の大きな手が肩に触れるたび、ななしはドクンと心臓が跳ねるのを感じた。
藁の中に沈み込んだ二人の距離は、驚くほど近い。シルバーが吐き出す熱い息が、ななしの額にかかるほどに。
「だ、大丈夫です。藁がクッションになってくれたみたいで。……ちょっと頭がクラクラするくらいです」
「そうか……。……よかった。……お前に何かあれば、俺は自分を許せないところだった」
シルバーは安堵のため息をつき、そのまま力を抜いた。
だが、彼は離れようとはしなかった。それどころか、藁の上に横たわったまま、ななしの手をそっと握りしめた。
「……シルバー先輩?」
「すまない。……少しだけ、このままでいさせてくれ。……心臓が、まだ激しく脈打っているんだ。……お前を失うかもしれないと思った瞬間、血の気が引く思いがした」
その言葉は、いつもの冷静なシルバーからは想像もできないほど、切実な響きを含んでいた。ななしは顔を真っ赤にしながら、握られた手の温かさに意識を集中させる。
「……先輩って、本当に心配性ですね。わたし、そんなに弱くないですよ?」
「……。……。…………」
「ええっ!? ちょっと、先輩! こんな状況でまた寝るんですか!?」
安心したのがスイッチになったのか、シルバーはななしの手を握ったまま、再び夢の世界へと旅立とうとしていた。ななしは呆れつつも、自分を見つめていた時の彼の真剣な眼差しを思い出し、胸の奥が温かくなるのを止められなかった。
「……もう。……しょうがない人ですね」
ななしは自由な方の手で、シルバーの髪についた藁をそっと払う。
サラサラとした銀髪。眠っている彼の顔は、子どものように無防備で、そしてどこまでも清らかだった。
「……ななし……」
寝言だろうか。シルバーが小さく名前を呼ぶ。その瞬間、ななしは奥手な自分をかなぐり捨てて、彼の額に指先で軽く触れた。
「おやすみなさい、シルバー先輩。……次はちゃんと、ベッドで寝てくださいね」
夕暮れの厩舎に、穏やかな寝息と少女の小さなため息が重なり合う。馬たちは、藁の中で寄り添う二人を祝福するように、優しく鼻を鳴らしていた。
◇
それから数十分後。
ようやく目を覚ましたシルバーは、自分がななしの手を握ったまま、藁の中で添い寝するような形になっていたことに気づき、耳まで真っ赤に染め上げた。
「……ななし、これは……その、断じて他意はないのだ」
「わかってますよ。先輩が寝ぼけてただけですよね」
「いや、寝ぼけていたのは事実だが……。……お前の手があまりにも温かくて、離したくないと思ってしまったのも、また事実なのだ」
「えっ……」
大真面目な顔で、さらりと心臓に悪いことを言う。
シルバーはすくっと立ち上がると、ななしに手を差し伸べた。
「立てるか? ……服に藁がたくさんついている。……払ってやろう」
「あ、自分でやりますから大丈夫です!」
「遠慮するな。……俺の不徳の致すところだ。これくらいはさせてくれ」
そう言って、シルバーはななしの背中や肩についた藁を、丁寧な手つきで払い始めた。彼の指先が服越しに触れるたび、ななしの体温はぐんぐんと上がっていく。
「(シルバー先輩って、天然なのかな……それとも、わざとなのかな……)」
答えは彼のどこまでも澄んだ、曇りのない瞳の中にあった。彼はただ、純粋にななしのことを想い、行動しているだけなのだ。それが一番、ななしにとっては困ることであり、愛おしいことでもあった。
「……よし。……だいたい取れたようだ。……帰りは寮まで送る。……今度は、歩きながら寝ないよう細心の注意を払おう」
「あはは、お願いしますね。先輩」
夕闇の学園。二人の影は長く伸び、時折重なり合いながら、それぞれの寮へと続く道を歩んでいった。
ななしの手のひらには、まだシルバーの熱が残っている。それは、どんな魔法よりも強く、彼女の心を縛り付けていた。
そこには乾いた藁の匂いと馬たちが時折鳴らす鼻鳴きが響く、穏やかな時間が流れていた。
放課後、ななしは学園長から預かった馬用の特製ブラシを届けるため厩舎へと足を運んでいた。
「失礼します……。シルバー先輩、いらっしゃいますか?」
返事はない。
だが厩舎の奥からはパカッ、パカッという規則正しい足音が聞こえてくる。不思議に思って覗き込むと、そこには愛馬に跨がり、ゆっくりと歩かせているシルバーの姿があった。
「あ、練習中だったかな……」
声をかけようとして、ななしは息を呑んだ。
シルバーの背筋はいつも通り伸びている。手綱を握る拳も位置を保っている。だがその頭はゆっくりと左右に揺れ、瞼は完全に閉じられていた。
「(えっ、ちょっと待って……。嘘でしょ、馬の上で寝てる!?)」
シルバーの「どこでも寝てしまう」体質は知っていたが、動いている馬の上というのは流石にレベルが違いすぎる。ななしは慌てて柵のそばまで駆け寄った。
「シルバー先輩! シルバー先輩、起きてください! 危ないですよ!」
「……ん……。……セベク、声が大きいぞ……」
「セベクくんじゃありません、ななしです! 起きて、落ちちゃいますっ!」
ななしの必死の呼びかけに、シルバーがわずかに身じろぎした。それが仇となったのか、バランスが崩れ、彼の体が大きく右側へ傾く。
「あっ……!」
重力に従い、シルバーの体が馬の背から滑り落ちる。
ななしは考えるより先に体が動いていた。柵を乗り越え、地面に積まれた高い藁の山へ向かって、彼を受け止めようと両腕を伸ばす。
「シルバー先輩っ!!」
ドサッ、という鈍い音。
ななしはシルバーの体を受け止めきれず、勢いそのままに二人で藁の山へと転げ落ちた。
「痛た……」
視界がぐるぐると回り、鼻先を乾いた藁がくすぐる。
ななしがようやく目を上げると、目の前には自分を庇うように腕を回したシルバーの顔があった。
彼はすでに目を覚ましており、ひどく驚いたような、そして酷く痛ましそうな表情でななしを見つめていた。
「……ななしか? ……なぜ、ここに……」
「なぜって、先輩が落ちそうだったからですよ! もう、びっくりしました……。怪我、ないですか?」
「俺は大丈夫だ。……それより、お前を巻き込んでしまった。痛むところはないか? どこか打っていないか?」
シルバーは焦った様子でななしの肩を掴み、その体を検分するように見つめる。彼の大きな手が肩に触れるたび、ななしはドクンと心臓が跳ねるのを感じた。
藁の中に沈み込んだ二人の距離は、驚くほど近い。シルバーが吐き出す熱い息が、ななしの額にかかるほどに。
「だ、大丈夫です。藁がクッションになってくれたみたいで。……ちょっと頭がクラクラするくらいです」
「そうか……。……よかった。……お前に何かあれば、俺は自分を許せないところだった」
シルバーは安堵のため息をつき、そのまま力を抜いた。
だが、彼は離れようとはしなかった。それどころか、藁の上に横たわったまま、ななしの手をそっと握りしめた。
「……シルバー先輩?」
「すまない。……少しだけ、このままでいさせてくれ。……心臓が、まだ激しく脈打っているんだ。……お前を失うかもしれないと思った瞬間、血の気が引く思いがした」
その言葉は、いつもの冷静なシルバーからは想像もできないほど、切実な響きを含んでいた。ななしは顔を真っ赤にしながら、握られた手の温かさに意識を集中させる。
「……先輩って、本当に心配性ですね。わたし、そんなに弱くないですよ?」
「……。……。…………」
「ええっ!? ちょっと、先輩! こんな状況でまた寝るんですか!?」
安心したのがスイッチになったのか、シルバーはななしの手を握ったまま、再び夢の世界へと旅立とうとしていた。ななしは呆れつつも、自分を見つめていた時の彼の真剣な眼差しを思い出し、胸の奥が温かくなるのを止められなかった。
「……もう。……しょうがない人ですね」
ななしは自由な方の手で、シルバーの髪についた藁をそっと払う。
サラサラとした銀髪。眠っている彼の顔は、子どものように無防備で、そしてどこまでも清らかだった。
「……ななし……」
寝言だろうか。シルバーが小さく名前を呼ぶ。その瞬間、ななしは奥手な自分をかなぐり捨てて、彼の額に指先で軽く触れた。
「おやすみなさい、シルバー先輩。……次はちゃんと、ベッドで寝てくださいね」
夕暮れの厩舎に、穏やかな寝息と少女の小さなため息が重なり合う。馬たちは、藁の中で寄り添う二人を祝福するように、優しく鼻を鳴らしていた。
◇
それから数十分後。
ようやく目を覚ましたシルバーは、自分がななしの手を握ったまま、藁の中で添い寝するような形になっていたことに気づき、耳まで真っ赤に染め上げた。
「……ななし、これは……その、断じて他意はないのだ」
「わかってますよ。先輩が寝ぼけてただけですよね」
「いや、寝ぼけていたのは事実だが……。……お前の手があまりにも温かくて、離したくないと思ってしまったのも、また事実なのだ」
「えっ……」
大真面目な顔で、さらりと心臓に悪いことを言う。
シルバーはすくっと立ち上がると、ななしに手を差し伸べた。
「立てるか? ……服に藁がたくさんついている。……払ってやろう」
「あ、自分でやりますから大丈夫です!」
「遠慮するな。……俺の不徳の致すところだ。これくらいはさせてくれ」
そう言って、シルバーはななしの背中や肩についた藁を、丁寧な手つきで払い始めた。彼の指先が服越しに触れるたび、ななしの体温はぐんぐんと上がっていく。
「(シルバー先輩って、天然なのかな……それとも、わざとなのかな……)」
答えは彼のどこまでも澄んだ、曇りのない瞳の中にあった。彼はただ、純粋にななしのことを想い、行動しているだけなのだ。それが一番、ななしにとっては困ることであり、愛おしいことでもあった。
「……よし。……だいたい取れたようだ。……帰りは寮まで送る。……今度は、歩きながら寝ないよう細心の注意を払おう」
「あはは、お願いしますね。先輩」
夕闇の学園。二人の影は長く伸び、時折重なり合いながら、それぞれの寮へと続く道を歩んでいった。
ななしの手のひらには、まだシルバーの熱が残っている。それは、どんな魔法よりも強く、彼女の心を縛り付けていた。
