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月明かりだけが静かに降り注ぐ、深夜のオンボロ寮の庭。
ななしは体を締め付けない緩い部屋着姿のまま、火照った体を冷ますために裏口の階段に腰掛けていた。昼間の男装から解放されたこの時間だけが、唯一息をつけるひとときだった。
静まり返った夜の空気に、かすかな衣擦れの音が混じる。
「おや。こんな夜更けに、先客がいたとは」
声のする方を見上げると、荒れた庭の生垣の傍らにマレウス・ドラコニアが静かに佇んでいた。
「ツノ太郎……! びっくりした、今日も散歩?」
「驚かせるつもりはなかったのだが。……それにしても、随分と薄着ではないか」
マレウスはゆっくりと歩み寄り階段に座るななしを見下ろす。
「あ、これは……その、夜は動きやすい格好の方が楽だから」
「ふむ。ヒトの子の衣服の基準はよく分からんが、いつもより随分と小さく見えるな。骨格も、肉の付き方も」
マレウスが影を落とすように、一歩距離を詰める。
「気のせいだよ。ゆるい服を着ていたらみんなこんなものだし」
「そうなのか? 衣服ひとつでそれほど印象が変わるものとは興味深い。……いや、それよりも顔色が悪いな。体調でも崩しているのではないか?」
「本当に大丈夫。ちょっと最近、寝不足が続いてただけだから」
「嘘をつくな。僕の目は誤魔化せないぞ」
マレウスは長い指先を伸ばし、ななしの頬に触れようとする。その指先が触れる直前、ななしは身を引くように少し首を傾げた。
「……ツノ太郎、本当に大丈夫だから」
「……拒まれたのは久々だな。やはりどこか悪いのだろう。今日のお前は、いつもより酷く脆そうに見える」
マレウスは差し伸べた手をとめ、静かに目を細めた。彼はななしが男装を解いていることの本当の理由には気づいていない。ただ目の前の小さな生き物が、いつもと違う不安定な境界にいることだけを、その鋭い直感で察知していた。
「拒んだわけじゃないよ。ただ、急に綺麗な人が目の前に来たら緊張するんだよ」
「綺麗、か。僕を恐れず、そのような言葉を向けるのはお前くらいのものだ」
「褒めてるんだよ。だから、そんなに心配そうな顔をしないで」
ななしが少し笑ってみせると、マレウスは小さく息を漏らした。
「ならば、今夜の散歩はここまでにしておこう。これ以上お前を緊張させては、余計に眠れなくなるだろうからな」
「うん、ありがとう。またいつでも散歩に来て」
「ああ、また来よう。……ヒトの子、次はもう少し暖かくして過ごすことだ」
夜風がふっと強く吹いた瞬間、マレウスの姿は闇に溶けるように消え去った。
静まり返った庭で、ななしは緊張で強張っていた肩をようやく落とし、自分の胸元を隠すようにぎゅっと抱きしめた。
しばらくして、冷えてきた自分の腕を擦りながらななしはゆっくりと立ち上がった。裏口の重い扉を閉めて鍵をかけ、眠気に身を任せるように自分の部屋へと戻っていった。
◇
翌朝、よく晴れた学園の廊下は、いつものように騒がしさに包まれていた。きっちりと制服を着込んだななしは、グリムを肩に乗せて歩いていた。
「ふなぁ……昨日の夜中、庭の方で妙な魔力の気配がした気がするんだゾ。気のせいか?」
グリムが欠伸を噛み殺しながら、長い尾をパタパタと揺らす。
「……さあ、どうだろう」
「そうか? ならいいんだゾ。オレ様は朝飯が足りなくて、それどころじゃないんだゾ!」
グリムを宥めながら角を曲がると、前方からケイト・ダイヤモンドが、スマートフォンを片手に歩いてくるのが見えた。
「あ、ななしちゃんにグリちゃん、おはよ〜! 朝から元気そうだね」
「ケイト先輩、おはようございます」
ケイトはいつも通りの軽い笑顔で近づいてきたが、ななしの顔を正面から見た瞬間、その細い目がわずかに動いた。画面を操作していた指を止め、画面を消してポケットに滑り込ませる。
「……ん? ななしちゃん、もしかして昨日はよく眠れなかった感じ?」
「えっ……分かりますか?」
「いつもより気が抜けちゃってるっていうか、お疲れモードな顔してる」
ケイトは少しだけ声を低くし、グリムに聞こえない絶妙な距離まで一歩踏み込んできた。彼はななしが女性であるという確証までは持っていない。けれど、時折見せる男子生徒らしからぬ線の細さや、どこか一線を引いたような佇まいに、独自の嗅覚で何かを察している一人だった。
「あんまり無理しちゃダメだよ? 困ったことがあったら、いつでもけーくんを頼ってよね。男だらけのノリがキツい時とかさ」
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
「ならいいんだけどさ。あ、そうだ、今度オンボロ寮の近くで映える写真撮りたいから、またお邪魔させてね〜!」
ケイトはすぐにいつものひょうきんなトーンに戻ると、ひらひらと手を振ってすれ違っていった。
「なんだあいつ、朝から騒がしい奴なんだゾ」
「……そうだね」
ななしはケイトの去り際の一言を思い返し、昼間の自分がどれだけ緊張感を持って過ごしているかを改めて自覚する。夜中にマレウスに見つめられた時のドキドキとはまた違う、秘密を抱える者のヒリついた感覚が、胸の奥を小さく掠めていった。
ななしは体を締め付けない緩い部屋着姿のまま、火照った体を冷ますために裏口の階段に腰掛けていた。昼間の男装から解放されたこの時間だけが、唯一息をつけるひとときだった。
静まり返った夜の空気に、かすかな衣擦れの音が混じる。
「おや。こんな夜更けに、先客がいたとは」
声のする方を見上げると、荒れた庭の生垣の傍らにマレウス・ドラコニアが静かに佇んでいた。
「ツノ太郎……! びっくりした、今日も散歩?」
「驚かせるつもりはなかったのだが。……それにしても、随分と薄着ではないか」
マレウスはゆっくりと歩み寄り階段に座るななしを見下ろす。
「あ、これは……その、夜は動きやすい格好の方が楽だから」
「ふむ。ヒトの子の衣服の基準はよく分からんが、いつもより随分と小さく見えるな。骨格も、肉の付き方も」
マレウスが影を落とすように、一歩距離を詰める。
「気のせいだよ。ゆるい服を着ていたらみんなこんなものだし」
「そうなのか? 衣服ひとつでそれほど印象が変わるものとは興味深い。……いや、それよりも顔色が悪いな。体調でも崩しているのではないか?」
「本当に大丈夫。ちょっと最近、寝不足が続いてただけだから」
「嘘をつくな。僕の目は誤魔化せないぞ」
マレウスは長い指先を伸ばし、ななしの頬に触れようとする。その指先が触れる直前、ななしは身を引くように少し首を傾げた。
「……ツノ太郎、本当に大丈夫だから」
「……拒まれたのは久々だな。やはりどこか悪いのだろう。今日のお前は、いつもより酷く脆そうに見える」
マレウスは差し伸べた手をとめ、静かに目を細めた。彼はななしが男装を解いていることの本当の理由には気づいていない。ただ目の前の小さな生き物が、いつもと違う不安定な境界にいることだけを、その鋭い直感で察知していた。
「拒んだわけじゃないよ。ただ、急に綺麗な人が目の前に来たら緊張するんだよ」
「綺麗、か。僕を恐れず、そのような言葉を向けるのはお前くらいのものだ」
「褒めてるんだよ。だから、そんなに心配そうな顔をしないで」
ななしが少し笑ってみせると、マレウスは小さく息を漏らした。
「ならば、今夜の散歩はここまでにしておこう。これ以上お前を緊張させては、余計に眠れなくなるだろうからな」
「うん、ありがとう。またいつでも散歩に来て」
「ああ、また来よう。……ヒトの子、次はもう少し暖かくして過ごすことだ」
夜風がふっと強く吹いた瞬間、マレウスの姿は闇に溶けるように消え去った。
静まり返った庭で、ななしは緊張で強張っていた肩をようやく落とし、自分の胸元を隠すようにぎゅっと抱きしめた。
しばらくして、冷えてきた自分の腕を擦りながらななしはゆっくりと立ち上がった。裏口の重い扉を閉めて鍵をかけ、眠気に身を任せるように自分の部屋へと戻っていった。
◇
翌朝、よく晴れた学園の廊下は、いつものように騒がしさに包まれていた。きっちりと制服を着込んだななしは、グリムを肩に乗せて歩いていた。
「ふなぁ……昨日の夜中、庭の方で妙な魔力の気配がした気がするんだゾ。気のせいか?」
グリムが欠伸を噛み殺しながら、長い尾をパタパタと揺らす。
「……さあ、どうだろう」
「そうか? ならいいんだゾ。オレ様は朝飯が足りなくて、それどころじゃないんだゾ!」
グリムを宥めながら角を曲がると、前方からケイト・ダイヤモンドが、スマートフォンを片手に歩いてくるのが見えた。
「あ、ななしちゃんにグリちゃん、おはよ〜! 朝から元気そうだね」
「ケイト先輩、おはようございます」
ケイトはいつも通りの軽い笑顔で近づいてきたが、ななしの顔を正面から見た瞬間、その細い目がわずかに動いた。画面を操作していた指を止め、画面を消してポケットに滑り込ませる。
「……ん? ななしちゃん、もしかして昨日はよく眠れなかった感じ?」
「えっ……分かりますか?」
「いつもより気が抜けちゃってるっていうか、お疲れモードな顔してる」
ケイトは少しだけ声を低くし、グリムに聞こえない絶妙な距離まで一歩踏み込んできた。彼はななしが女性であるという確証までは持っていない。けれど、時折見せる男子生徒らしからぬ線の細さや、どこか一線を引いたような佇まいに、独自の嗅覚で何かを察している一人だった。
「あんまり無理しちゃダメだよ? 困ったことがあったら、いつでもけーくんを頼ってよね。男だらけのノリがキツい時とかさ」
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
「ならいいんだけどさ。あ、そうだ、今度オンボロ寮の近くで映える写真撮りたいから、またお邪魔させてね〜!」
ケイトはすぐにいつものひょうきんなトーンに戻ると、ひらひらと手を振ってすれ違っていった。
「なんだあいつ、朝から騒がしい奴なんだゾ」
「……そうだね」
ななしはケイトの去り際の一言を思い返し、昼間の自分がどれだけ緊張感を持って過ごしているかを改めて自覚する。夜中にマレウスに見つめられた時のドキドキとはまた違う、秘密を抱える者のヒリついた感覚が、胸の奥を小さく掠めていった。
