DESCRIPTIVE LENS
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マジカルシフト大会本番、当日。
ナイトレイブンカレッジの空気は、咆哮と魔力の火花によって沸点に達していた。各寮の意地がぶつかり合うコロシアムの歓声は、遠く離れた運営本部まで地鳴りのように響いてくる。
その喧騒から隔絶された運営用テントの奥でヴィルは一人、鏡に向かっていた。
「……ヴィル先輩、失礼します。差し入れのハーブティーをお持ちしました」
ななしがテントの幕を潜ると、そこには微動だにせず鏡を見つめるヴィルの姿があった。
いつもなら「遅いわよ」と毒づくはずの彼が、今日は振り返りもしない。鏡越しに合う瞳は、まるで静かな水底のように沈み込んでいた。
「そこに置いておきなさい。……ななし、外の様子はどうだった?」
「各寮の応援がすごくて、熱気が……。でも、ポムフィオーレの皆さんは、ヴィル先輩の指示通り、すごく落ち着いて準備を進めていました」
ななしが声をかけると、ヴィルはふっと自嘲気味に口角を上げた。
「落ち着いている、ね。……それはアタシが、そうあるように演じさせているからよ。彼らはアタシという絶対的な指標が揺らがないと信じている。だからアタシは一分一秒たりとも、弱音を吐くことも、疲れた顔を見せることも許されない」
ヴィルはゆっくりと立ち上がり、ななしの方へ向き直った。その顔は完璧なメイクによって、一切の疲労や苦悩が塗り潰されている。けれどななしの目には、その滑らかな肌の下で心が悲鳴を上げているのが見えた。
今日のヴィルは、朝から他寮の寮長たちとの政治的な駆け引き、怪我人が出た際の救護チームへの指示、そしてスポンサー関係者への挨拶回りと、まさに学園の顔としての重責を一身に背負っていた。
「……ヴィル先輩、少しだけ、目を閉じてもいいですか?」
「……何、藪から棒に」
「わたしは魔法が使えません。ヴィル先輩の役に立つような知識もありません。でも……鏡にはなれると思うんです。ヴィル先輩が、誰にも見せたくない自分を少しだけ置いておけるような、真っ暗な鏡に」
ななしは震える手で自分の上着を脱ぐと、ヴィルの背後にあった鏡にそっと被せた。
自分を美しく保つための道具である鏡を布で覆い隠す。
それはヴィルにとって、一種の禁忌に近い行為だったはずだ。けれど彼はそれを止めなかった。
鏡が隠され、狭いテントの中にななしとヴィルだけの沈黙が落ちる。
「……アンタって子は、本当に。アタシに何をさせたいの」
ヴィルの声が、今まで聞いたことがないほど掠れていた。
彼はゆっくりと歩み寄ると、ななしの肩にそっと額を預けた。
重い。
彼が背負っているものの重さが、ななしの細い肩を通して伝わってくる。ヴィルの体温は驚くほど高く、香料の匂いの奥に、焦燥とほんの少しの甘えが混じっていた。
「五分だけ。五分だけ、アタシを『ヴィル・シェーンハイト』から解放しなさい。……ななし、アンタがこの静寂を言葉にするなら、なんて書くかしら」
「……『嵐の前の、一番静かな祈り』、だと。そう思います」
ななしは、ヴィルの背中に手を回したくなったが、それをぐっと堪えた。今の彼に必要なのは同情ではなく、共に戦う者の沈黙だと思ったからだ。
「祈り、ね。……悪くないわ」
ヴィルは五分経つか経たないかのうちに、すっと身を離した。
ななしの肩から離れた彼の顔は、すでに先ほどまでの脆さを微塵も感じさせない、冷徹で美しい女王の顔に戻っていた。
「レポートの追加よ。今日の大会が終わるまでに、アタシがこの五分をどうやって力に変えて、群衆を黙らせたか。……その鮮やかな転換を、一文字の無駄もなく書き上げなさい」
「はい、ヴィル先輩」
ヴィルはななしの横を通り過ぎ、テントの幕を開けた。
外から流れ込んでくる爆音のような歓声。その中に足を踏み出す彼の背中は、先ほどよりも一層光り輝いて見えた。
ななしは鏡に被せた上着を回収すると、ノートにペンを走らせた。
『人は、光の中だけで強くなれるのではない。誰にも見せない暗闇を、誰かにだけ預けた瞬間に、その人の美しさは真に完成するのだ。ヴィル・シェーンハイト。彼は今日、世界で最も孤独で、そして世界で最も愛されている戦士だった――』
インクの跡が、激しく、力強く紙を汚していく。
ななしの胸の鼓動は、コロシアムの歓声に負けないほど速くなっていた。
ナイトレイブンカレッジの空気は、咆哮と魔力の火花によって沸点に達していた。各寮の意地がぶつかり合うコロシアムの歓声は、遠く離れた運営本部まで地鳴りのように響いてくる。
その喧騒から隔絶された運営用テントの奥でヴィルは一人、鏡に向かっていた。
「……ヴィル先輩、失礼します。差し入れのハーブティーをお持ちしました」
ななしがテントの幕を潜ると、そこには微動だにせず鏡を見つめるヴィルの姿があった。
いつもなら「遅いわよ」と毒づくはずの彼が、今日は振り返りもしない。鏡越しに合う瞳は、まるで静かな水底のように沈み込んでいた。
「そこに置いておきなさい。……ななし、外の様子はどうだった?」
「各寮の応援がすごくて、熱気が……。でも、ポムフィオーレの皆さんは、ヴィル先輩の指示通り、すごく落ち着いて準備を進めていました」
ななしが声をかけると、ヴィルはふっと自嘲気味に口角を上げた。
「落ち着いている、ね。……それはアタシが、そうあるように演じさせているからよ。彼らはアタシという絶対的な指標が揺らがないと信じている。だからアタシは一分一秒たりとも、弱音を吐くことも、疲れた顔を見せることも許されない」
ヴィルはゆっくりと立ち上がり、ななしの方へ向き直った。その顔は完璧なメイクによって、一切の疲労や苦悩が塗り潰されている。けれどななしの目には、その滑らかな肌の下で心が悲鳴を上げているのが見えた。
今日のヴィルは、朝から他寮の寮長たちとの政治的な駆け引き、怪我人が出た際の救護チームへの指示、そしてスポンサー関係者への挨拶回りと、まさに学園の顔としての重責を一身に背負っていた。
「……ヴィル先輩、少しだけ、目を閉じてもいいですか?」
「……何、藪から棒に」
「わたしは魔法が使えません。ヴィル先輩の役に立つような知識もありません。でも……鏡にはなれると思うんです。ヴィル先輩が、誰にも見せたくない自分を少しだけ置いておけるような、真っ暗な鏡に」
ななしは震える手で自分の上着を脱ぐと、ヴィルの背後にあった鏡にそっと被せた。
自分を美しく保つための道具である鏡を布で覆い隠す。
それはヴィルにとって、一種の禁忌に近い行為だったはずだ。けれど彼はそれを止めなかった。
鏡が隠され、狭いテントの中にななしとヴィルだけの沈黙が落ちる。
「……アンタって子は、本当に。アタシに何をさせたいの」
ヴィルの声が、今まで聞いたことがないほど掠れていた。
彼はゆっくりと歩み寄ると、ななしの肩にそっと額を預けた。
重い。
彼が背負っているものの重さが、ななしの細い肩を通して伝わってくる。ヴィルの体温は驚くほど高く、香料の匂いの奥に、焦燥とほんの少しの甘えが混じっていた。
「五分だけ。五分だけ、アタシを『ヴィル・シェーンハイト』から解放しなさい。……ななし、アンタがこの静寂を言葉にするなら、なんて書くかしら」
「……『嵐の前の、一番静かな祈り』、だと。そう思います」
ななしは、ヴィルの背中に手を回したくなったが、それをぐっと堪えた。今の彼に必要なのは同情ではなく、共に戦う者の沈黙だと思ったからだ。
「祈り、ね。……悪くないわ」
ヴィルは五分経つか経たないかのうちに、すっと身を離した。
ななしの肩から離れた彼の顔は、すでに先ほどまでの脆さを微塵も感じさせない、冷徹で美しい女王の顔に戻っていた。
「レポートの追加よ。今日の大会が終わるまでに、アタシがこの五分をどうやって力に変えて、群衆を黙らせたか。……その鮮やかな転換を、一文字の無駄もなく書き上げなさい」
「はい、ヴィル先輩」
ヴィルはななしの横を通り過ぎ、テントの幕を開けた。
外から流れ込んでくる爆音のような歓声。その中に足を踏み出す彼の背中は、先ほどよりも一層光り輝いて見えた。
ななしは鏡に被せた上着を回収すると、ノートにペンを走らせた。
『人は、光の中だけで強くなれるのではない。誰にも見せない暗闇を、誰かにだけ預けた瞬間に、その人の美しさは真に完成するのだ。ヴィル・シェーンハイト。彼は今日、世界で最も孤独で、そして世界で最も愛されている戦士だった――』
インクの跡が、激しく、力強く紙を汚していく。
ななしの胸の鼓動は、コロシアムの歓声に負けないほど速くなっていた。
