DESCRIPTIVE LENS
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ヴィル・シェーンハイトという人は、常に完璧な「ヴィル・シェーンハイト」という役を演じ続けている。それがななしがこの数日間、彼の側でレポートを書き直しながら辿り着いた一つの結論だった。
放課後のポムフィオーレ寮、談話室。
重厚なテーブルを挟んで、ななしはヴィルと向かい合っていた。今日の彼は寮長としての執務の合間なのか、手元に大量の書類を積み上げている。その横には、ヴィル自らが調合したという透き通った紫色の液体が満たされた小瓶が置かれていた。
「手が止まっているわよ、ななし。筆の音が聞こえなくなって三分。アタシの顔を眺めていればレポートが完成するとでも思っているのかしら?」
ヴィルは書類から目を離さずに、鋭い指摘を飛ばす。
「すみません、ヴィル先輩。……その、今日は少し、空気が重い気がして」
「空気? アンタ、また抽象的なことを言い始めたわね。湿度のせい? それとも、アタシが機嫌を損ねているとでも言いたいわけ?」
ヴィルがようやく顔を上げ、ななしを射抜く。
実際、今日のヴィルはいつも以上に人を寄せ付けない覇気を纏っていた。眉間の僅かな皺は、メイクでも隠しきれないほどの深い思索の跡のようにも見える。
「いえ、そうではなくて。……その小瓶の匂いです」
ななしは鼻をくん、と動かした。
部屋に漂っているのは、どこか湿った土と、熟しすぎた果実が腐り落ちる直前のような、甘ったるくも不穏な匂いだ。
「嗅覚は少しずつ育っているようね。これは毒薬のベースになる保存液よ。他寮との合同演習で使うためのものだけど……配合が気に入らないわ」
ヴィルは小瓶を手に取り、光に透かした。美しい液体が揺れる。
「完璧な比率で混ぜたはずなのに、どうしても最後の一滴で色が濁る。まるで、どんなに磨き上げても消えない人間の俗っぽさを見せつけられている気分だわ。忌々しい」
そう言ってヴィルは小瓶を無造作に机に戻した。その時の音が、静かな談話室に必要以上に大きく響く。
「ヴィル先輩は、その濁りが嫌いなんですか?」
「当たり前でしょう。不純物は排除されるべきよ。美しさを阻害するものは全て。……アンタ、何か言いたげね」
「……以前、レポートを直していただいたときに、ヴィル先輩は『美しさは崩壊や欠落をどうねじ伏せるかの執念に宿る』とおっしゃいました」
ななしは、自分のノートの端に書き留めていたヴィルの言葉をなぞる。
「その濁りも、ヴィル先輩が格闘している証拠なら……それは、とてもヴィル先輩らしい美しさなんじゃないかと思ったんです。完璧に澄み切っているよりも、ずっと。……あ、えっと、生意気なことを言って、すみません」
ななしは慌てて視線をノートに落とした。
ヴィルは沈黙した。時計の針が刻む音だけが、耳障りなほど大きく聞こえる。
やがて、ヴィルがゆっくりと椅子から立ち上がった。
ななしの横まで歩いてくると、長い指先がななしの顎をくい、と持ち上げる。強制的に視線を合わせさせられたななしの瞳に、至近距離のヴィルの顔が映った。
「アンタって子は、本当に……アタシが一番隠しておきたいところに、土足で踏み込んでくるわね」
ヴィルの声は低く、微かに震えていた。怒りか、あるいは別の感情か。
「アタシがどれだけの時間をかけて、その濁りを隠すための仮面を作ってきたと思っているの? アンタが褒めたその醜さは、アタシが誰にも見せたくない、敗北の象徴よ」
「でも、わたしは……その敗北と戦っているヴィル先輩を書きたいんです」
ななしは逃げずに答えた。
ヴィルが求めた解像度とは、こういうことではないのか。
綺麗な表面だけをなぞる言葉なら、他の誰にでも書ける。彼が自分を指導相手に選んだのは、魔法も名声も持たない何者でもない自分の視点を必要としたからではないのか。
ヴィルの瞳に、微かな揺らぎが走る。
彼はそのまま数十秒、ななしの瞳の奥を覗き込んでいた。まるで、そこに映る自分自身を確かめるように。
「……ふん。勝手になさい」
ヴィルは唐突に手を離すと、再び自分の席に戻った。
「今の言葉、一言一句違わずにレポートに落とし込みなさい。もし一文字でも甘い表現に逃げたら、そのノート、ポムフィオーレの暖炉に放り込んであげるわ」
「はい、ヴィル先輩」
ななしは小さく微笑んだ。
ヴィルの言葉は相変わらず苛烈だが、その奥にある熱が、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっているのを感じた。
窓の外では、夕闇が学園を飲み込もうとしている。
暗くなる室内で、二人は再び無言のまま、それぞれの作業に戻った。
ヴィルは書類をめくり、ななしはペンを走らせる。それは、恋と呼ぶにはあまりに禁欲的で、教育と呼ぶにはあまりに親密な時間だった。
ななしのノートには、新しい一節が刻まれる。
『彼は、自分の中の濁りを愛せない。けれど、その濁りすらも武器に変えて立ち上がる姿は、冬の朝に咲く毒花のように、残酷で、凛としていた――』
その文章を、ヴィルが後に読んでどんな顔をするのか。
ななしは少しの怖さと、それ以上の高揚感を感じながらインクが乾くのを待った。
放課後のポムフィオーレ寮、談話室。
重厚なテーブルを挟んで、ななしはヴィルと向かい合っていた。今日の彼は寮長としての執務の合間なのか、手元に大量の書類を積み上げている。その横には、ヴィル自らが調合したという透き通った紫色の液体が満たされた小瓶が置かれていた。
「手が止まっているわよ、ななし。筆の音が聞こえなくなって三分。アタシの顔を眺めていればレポートが完成するとでも思っているのかしら?」
ヴィルは書類から目を離さずに、鋭い指摘を飛ばす。
「すみません、ヴィル先輩。……その、今日は少し、空気が重い気がして」
「空気? アンタ、また抽象的なことを言い始めたわね。湿度のせい? それとも、アタシが機嫌を損ねているとでも言いたいわけ?」
ヴィルがようやく顔を上げ、ななしを射抜く。
実際、今日のヴィルはいつも以上に人を寄せ付けない覇気を纏っていた。眉間の僅かな皺は、メイクでも隠しきれないほどの深い思索の跡のようにも見える。
「いえ、そうではなくて。……その小瓶の匂いです」
ななしは鼻をくん、と動かした。
部屋に漂っているのは、どこか湿った土と、熟しすぎた果実が腐り落ちる直前のような、甘ったるくも不穏な匂いだ。
「嗅覚は少しずつ育っているようね。これは毒薬のベースになる保存液よ。他寮との合同演習で使うためのものだけど……配合が気に入らないわ」
ヴィルは小瓶を手に取り、光に透かした。美しい液体が揺れる。
「完璧な比率で混ぜたはずなのに、どうしても最後の一滴で色が濁る。まるで、どんなに磨き上げても消えない人間の俗っぽさを見せつけられている気分だわ。忌々しい」
そう言ってヴィルは小瓶を無造作に机に戻した。その時の音が、静かな談話室に必要以上に大きく響く。
「ヴィル先輩は、その濁りが嫌いなんですか?」
「当たり前でしょう。不純物は排除されるべきよ。美しさを阻害するものは全て。……アンタ、何か言いたげね」
「……以前、レポートを直していただいたときに、ヴィル先輩は『美しさは崩壊や欠落をどうねじ伏せるかの執念に宿る』とおっしゃいました」
ななしは、自分のノートの端に書き留めていたヴィルの言葉をなぞる。
「その濁りも、ヴィル先輩が格闘している証拠なら……それは、とてもヴィル先輩らしい美しさなんじゃないかと思ったんです。完璧に澄み切っているよりも、ずっと。……あ、えっと、生意気なことを言って、すみません」
ななしは慌てて視線をノートに落とした。
ヴィルは沈黙した。時計の針が刻む音だけが、耳障りなほど大きく聞こえる。
やがて、ヴィルがゆっくりと椅子から立ち上がった。
ななしの横まで歩いてくると、長い指先がななしの顎をくい、と持ち上げる。強制的に視線を合わせさせられたななしの瞳に、至近距離のヴィルの顔が映った。
「アンタって子は、本当に……アタシが一番隠しておきたいところに、土足で踏み込んでくるわね」
ヴィルの声は低く、微かに震えていた。怒りか、あるいは別の感情か。
「アタシがどれだけの時間をかけて、その濁りを隠すための仮面を作ってきたと思っているの? アンタが褒めたその醜さは、アタシが誰にも見せたくない、敗北の象徴よ」
「でも、わたしは……その敗北と戦っているヴィル先輩を書きたいんです」
ななしは逃げずに答えた。
ヴィルが求めた解像度とは、こういうことではないのか。
綺麗な表面だけをなぞる言葉なら、他の誰にでも書ける。彼が自分を指導相手に選んだのは、魔法も名声も持たない何者でもない自分の視点を必要としたからではないのか。
ヴィルの瞳に、微かな揺らぎが走る。
彼はそのまま数十秒、ななしの瞳の奥を覗き込んでいた。まるで、そこに映る自分自身を確かめるように。
「……ふん。勝手になさい」
ヴィルは唐突に手を離すと、再び自分の席に戻った。
「今の言葉、一言一句違わずにレポートに落とし込みなさい。もし一文字でも甘い表現に逃げたら、そのノート、ポムフィオーレの暖炉に放り込んであげるわ」
「はい、ヴィル先輩」
ななしは小さく微笑んだ。
ヴィルの言葉は相変わらず苛烈だが、その奥にある熱が、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっているのを感じた。
窓の外では、夕闇が学園を飲み込もうとしている。
暗くなる室内で、二人は再び無言のまま、それぞれの作業に戻った。
ヴィルは書類をめくり、ななしはペンを走らせる。それは、恋と呼ぶにはあまりに禁欲的で、教育と呼ぶにはあまりに親密な時間だった。
ななしのノートには、新しい一節が刻まれる。
『彼は、自分の中の濁りを愛せない。けれど、その濁りすらも武器に変えて立ち上がる姿は、冬の朝に咲く毒花のように、残酷で、凛としていた――』
その文章を、ヴィルが後に読んでどんな顔をするのか。
ななしは少しの怖さと、それ以上の高揚感を感じながらインクが乾くのを待った。
