虚像ダイヤモンド
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昨夜の出来事が夢だったのではないか。
そう思ってしまうほど、翌朝のケイトはいつも通りだった。
◇
「■■■ちゃん! 昨日はよく眠れた?」
中庭で待っていたケイトが、いつもの明るい笑顔で手を振る。
「ちょっと目の下にクマあるじゃん。大丈夫?」
「……おはようございます」
差し出された手を取ると、自然に歩幅を合わせて歩き出した。
その手は優しい。
触れ方も、力加減も申し分ない。
けれど昨夜、暗い部屋で■■■を抱き寄せたあの熱は、どこにも感じられなかった。
「……ケイト先輩」
「ん?」
「昨日の夜のことなんですけど」
「ああ!」
ぱっと笑顔を見せる。
「昨日の写真、過去最高くらい伸びてる。ありがとね」
「そうじゃなくて」
その先は言葉にならなかった。
目の前にいる彼は、何も知らないような顔をしている。
昨夜の出来事など最初から存在しなかったかのように。
まるで、本当に別人だった。
◇
その日から、不思議な毎日が始まった。
講義の移動時間。
昼休み。
放課後。
いつでも■■■の隣には、ケイトがいる。
けれど、そのすべてが分身だった。
ある日は二人。
またある日は三人。
「■■■ちゃん、疲れてない? 膝枕してあげよっか?」
「週末さ、この前気になってたカフェ行こうよ。予約しといたから」
「今日は紅茶飲みたい気分じゃない?」
どの分身も優しかった。
笑うタイミングも。
言葉を掛ける間も。
気遣いも。
何もかも完璧だった。
理想の恋人。
誰もが憧れる恋人。
けれど、その笑顔の奥には何もない。
心を揺らすような冷たさも、痛みも、迷いも。
何ひとつ見えなかった。
「……本物の先輩は、どこにいるんですか」
思わず分身の腕をつかむ。
分身は少し困ったように笑った。
「本物? さあ。部屋で休んでるのかもね」
「……」
「それとも何か別の用事かな」
その困り顔さえ、綺麗に作られていた。
■■■はそっと手を離す。
そのまま踵を返し、ハーツラビュル寮へ走り出した。
◇
「ケイト先輩!」
息を切らせながら扉を叩く。
返事を待たずに開けると、薄暗い部屋には本物のケイトがソファへ寝転び、スマホを眺めている。
突然入ってきた■■■を見ても、驚いた様子はなかった。
「あーあ、オレくんたちにちゃんと相手するよう言っといたのにな」
視線はスマホのまま。
低く気だるい声だけが部屋へ落ちる。
「何か失敗した?」
画面を指でなぞりながら続けた。
「■■■ちゃんが好きそうなこと、全部やるようにしたはずなんだけど」
「……あの人たちは、本当の先輩じゃありません」
「同じだよ、全部オレの魔力で動いてるんだから」
ケイトはようやくスマホから目を離した。
「むしろ本物のオレより優しいし、■■■ちゃんのこと大事にしてくれるんだから、効率いいと思わない?」
効率。
その一言が胸へ刺さる。
「私は、効率で先輩を好きになったわけじゃありません」
「……本当、面倒くさいな」
小さく呟き、スマホをソファへ放り投げた。
立ち上がった足元には、開いたままの激辛スナックの袋が転がっている。
ケイトはゆっくり近づき、■■■の前で足を止めた。
「■■■ちゃんって、本当に変わってる」
「……」
「わざわざ、こんな可愛げのない本物を選ぶなんて」
ケイトの親指が唇をなぞる。
分身たちの滑らかな触れ方とは違う。
少し硬く、少し乱暴な、本物の手だった。
「そんなに本物がいいなら、分身じゃできないことしてあげようか」
そのまま壁際へ押しやられる。
逃げ道はない。
勢いよく距離が縮まり触れ合った唇には、彼の抑えきれない苛立ちと迷いが滲んでいた。
優しさだけでは済まされない、不器用な感情がぶつかってくる。
唇が離れたわずかな隙に、■■■は小さく息をついた。
「痛いですか?」
「は?」
思わぬ問いにケイトが目を見開く。
「分身をたくさん作って、本当の自分を隠して」
震える声でも、視線だけは逸らさなかった。
「一人でここにいる先輩は……痛くないですか」
言葉が途切れ、ケイトの肩がわずかに震えた。
しばらく動かなかった彼は、不意に■■■から手を離す。
そのまま顔を覆い、喉の奥で小さく笑った。
「……あは」
ケイトの乾いた笑いが漏れる。
「はは……」
笑っているはずなのに、その声はひどく苦しそうだった。
「本当、最高」
掠れた声が零れる。
覆った手の向こうで、ケイトは自嘲するように笑う。
「……本当に最悪」
その一言だけが静かな部屋へ落ちた。
張りつめていた何かが、音もなくひび割れていくようだった。